手紙の黒と、悪魔の白

斗話

手紙の黒と、悪魔の白


 手紙を届けるということは、幸せを届けることなんだよ。生前の祖母はそう言った。

 けれど私は、そう思うことができない。

 私は、不幸を届けてしまう。


「この悪魔!」

 玄関先にへたり込んでいる割烹着姿の若い女性は、か細い腕で、綺麗に揃えてあるブロンドの革靴を投げつけた。

 投げられた革靴は、芽衣子の纏うアイボリーホワイトのスラックスを弱々しく掠め、カツンと虚しい音を玄関に響かせる。

 芽衣子はスラックスと同じくアイボリーホワイトのジャケットと、制帽を整え、深々と頭を下げた。

「この度は本当に……」

「帰って」

 女性が芽衣子の言葉を遮るように呟いた。雨雲のように暗くて重い声だった。

「こちらに受領のサインをいただきたいのですが」

黒い革製の配達バッグから書類を一枚取り出す。

 女性はまるで化物でも見るかのような目で、芽衣子を見つめた。

「あなた、人の心ってもんが無いの? こんなもの受け取るわけないじゃない!」

女性は傍に置いてあった黒い封筒を、芽衣子に投げつけた。黒い封筒は、彼女の憤慨とは裏腹に、ヒラヒラと宙を舞い、芽衣子の足元に着地する。

芽衣子は次に発するべき言葉を懸命に探した。が、どんな言葉も今の彼女には届かないことを芽衣子は知っている。

「旦那さまの生きた証は、あなたしか受け取ることができないんです。どうか、受け取ってください」

 芽衣子は再び頭を下げた。生きた証。心の中で、自嘲的に繰り返す。

 女性はそれまで必死に堪えていた涙を双眸に溢れさせ、声を上げて泣いた。芽衣子は女性が泣き止むまで、頭を下げ続けた。

「受領します」

 どれくらいの時間が経ったか分からくなった頃、女性ははっきりとした声でそう言った。

「ありがとうございます」

 芽衣子は書類と鉛筆を差し出す。

 女性は【死亡通知書】と銘打たれた書類の下に、自身の名前を記した。

「確かに受領いたしました。心より、お悔やみ申し上げます」

 芽衣子は最後にもう一度頭を下げ、女性の家を後にした。

 オレンジ色だった空が、すでに黒く染まっていた。芽衣子は下唇を強く噛んだまま、自転車に跨る。十二月の酷な寒さが、今は少しだけありがたかった。


「ただいま」

 郵便局に戻り、制帽を脱ぐ。ベリーショートの黒髪の間に指を通し、蒸れた頭皮を外気に触れさせると、ようやく今日の仕事が終わったと実感する。

 郵便局といっても、芽衣子の務める白鳥郵便局は、中心街から外れた丘の上にポツンと建てられており、その見た目はただの大きな古民家である。

 だだっ広い玄関で革靴を脱ぎ、居間に上がる。そこが一応事務所としての役割を果たしているが、大きな木製のローテーブルに、固定電話とワードプロセッサーが一つずつ、大量の黒い封筒と白い紙が積み上げられているだけで、それ以外は何も置いていない、余白の多い空間だ。

 事務所の奥にあるスライド式のドアを開けると、事務所と同じ大きさの空間に、事務所とは対照的な、生活感が詰め込まれた部屋が広がる。コーヒーの香りが鼻腔を抜け、芽衣子は少しだけ泣きそうになった。仕事終わりはいつもそうだ。

「おかえりなさい」

 ドアの反対側に設置されたキッチンにいる祖父が振り返り、芽衣子に優しく微笑みかける。喉の下あたりまで伸びた白い髭に手を当てながら、「今日もお疲れ様」と言い、祖父は淹れたてのコーヒーをダイニングテーブルの上に置いた。どういう原理か分からないが、芽衣子が仕事から帰ると、いつもピッタリのタイミングで淹れたてのコーヒーが用意されている。

 椅子に座り、一口コーヒーを啜る。コロンビア産の豆を使っており、甘い香りが口一杯に広がる。後味がスッキリしているのも、芽衣子は好きだった。

「今日の人は大変だったよ。靴、投げられたもん」

「怪我はなかったかい?」

「うん。大丈夫。でも人に死を伝えるって、何回やっても慣れるもんじゃないねほんと。最悪だよ」

 芽衣子の仕事は、亡くなった人の身内にその事実を知らせる手紙を届けることだ。人口三千人ほどのこの島では、多くの人が中央都市へ出稼ぎに出る。そして、毎年一定数の人が何らかの理由で命を落とす。島にはいわゆる普通の郵便局も存在するが、芽衣子の務める(といっても従業員は祖父と芽衣子の二人だけだが)白鳥郵便局は、死亡通知のみを専門に取り扱っている。

「苦労かけてすまないね」

 祖父が申し訳なさそうに向かいの椅子に座る。

「誰かがやらなきゃいけないなら、しょうがないよ」

 もう一度コーヒーを啜る。微かな苦味が口の中に残った。


 事務所の固定電話が鳴ったのは、翌日の正午過ぎだった。

「はい。白鳥郵便局です」

 芽衣子が電話を取ると、「ご無沙汰しております。中央都市管理局四課です」と、電話越しの男性が抑揚の無い声で言った。

 仕事の依頼は、一日数件来ることも、数週間全く来ないこともある。ほとんどの場合、祖父が電話に出て、必要な書類をまとめ、それを芽衣子が届けるという手筈だ。芽衣子が電話を取ることはほとんどないが、祖父が昼食を作っている時に電話が鳴ったため、仕方なく受話器を取った。

「死亡通知が三件ございます」

「三件ですか」

 三件同時というのは、初めてのことだった。

「真村浩一、美子、美香の三件です。真村は真実に真に……」

 家族が同時に亡くなったのかと驚く暇もなく、事務的に告げられる故人の名前を、芽衣子は真っ白な紙に書き記していく。

「……以上がお届け先になります。よろしくお願いします」

 受話器の向こうの男性は、死因を含めた情報を、一文字の過不足もなく伝え終わると、そそくさと電話を切った。

「すまないね。代わりに取ってもらって」

 昼食を作り終えた祖父が事務所へ入って来る。

「大丈夫。三件同時に来たよ。家族が同時に亡くなった」

「そうか」

 祖父の感情は読み取れない。

「夕方にも届けてくるよ」

 芽衣子は届け先の氏名である、真村浩太という文字列を眺めた。


呼び鈴を鳴らすと、はーい、と明るい声が聞こえる。

その声を聞いた瞬間、芽衣子は心臓を直接掴まれたような感覚になった。あまりに、幼い。

「おかえり!」

引き戸が開かれ、出てきたのは、やはり少年だった。サラサラとした髪を短く切り揃えられ、人懐っこそうな無垢で大きな瞳をしている。夕方だというのに麻の寝巻きを着ていた。

「真村浩太さまでしょうか」

芽衣子は平然を装いつつ、通常通りの流れで業務を始める。

「え……そうですけど」

 浩太は芽衣子の脚部あたりを見つめたまま、怯えた声で答える。

「私、白鳥郵便局の白鳥芽衣子と申します」

通常、芽衣子が白鳥郵便局と名乗った時点で、届け先に当たる人々は事態を察する。膝から崩れ落ちる者、怒り狂う者、ただ呆然と立ち尽くす者、その後の反応はいくつかのパターンに分かれる。だが、浩太は違った。

「ご、ごめんなさい! 郵便屋さんですか! ご苦労様です!」

 浩太は今にも小躍りしそうなほど喜んだ。 

この少年は白鳥郵便局を、白い悪魔と呼ばれる私のことを知らない。

「お母さん達からの手紙ですよね?」

 芽衣子があっけに取られていると、浩太が芽衣子の顔を見上げた。そして浩太は、少しだけ照れ臭そうに緩く唇を噛んだ。

「ごめんなさい。郵便屋さんにお願いがあるんですけど……」

 芽衣子は浩太の瞳を見つめた。形式的に芽衣子の顔を覗き込んでいるだけで、彼の瞳は芽衣子を捉えていない。芽衣子というより、この空間にある何もかもが捉えられていなかった。そこでやっと、芽衣子は感じていた違和感の正体に気づいた。

「その手紙、代わりに読んでいただけませんか?」

 真村浩太は、目が見えない。


「それで、芽衣子は存在しない手紙を読んだんだね?」

 祖父が芽衣子の背中を優しくさすりながら言った。芽衣子は激しい後悔と、浩太への罪悪感を抱えながら、郵便局に戻り、祖父の姿を見るや否や、声をあげて泣いた。

「私……なんてこと……」

「一回座ったらどうだい」

 祖父の腕を借りながら、椅子に座る。コーヒーは既に冷め切ってしまっていた。

 芽衣子は、肩にかけたままの配達バッグから、一通の手紙を取り出した。

「手紙の返事、書いて欲しいって……」

 それは、浩太が家族に宛てた手紙だった。字の書けない浩太の代わりに、芽衣子が書いたものだ。

 祖父は、その手紙を開くと、繊細なガラス細工を扱うように、そっと配達バッグへ戻した。

「芽衣子」

 顔を上げると、祖父は真剣な目で芽衣子を見つめた。芽衣子がこの目を見るのは人生で二回目だ。一度目は、祖母が亡くなった数日後、郵便局の仕事を受け継ぐと言った時だった。あの時祖父は「やめておきなさい」と言った。あの言葉の意味が、今なら分かる。

「返事を書いてあげなさい」

 祖父の口からでた言葉は意外だった。芽衣子は思わず「え?」と口に出してしまう。

「あと何通かで良いから、そうしてあげなさい」

 祖父はいたって真剣だった。芽衣子は混乱した頭のまま力なく頷く。祖父の言葉は、いつだって正しい。


 二日後、芽衣子は偽装した手紙を携え、浩太の家へ訪れた。

「芽衣子さん、こんにちは」

 浩太は二日前と変わらず、嬉しそうだった。

「お手紙、届いたよ」

 芽衣子が絞り出すように言うと、浩太は満面の笑みを浮かべた。苦悶に歪む私の顔を、彼が見れなくて良かったと思った。そして、そう思った自分をひどく呪った。



浩太へ 


お返事ありがとう。元気なら良かった。私たちはもう少しこちらにいると思います。沢山お土産買って行きます。そちらはそろそろ気温も低くなってくるから、夜は暖かくしてくださいね。寂しい思いをさせてごめんなさい。困った時は芽衣子さんを頼ってくださいね。大好きだよ。


お母さんより



 芽衣子が読み上げると、浩太は文字から温みを感じ取ろうとするかのように、文章を指でなぞった。

「芽衣子さんは、お母さん達の知り合いだったんですね」

 最後の一文は、せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。

「まぁ、そんなところかな」

「じゃあ、お母さんとお父さんとお姉ちゃんはどんな顔をしてるか知ってる? あ、こんなこと聞いてごめんなさい」

 芽衣子は玄関先に飾られていた写真を思い出す。浩太が生まれる前だろうか、幸せそうな三人が海をバックにピースサインをしてる写真だった。

「別に良いよ。お母さんはとても美人だし、お姉さんもお母さんに似て美人だよ。お父さんもカッコいい。浩太くんは、どっちにも似てるね」

 浩太は「そっか」と言いながら、嬉しそうに自分の顔の輪郭を指先で確かめた。

「芽衣子さん、またお返事書いていい?」

「もちろん」

 ――手紙を届けるということは、幸せを届けること。

 そんなの、嘘じゃないか。


その日の夜、芽衣子はぼんやりとした頭のまま、浩太の代わりに書いた手紙を読んでいた。



お母さん、お父さん、お姉ちゃんへ


返事のお手紙ありがとう。これで最後にするね。僕はお母さんも、お父さんも、お姉ちゃんも大好きです。だから少しだけわがままが許させるなら、帰ってきたら、オムライスが食べたいです。


浩太



 祖父がコーヒーを机に置き、椅子に座る。

「芽衣子、今日電話がかかってきて、通知書のサインを急かされたよ」

「そっか。浩太くんも、然るべき場所に行かないとだよね」

 祖父はコーヒーを一口啜り、苦虫を噛んだような表情で、口を開いた。

「芽衣子、真村浩太くんは、どんな子だった?」

「礼儀正しくて、家族思いの良い子だよ」

「そうか。芽衣子……真村浩太くんは、何というか、もっと愛されるべき子なんだ」

 祖父は穏やかな口調のまま続ける。

「真村浩太くんは三月で十歳になる、小学四年生にあたる年齢だ。けれど、彼は学校に通っていない」

 てっきり冬休みなのだと思っていた。

「特別支援学校に去年まで通っていたけれど、問題が起きてから、彼は学校に姿を現さなくなった」

「問題?」

 浩太が問題を起こすような生徒だとは到底思えない。

「浩太くんの身体の複数箇所に、あざのようなものが見つかったんだ」

「それって……」

「いじめの線でも調査が入ったが、十中八九、家族からの家庭内暴力だという結論に至った。勿論、何度か自治体の調査が真村家に入ったらしいが、証拠不十分、何より浩太くん本人が認めなかったことを理由に、保護まで至らなかったそうだ。中央都市へ向かったのも、家族旅行の為で、彼らは浩太くんを連れて行かなかった」

 芽衣子は何かにつけて、ごめんなさいと謝っていたことを思い出す。何も見えていないのは私の方だ。

「おじいちゃん、私、行ってくる」

「うん。気をつけて。ご飯用意しておくからね」

「ありがとう。オムライスがいいな」

 

 時刻は二十二時を回っていたが、浩太は起きていた。

 扉を開けるや否や、芽衣子は浩太をゆっくりと抱きしめた。

「芽衣子さん……? どうしたんですか?」

 浩太は一瞬硬直した後、徐々に身体の力を抜いていく。

「ごめんなさい。私……私は……」

 悪魔だ。最低の人間だ。私は今からどんな言葉で彼に謝ればいいのだろう。必死に言葉を探してみるが、どれも不正解に思えて仕方がない。しばらくの沈黙の後、口を開いたのは浩太だった。

「僕こそごめんなさい。全部知ってた」

 浩太はカーテンの隙間から差し込む陽光のような声でそう言った。芽衣子は抱擁を解き、浩太を見つめる。心臓が嫌な音を立てる。

「芽衣子さんは、白い悪魔さんなんでしょ?」

 浩太はバツが悪そうに微笑んだ。

「でもそれで良かったんだ。本当にお母さん達とお手紙交換しているみたいだった。お母さん達が僕を心配してくれることが嬉しかった。大好きだよって言ってくれて、嬉しかった」

「でもそれは……」

「芽衣子さんが考えてくれたんでしょ?」

 浩太は全て見透かしていたのだ。

「もし僕の目が見えてたら、こんな風に愛してもらえたのかなって、思ったんだ」

 こんなに小さな少年が、一人で背負うにはあまりに苦しい現実だ。芽衣子はどうすることもできず、ただただ溢れる涙を拭い続けた。

「本当に……ごめんなさい」

「僕は本当に幸せだったよ。それが作りものだったとしても、本当に幸せだったんだ。だから、芽衣子さんが謝る必要もないし、悪魔でもないよ」

 浩太は、細くて小さな手で、芽衣子の頭を撫でた。

「僕は暗闇しか見えないから、芽衣子さんは黒い天使だね」

 芽衣子は溢れる涙を必死で堪えようとするが、止まらない。

「一緒に帰ろう」

 芽衣子は絞り出すように、呟いた。そして、真っ直ぐ浩太の瞳を見つめる。彼の見える景色には映らなくとも、その心に届けと願うように。

「オムライス、用意してあるから。一緒に帰ろう」

 浩太の表情から微笑みが消える。氷が溶けていくように、緩やかに唇が震え始める。大きな瞳から涙がポロポロと流れていく。

 芽衣子はもう一度、強く浩太を抱きしめた。


 数日後、浩太は児童養護施設で暮らすことが決まった。

「芽衣子さん、手紙を届けてくれてありがとう」

 別れ際、彼はそう言った。 

 ――手紙を届けることは、幸せを届けること。

 私は、そう思うことができない。

 だけど、その手紙を届けることで、不幸になったとしても、人間は強く生きていくことができる。新しい幸せに向かって進むことができる。一人の少年がそれを教えてくれた。だから、私はこの仕事に責任を持って、向き合っていく。今は少しだけ、そう思う。

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