第30話 身だしなみを整える
「おはよう、チーさん!」
「待たせたわね。さぁ、早く乗って」
「はい」
今日は休日。とても天気の良い日に車でやってきたのは、
実は彼女は、ファッション関係の大企業の元社長で、既に一線を退いて悠々自適な老後生活を送っている人だった。つまり、僕よりもずいぶんと年上の人である。
しかし、その見た目は若々しい。年齢は確か60代後半くらいだったと聞いているけれども、それよりも確実に若く見える。動きも声も常にハキハキとしているから、やっぱり実年齢よりも若い人だと感じた。そんな女性が、家の近くに車で迎えに来てくれた。今日の用事のために。
「今日はヘアサロンに寄ってから、新しい服を買いに行きましょうか」
「わかりました。お願いします」
智恵子さんの予定に従って、今日は一日付き合ってもらうことになっている。僕は助手席に座ってシートベルトをつけた。そして、車がゆっくりと走り出す。
「今日は、どんな感じで直人の髪を切ってもらおうかしら」
運転しながら、チラチラと僕の顔をチェックしながら聞いてくるチーさん。どんな髪型が似合いそうかと、彼女なりにイメージしているのだろう。
「最近、暑くなってきたのでバッサリ切ってもらいたいですね」
「それはダメよ。髪は男の命なんだから、もっと大事に扱わないと」
「そうですかね?」
僕の知っている言葉とは、全く逆だな。人と違う常識を持っている僕だから感じる違和感。これは、いつまでたっても慣れなかった。顔には出さないように気をつけているけれど。なかなか慣れそうにない。
髪は男の命だと、昔からよく言われているらしい。髪は血液から出来ているから、髪の美しい男と一緒になれば、元気な赤ん坊を授かることが出来る。女性は本能的な部分で、健康的で元気な子孫を残したいと思っているらしい。だから髪が美しい男はモテるそうだ。
それを聞いて、僕も髪の毛のケアを大事にしたいと思っている。けれど、暑いのも気になるから、思いっきり切ってしまいたいと感じていた。僕は髪の毛が伸びるのが早いし、伸びてきたら切ることになる。短くしたほうが楽だった。
たまには気分転換にバッサリ切ってみたいと思うけど、女性たち全員から切っちゃ駄目だと言われてきた。だから僕は、子供の頃から今まで髪が長いことが多かった。長髪のほうが良いと言われたら、その通りにする。女性を悲しませたくはないので、これぐらいは我慢する。
つまり、これから先も僕が短髪にチャレンジするのは難しそうだ。
「セミロングぐらいにして、切りすぎない程度に軽くしてもらいなさい。そうすれば暑さも軽減されるでしょ」
「そうですね。じゃあ、そんな感じにしてもらおうかな」
そんな会話をしながら、目的地のヘアサロンまで連れて行ってもらった。
「小川さん、今日もこの子のヘアカットを頼むわね」
「は、はいッ! 絶対に失敗しないよう、全力で頑張ります!」
店内に入ると、奥の方から店長の小川さんが出てきて挨拶をしてくれた。そして、チーさんに頼まれて僕のヘアカットを担当することに。
今までに何度も、僕は彼女に髪を切ってもらってきた。小川さんは実は、かなりの有名人で予約が取れないぐらい人気の美容師だった。そんな凄い人が緊張した様子で僕のヘアカットに挑もうとしている。
「よろしくお願いします、小川さん」
「は、はい! ま、任せてください。今回も失敗しないように気をつけます」
美容師が髪を切るだけなのに緊張し過ぎだろうと思ってしまいそうになるけれど、彼女以外の美容師も同じぐらいか、それ以上に緊張したりする。
だから、普通のヘアサロンに行くと断られたりすることもあった。男性の髪の毛を上手に切るほど実力が無いと言われて。男性相手だと緊張して、怪我させてしまうと大変なことにもなるから。なので、対応してくれるヘアサロンを探す必要があった。
このヘアサロンは、チーさんに紹介してもらって通うようになった。月に一度ぐらいのペースで髪を切ってもらっている。
髪を長くするのだから、そんなに頻繁に来る必要があるのか。そんなことを思ってしまうけれど、ヘアースタイルを整えたり、毛先のダメージを補うために色々とケアしてもらうため、定期的に訪れていた。
「えーっと。今日は、どうしましょうか?」
重厚感があり、座り心地の良い椅子に座った。僕の後ろに回って立って、カットの前の準備をテキパキと進めていく。鏡越しに目を合わせて話しかけくれる小川さん。少しだけ緊張がほぐれたのか、ヘアカットに集中し始める。どんな髪型にするのかを聞かれたので、僕は答えた。
「全体的にボリュームを減らして、暑くならない感じに出来ますか?」
「分かりました、やってみますね」
ざっくりし過ぎかもしれないと思ったけれども、小川さんは僕の注文を聞いてすぐカットし始めた。黙々と髪を切られていくので、僕も彼女を信頼して身を任せる。
チーさんは、近くの椅子に座って終わるのを待ってくれていた。
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