7-4帰着

 正面の引き戸から入れば、小さな土間があり、奥は炊事場、右手は囲炉裏のある居間となっていた。居間の奥が寝間となっているのだろう。

 広さはないが、ごく普通の間取りである。匂いから土間に牛馬屋が設えてあるかと思ったが、日常用具が雑多に置いてあるだけだった。

 格子窓から朝陽が射し入り、土間に縞模様を描く。鳥の声、水汲みの音、葉擦れのざわめき。流れ込むのはそれらだけの静かな居住まいだ。

 草履を脱ぎ、囲炉裏端へと上がる。囲炉裏に置いてあった火箸で埋み火を掘り起こし、火を熾す。細木に火が回ったところで、薪を重ねた。

 ゆるやかに炎は燃え上がり、時に木が爆ぜ、火の粉が踊る。今は絹の着物ではなく、絣模様の木綿のそれで、火の粉や煙を気にすることはない。格子模様の光の中、煙が薄く広がりその道筋がよく見て取れた。

 陽射しがあるといえど、晩秋の早朝は冷える。火の温もりはありがたく、膝を抱えていると眠気を誘われた。いつ里人に押し入られるかと不安で、昨夜もよく眠れなかったのだ。

 寝入ってはいけない。思うほど目蓋は重く、けれど耳はそばだてる。異変があればすぐに駆けつけられるように。


 ……早朝ならば、あれ・・はまだ眠っている。祖父母はもう食事前の一仕事に出ただろうか。戻ってくる前に朝餉準備を終えなくては。その前にあれがひり出したままの穢れを片付けなくてはならない。そちこち匂いを辿りながらの掃除は気が滅入る……


 炎が大きく爆ぜ、目を見開いた――赤光。


 ここは生家ではない。生家は阿古が消え、祖父母が亡くなり、自分が娘宿に入った後、打ち壊しにあった。

 だから生家では有り得ない。自分があれと――狂女と暮らしていた家とは違う。だが、煙に燻されても消えきらぬ、この肥じみた匂いはなんと似通っていることか。

 振り返り、背後の壁を見る。よくよく観察すれば、壁にはそこかしこに黒ずんだ染みがあった。獣のような爪痕も。それらには見覚えがある。室内は整えられ、清められているが、拭い切れない匂いと染みがある。


 立ち上がり、居間中の壁や床に寄り掛かり、鼻面が付くほどに顔を近付けて確かめた。

 そして居間に続く部屋――寝間だろう――への引き戸を開ける。

 寝間には小さな鏡台と箪笥と衣桁、隅には薄い布団が畳まれていた。ここにも染みと傷跡がある。

 布団は二輔が使用しているものだろうが、鏡台と衣桁は誰のものか。年季が入っており、昨日今日にかすみのために用意したわけではない。


『でもわっしにも、一人だけ光る女子が現れましてな』


 夜明け前、真仁の死体を黒沼に繋がっているという池に沈めた時の会話だ。かわいうてならなかったという嫁。


『嫁が死んでから二十年近く、わっしは一人きりで〈白木の屋形〉に詰めてたんでさあ』


 寝間の右手は続く部屋があるようだった。いや、納戸だろうか。その異様な様に息を呑む。納戸があること自体はおかしくはない。だが、たんなる家屋の一間に、寝間と納戸を隔てるためだけにしては、ひどく不釣り合いな分厚く頑丈な開き戸であった。それこそ〈白木の屋形〉の表門のような。そして、何より異彩を放つのが、分厚い戸板に設えられた巨大なかんぬきだった。

 つい最近、よく似た代物を見た。入れられていた。閂をずらし、押し入れば、二畳ほどの狭い居室である。よどんだ臭気が煮詰まった具合で、居間や寝室よりも染みや汚れが多い。戸の内側を覗けば、獣が鋭い爪や牙で掻いたような何筋もの傷跡があった。この狭いから逃げ出そうと暴れたように。


 かすみは嘆息した。生家と同じである。


 最早、二輔の嫁が、阿古と同じく狂女オクルイだったのは疑いない。

 あの人の好い老爺は嫁を牢に閉じ込めていた。


 その気持ちは痛いほどに理解できる。自分とて阿古を、母を、閉じ込められたならどんなにか安らげた。なれど祖父母は許さなかっただろうし、彼らの目を盗んで、監禁あるいは身動きできないよう手足を縛ることも適わなかった。単純に八歳の子どもは非力であり、付き従うより他なかったのだ。

 オクルイであるなら、二輔の嫁も山姫の不興を買ったのか。なぜ、不興を買った。なぜ、山姫をくだらせようとした……?


「ワカオクサマ、おらんのですか?」


 土間からのったりした二輔の声が聞こえ、肩を震わせる。返事をするか否か迷いながら並行して別の考えも巡った。


 ――ワカオクサマ。以前から奇妙に思っていた。彼だけはかすみを〝オクダリサマ〟でなく

〝ワカオクサマ〟と呼ぶ。その差は、違いは何か。

 〝ワカ〟は新しい〝若〟の意、〝オクサマ〟はオクダリサマを縮めたものか。新しいのであれば、当然比較対象である古いものも存在する。若旦那に対して大旦那のように。つまり彼は古い、以前のオクダリサマを知っている――?


 『寒田男が手に入らなかったら、そなた、どうする』


 芳野嫗の言葉が甦った。どうして、こんな時に、死にかけ老女など関係ないのに。なぜ、今、彼女の台詞を引き当てたのか。頭のどこかで繋がりがあると感じたから。つまりは……そういうことなのか。

 二輔、と桶から水瓶に水を移し替えている老爺に声を掛けた。

 ああ、姿が見えねえんで心配しました。振り返った彼は奥の間から出てきたことに驚きも怒りもしない。


「茶と甘酒、どちらを召し上がりなさるか?」 


 甘酒と答え、続けざまに告げる。


「今から問うことに、決して嘘をつかないで」


 へえ、と彼は何の気なしに応える。かすみは頷いた。

 多分、彼は偽らない。隠し立てするならそもそも自分をこの茅屋へ招いていない。ならば、二輔の目的は。

 清閑たる居住まいで問答が始まった。


「あんたの死んだという嫁は、オクルイだった」 

 ――へえ。


「あんたの嫁は、理由がなんであれ、山姫をくだらせようとした」

 ――へえ。


「そして、実際にくだらせた」

 ――へえ。


「嫁は、オクルイであると同時にオクダリサマでもあった」


 この問い掛けに、二輔は黙した。かすみは思考をなぞるようにして、言い直す。


「……オクダリサマとなった後、オクルイとなった」


 ――へえ。


 つまり、導き出される解は。


「オクダリサマは、オクルイになる」


 ――へえ。


 思わず、天井を仰いだ。

〈白木の屋形〉は山姫をもてなすための屋敷ではない。いや、それだけではないというべきか。

 山姫が下れば、女が山へと消える――昔からの言い伝えは事実を言い表していたに過ぎない。〈白木の屋形〉は、山姫を降ろしてオクダリサマとなり、その後、人心を喪いオクルイとなった安是娘を閉じ込めるための贅を極めた広大な牢屋なのではないか……

 そして、一つの結論に帰り着く。気鬱になるほどの遠回りの果てに。

 〈妹の力〉の呪いを解き放つことができるのが、真実、山姫だけならば。


 ――燈吾を救うために、自分は、狂わなくてはならない。

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