第72話~GI凱旋門賞その1~

 世界中の競馬ファンが見守る中、ついに凱旋門賞当日を迎えた。私の目の前には馬主の宮岡さん、それに担当厩務員の沢村もいる。



「……いよいよ、ですね」



 極度の緊張感が場を包み込む中、宮岡さんが口を開いた。



「……はい」



 俺も深く頷いて肯定する。やばい、ストレスで胃に穴が開きそうだ。



「昨日のスプリンターズSでも見ます?」


「いや、今そんな気分じゃ……いえ、見ますか」



 そんな緊張感をものともしない沢村の発言に驚くが、今の空気を変える意味じゃナイス判断とも言える。だからだろう、宮岡さんも乗ってきた。


 

《さらに3番サレグス来るか! サレグス来るか! サレグス来た! サレグス来た! サレグス来たっ! ここでサレグスが来たァァァ!


……菊花賞に安田記念、勝てない日々が続き足を伸ばしたスプリントへの道。そして今、2年以上の長い低迷期抜けました!


サレグスです! 夢にまで見たGIタイトル! 父サリオスに捧げる平地GI初制覇! これでサリオス産駒はダートに障害、3つ全てでGIタイトルを手にしました》



「まさかサレグスが勝つとは、ですね」


「1400のGII京王杯SCを勝ってるとはいえ安田記念への叩きがメインのイメージでしたからね。元々は2000mや菊花賞を走ったりマイルで好走してたのも合っての低評価は仕方ないでしょう」


「しかしまた5歳馬が勝ちましたね。秋天もシャドーフェイス、サザンプール、ジェミニリストやらが出ますし勝てるんじゃないですか?」



 宮岡さんの言葉に俺も肯定を示す。まぁ2022年の菊花賞1番人気が実はマイラーだった件もあるしシャドーフェイスも適正距離が広いからありえないことでは無い。そして沢村は秋天の展望を語り始めた。



「いや、さすがにドゥラスチェソーレが勝つだろう」


「ですねぇ~」



 なんて俺が現実的な発言をした所で、いつの間にか緊張感も薄れていることに気づく。……はは、天下の凱旋門賞はもう今日開催されるって言うのにこんなお気楽な話してて良いのかよ?


 いや寧ろこのぐらいの気楽さがあった方が良いのか? そう言えば横川、ファートムの所に行ったっきり戻ってこないが……まぁ、集中力を高めるには良いか。



「あ、そうです。実はステイファートムの引退についてなんですが」



 ガシャガシャガシャンっ!? 沢村が変な音を立てて倒れた。宮岡さんが世間話でもするかのように切り出してきたからだ。かく言う俺も驚きで動けなかっただけで、同じぐらいの動揺はしている。



「え? 引退? ……あ、いやそらいつかはするもんですが……」


「……今年で、引退させるって事ですか?」



 一気に空気が重たくなる。沢村に至ってはまるで一生別れるつもりがないみたいな発言までしていた。



「はい。今年で引退させるつもりです。館山牧場の種牡馬としたいですね」


「……ちなみにローテは?」


「決まってます。凱旋門賞→香港ヴァーズですよ」



 ……薄々勘づいちゃいた。でも改めてこう言われると、中々きついもんがあるな。香港ヴァーズは……黄金の血統って言えばあとは分かるだろう。確かに有終の美を飾るに相応しい。



「でもそれを、今言いますか……」


「今だからこそです。ちなみに横川君には昨日伝えてあります」


「……通りで戻ってこねぇわけだ」



***



 ふんふふーん、見てくれよこの馬体! 沢村さんが朝早くから丁寧に磨いてくれたんだよ。これでイケメンの俺でしょ? もう最強じゃない?


 まぁ大抵の馬は綺麗にして馬房に戻した瞬間に寝藁、ボロまみれになったりして厩務員さんを膝から崩れ落ちさせるのが伝統芸らしいが。



「ファー……」



 それよりもさっきからずぅぅぅぅっっっと抱きついてきてる横川さんをどうにかして欲しい。なんかねっとりしてて生々しいぞ、横川さん。何故か分からんが親の血が流れてる事を再認識させられそうだ。



「……はぁ、ファートム。君と走るのも、今日を含めてあと2回かぁ」


『あーだから落ち込んでたのか。俺と走るのが今日含めて残り2回だから……えぇ!? 俺あと2回だけしか走れないの!?』



 え? え? 俺ってば引退なわけ!? ……そう言えば、シュトルムのおっさんもマカモアおじさんもそうだったな。秋に有馬記念で、ジャパンCで、それぞれ引退していったっけ。



「できればずっと乗っていたいよ……」


『俺も走りたいぞ?』


「ふふ、そうか。ファーも走りたいってか? もちろん僕を乗せてくれるよね?」


『当たり前よ。今更他の人に乗られるのは嫌だぞ。……レース中はな。もちろん調教中とかは他の人にも乗られるし乗馬だってしたし』


「分かってる分かってる。君の背中は僕だけのものにしたいけど、君は僕の力じゃ収まらないからね。独り占めは諦めるさ」



 最近思うんだがなんか言葉が通じてる気がしてきた。もちろんきちんと通じてないのは知ってる。でも心で、何となくだけど分かり合えてるって言うか、そんな感じがした。



『あと2戦……絶対に負けない! 次はヘマしないからな横川さん!』


「ん? あぁ、その顔はリンゴだな。ちょっと待ってろ」


『分かってないじゃん!? やっぱ全然通じてねぇなこれ!?』



 どうやら俺の気のせいだったらしい。でもりんごは美味しく頂きます! 美味し美味し!



「ファー、今日走る凱旋門賞は日本の悲願なんだ。今までにも最強馬と呼ばれた数々の日本馬が挑んできた。それでも勝てなかった……日本馬は凱旋門賞を勝てない。まるで呪いとも呼ばれるそのジンクスをファートム、君と破りたい」


『ジンクス? でもそれって今までに俺が走ってなかったから生まれたものでしょ?』


「うんうん。でもファートムも有馬記念大外16番の8枠は勝てないってジンクス破れなかったんだよなぁ」


『もっかい走らせろや横川ァ! 次はぶち抜くわアァ!?』



 知らず知らずのうちにそんなジンクスの礎に俺も携わっていたとか許せん! 凱旋門賞終わったら有馬記念に行くぞ! ……あとでも1戦はどこ走るんだろ? 有馬記念かなぁ?



「そうだ、ファートム。コールはGII紫苑S、勝ったぞ」


『っ!? ……はは、了解だ横川さん。今その事実を知れて良かった……』


「おっと、そろそろ時間だ。……さぁ、世界に見せつけよう。君の真の実力を」


『おう! 最強の走りを全世界に見せつけてやる!』



 日本で培ってきた俺の全てを賭ける。この舞台は俺の人生の集大成となるだろう。……よしっ、行くか!

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