箱の中のケント
クジラ牛乳
第1話 葬式
ケントの葬式の日、猫が誰かの車の上で眠っていた。冬の陽だまりの中で気持ちよさそうに丸まっていた。僕と直樹はそれを葬儀場の三階のロビーから眺めていた。
「平和だなあ。」
直樹が呟いた。
「ケントが死んでも、世の中は何も変わらないんだよなあ。」
直樹はそう言うとタバコの煙をフーッと吐き出した。
猫は丸まっていた体をまるで痙攣しているように全力で急激に伸ばし、もうこれ以上は不可能というくらいに大きく口を開けて欠伸をした。
「ケントが死んだおかげで、今俺たちはこうして生きていられるんだよなあ。」
直樹は深く長く煙を吐いた。
「死んだおかげ?」
「ああ、そうさ。幸福の絶対量は決まっていてさ、誰かが不幸になると、その分の幸せが他人に行くって聞いたことあるぜ。」
直樹はそう言うと、また深く長く煙を吐いた。
「それってホントかなあ。」
僕はそれについて曖昧に答えた。そして幸せの絶対量についてちょっとだけ思いをめぐらせた。猫はまた丸まっている。
直樹はため息をつくように煙を吐いた、深く、そして長く。
そうか、直樹はため息の代わりに、煙を吐いているんだ。人は無意識にため息をついて大きく息を吐くことで、緊張を和らげることができる。その仕組みは、横隔膜が脊髄のどこかを刺激して脳内物質セロトニンが分泌される、そしてそのセロトニンには緊張を和らげる作用があり、・・・
「猫ってさあ」
「えっ」
「いや、猫ってさ、暇な時はいつもああやって寝ているよな。夜も大体寝ているのにさ。ストレス多いのかな?」
「猫にストレスが、か?」
むしろ少ないと思うよ、そう答えようとしたが、直樹が何を考えているのか分からなかったので言わなかった。
「俺さ、嫌なこととかムカつくことあると、すぐ寝ちゃうんだよね。そうすると起きた時は結構忘れていて気分もいいんだ。またすぐに思い出して嫌な気持ちになることもあるけど、それでも寝る前に比べればずっといいよ。現実は全然変わってないのに変だよな。」
「それで猫にストレスか。人間とはちょっと違うんじゃないか?」
「ケントが倒れた時、もうこりゃあヤバイって感じになったんで、何とか眠っちゃおうとしたんだよ。何とか現実から逃げ出そうとして、眠ろうとしたんだ。でも全然眠れなくて、結局この苦しみから逃げちゃいけないんだって、ケントの最期を見届けなきゃいけないって、気づいたんだ。」
そう言うと直樹はスマホを取り出した。液晶パネルをちょっと見て、時間を確認したみたいだった。そのまま直樹はスマホをしばらく見つめていた。
「スマホって便利だけど、天国には通じないんだよな。通じないのは分かっていたんだけど、何度か掛けてみたんだ。もちろん駄目だったけど。」
ケントの母親が、彼が死んでもからもメールや着信がたくさん来るのを気にして、葬式の前に解約してきたのを僕は知っていた。
「メールなら届くかもな。あり得ないかな。」
そう言うと、直樹はスマホを触り出した。
(ケント、元気か?こっちはフツウに元気だから)
直樹の右手の親指が動く。
「ソウシン」小さく、でもはっきりと呟く声が聞こえた。
(送信しました)
液晶パネルにそう書かれていた。しかし一秒もしないうちにメールの着信音が響いた。
「ユーザーが見つかりません、だってよ。そんなことこっちだって分かってんだよ。チキショー。」
叫びながら、直樹はスマホを思い切りロビーの床に叩きつけた。スマホはコンクリートの床の上で砕けて、破片がばらばらの方向へ飛び散っていった。まるでスローモーションのように部品の一つ一つがゆっくりと砕けて僕の前を通過して行くのが見えた。
直樹の叫び声とスマホが砕けた音で、ロビーにいる人の視線が一斉にこちらに向けられた。僕はその視線を避けるため、飛び散った破片を拾い集めるふりをして屈みこんだ。
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