白い君の合言葉

柑 橘(かんたちばな)


 残念です、と、対面に座る上司が口惜しそうに告げてくる。

 ホテルに併設された、カフェの店内。他の利用客はもう一組くらいしかおらず、故にいっそう、その上司の呟きは周囲に響いた。

 響いて、俺の身体に重く圧しかかってきた。


 ……俺も残念です、なんて、間違っても言っちゃいけないよな。


 だから俺は、代わりに深く、頭を下げる。

 座ったままではあったが、少しでも誠意が伝わるように腰の根から上体を曲げて、


「いままで、お世話になりました」


 掠れ声でそう礼を述べ、再びゆっくりと顔を上げる。

 その時目に飛び込んできた、間もなく五十歳になるらしい上司のやりきれない顔と。彼が両手で大事そうに受け取った「退職願」は、しばらく忘れられそうにないと思った。



          *



 つまるところ、この九月いっぱいで仕事を辞めることになったのだ。

 俺、百笑どうめき枸櫞くえんは。


 ただでさえ、ここ数ヶ月は半分無職のような生活だった。

 肌に合わない職場環境に身を置き続けていたら、ある時全身が鉛のように重くなった。それでもうのていで出勤していたら、今度は全員から心配されて追い返された。

 数日経って掛かった医者から告げられた診断結果は、重度の神経障害。

 それから休んで、休んで、復帰できないまま休み続けて。

 復職の目途も気持ちも起たないまま――自ら、職を辞することを決断した。

 依願退職をすることにして、今日、まさにその手続きをしてきたのだった。

 ……まあ、今回こそ特殊な辞め方だったものの、退職の経験はこれが初めてじゃあない。

 大学を卒業し、いわゆる社会人として働き始めてから早五年。

 仕事を、会社を辞めるというのは、今回が二度目の話だった。


「けど、やっぱ慣れねーな……こういうのは、何回やっても」


 ――ここは私が払っておきますので。

 そう言う上司と別れ、出てきた店の外で、思わずため息を吐き出してしまう。元より慣れるつもりは無い……そう何度も職を転々とするつもりは無いし、前回だってまた同じことをするとは思ってもいなかったわけだが。

 やれやれ、なんて芝居めいた独白すら、口から零れてしまう。

 夕映えはこんなに澄んだ橙色で、秋風もぬる過ぎず冷たすぎずの心地良さなのに。

 どうして俺の心だけが、こんなにも沈みきっているのだろうか。


「ムズいなあ、人生」


 ……全部、自分で決めてきたことだってのにな。

 透明な秋の空気にそんな愚痴を吐いて、俺は駅までの道のりを歩き出す。



 いわゆる地方都市と呼ばれがちなこの街で、俺はのべ五年半、暮らしたことになる。

 高校卒業後、故郷の北国を離れて初めに住んだのがこの街だった。そこから学部卒業までの四年間を過ごし、最初の就職でまた別の県へ。更にその四年後の転職を機に、またここへ帰ってきて、一年半が経とうとしていた。

 知り合いは多く、店や食い物も首都圏に負けず劣らず抱負で。たまにしか帰らないが故郷ふるさとにもそこそこ近いし、逆に東京へ出るにもさほど時間はかからない。


 ほどほどに良い街――まあ。

 まるっきり主観で言えば、好きな街、だったんだ。

 けれどまあ、そんな気に入った土地からすら、今月で離れることになるのだが……。


 街の中心部たる駅に着き、丁度出る直前だった電車へ乗り込む。揺られて約十五分。三つ目の駅で降りて、歩いて十分弱ほどで自宅へ帰る。

 帰ってきた。


「さて、と。一難去って、また一難」


 ぶっちゃけありえない、なんて、独り戯れながら。

 部屋に戻って目にしたのは、雑然とした私物の数々だった。

 そこに混じって、作りかけの段ボールが一つと、綺麗に壁に立てかけられた段ボールの束。中サイズが十枚と、小サイズが九枚。

 荷詰めの、準備中。

 引越しの、準備中と、そういうわけである。


 職を辞する俺は、そのままこの場所も離れることになっていた。

 退職、引越し――そして幸運なことに、転職という未来が担保されていたからだ。

 どれも、自分で選んだ道でしかない。だというのに、その一つ一つを億劫に感じてしまうのは一体何故だろうか。

 退職願を出したのも。家移りに備えるのも。


「だりい……けど、やらなきゃ困んのは自分でしかねえ、か」


 さもなくば、今日は椅子かベッドに沈み込んで、再起不能になっていたかもしれない。

 それよか、と、俺は愚痴りつつも、結局身体と手を動かすことにした。

 すると人間ってのは不思議なもので、一度始めてしまえばどんどん手が進むようになる。面倒だなんだとぼやきながらも、俺は文字通り時間を忘れて梱包作業に没頭していった。

 没頭して、あっという間に三時間が経っていた。


「うわ。もうこんな時間かよ」


 ふと空腹を感じて顔を上げると、壁掛け時計の針が七と十二を指していた。開きっぱなしのカーテンの外は真っ暗。部屋の明かりは点いていたが、そういえば少し前に、手元が暗いとスイッチを押したような気がする。

 長らく続いていた集中力もぷつりと切れ、床に胡坐を掻いていた俺は腰を上げた。

 背にしていた台所へ移動し、冷蔵庫を開く。

 ……すぐに食えそうなものは、何も無い。


「何、買ってくっかな」


 俺は帰宅直後に脱ぎ捨てたジャケットを羽織り直し(荷造り中、ずっとスーツだったことを失念していた。まあ良いか……もう着なくなるし)、最寄りのコンビニへと出かけることにした。

 そうして、歩くこと約四分。耳につけたワイヤレスイヤホンで、流行りのアニソンをちょうど一曲聴けるくらいの距離。

 コンビニの明かりを認めた俺は、陳列棚に並んでいるであろう弁当のラインナップを空想する。ガッツリ食えそうなもんが残ってりゃ良いな、などと内心でテンションをあげつつ、素敵なディナーの待つ店内へ入ろうとして、


「――――は?」


 俺は、見てしまったのだった。



 目の前で、一匹の白猫がご入店なさっていく姿を。






               『白い君の合言葉』

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