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そこまで読みとれたところで、「わっ・・・え?」かのじょの全身はかれの腕の中にすっぽり収まれていた。視界の隅で落下していく本ーー


「ほらね、言わんこっちゃない」


まるですべてを見透かしたような呟きーー同時に“がしゃん”と何かが割れる音ーー見なくてもマリナにはわかった、カロリスが溜め息を吐かんばかりの表情を浮かべていることが。


(ほんとに鼻につく!)普段のかのじょであれば、倍返しにしてまくし立てていたはず。だけど今は借りてきた猫のよう。かれの濡れた鉄の瞳を、茫然と眺め続けている。



どのくらいそうしていただろう。1秒? 1分? 時間の流れ方がやけに奇妙で、夢の国に縛られている気分。そこで、今さっきの物音が遅れて耳にとどく(厳密には音の正体のほうにようやく意識が向いたというべきかも)。


マリナは床をキョロキョロ、そしてハッとなる。「カロリス、それ・・・」かれの足もとで青銅カップが細かく砕けていた。少し残ったスビテンは四方に飛び散り。大理石を這う湯気。仄かに香る、ハチミツとスパイスの匂い。


「そのカップ、お気にいりだったのに」


毎日、かれが運河から汲んだ清水で洗っていることを、かのじょは知っている。丁寧に拭き拭き、キャビネットに飾るときの微笑みを思い出して、マリナの胸はチクリと痛む。


「もともと壊れかけてたんだよ」


「ごめんね」


「いいんだ」カロリスは淡々と言う。感情のない響きがむしろ哀愁を引き立てる。「生まれ変わったら、これも元通りさ」



冴えない沈黙が流れる。居たたまれなくなったマリナが、思わず「重いのにごめんなさいね、もう下ろして大丈夫よ」なんて憎まれ口を叩きかけたタイミングで、


“ゴオオン、ゴオオン”・・・大図書館に響きわたる音色ーー歌時計チクタクマンが、厳かに時を告げてくれた。


カロリスは宙を仰ぐ。「期は熟したよ。もうすぐ昼が訪れる・・・」黒闇に吸い込まれた天井は果てしなく、宇宙に繋がっているように思う。


「あそこに行こう」「そうね」




いい加減に下りたくて身を捩るマリナにかまわず、カロリスは軽々と抱えたままカフェエリアの奥部に向かう。



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