8.ロリババアと大学②
(おるではないか、
異様な音に誘われ、芙蓉はある部屋に入った。
ゴォォ……と、荒れ狂う風のような音である。
それはまさに
音の正体は、息だ。
鰐口や浅沓など捨てられた古道具は人への恨みを積らせいずれ付喪神となる。八百八十年もの隔たりがあれば原型のわからぬ器物があってもおかしくはない。
(息を、わざわざ手に吹きかけさせたのか……?!)
芙蓉が目にしたのはそんな奇怪な光景だ。「エレベーター」も「テレビ」も怪異ではないと優子から聞いてはいた。これもそうであるのかもしれない。
あるいは、手を翳すだけで水が流れるものもある。利用者の真似をして蛇口の下に手をかざす。ただそれだけで水がチョロチョロと流れてきた。
(いや、これ
おそるおそる謎の器物の口の中に手を差し入れる。生暖かい息が吹きかけられた。
(いや……これやっぱり
芙蓉は何度か「彼ら」に向かって呼びかけた。だが、反応はない。
ちなみに、まったく幸いなことに女子トイレである。芙蓉の姿は見られないので特になにも問題はないが、二分の一で入ったのは女子トイレであった。
「おう、なんじゃこのありさまは。おぬしら人間にいいように使われておるのか?」
やはり返事はない。手を翳せば水が流れ、息が吹きかけられる一方で、言葉はない。現代の
(それにしても、優子が受けておった講義……あれは算道か? 陰陽道か?)
やむを得ずトイレを後にし、廊下を歩きながら考える。
大学――と、名こそ同じだが様相はだいぶ別物らしい。現代の「大学」でなにを学んでいるのかも興味はあった。八百八十年という隔たりは彼女にとっても大きい。また数十年か数百年ほど身を潜めて学びに徹する必要があるのではないか――とも感じていた。
だが、今はそう悠長にも構えていられない火急の問題がある。
「おひまですか?」
ふと、そんな声を聞いた。どこかで聞いたような声だ。
「おひまではありませんか?」
「ん、わしか? 暇そうに見えるか??」
周囲を見渡す。人の姿はない。声の主も見当たらない。だが、その声は明らかに芙蓉に向けられていた。つまり、芙蓉が見えている。優子のように「霊感の強い」人間か、でなければ――
「おひまでは、ないのですか?」
「暇ではないがの。おぬしのような
「そうですか。お話してくれるんですね」
やはり姿は見えない。声だけの怪異か。いずれにせよ、話せるというだけで先の付喪神もどきよりは幾分マシである。
「おう。優子からはこの大学に
「はい。どこにでもいますよ」
歩きながらでも、相対的な声の位置は変わらない。前方、高い位置からの声だ。だが、いくら目を凝らそうともそこにはなにもない。
「噂すら覚えがないといっておったぞ。おぬし、わし以外にこうして話しかけたことはあるのか?」
「ありますけど、相手にはされませんでしたね」
「聞こえとらんかったというわけか?」
「聞こえていた人もいた気がしますけど、無視されました」
「情けないのう……。無視するだけで回避できるのか。であれば、無視できぬようなんか趣向を凝らすことを考えるべきじゃな」
「はあ。たとえば?」
「擬似餌じゃよ。そうさな、たとえば匂いでもよいな。なんとなく気になる甘い香りで惹きつけるんじゃ」
「なるほど。匂いを出せといわれてもどうすればいいかはわかりませんが……」
「
話がわかる。見込みがある。このように燻っている
後進への助言を続けながら、テクテクテクテク歩いていく。もはやここがどこなのかわからぬほどに。まるで歩きスマホさながらに、危なっかしく階段も上った気がする。
「ところで、おぬしどういう
「はい。こうやってお話しして、気づかないあいだに死に導きます」
「ほ~う」
声に向き合いながら、ただ歩く。人々の間を縫いながら、歩いていく。
「なにか由来はあるのか? どういう経緯でそのような
「やっぱりそういうの要ります? あった方が怖いですかね?」
「お、おう。ないのか?」
「ただ、そういうものなんですよ。現象として、ただ在るだけなんです」
「うーむ。いかんぞ、そういうのは。なにか由来や因縁があればこそな。噂の根拠となるものがある方が箔がつくし不安を煽れるじゃろ?」
パリン。なにかが割れる音が響いた。だが、芙蓉にとっては特に関係なさそうだ。
びゅおお。強い風が吹き込んできたが、これも特に関係なさそうだ。
「ともあれ、まずは死者の一人でも出してみることじゃな――ん?」
「芙蓉ちゃん!!」
手を、引かれていた。強く、腕を掴まれて。
芙蓉は気づく。
場所は四階渡り廊下。壁の代わりにガラス張りのおしゃれな空間。芙蓉は、あと一歩でその高さから転落するところだった。
「ぬお?! おおおお!?」
思わず、後ろへ跳ねる。手を引いていた優子も勢いあまって一緒に倒れてしまった。
「だ、大丈夫? 芙蓉ちゃん」
ざわざわと、人集りができていた。滅多なことでは割れるはずのない強化ガラスを、人々は遠巻きに見ていた。急に一人で転んだ優子も、少しだけ注目の的になる。
「行こう、芙蓉ちゃん」
優子は芙蓉の手を引き、足早に現場を離れた。
(な……なにが起こった?)
声の怪異だ。幻術で惑わされ、窓を割り、あと一歩で飛び降りるところだった。その寸前で優子に見つかり、手を引かれた。あと一歩で、落ちていた。
(いや……、わしは助けられてない)
四階。それなりの高さだ。声は「死に導く」といっていたが、この程度の高さから落ちたとして芙蓉が死ぬことはない。あえて幻術にかかることで指導の参考にもできた。つまり優子には、その邪魔をされたということだ。
(声は消えたか。よりによって、このわしに仕掛けてくるとは大した度胸じゃ。だが)
二度目は通用しない。助けられたわけでもなければ、ましてや負けたわけでもない。実際、足を踏み出す直前に自力で気づけていた。芙蓉は気を取り直す。
「おう。この大学にもおるではないか、
「違うよ。芙蓉ちゃんに憑いてたんだよ。たぶん、私のせいで……」
あの影のことか。だが、あの影と声は別物――で、あるように思えた。
***
(……私のせい?)
とっさに、そんな言葉が出ていたことに優子は気づく。だが、考えてみると特に心当たりはない。
そんなことより、今はできるだけ現場から離れる。ぴょこん、と優子のスマホが鳴る。彩からのメッセージだ。
〈なんか面白い動画回ってるよ 後輩の子から教えてもらったけど〉
現場からは十分に離れたので、柱の陰で一息つく。まさか、「ガラスの割れる」動画だろうか。二十秒ほどの動画だったのでさっそく再生してみる。そこには、見覚えのある場所と見覚えのある人物が映っていた。
「芙蓉ちゃん?」
トイレで、ハンドドライヤーで手を乾かす幼女。かと思えば、洗面台で手を洗う。かと思えば、ハンドドライヤーで乾かす。そんな行ったり来たりを何度も繰り返していた。
「芙蓉ちゃん、これなにしてたの」
「ん? なんじゃ。これ……わしか?!」
「なにしてたの」
「
「おもちゃじゃないんだからね」
〈こういうのもポルターガイストっていうのかな センサー系の故障だとは思うけど〉
と、彩のメッセージは続いた。
(あ。そうなんだ。見えてない……いや、気づいてないんだ)
写真を撮ったらどうなるのか。その答えも思わぬところで明らかになった。ガラスの割れた現場でもスマホを構えている人をいくらか見たが、芙蓉は映っていない――映っていても、見えないのだろう。なにもないのに転ぶ間抜けな女は映っているかもしれないが。
「ねえ、なにがあったの。トイレのじゃなくて、さっきの」
「その、
「やっぱり、おばけに憑かれてたの? なんか、影というか、黒い靄みたいなのが芙蓉ちゃんの後ろに見えたから」
「ん、ああ。なにかに憑かれはおるようじゃな」
「それで、飛び降りさせられそうになってた?」
「まあ、そんなとこじゃの……」
窓ガラスまで割れている。大事件だ。芙蓉は誰にも見えていないから知らぬ存ぜぬで通せるだろうが、罪悪感は募る。このまま黙っていればきっと永久に原因不明の怪事件のままだろう。とはいえ、話したところで同じだ。だから「なにも知らない」。それでいい。
「ぬ。優子よ。なにやら向こうでうまそうなものを食うておるが……わしらも同じものを食えるのか?」
食堂の傍まで来ていた。指しているのはカツ丼だ。たしかに美味しそうだ。芙蓉を探し回って時間も昼時でちょうどいい。が。
(食堂なんかで食べさせたら……また怪奇現象増えちゃうじゃん)
これ以上、心労は増やせない。
「帰るよ」
「なぬっ?!」
露骨にしょんぼりしている。少しかわいそうだった。
だが、もはやそれどころではない。事件が起こりすぎた。頭が混乱している。体調が悪いというほどでもないが、もう帰って寝てしまいたかった。今日の残りは諦めて、早退を決め込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます