@sidly

短編「柿」

長く続いた雨も上がり、陽気に小鳥たちがさえずり、街路樹の桜の花びらが全て散り落ちようとする日の午後だった。


午前の面接が終わったので、弁当屋で小ぶりなメンチカツ入りの幕の内を購入してからアパート近くの神社へと向かった。


いつもは家で食べるのだが、天候も良く、長丁場が終わった後なので気晴らしとして外で頬張るつもりだった。


休憩の後には、第三志望群の企業である地場商社のwebテストを予定を入れた。次の日は第一志望の地銀の面接やエントリーシートの添削が入っているので、なるべく早く終わらせたかった。


敷地内の木陰にベンチ見つけ、木の葉を手で払うと、近くの国道からやってくるディ―ゼルの煤で手がいっぱいになってしまった。


仕方なく、トイレの手洗い場でなかなか落ちない汚れに手を焼いていたところ、現状の焦れったさを思い出してスイッチが入り、「貴重な休憩に少しばかりケチをつけたな。」と感じた。


「モット自分二ショウジキニナッタホウガイイ」という知人と、「ユックリ、自分ノぺェスデ 進メテ イキマショウ」という就職課の担当職員との声が、脳内のフルボリュームスピーカーでこだまして、しだいに結晶化していき、水槽の底辺を埋め立てた無機質なコンクリートに音もなく沈殿していった。何をしていてもスピーカーの電源を止めることはできず、固くて、不愉快にやわらかい地面で自由に寝っ転がることはできなかった。


その上、自分の意見を触媒にして水槽内を浄化することもできず、私と違って正論だったから、耳が聞こえなくなったフリをして、脳みそが空っぽの魚として素通りしていく感覚で、ずっと無視し続けるのも自分自身で腹立たしかった。


やっと手を洗い終えて、石鹸で油分が落ち、乾燥してひび割れた指を使って透明のプラスチックカバーを外したところで、小さい子供たちの集団が挨拶をしながら境内に入ってきた。


チェックのエプロンをまとった女性が、乳母車を押して、ここ数日で降った雨に湿った砂地に轍をつけながら、ようやく訪れた春の木漏れ日の中を高らかと凱旋していく。


カートに入り、橙色の帽子で揃えたおもちゃの兵隊たちを見ていると、滲んだ柿の様子が頭に浮かんだ。


保育園に預けられていた頃、母親が私に柿を与え続けていたからだ。


家庭と呼ばれる場所において、私の意思は存在しなかった。


身体の弱い私は、両親ではない”何か”にすがって息を潜めながら生きていた。


アレルギー体質で、かゆみに耐えることなく真っ赤に爛れた身体は、私のものでは無く、創造主の袂で作られた“フキデモノ“の塊であり、”許される“ためには呪術をもってデトックスをせねばならないという説明を受けると、母親は宗教団体から念術の込められた薪と大量の柿、そしてその葉を購入した。細かく切り刻み、乾燥させた葉をお茶のパックに詰め、湯船に浮かべて私の体を清め、完熟した柿を連日摂取させた。


私はあのとろけた果実が嫌いだった。腐敗物だと思っていた。


口にするたびに、甘ったるいゼリーが全身の細胞の一つ一つに溶け込んで身を震わせた。青臭さと混ざったすえた匂いが鼻腔に広がって、吐き気を催した。


やがて、柿は昼食後のおやつにも進出してきた。先生が園児から目を離したすきにトイレの便器に柿をぶちまけると、何事もなかったかのようにふるまい、自分の目で悪事をなるべく確認しないよう心掛けた。クリーム色に淡いオレンジが広がっていくのを一瞥して水を流すと、空になった容器を持ってすぐさま教室に戻った。


いらないものは捨てるしかなかない。これが私の学んだ“許し”だった。


親戚の説得もあり、柿の呪縛から解き放たれると、私たち親子はすぐに卒園式を迎えた。


二人はティッシュの造花でできた贖罪のフラワーアーチを通った。


勇気ある子どもが先頭を切って飛び出したのを皮切りに、父兄たちが勢いをつけて胎外へ産み落とされてゆく。


ピンクや黄色の花びらが青空で揺らめく産道で、一抹の不安とそれを打ち消すような、身体から湧き上がる無限の若い衝動と園の生活経験から学習した自信を期待していた。私の中で結晶化し、自我をもったそれは、皮をはぐようにして身体から出てくると、ハヤブサのように飛び立って、灼熱の太陽が降り注ぐ空中に溶けていった。そして最後には、焦げ臭いにおいと共に地面に叩きつけられ、そこには肉片が散らばるだけだった。


イッポ、イッポ、ガンバリマショウネ!


黒砂糖の雨が降り注ぐ中、ケーキに配置された果物の各グループをさまよいながら、テリトリーを得るために必死に売り込みをかける一匹のアリがそこにいる。


所属が決まっていく仲間たちを傍目に歩き回り、ふとした時にじっと立ち止まって、「砂糖のお城」が増築されていくのを見て、冷や汗をかきながら、自身の残り少ない命に目を向けようとはしない。


体内から奪われていく水分の中に熱と不安と欺瞞を溶かして、干からびるまで耐えることだけに集中していて、何も考えられず、ただこの先に何かあるのではないかと信じるのがやっとだった。


ぼんやりしているうちにコバエが寄ってきたので、急いでおかずを腹に収めようとすると梅干しを落としてしまった。


列に沿って歩いていた一人の女の子が私の方を見て、にやりと笑った。慌てて目をそらすと、勢いよくトコトコとこちらへ走ってきた。


私の足元まで寄ると、彼女は水分もなく地面の砂と一体化しようとしている梅干しを見るなり、「気持ち悪い」と一言つぶやいた。


そして息をつく間もなく、何度も靴全体でまんべんなくそれを踏み潰した。


輪郭の無い風景の中で、暴力が繰り広げられていた。梅干しは靴底にへばりついて空気を混ぜながら、土の色が濃くなるまで地面と乱雑に交配させられているようにも見えたし、それに対して案外嫌がっていないようにも見えて不思議だった。


状況が把握できないまま、気が抜けた顔で女児を見ると、それはかつての、幼い顔をした私だった。


目を丸くして驚いていたが、はっとして、踏み潰された梅干しに視線を向けた。


するとそれはオレンジ色の熟れた柿になっており、汁が放射上に噴きだして甘味はすべて砂に吸い取られ、一匹のアリが、一緒くたに潰れて死んでいるだけだった。

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