7-6熟柿

 それから十年、おしらの方との約束通り、二輔は〈白木の屋形〉に篭り、必要最低限の他は外の者とは関わらず、寧の世話をして過ごした。時折、宮市へ降り、寧の着物や装具、化粧を仕入れて。寧のためというよりも、半ば男の顕示欲と独占欲と虚栄心のため。

 とはいっても、寧はオクルイ、少しでも目を離すと何をしでかすかわからない。どうしても二輔が〈白木の屋形〉を離れねばならない時は、寧を茅屋の一室に設えた座敷牢に閉じ込めた。

 〈白木の屋形〉は広く、見失えば捜すのに難儀する。普段から、二人は庭の隅に二輔が建てた茅屋で生活していた。動き回り、なまじ力があって、身体も大きい分、寧は赤子より危なっかしい。少々、可哀相ではあったが、座敷牢が一番安全な場所であったのだ。もちろん、暑過ぎず、寒過ぎずの頃合いを選び、二輔は帰ってからは寧を甘やかしたのだった。


「帰ると、寧は座敷牢で、よお糞尿巻き散らかしとりましたわ。何度か作り変えてちいとでも居心地を良くしようとしたが、気に入るはずもねえ。まあ、閉じ込められた抗議だったんでしょうて」


 その汚物すら懐かしそうに二輔は語っていた。

 概ね穏やかな暮らしであったが、十年を過ぎる間、いくつか起きた出来事がある。

 まず、五年が経ち、おしらの方が病を得て亡くなった。おしらの方は自身が死んだ時に備え、〈白木の屋形〉の扱いについて次代の巫女に引継いでおくと約束してくれていた。次代の巫女――つまり芳野嫗だ。彼女はおしらの方に比べて、屋形を訪う回数はずっと少なかったが、食料や現金、黒ヒ油の付け届けはあったので、さして問題は無かった。


 そして十年目に差し掛かった頃、ある女の噂を聞くようになる。行商に来た油屋や、巫女の命で付け届けをした者から、その名が伝い落ちる。


「安是の希代の悪女、安是の悪夢とはよくいったもんでさあな」


 ――阿古。


 その名が囁かれ始めてしばらく、付け届けが途絶えがちになり、無くなった。偶然なのか、直接の関係があるかはわからない。けれど、その頃から、里は〈白木の屋形〉に割く余裕が無くなったに違いなかった。

 広い敷地である程度の作物は育てられるが、全てを自給自足では賄えない。今まで寧をさんざん甘やかしてきた、今更、我慢は強いられない。男の甲斐性、矜持もあった。たとい寧が気にしなくとも。

 二輔は、〈白木の屋形〉に揃えてあった着物や装具を宮市で売り、暮らし向きに必要な品を買うようになる。


「そんだから、〈白木の屋形〉を留守にしがちになっちまって」


 いつも着物を持ち込む古着屋の店主が留守にしており、別の店を探し、根の折り合いもつかず、いつもの倍時間が掛かった。遅くなった分、機嫌を取るための土産物を選び、帰途には天候も悪く、さらに遅くなったある日。

 宮市から戻れば、寧は死んでいた。座敷牢の中、頭を割って。

 座敷牢から出ようと壁や戸によじ登り、落ち、強かに頭を打ち付けたらしかった。


「もう、二十年近くも前になりまさあな」


 木漏れ日の中、真っ直ぐに煙管の紫煙が立ち昇る。弔いの代わりではなかろうが。

 かすみは言葉無く立ちすくみ、二輔の斑白髪を見下ろしていた。

 つまりは、阿古が引き金で、寧は死んだのか。いや、二輔が言わんとしていることは違う、というより、安是の他の誰にも話せなかった嫁の思い出語りをしているだけで、恨みや文句を言おうとしているわけではないのだろう。それは自身、寄合所の座敷牢で、姉娘相手に経験済みだった。


 ――寧はよく熟れた柿と同じでさあ。かぶり付くほどに、だらしなく甘い汁を滴らせた。わっしは世話をしておりましたで、他の夫婦よりもつぶさに嫁の身体を知っております。赤く萎んだ乳首も、たるんだ腹も、脚の付け根の黒ずみも、尻のできものも、どれも隠すことなく、さらけ出していた。わっしはどこも熟知しており、かわいがって、撫でて、むしゃぶりついてやりました。穴という穴、全部を舐めて、吸って、清めてやりました。だけんど、綺麗にしたそばから寧は歓び光り垂らして、汚しちまう。だからまたむしゃぶりついて、延々と終わらねえ――


 二輔の語りはそれこそ延々と続いた。かすみをたじろがせるほどに。だが、語り続ける老爺を誰が止められるだろうか。

 二輔の追憶を聞き流し、柿の実が甘やかな秋の陽射しに照り映えるのをひたすらに眺めた。



 

 表門から真逆の位置のためか、里人も飽いたか疲れたのか、庭は深閑としていた。不思議と虫の音も響いていない。煌々と照る満月だけが、ひそやかに己を見下ろしている。

 本来ならば、一年でもっとも賑わい、同時にもっとも秘めやかな夜となるはずだった。年に一度の秋祭。だが、妹姫〈寒田の兄〉の脅威が迫る中、今年は取り止めにしたらしい。

 〈白木の屋形〉の北西の方角、表門の反対側に位置し、常ならば下女が使用するはずが今は空室となった部屋の前庭で、改めて〈白木の屋形〉を見上げる。角材を使用した、贅を凝らした屋敷。

 嘆息一つ漏らし、次に軒下へと潜り込む。そして隠してあった徳利数本を運び出す。

 全てを並べ、また息を吐いた。どうも今夜は溜息が多い。感傷的になる必要などないのに。

 昨日、二輔の話はひるまで終わらなかったが、最後に老爺は奇妙な問い掛けをしてきた。それまでの熱に浮かれた語調を沈めて。


 ――ワカオクサマは、海をご覧になられたことはありなさるか?


 突拍子も無い問いに面食らいつつも、無い、と答えれば、わっしもでさあ、と返してくる。しばし黙り込んだ後、彼はぽつり言う。


 ……昔、里を出ようと決意したのは、海を見たいと思ったからでさあ。


 生まれてこの方、安是で暮らし、遠出といえば黒ヒョウビ採りの黒山か仕入れで宮市へ下りるぐらい。でも宮市で幾度となく、商人や船乗りと行き逢い、海の話を聞いた。珍しい魚、生き物、人、異国へ繋がる玄関口。何より、遮るものがない真っ青な大海原が胸一面に広がった。  

「ワカオクサマが暗紫紅に山を燃やしたあの日、流れる光の波を、これが津波か、聞きしに勝るとそりゃあたまげましてな。そしてふいに思い出したんでさあ、海のことを」

 ――この三十年、ずっと忘れておったんですが。そう言う老爺は、なぜだか心細げな声だった。

 ……柿ではなく海を選んでおったなら、寧はあんなふうに死なんで済んだやもしれん。



 油紙で包まれていた徳利の蓋を外し、中になみなみと入った、とろける黒曜石めいた液を〈白木の屋形〉の濡れ縁に撒く。残った徳利も同様に。

 作業しながら思う。二輔は後悔しているのだろうか。極上の柿を手に入れ食んだとしても、いつか悔いる日がくるということか。

 ならば、寧を連れ出し、海を見に行けば良かったものを。おそらく二輔は考えもつかなかったのだ。

 かすのみと蔑まされてきた十八年。

 ほんの一時、オクダリサマと崇められたが、帳尻が合っていない。なるほど、ここ数日で、安是者、寒田者、双方に事情やら思惑やら野心やらがあり、善とも悪とも言えぬことは承知した。

 だからと言って、全てに蓋をしてやる義理はない。山姫もオクダリサマもオクルイも、そして阿古も知ったことではない。未練もない、期待もない、欲しい物はただ一つ。


 擦った燐寸マッチを投げ入れば、薄衣を広げたごとく、たちまち焔がさざなみ立つ。波は深呼吸したかのように一度伏せ、次に高々と立ち上がる。壁に軒に天井に、炎の手が伸び、這い回る。火の粉が吹き出し、舞い踊る。ここに暗紫紅の光が少し混ざったとしても、大波の一滴、ささやかなものであろう。


「――火のごとく ひかり輝く かすみ燃ゆ 我いざないて 妻とせん」 


 明朗な声音に振り返れば、いつの間に現れたのか、背後に黒狐の物の怪がいた。初めて黒沼で出逢った時と同じに。


「……安是の里 齢十八・・ かすのみなれど わが背となりて もののけの君」


 もう十八か、歳をとったな、と浅葱色の書生袴を、熱を孕んだ風にはためかせながら彼は嘯く。かすみはそちらが待たすからと返し、その懐かしい夏草の香りがする胸に飛び込んだ。

 今宵は満月、年に一度の秋祭。


 ――次に会えるのは秋祭の晩だな。それまでは、まあ自家発光で我慢しとけ。


 そんな軽口すら懐かしい。夫は契りを忘れていなかった。

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