第53話 差し出された手

「迎えに来たぞ、ウィステリア。一緒に帰ろう」


 差し出された手。父の笑顔。それが今、自分だけに向けられている。

 ずっと、待ち望んでいた光景。


 これが子どもの頃だったら、どんなに幸せだったことだろう。 


 今はもう――恐怖しか、感じない。



 闇夜を引き裂く馬車の音。

 舞踏会を終え、疲れ果てて深い眠りに落ちていたリアを呼び覚ますには、充分だった。


 目の前で止まった馬車に見覚えがあった。

 忘れもしない。自分も使っていたものだから。


 降りてきた人物にリアは目を見開く。まさかここに来るとは思わなかった。あれほど『王城にも屋敷にも近づくな』と言われ、嫌われていたのだから。


「申し訳ございません。アーネスト侯爵閣下」


 リアは頭を下げた。

 寝間着として使っているワンピースに、ガウンを羽織っただけの格好で、対応する。


 こんな夜更けに突然やってきた訪問者でも、相手は侯爵であり、ここの領主。灯り一つない闇夜の中で対応するわけにもいかず、店内の灯りをつけると招き入れた。


 そこで唐突に差し出された手、だった。


 リアが丁重にお断りするも、ニヤニヤと不気味な笑いを浮かべたままのゼフィランサスに、ぶるりと背筋が凍りつく。


「そろそろお前も働く大変さが分かってきたのではないか? 除籍は撤回してやる。侯爵家に戻り、元の生活を送れるのだ。どうだ、嬉しいだろう?」


 ――何を自分勝手な……考えや想いを押し付けるにもほどがある。むしろ、以前よりも楽しく、より自由に暮らせている。今の生活を手放す気など、さらさらない。


「いいえ、侯爵閣下。私は今、充分に暮らせておりますので。仕事を大変だと思ったことは一度もございませんし、私にはきっとこの生活が合っているのだと思います」


 答えが気に入らなかったのか。ゼフィランサスの顔が険しいものへと変化していく。


「侯爵家での生活より平民の生活の方が良いと?」


 ――そこを比べたのか。本当にくだらない。


 リアは無表情でゼフィランサスの瞳を見つめた。


 まったくといっていいほど、似ていない色。本当にこの人が自分の父親なのか、と疑いたくなる。

 きっとそれはゼフィランサスも同じなのだろう。だからリアに対して、あれほどまでに冷酷な態度ができたのだ。


 リアはあらためて理解した。


「そのようなことはありません。すでに除籍された者のことなど、どうかお忘れになってください」


 もう、遅いのだ。もう、新しい道を歩き始めた。過去を振り返ることは、もう、ない。


 目の前の父の顔が歪んでいく。自分の思い通りにならず、苛ついた時にする顔だ。その表情を見たくなくて、いつも顔色をうかがっていた。

 もう見ることはないと思っていたのに。こんなにも早く見ることになるとは。


「ならば領主として命令する。私と共にアーネスト侯爵家へ来い。今すぐに、だ!」

「なっ……! なぜです?」

「お前がそのような態度なら、娘としてではなく、平民として扱う! お前の希望通りに、な」


 ガシッと掴まれた腕を振りほどき、店の中を逃げ回る。しかしゼフィランサスの風魔法により、リアはすぐ捕まってしまった。




 うっすらと闇が消え始めた頃、花畑の中心にある小さな花屋から、家紋付きの馬車がゆっくりと走り出す。

 

 灯りがついたままの、その小さな花屋に人の気配はなく、静寂に包まれていた。

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