天使の……

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天使の……

「よ!一浩かずひろ!」

 かったるい講義もようやく終わり、バイトもない今日のこれからの時間をどうしようかと考えつつも、キャンバス内をうろついているおれに、能天気な声で勝也かつやが声をかけてきた。

「ついに、ついにやったぜ!このオレにも女ができた!」

 苦節ン年、とか力説して幸せそうな阿呆面をおれに見せている勝也は同じ大学、同じ学部の親友だ。高校二年の頃からの付き合いで、それはそれは落ち着きのない男なのだが、そんな落ち着きのない男にもやっと彼女ができたというのは確かに喜ばしいできごとだ。

 きっと。

「そら良かった、おめっとさん。今度紹介しろよ」

 淡々と告げるおれの気持ちなどまるで察することなく勝也は浮かれている。まぁ、初めて彼女ができたばかりの勝也を思えば、その気持ちも判らないではない。

「おうっ!明日の帰りにでも会わせるぜ。ひー、これでバレンタインも安泰だ!」

 などと勝也は実に嬉しそうに笑う。こういう時期なのだから尚更嬉しいのだろう。バレンタインにチョコを貰うだの貰えないだの、いくつ貰っただの、義理だの本命だの、それらを生きる上でのステータスにしていないおれにとっては全く持ってくだらない話でしかない。だが浮かれている勝也の前でそんなことを言うほど、おれは野暮天ではないし、空気が読めない人間ではないつもりだ。

 勝也には良かったな、とだけ告げた。



 それが約一ヶ月前のできごとだ。

 おれはと言えば、実はもう付き合って二年にもなる彼女がいたりする。名前は祥子しょうこ。祥子はいわゆる、天然だとか不思議ちゃんだとか言われるタイプだ。良く言えばおしとやかで大人しい女だが、そそっかしく、おっちょこちょいでもあるという随分なお約束も、お約束ながらに持っていたりする。

 だからこその天然。だからこその不思議ちゃんなのだろう。外野はそんな祥子を天使のような女の子だ、などと囃子立てている。かくいうこのおれも付き合う前はそんな諸々の事情も知らず、可愛らしくて、外側だけがただ単純に好きだったんだろう。実際に告白してきたのは祥子の方だったので、おれはそれを承諾したに過ぎない。

 付き合うようになってから、半年もおれのことを苗字で呼ぶ祥子におれは言った。

「なぁもう半年だろ?いいかげん苗字で呼ぶの、よせ」

「う、うん……。じゃ、じゃあ、かずひくんって呼んでもいい?」

 瞬間、眩暈がした。おれはこう、なんというのか、そういうのが非常に苦手だ。それを甘んじて受けるやつも苦手だ。いや、何を言っているの判らねーだろうがおれも何をどう説明して良いものか判らない。

 いやいや、別に友達にいる分には一向に構わないのだが、自分の彼女ともあろう者が自分のことを名前で呼んでみたり、っていう所謂ブリブリ?がだめなのだ。場合によっちゃあゲンコの一つでもくれてやりたくなる。流石にそこまではやらなかったが、多分ものすごい形相で祥子を見ていたに違いない。この場合に限って言うのならば、『他の人が呼ばない、ワタシだけの特別な呼び方がいいの』というアレだ。そもそも名前呼びだって、付き合って半年もなろうというのに他人行儀にすぎるという体裁を取り繕う形でもあったのだ。それを、何がワタシだけの特別な呼び方だ、とおれは思う訳だ。

「あ……。う、うそ……。ごめんなさい……。かずくんならいい?」

「よし」

 そんなこんなで二年だ。長かったようなあっという間だったような、だがしかし、やっぱり長かったように思う。祥子はいつもびくびくしていて、たかがキスの時だって震えるし、おれが無理矢理しているような罪悪感まで感じてしまう。あまり大きな声では言えないが、そんな罪悪感や祥子のあまりに子供じみた言動のせいで、付き合って二年にもなるというのに未だに夜を一緒に過ごしたことがない。

 我ながら良く我慢しているとも思うが、あの子供然とした『何も知りません』『怖いことするの?』的な怯え方をされたら正直言って、萎える。そういう話が仲間内で出ると、何気に避けたり、上手いこと躱している。

 そう、二月十四日。バレンタインなんぞという日で丸二年になるのだ。まぁ、そこで、いささかこの関係に疲れ果てたおれが、そのバレンタインデーに、不思議な天使ちゃん、祥子に引導を渡してやろう、と思った訳だ。



 しかし、当日。思った以上に気が重い。

 そりゃそうだ。絶対泣くし。この場合、どう見てもおれが悪いのに、きっと『私が悪いんだー』とか言い出して泣き出すに決まっている。罪悪感倍増ってやつだ。女ってのはその辺狙ってるんじゃないかってくらい、泣き所を心得ているように思う。まぁおれみたいな男が相手だし、これで最後なのだ。そのくらいはいいってことさ。


 祥子との待ち合わせ場所に祥子の姿はなかった。今まで、ただの一度も時間に遅れたことなんてなかったのに。

 どうしたんだろうか。まさか事故にでも遭って……。それとも、突然具合が悪くなって……。いや、それなら電話の一つも寄越すはずだ。遅れるにしたってそうだろう。まだ時間までは十五分ほどある。

(で、電話、するか……?)

 これから別れようと思っているのに、今はどうしたら良いのかさっぱり判らなくなってしまった。そんな、確率的に考えたって事故なんてことあるはずもない、というよりは考えたくない。

 だけれど、こないにしても遅れるにしても連絡がないのは……。

(!)

 そこで、ふと、一つの考えに至った。

 もしかして祥子の奴、気付いてるのか?おれが今日、この日を別れに選んだことに気付いて、それでこないのか?それなら連絡がないのも何となくだけど納得できる。

「かずくん……」

 しかし、当然おれはこのことを誰にも言ってはない。おれは良く祥子を泣かすとみんなに責められるから、誰がどう見ても自分が悪いこの案件を他の誰に言うつもりもなかったのだ。

「あの……。かずくん?」

 おれは祥子に良く思ったことを顔に出す、とも言われていた。もしかしたら祥子はおれの表情から、何となくそのことを推し量ったのかもしれない。

 だとすると……。

「かずくん、てばっ」

 ぐい、っとコートの袖を引っ張られた。

「ん?う、わ!」

 そこに祥子の顔があった。

「ひ!ご、ごめんなさい!」

 おれの声に驚いた祥子はすぐさま謝りだす。いつものことだ。……『ごめんなさい』が口癖だなんて、いかにもおれがいつも謝らせてるみたいで苛々する。やめろ、と言ったところでまた謝るだけで、埒があかない。

「遅かったな」

 つい不機嫌な言い方をしてしまう。言うなればおれのコレもまた性格なので、治そうと思っても中々治らないのだ。これから別れるんだから治さなくても良いのだろうけれど。

「あの、ごめんね、その……」

 困惑。言いたくても言えないことがある顔だ。これはやっぱり、気付いているのかもしれない。

「ま、いいけどよ」

 おれはそう言って、ポケットに手を突っ込んだ。どうせなら早い方がいい。

「あのな、祥子……」

 おれの言葉を遮るように、祥子は自分の右手を無言で、すぅ、と突き出した。その手の薬指には小さな赤いリボンが巻かれている。

「……?」

 その意味を一瞬理解し損ねて、おれは言葉を切った。

 何だ?バレンタインに、自分にリボンを巻いてくるってことはもしや、と思い至る。

 まさか、そんなお寒いこと、やったりしないだろうな?いや、ボケボケの祥子のことだ。おおいに有り得る。

「私の、気持ち」

 突き出した手をくっ、と握る。小さい拳がそこにできあがる。どうやらおれの思惑は外れたのかもしれない。ひとまず安心してみたりする。いくらなんでもそこまで寒い女ではなかったか。

「?」

 しかし、それにしても何が何だか判らない。

 祥子は無言のままその拳をすぅ、と肩口まで引くときつく目を閉じた。

(ま、マジか!)

「……!」

 予想通り、いや、その予想は僅か一瞬前のものだったけれど、その予想通りに、祥子の小さな拳はおれの鼻筋を見事に捕らえていた。

「……ってぇ!」

「あっ、ご、ごめ……」

 驚愕の眼差しを祥子に向けると、そこでごくん、と言葉を飲み込んで祥子は顔を上げた。あまりに意外、あまりに突然のことで、睨むことも文句を言うことも忘れてしまった。

「……かずくん!」

「?」

 やたらと大きな声を張り上げる。こんな大声を張り上げる祥子を、おれは今まで見たことがなかった。おれの知っている、気の小さい、内気な、小動物のように震えている祥子ではなかった。

 いったいぜんたいなにがどうしたというのだ。

 ……ついにおかしくなったか。

 などと冷静に分析している場合じゃない。ジンジンする鼻が痛みを帯びてくる。

「なんで!どうしていつも言ってくれないの!」

「はぁ?」

 道行く周囲の人々がじろじろとおれ達を見ている。おれはそんな状況にもかかわらず頓狂な声を挙げて、祥子を見た。漫画だったら目玉が飛び出ているところだ。いきなり殴っといて何言ってんだ、この馬鹿女。

「かずくんがアタシのこと馬鹿だと思ってるのはいいよ別に、ホントのことだから!……でもっ」

 きた。

 ぼろり、と大粒の涙が祥子の両目から零れ落ちた。

「でも、アタシのどこが悪いか、とか!言ってよ!直せるかもしれないでしょ!でもそれでも気に入らないことがあったり、直らなかったりしたら……。それからでも遅くないんじゃないの?酷いよ!なんにも言わないで、アタシの悪いとこばっかり勝手に見つけて、勝手に別れるなんて酷い!」

 耳まで真っ赤にして、洟まで垂らして祥子は喚いた。言いたいことは判るが文法も何もあったもんじゃない。おれは周りの視線に、血液が顔に集まってくるのを自覚した。足を止めて見物している人もいる。

「……な、なんで」

 やはりおれが祥子と別れようとしていたことに気付いていた。

「そんなの判るよ!アタシが好きになって告白したんだから!かずくんが何考えて今日ここに呼んだのか、とっくに知ってたもん!」

 ずーっ、と洟をすすって、息を吸い込んで、更に祥子は続ける。

「ばか!意地悪!しかめっ面!ばか!冷酷男!細目!垂れ目!ばか!」

(こ、こいつ……)

 かっ、と頭に血が上る。

「何だ!勝手なことばっかり言いやがって!じゃあ自分からおれに言えばよかっただろうが!少しは言ったらどうなんだよ!人の顔見て何考えてるか判るんだったら、それで悪いと思ったとこ直せばいいじゃねぇのか!このちび!幼児体系!ハナタレ女!」

 ぐにー、っと祥子のほっぺたを抓る。もう頭きた。こうなったら周りなんか関係ない。とことん言ってやる。

「いたたたたっ!何よ!どーせあんたなんか見た目だけで女の中身なんて見ようとしないんじゃないの!」

「ぐぬ~!ばーか!お前、見た目がいいとか自分で思ってんのか!童顔のクセに!ガキッ!自意識過剰!それとも何か!天使みたいとか言われて、そのキャラ作りのために我慢してたのか!」

 祥子もおれの頬を力いっぱい抓り返してきた。そしておれの言葉に更に逆上したかのように、前に後ろに、とおれの頬を抓っている手を激しく揺らした。

(メチャメチャ痛ぇ!)

「何よ何よ!良くそんな酷いこと言えるわね!のっぽでのろいウドの大木のクセにぃ!」

「ふん!お前こそホントはそんなに良く喋る女だったとはな!口から生まれてきたんじゃねーのか?」

「口から人なんて生まれませんー!そんなことも知らないんですかぁ?」

「それくらい良く喋るって、言葉の文だよ!そんなことも判んねーから馬鹿なんだ!ばーか!ばぁか!ばぁーか!」

 ば、に思い切り力を込めて行ってやる。三回もだ!

「……!」

 相当頭にきたんだろう祥子はこれでもかってくらい、グイグイとおれの頬を押しては引っ張り、捻り上げて、放した両手でおれの胸をどん、と突き飛ばし、良い間合いができたところでばばっ!と両腕を広げてから、ぐ、っと踏み込むと、丸っと体重が乗っかったパンチをおれの顔面に入れ、そのまま俺を通り過ぎて走り去ってしまう。恐らくその勢いでたれた洟がおれのコートにべちゃり、とついた。

「いってぇってんだよ!」

 たらー、っと鼻血が出てきた。散々抓って引っ張られた頬も熱い。

(ちっくしょう、あの女!もう金輪際口なんか聞いてやらねぇ!)

 祥子がいなくなって、一人取り残されたおれは公衆の良い笑い者になっていた。

 ……もしかしなくても、とんでもなく低レベルなガキの喧嘩をしでかした。もはや周囲の抑えようともしない笑い声で急に羞恥心が戻ってきた。

 おれは祥子の洟が着いていない方の袖で鼻血を拭うと、逃げるように……。

 いや、そこから逃げ出した。



「どうよ、天使の正拳突き」

 数日後、おれは祥子の親友である瑞貴みずきに呼び出された。放課後、校舎の屋上。あの日から祥子の顔は見ていない。元々学部も違うし、この時期は単位を取った奴らはサボるのも多い。単位は既に全部取ってる祥子は、恐らくここ何日か学校にきていないのだろう。

「ちっ、おめぇが教えたのかよ」

 瑞貴は空手の有段者だ。おれの思惑に気付いた祥子が親友である瑞貴に相談を持ちかけたところ、パンチの一発でも入れてやれ、ということになったのだろう。随分と判りやすいことだ。

「お味もなにも……。公衆の面前で、いい恥さらしになったぜ」

 今でも洟をたらしながらムキになっておれに不平不満を吐き出した祥子の顔が鮮明に浮かんでくる。それに最後のあれはもはや正拳突きなんてもんじゃない。Barn(バーン) Knuckle(ナックル)だ。殴る前に両腕広げてたもんな……。

「ちったぁ感謝しなさいよね!」

 ばん、とおれの背中を叩きつつ、瑞貴は笑った。痛ぇっつーの。

「感謝ぁ?冗談じゃね……」

 ぱ、っとおれ目の前で手を開いて、瑞貴は言う。

「本音で喧嘩したの初めてだったでしょ?」

 それは確かに瑞貴の言う通りだったが、もはや手遅れだ。

「まさかあんな喧嘩一回で祥子のこと嫌いになった訳じゃないんでしょうね?」

「元々別れるつもりだったんだよ!」

「それは祥子の本音を見る前まででしょ。あの子の本心とか今まで判んなかったこととか色々判ったんでしょうに。……それで更に嫌いになって別れるってんなら、何も言うつもりはないけどね。あれから一回も顔合わせてないんでしょ?」

 瑞貴は溜息を漏らしつつ呆れたように言った。いや、呆れてるんだろう、実際。

「……」

「とにかく、一回会いなさいよね。じゃないとあたしもぶん殴るわよ」

「きょ、脅迫すんじゃねぇよ」

 まぁいわゆる、喧嘩という物はお互いの感情が爆発した後の話し合いが大事だ。それは判る。だがそれは、その後もきちんと付き合う場合に限り、だ。

「あんたね、祥子じゃなくても判るのよ、顔見て」

 そんなに酷いか。今のおれの表情は。

「そんな罪悪感丸出しの顔じゃあ、祥子に会いたいって思ってるの、口に出して言ってるのと同じじゃないの」

 ふん。何言ってんだ。そうそう本当の所を悟られるほど馬鹿じゃないんだぜ、おれだって。

「ほら、vultureヴォルチャーに待たせてるから、行っといでよ!そんな本心取り繕った顔なんて祥子の前でするんじゃないわよ!」

 瑞貴はおれ達が良く行っている喫茶店の名前を出して、もう一度おれの背中を叩いた。

 ……なんでバレるんだ?

 と、取り合えずそのことは良い。おれは慌ててvultureに向かった。



 まぁ、その後のことは語るまでもない。

 何?知りたい?……勝手に想像でも何でもしてくれ。

 とりあえず、バレンタインの日に天使の正拳突きをもらったおれの話はこれにて終了だ。

 結局ロクな日じゃなかったってことさ。

 何がセントだ、馬鹿野郎!


 天使の…… 終り

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天使の…… yui-yui @yuilizz

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