第29話 商業ギルドの受付係

 ジャックが帰った後、シエンナから一通りの生活規則を教えてもらったアイリスは、割り当てられた自分の部屋に圧倒されていた。


(そういえば、ジャックさんにちゃんとお礼を言えなかったな……)


 前の世界でも住んだことがないような立派な部屋を与えられ、しばらくの間ポカンと呆気にとられていたのだが、ふとこの場所に連れて来てくれた赤い騎士の存在を思い出し、アイリスは我に返った。


 彼と出会っていなければ、今頃どうなっていたか分からない。本当に感謝しかない。


 生活に必要なものがコンパクトに揃えられたその部屋のベッドにゴロリと横になる。


 寝転びながら、部屋の隅々に視線を送る。ベッドの他にテーブルとソファ。その近くには鍵のかかるクローゼットがある。

 トイレとシャワールームは共用。食事はダイニングルームで用意されるとのことだった。


 至れり尽くせりではあるが、それだけに明日からの仕事が不安である。もしや、とんでもなく大変な仕事なのではないか。だからこんなに高待遇に違いない、とアイリスの不安は募るばかりだった。




 翌日。

 自分が思うよりずっと疲れていたのか、そのまま眠ってしまったアイリスは扉をノックする音で目を覚ました。


「アイリスさん、おはようございます。昨日お話ししましたとおり、今日から商業ギルドで働いていただきますので、朝食が終わり次第、ご案内します」


 鍵をかけていた扉を開くと、シエンナが事務的に淡々と話し始めた。伝えることだけ言い終わると、「では」と去っていった。


 アイリスは急いで身支度を済ませると、部屋に鍵をかけ、ダイニングルームへ向かった。


 そこには誰の姿もなく、ポツンと一人分の朝食が置かれていた。食事の横にメモが置いてある。


『アイリスさん。食べ終わりましたら、食器は隣のキッチンへ下げ、ご自身で後片付けをお願いいたします』


 読み終わると、アイリスは料理を夢中で頬張る。考えてみれば、この世界に来てからまだ一度も食事をしていなかった。

 食欲をそそる良い香りにアイリスは空腹を思い出したのだった。


 あっという間に料理を平らげ、後片付けしていると、急に声をかけられた。


「そちらが終わりましたら、商業ギルドへご案内しますね」


 いつの間にか背後に立っていたシエンナに驚き、アイリスは食器を落としそうになった。いろいろな意味でドキドキと心臓が高鳴る。

 アイリスは胸を抑えて、何度も頷いてみせた。




 シエンナに案内され、商業ギルドへ来たアイリスは、またしてもポカンと口を開いてしまった。


 商業ギルドの女子寮というだけあり、敷地内なのではないかと思われるほど近くに、その立派な建物はあった。


 大きすぎる扉を開くと、中はまるでホールのように天井まで吹き抜けになっており、天窓から太陽の光がキラキラと降り注いでいる。


 辺りを見回し、感嘆の息を吐くアイリスを置き去りにして、シエンナは慣れたようにカツカツと低いヒールの音を鳴らして奥まで歩いていく。

 ハッと我に返ったアイリスは小走りにシエンナを追いかけた。


 そこにはカウンターがあり、すでに二人の女性が仕事を始めていた。


「カシアさん、マリーさん。こちら、先ほどお話ししたアイリスさん」


 二人は手を止めると、アイリスに視線を向けた。アイリスは緊張した面持ちで頭を下げる。


「アイリスです。よろしくお願いいたします」


 顔を上げたアイリスの目に、二人の笑顔が映る。


「私、カシア! ちょうど人手が足りなくて困ってたのよ! 分からないことがあれば、遠慮なく何でも聞いてね!」


 ハキハキとして明るいカシアに、アイリスが少したじろぐと、それに気づいたマリーがカシアを肘で突付く。


「ちょっと、カシア。驚いてるわよ……ごめんなさいね、勢い良すぎて。――私は、マリー。カシアの言ったとおり、本当に人手が足りなくて……とても助かるわ。よろしくね」


 二人の好意的な挨拶に、アイリスは安堵した。




 商業ギルドでの受付の仕事を教えてもらっていると、赤髪の美青年が受付に向かって歩いてきた。


「やあ、仕事はどう? やっていけそうかな?」

「ジャックさん! 昨日はお礼も言えず……すみません。いろいろとありがとうございました! 何とか、頑張れそうです」

「それはよかった」


 ジャックはニッコリと微笑んだ。


「今日はお休みなんですか?」

「え?」


 アイリスからかけられた問いに、ジャックは首を傾げた。その反応にアイリスも首を傾ける。


「服装が……」

「あっ、ああ! そういうこと? 僕はギルド職員も兼任していて、普段はこの服装が多いかな」

「なるほど……それで『嘘』をついたのですね」

「え……?」


 アイリスに『嘘』などついただろうかとジャックが首をひねると、アイリスは慌てて首を横に振る。


「あの……ごめんなさい! 『嘘』なんてついていませんよね。私の勘違いでした!」

「いいよ、大丈夫。気にしないで――」


 大げさなほどに頭を下げたアイリスに、ジャックは優しい声を落とす。アイリスが、ホッと胸を撫で下ろし、頭を上げかけると――


「でも僕、君に気をつけてって、注意したよね?」


 優しく降ってきた声なのに、一瞬で、頭を上げることができなくなってしまった。そのままの体勢でアイリスはゴクリと喉を鳴らす。


「大丈夫だよ、僕は――君の味方だ」


 耳元で小さく囁かれたその言葉にアイリスは勢いよく頭を上げる。


「分かるでしょ? 僕は『嘘』をついていない」


 アイリスは静かに頷いた。


 

 ◇◇◇◇



 アイリスが商業ギルドで働き、しばらく経ったのだが、ジャックには気になっていることがあった。


 彼女はこの世界に来てから、恐らく一度も笑っていない。


 原因は『前の世界』にあるのだろう。彼女の心を癒やすには、どうしたら良いか――と、考えていたジャックは、とある花屋を思い出した。


 学生時代の友人が働いている花屋。そこに最近、可愛らしい店員が増えた。住み込みで働いているのだから、雇われ店長といったところか。


 彼女の正体は――この国の王太子の元婚約者で、アーネスト侯爵家から除籍、追放された、ウィステリア・アーネスト嬢だった。


 さらに彼女から買った花にかけられた“魔法”に、思わず息を呑んだ。美しく保つためだけではなく、花言葉と同じ効力の“魔法”が込められている。


 それも、受け取る相手が必要としている“魔法”が――的確に。


(今回も、彼女にお願いしてみよう!)




 エルダー園芸店からの帰り道。リアが束ねた花にジャックは緩む顔を隠せないほど満たされた。


 ――まさか彼女の様子まで見抜いてしまうとは。


 元気がなく、溜め息が多い。そして、彼女に送りたい理由。その彼女にリアはオレンジ、黄色、赤で揃えたミムラスの花を選んだ。


 花言葉は――『笑顔をみせて』『静かな勇気』『援助の申し出』。


 花束を渡したアイリスは満面の笑みを浮かべた。その笑顔にジャックの胸は高鳴る。

 アイリスはジャックに礼を伝えると、その耳元でそっと囁いた。


『私――ジャックさんのに協力します』


 思惑どおりの『申し出』に赤髪の美青年は、彼女に満面の笑みを返した。




 公爵家までの道。赤い髪をさらりと靡かせながら上機嫌で歩く。


「これで……彼女の問題も、僕の問題も、まるっと解決だ」


 彼は口元に手をあて、嬉しそうに目を細める。


「やっぱり――リアちゃん、だよね」


 彼の脳裏に浮かんだのは、瞳を光らせる友人。


「うーん。それには――アッシュ、だよね」


 困ったように眉を下げて、腕を組む彼の口元は、その言葉と態度とは裏腹に緩みっぱなしだった。

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