9月25日

彼女と過ごす夏休みは、それは夢のようだった。

二人で博物館も行ったし、水族館にも行った。

しかし、大学生の長い夏休みにも終わりは訪れる。


九月の終わりに彼女は僕と行きたい所があるとデートのお誘いをしてくれた。

僕は、ここで告白をしようと思う。「好きだ。付き合ってください」って月並みだけれど。


一夏を過ごしたからと言って彼女の全てが分かったわけではないが、ちひろちゃんも少しは僕の事、気に入ってくれているんじゃないだろうか。


集合したのは浅草の手前の田原町。

少し歩こうと彼女が言うので、そのまま雷門を通り、隅田川を渡った。

そのまま東京スカイツリーまで歩いた。


東京スカイツリーの展望台からは東京はおろか、首都園の全景が見渡せた。

「こうしてみると、人の営みも大したものよね」

少し他人行儀な彼女の物言いは僕の想像する神様を想起させた。


「ほら見て。江戸城跡。私たちが一日かけて東京を散歩した日の事、覚えてる?」

覚えている。次の日は筋肉痛で足が動かなかった。


「忘れるわけがない。他でもないちひろちゃんと丸一日過ごした日なんだから。」

「嬉しい。

じゃああれは覚えてる?鵞鳥母さんのたわごと」

「もちろん。


ひねくれおとこがおりまして

ひねくれみちをあるいてた

ひねくれかきねのきどのそば

ひねくれおかねをひろってね

ひねくれねずみをつかまえた

ひねくれねこをてにいれて

ちいさなひねくれあばらやに

そろってすんだということだ


忘れない。君が俺にくれた詩だから」

「そうね」

「ちひろちゃんはこの詩好きなの?」

「うん。小さい頃にお母さんが歌ってくれたの」

頑張れ俺。ここで一歩を踏み出すんだ。


「じゃ、じゃあ僕の事は?」

彼女は僕の意志に気付いたようだった。


「ねえ、ちょっとした度胸試しでもしない?」

「どうして?」

「思い出をつくるの。ここまで来たら君の言う事一つだけ、聞いてあげる」

ちひろちゃんはガラス張りの床に飛び乗った。ハイヒールがガラスに触れてカツンと音がする。


怖いもの知らずだなあと、関心とひやひやした感情の入り混じる僕に、お構いなしに手を差し伸べてくる。

「二人で立とうよ、マンホールの時みたいに」

「はい!」


さあ、行こう。このガラス床で寄り添いながら告白するのもいいじゃないか。

しかし、僕の足は動かなかった。僕はちひろちゃんのところへ行きたいのに、まるで本能がガラス床へ行くのを拒んでいるようだ。


予め言っておくが、僕はガラス床程度で怖気ずくような男では決してない。しかし、足が動かないんだ。今すぐ行って彼女に告白しなきゃならないのに。彼女もそれを受け入れる準備ができているというのに。


なにか、なにか忘れていることがある。今やらなきゃいけないこと。

「どうしたの?怖い?」

ちひろちゃんは少し困って急かしてくる。


なんだ?一体何がたりないんだ?満足のいく夏休みだったじゃないか。それに今、彼女の要望に従う以外に大事な事があるのか?告白以上に大事な事が?

なにか、何かあるはずだ。


「ちひろちゃん。僕、何か忘れていることがあると思うんだけれど、心当たりあるかな?」

「んん。なんだろう。君がここまで来ることかな」

忘れ物か?ポケットを探ってみる。


なんにもない。入っていたのはカードだけだった。おれの御守り。何の変哲もない数字の羅列。

「02738568492」

僕は何となくその数字を眺めてみる。それもかなり手慣れた動作だった。少し先で彼女が待っているというのに。


そうだ。電話だ。電話を掛けるんだ。この番号に。

それは何の脈絡もないことに見えた。

「ねー何してるの?」

「電話を掛けるんだよ。このカードの番号に」

「なんで?そんなの今やらなくてもいいじゃない」


いや、多分今やらなきゃ駄目なんだ。彼女の事を差し置いてでも。だって凄く居心地が悪い。電話を掛けないつもりになると、とんでもない罪悪感に襲われるんだ。


「まったく、ひねくれ男さんったら。

怖いなら私の手を握りなよ。

そうだ。おまじないを教えてあげる。怖さを打ち消すおまじない。」


彼女は待ちきれない。当たり前だろう。急にこんな事を言い出して意味が分からないと困惑している事だろう。

でも僕が今からやろうとしている事は恐らくとても高尚な事だ。彼女に告白する以上に。

「ほら、**** *** ******** ** ***。一緒に唱えて」

ケータイを出して番号を入れよう。

「027 3856 8492」

「誰も出ないよ。**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。こっちに来て。」

彼女の急かす声と、ケータイの着信音だけが僕の耳に届いている。

「**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。**** *** ******** ** ***。」

プルルルル、プルルルル、プルルルル、着信音が響く。

「もしもし」


電話は繋がった。


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