捕食者と滴る血
獣乃ユル
捕食者と滴る血
ぽっかりと浮かんだ満月が、都会の町に立ち並ぶ摩天楼を見下ろしている。雲の覆った空の隙間から漏れ出した月光は、巡り巡って俺の部屋を仄暗く照らしていた。
現在午前二時、丑三つ時と呼ばれるようなこの時間には、この世ならざる者たちが棲むらしい。少し前の俺なら、世迷言だと払いのけたのだろうと他人事のように思っていた。それができなくなってしまったのは、確実に彼女の所為だろう。俺の眼の前でベットの上にこじんまりと座っているその女は、月光よりも輝くような紅い瞳で、俺を見据えていた。
「戴きます」
かぷり、と。気の抜ける音とともに鋭い牙が俺の肌に小さな穴を開ける。そこから零れ落ちた血液を、彼女はゆっくりと嚥下する。数秒それを続けた後、満足そうに喉を鳴らしながら彼女は牙を抜く。それによって肌に零れた血液も舌で舐めとり、それに呼応して傷口がふさがる。
「ご馳走様でした」
ぱちっという軽い音と共に軽く手を合わせながら、彼女は嬉しそうににそう言う。
「お粗末様でした」
急激な血液の現象で、少し眩んだ視界と霧がかる思考を抑え込んで何とか意識を引きずり戻す。
「ほら、ここ良いよ」
彼女がぽんぽんと自分の初雪のような白い太腿を叩き、頭を乗せろと暗に伝えてくる。四肢の末端が痺れだした俺はそれに逆らう理由も気力もなく、倒れ込むよう彼女の脚に頭を預ける。
「ごめんね、痺れるよね」
彼女は吸血鬼だ。それ故吸血に適した体になっているらしく、その事は口を開けば姿を覗かせる八重歯と痺れを訴える全身からもわかるだろう。吸血鬼の体液は生物が摂取すれば様々な効果があるらしく、全身の麻痺もその一つだった。
「大丈夫、ちょっとは、慣れた」
違和感の残る口元を何とか動かし、返答する。
「ごめん、私がこんなことに付き合わせるから……」
「いいんだよ、別に。俺が言ったことでもあるし」
きっかけは些細な事だった。確かあの時は日差しが強くて、血が足りなくなった彼女は物陰で休んでおり、体調を悪くしたのかと偶々通りがかった俺が話しかけたことから始まった。
「流石に、急に噛まれるとは思わなかったけど」
「あの時は必死で……」
同級生でもあるし、手伝えることがあるなら何かしたいと言って、あれよあれよと流される儘に毎日血を吸われる関係になってしまった。
「君は、本当に良いの?」
ふと視界を変えようと思い寝返りを打つと、真上に心配そうにこちらを眺める彼女の姿があった。きっかけは俺にあるとはいえ、自分の事に巻き込んでしまったことを申し訳ないと思っているんだろう。
「うん、大丈夫だよ」
困ったことが無い訳ではない。血が無くなるというのは得意な感覚ではないし、偶に彼女の家族と言うことで吸血鬼が家に上がってくることもある。未成年なので冷蔵庫にワインは無く、お茶を出すのも正解か怪しかったのでミネラルウォーターを出した。初めて知ったが、最近の吸血鬼は水も普通に飲んでくれる。
「君に何も返せてないし」
「家事手伝ってくれるじゃん」
初めて彼女が家に来た時タダで血を貰うのは申し訳ないという理由でやってくれていて、一人暮らしの面倒事を中々に解消してくれている。というか、家に帰ったら人がいるという時点で及第点、いや、満点と言ってもいい。
「そういう事じゃなくて……」
「あのさ」
また反論しようとする彼女の言葉を遮る。
「俺らってさ、種族からして違うでしょ?」
「……はい」
俺の言葉をどう捉えたのかはわからないが、下から見上げる彼女の表情は委縮してしまっているように見えた。
「違うことだって多いし、同じところの方が少ない位だけど」
前提として、彼女と俺は住む世界が違う。細々と普通の男子高校生をしている俺からすれば、眩しすぎて目を逸らしたくなるような世界の住民だ。
「対等に在ろうとしてくれてる。一緒に居ようとしてくれる」
それに加えて、種族が吸血鬼と来た。人間の俺とは生物的な捕食者・被食者の関係性に在るのだから、無理矢理血だけ奪い取ったっていい。殺されたっておかしくはない。けれど、彼女はそれをしなかった。対等に、あくまで血を貰っているという立場であろうとし続けてくれている。
「一緒に居てくれるだけで、もう貰うものは貰ってるよ」
俺は別に辛い過去があるわけでもないし、心に傷を抱えているわけでもない。けれど、扉を開いた先に広がった静寂を感じた時の胸の奥に空洞ができたような感覚は耐え難いものだった。
「ずっと寂しかったんだよ。家に一人だったらさ」
高校デビューと同時に一人暮らしをしたは良いものの、一人の孤独と言うものは予想以上に心を蝕む。テレビを見る時も、飯を食う時も、ベットに潜る時も、いつだって独りを感じながら過ごしていた。
「……そんなものなの?」
「そんなもんなんだ。男子高校生って」
単純故に明快、そういう生き物なんだ。まぁ言い換えれば心に正直な時期ともいえるので、大事にしたいとも思うが。
「なら、良かった。君の為に成れてるんだね」
「勿論!」
そう、明るく返事をした。
今思い返せば俺は堂々と膝枕をしてもらっていることで中々に滑稽な格好だが、これ以上考えると尊厳を失うので気にしないこととする。
「じゃあ、私と一緒に居てくれる?」
唐突に声のトーンを一段階さげ、深刻な口調で彼女はそう言う。表情を覗いてみれば、八重歯を隠すことも無く、獰猛に口角を吊り上げている。その姿に、獲物を捕らえた狼のような影を幻視してしまった。
「君の血って、なんでこんなに美味しいのかなぁ」
彼女は捕食者であり、俺は被食者である。いくら共存を目指したとしても、その事実だけは変わらないのかもしれないな、と俺の手首を掴んでかぶりついた彼女を見て思うのだった。
捕食者と滴る血 獣乃ユル @kemono_souma
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