第12話 謎の女の誘惑に負けて

 美羽はシャワーから上がると、髪を乾かしてセットし、ディナーのためのワンピースに着替えた。

 しかし、いくら待っても裕星は帰って来ない。


 ――これじゃあもうすぐディナーの時間になるのに間に合わないわ。そうだ、メールしてみようかな。


 美羽が裕星のケータイにメールを入れたが、いつまで経っても既読も付かない。


 ――裕くん、マフィアに捕まっちゃったとか? まさか……。


 心配になり、裕星のケータイを鳴らしたが、それでも応答はなかった。

 ――どうしよう、もうこれ以上連絡を取る手段はないのに。



 美羽は不安が高まり思わず光太に電話をした。


 呼び出し音が三回も鳴らない内に光太は出た。 

 <もしもし、美羽さん? どうしたんですか?>


「光太さん、実は裕くんがまだ帰ってきてなくて……」

 美羽はさっきの裕星の行動を光太に伝えた。

「どうしたんでしょうか? このまま待っていてもいいのかしら? すごく不安になって……」


<いや、裕星のことだ。きっとすぐに戻って来ますよ。それに相手は女性だし、裕星が何か乱暴なことをされるわけじゃないですから>

 思ったよりも光太の反応は薄かった。


「そうでしょうか……。分かりました、では予定通り、8時にロビーに降りますね」

 そう言って美羽は電話を切ると、不安を紛らわせるためにベランダに出て風に当たっていた。


 暗くなってきて、ライトアップされた辺りの建物がオレンジ色に美しく浮かび上がっている。まだ夕暮れ時で、運河を行き交う船やゴンドラの人々の顔が見えるほどだった。

 すると、美羽の目がある人々へ釘付けになった。


 ゴンドラに乗る人々、ではなく、向い側のホテルのカフェテラス、夕暮れ時の薄明りの中、煌々こうこうと明るく照明を当てられたテーブルに一組のカップルの姿が見えた。


 それは――裕星とミケーラだった。


 ここからは水路を一つ隔てた距離で近かったが、昼間ほどハッキリ見えるわけではない。

 美羽は頭を振って目をギュッと瞑り、もう一度目を開けてよく見たが、やはり男の方は紛れもなく裕星だ。


 テーブルで二人は顔を近づけて何か話している。何を話しているかは到底分からないが、どうも二人の間が近すぎるように見えた。

 美羽がつばをゴクリと飲み込んで見守っていると、裕星が笑顔になりミケーラの話に頷いている様子が見えた。

 ミケーラも嬉しそうに微笑んでいたが……次の瞬間、美羽は自分の目を疑った。


 ――ミケーラが裕星にキスをしたのだ。



 裕星の隣に座っていたミケーラが少し体を傾けたかと思うと、立ち上がって裕星の顔に近づき両手で裕星の頭を包んでキスをした。

 裕星も全く嫌がることなく、じっとそのキスを受け入れているではないか。

 そして、二人は離れると、しばし見つめ合って手を重ね合っている。

 誰がどう見ても、恋人同士の挨拶を交わしているようにしか見えなかった。


 美羽の顔から血の気が音を立てるようにサーと引いた。ワナワナと体が震えて、自分の足で立っていられなかった。

 そして、ベランダの欄干らんかんに両手で掴まったまま、膝からその場に崩れ落ちたのだった。


「嘘! 裕くんがそんな……。嘘よ!」

 ――でも、あれは確かに裕くんだった。……ミケーラさんとどうしてキスなんか?」


 美羽は震えている足で立とうとしたが、胸にキュッと痛みが走って立ち上がれずにいた。



 涙も出なかった。信じられない気持ちが次から次へと溢れてくるだけで、さっき見た光景が何度も頭に鮮明に思い出されて、また胸がギュッと締め付けられた。


 ――なぜ、あんなことを。裕くんは女性に対してそんな軽い人じゃなかったでしょ?


 しかし美羽は自分がその目で見た光景の方を信じざるを得なかった。



 あれほど楽しかった今までの旅が、一瞬にして奈落ならくに崩れ落とされていくのが分かった。

 もう自分が信じていた裕星ではないのだ。あれはもう自分の恋人の裕星ではなく、誰か知らない人のような感覚にさえ陥っていた。



 美羽はベッドに突っ伏した。胸が苦しくて倒れこんだまま眠ってしまった。

 あまりのストレスで脳が混乱したせいか、それを回避するために生理的な睡魔(すいま)が襲ってきたのだ。



 ――美羽はホテルの部屋のドアの前に立っていた。

 向こうの部屋から男女のささやく声が聞こえる。美羽は誰がいるのか確かめようとして、足音を立てないようにしてベッドルームに近づくと、ベッドの上にいる裕星の裸の背中が見えた。


「裕く……」

 美羽が声を掛けようとして進んで行くと、裕星の体の下から裸の女性が体を起こして裕星の背中に手を回して抱きついたのだった。


「えっ……?」

 美羽は立ち止まって両手で口をおおった。


 すると、裕星の背中越しに女性がこちらを見て美羽と目が合った――――ミケーラ!

 ミケーラは美羽を見てニヤリと笑みを浮かべると、裕星の頬を両手で包んでキスをしたのだった。

 それに応えるようにして、裕星も彼女の唇に夢中になっている。


 ミケーラは時折美羽の方を確認するように不敵な笑みを浮かべているのだ。



「いや! やめてーー!」

 美羽は汗びっしょりになって、ベッドから飛び起きた。

 自分が夢を見て泣きながら大きな声を出していたことに気付いた。

 まだ美羽の心臓は、ショックで激しく鼓動し、飛び出しそうになっている。


 そのとき、美羽のケータイのアラームが8時のベルを鳴らした。

 ハッと我に返ったが、美羽はもう人形のように感情がマヒし、ベッドから降りると、「行かなくちゃ……」義務感だけで淡々とエレベーターに乗り込みロービーへ向かっていた。


 ディナーを断ることも出来たのだが、今の美羽はそれさえ考えられなかった。現実と夢が入り混じって、美羽を苦しめていた。

 本当は部屋を出ることさえもやっとの状態だったのだが、ロビーで待たせている光太のことが頭によぎったのだ。


 やっとの思いでロビー辿りつくと、もう先に光太が待っていた。


「美羽さん、どうしたんですか、顔色が悪いですよ。あれ、裕星は? 一緒じゃないんですか?」

 裕星の名前を出されて、美羽は何か抱えてた大きなものが突然破れたように、思わず涙が止めどなく流れ出てきた。足がふらついて、光太の肩に思わず倒れかかった。


「美羽さん! 一体なにがあったんですか?」

 光太に肩を支えられて、美羽はやっと我に返った。


「光太さん、私どうしたらいいかわかりません。裕くんはもう……」


「裕星がどうしたんですか? 裕星に何かあったんですか? まさか裕星まで拉致されたとか?」


 美羽は大きく首を横に振った。

「いいえ、いいえ、そうじゃないです。裕くんがミケーラさんとキスを……」

 そう言うのがやっとだった。しかし、今の美羽には光太しか頼れる人間はいなかった。


「実は、裕くんがさっきミケーラさんの後を追って行ったんですが……」

 自分が見たことを、涙で途切れ途切れだったが全て光太に打ち明けたのだった。


「裕星が……あいつまさか……。いくらなんでも、美羽さんという人がいながら」

 正義感の強い光太は、裕星への不信感で険しい表情で眉を潜めた。

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