第49話 夜会の準備
初夏の陽射しが差し込む店の奥で、早々に昼食を済ませたリアとアッシュはすでに積み込みを終えた荷馬車へと移動する。
忘れ物がないか念入りにチェックをして、リアは御者台へと上がる。もうアッシュの手を借りなくても乗り降り可能だ。
リアは少し腕まくりすると、手のひらをひらひらさせた。身体を動かすと、多少暑さを感じるようになってきた。空には真っ白な雲が浮かんでいる。
不意に影が落ちてきて見上げると、薄紫色の日傘が差されていた。
「陽射しが強くなってきたね。ゆっくり走らせるから差していても大丈夫だよ」
「ありがとう」
些細なことを気にかけてくれるアッシュに、幸せを感じる。これが仕事でなければ――と、いつかのように思い、いつの間にか顔が綻んでいた。
「どうかした?」
「ううん。アッシュはいつも優しいなって」
「えっ?」
アッシュは驚いたように目を大きくすると、突然バッと右腕で顔を覆った。
「アッシュ?」
「あ……いや、大丈夫。不意打ち食らって少々悶絶してただけだから」
「??」
リアはアッシュの言葉を理解できずに小首をかしげる。アッシュは一度大きく深呼吸すると、平静を取り戻し、手綱を握り直した。
「僕が優しくするのはリアにだけ、だからね」
隣に座るリアに柔らかく微笑むと、ゆっくり荷馬車を出発させた。
◇◇◇◇
ハートラブル公爵邸に着くと、すでに待ち構えていたジャックに案内され、ホールへと花を運ぶ。
侯爵令嬢だったときに、何度か踊ったことのあるフロア。まさかこんな形で再度足を踏み入れるとは思ってもいなかった。
公爵家のホールは実家の侯爵家よりも広く、豪華絢爛である。赤と黒を基調としたインテリアに洗練された薔薇の装飾、見事にその家を象徴している。
「リア」
前もってアレンジしてきたテーブルに置くための花を手にしたアッシュがリアを呼ぶ。フロアに用意された花瓶に黙々と薔薇を生けていたリアが、彼の側へと駆け寄った。
「どうしたの?」
アッシュは手元の花に視線を落とすと「うーん」と考えるように唇を引き結んだ。
「本当に、この花でいいの?」
視線をリアに移したアッシュが尋ねる。心配そうな顔をするアッシュに、リアは微笑んだ。
「大丈夫よ」
イメージ通りのアレンジメントにリアは満足している。白い薔薇とそれを青く染めた青い薔薇。社交界デビューをしたばかりの者たちへのささやかな
白い薔薇には『純潔』『私はあなたにふさわしい』という花言葉がある。
大半の貴族は夜会などで出会い、結婚する。もちろん家同士で決められている場合もあるが、そうでない場合は自分で見つけなければならない。
今日の出会いがよいものになるように、『あなたの色に染まる』という白い薔薇を青い薔薇に変えて『奇跡』が起きるように、そして『夢が叶う』ように、とリアは想いを込めた。
まさか――この判断がのちのち大事件になるとも知らずに。
会場の飾り付けが一通り終わると、不測の事態に対応するため、控え室へと案内された。無事に夜会が終わるまではここで待機してほしいとの要望だ。
リアとアッシュが出された軽食を頂いていると、ノック音が聞こえた。
「お疲れ様。会場見てきたよ。すごく綺麗だった」
ニッコリと笑ったジャックは、例の騎士服を着ている。アッシュはチラリとリアの様子を伺った。
隣からの視線をひしひしと受けて、リアは表情が崩れそうになるのを必死で我慢する。
「ありがとうございます」
普通に笑えているか不明だが、リアは何とか口角を上げて答えた。
「白い薔薇の中に、一輪の青い薔薇――『奇跡』を表すのにピッタリだ」
「は……? 青い薔薇には『奇跡』という花言葉があるの?」
「え?」
アッシュが驚いたようにジャックを見る。その言葉を聞いて同じように目を開いたジャックがリアを見つめた。
リアの身体から血の気が引いていく。胸の鼓動が激しくなる。
この世界に
「リアちゃん……? もしかして、君は――」
今にも口から心臓が飛び出してしまいそうになるのを、リアは両手をギュッと握りしめて堪える。
その時、扉からノック音が聞こえ、開かれた。
薔薇をモチーフにした真っ赤なドレスを身に纏うこの屋敷の主が優雅に入室する。
「ご苦労さま」
「ハートラブル公爵閣下。このような席をご用意いただき、感謝いたします」
リアはサッと立ち上がり、見事な礼をとる。
公爵を前にしたことで出た、元侯爵令嬢の身体に染み付いて離れない、いわば条件反射のようなものだろう。
ハートラブル公爵は満足そうに頷くと、ジャックに視線を移す。
「ここにいたの? あなたも用意しなければならないことがあるのではなくて?」
不機嫌そうに扇子を開くと真っ赤な口元を隠す。
ジャックは鼻から息を吸い込むと、頭を垂れた。
「申し訳ございません。すぐに」
赤の騎士は二人と視線を合わせず、黙って部屋を出ていった。
いつもと明らかに違うジャックの去り際に、リアとアッシュは不穏な空気を感じていた。
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