16 白き月(前)
この世に生まれてから現在まで、白蘭がこれほどに驚いたことはなかった。
――どうしよう。
白蘭は紅蓮から顔をそむけると、激しく脈打ちはじめた自分の心臓の上に手を置いた。
確かに、紅蓮のことは好きだ。きっと、紅蓮より好きな天人はいない。
しかし、黒蘆に指摘されたとおり、白蘭はただの一度も、紅蓮が自分の伴侶に選ばれればいいと願ったことはなかった。
白蘭にとって、紅蓮はあくまで親友であり――他人の目にはどう見えようとも、白蘭自身はそう思っていた――無意識のうちに伴侶候補からは外していた。
客観的に見てみれば、自分と同じく極めて人型に近い紅蓮は伴侶として最もふさわしいのに、自分の相手に選ばれるのは自分の知らない天人なのだろうと、何の根拠もなく思いこんでいた。
将来、自分が長老たちの決めた相手の子供を産まなければならないことはわかっていたし、それなりに覚悟もしていた。だが、長年親友として付き合ってきた男をいきなり伴侶にしろといわれても、そう簡単に切り替えられるものではない。何だか目眩を起こしそうになって、白蘭は自分の額を覆った。
『守護天将・紅蓮』
『は』
毒気を抜かれたのか、紅蓮は素直に膝を折った。同時に、さりげなく白蘭の肩に手を回して体を支えてくれる。紅蓮が跪いたのは、黒蘆に敬意を示すためだけでなく、自分の様子を窺うためでもあったのだ。紅蓮のこういうところも白蘭は好きだ。思わず赤面する。
『おまえは、天母・白蘭の伴侶として選ばれた。拒むことはできぬ。おまえがそれから逃れ得るのは、どちらかが身罷ったときのみだ』
紅蓮は少し考えてから、冷静に黒蘆に問い返した。
『では、もし私が死んで、白蘭が残された場合にはどうなりますか?』
『紅蓮!』
白蘭は血相を変えたが、紅蓮は黒蘆を見上げたまま、白蘭を顧みなかった。
『白蘭しだいだが……もしそのとき、白蘭にふさわしい者がいれば、それを新たに選ぶことになろうな』
『そんな話!』
黒蘆の前であることも忘れて白蘭は叫んだ。
『君が死ぬなんてそんな話! 仮の話でも私の前でしないでくれ!』
『白蘭……』
紅蓮は気圧されたように白蘭を見つめた。
そんな二人のやりとりを見て、今はこれ以上どうにもならぬと悟ったのだろう。黒蘆は一方的にこう話を締めくくった。
『他の天卓への正式な発表は、次回の御前会議の際に行う。天都の民への発表はその後だ。その間によく心を決めておけ。では、退出せよ』
紅蓮に肩を抱かれながら控えの間を出ると、どこへ行きたいと紅蓮が白蘭に囁いた。
『誰にも話を聞かれないところに行きたい』
受けた衝撃が大きすぎて、頭の中が混乱していた。かといって、まだ一人にもなりたくない。自分の感情を整理するためにも、紅蓮とどこかで話がしたかった。紅蓮もそのつもりで訊ねてきたのだろう。
『では、久しぶりに降りてみるか?』
紅蓮が〝降りる〟と言えば、行き先は大地しかない。しかし、今はもう夜だ。紅蓮はともかく、白蓮は今まで日中にしか行ったことはなかった。
『今から?』
『お互い、もう日暮れに戻らなければならない子供ではあるまい』
紅蓮は悪戯っぽく笑って白蘭の手を引いた。
『不安なら抱いていってやろうか? あのときのように』
ついうなずいてしまいそうになったが、成人した今、それをされるのはさすがに恥ずかしい。
『せっかくの申し出だけど、自分で飛ぶよ。もう子供じゃないからね』
『そうだな。迷子にならないようについてこいよ』
『紅蓮!』
紅蓮は笑いながら手を離すと、大きな翼を広げて柱廊から外へと飛び立った。白蘭は溜め息をついたが、結局、自分も笑ってその後を追った。
黒い空には限りなく満月に近い月が浮かんでいて、彼らがめざす大地に淡い光を降り注いでいた。〝白き月〟などと恥知らずなことを言い出したのはいったい誰なのだろう。この月に比べたら、自分など石くれのようなものなのに。
地上へは紅蓮とほぼ同時に到着した。実にあっという間だった。息も乱れない。
やはり自分たちはもう子供ではなくなったのだ。当然のことなのに、白蘭はなぜか寂しさを覚えた。
夜の草原は、昼とはまったく違って見えた。草むらはまるで底の知れない湖のようで、時折風が吹くと、波しぶきのように月光を反射した。
その様を、あの木の下で白蘭は紅蓮と共に眺めていた。
――永遠にこの時間が続けばいい。
漠然と白蘭は思った。
ここに来たのは話をするためだった。だが、いま一言でも発したら、きっと何かが始まってしまう。
不安というより、恐怖に近かった。できたらこのまま何も話さず、天都に帰ってしまいたい。変わりたくない。今までどおりでいたい。――なのに。
それと同じくらいの強さで、知りたいと思ってしまう。この先、いま隣に座っている男と自分とはどう変わってしまうのだろうかと。
『君、よくそんなに冷静でいられるね』
先に沈黙を破ったのは白蘭だった。
しかし、もしかしたら白蘭が落ち着いて話ができる状態になるまで、紅蓮は待っていたのかもしれない。にやりと笑うと、横目で白蘭を見やった。
『そう見えるか? なら成功だな』
白蘭は嘆息して、自分の片膝を抱えた。
『ということは、君も驚いていると解釈していいのかな。素直にそう言えばいいのに。君は昔からつまらない見栄を張るね』
『見栄じゃない。おまえと一緒に驚いていたら、話ができないだろうが』
『それはそうだけど……』
白蘭は拗ねて唇を尖らせた。いついかなるときも冷静であろうとするのは、軍人なら当たり前のことなのかもしれないが、紅蓮のこういうところは少し嫌いかもしれない。
そんな白蘭の心のうちを見てとったか、紅蓮は苦笑いして肩をすくめた。
『まあな。それは俺も驚いたよ。何の前触れもなくいきなりだからな。だが、白蘭。おまえは何にそんなに驚いているんだ? 自分が将来誰かと結婚しなければならないことは、とっくの昔にわかりきっていたことじゃないのか?』
『それはわかっていたけど……まさか、その相手が君だとは……君だって、そのことに驚いているんだろう?』
『そうだな。いったいどこのどいつが選ばれるんだろうと考えたことはあったが、まさかそれが自分になるとは思わなかった』
後半部分は予想どおりだったが、前半部分は予想外だった。思わず紅蓮を見上げると、彼の緋色の瞳は前方の暗い草原を見すえていた。
『たとえそれが誰であろうが、俺より強くなければ殺してやるつもりだった。結局、俺が選ばれたということは、俺より強い男はいなかったということになるな』
嬉々としてそんなことを言う。白蘭はあっけにとられて紅蓮の横顔を見つめていたが、おかしくなって噴き出した。
『まったく君は……そんなにいちばんになりたいのかい? 昔からそうだった』
『そんなにおかしいか? 俺には当然のことなんだが』
『そうだろうね。でも、とうとう蒼芭様には勝てなかったね』
『今やれば俺が勝つ。ただ、奴の顔を立てて戦わないでいてやっているだけのことだ』
『蒼芭様が知ったら何と言うかな』
紅蓮はようやく白蘭を見て顔をしかめた。
『言うなよ?』
『言わないよ。天人族の貴重な戦力を、こんなことで減らしたくないもの』
たわいもないことを話しながら、白蘭は懐かしさに目を細めていた。
そうだった。昔、紅蓮はよくこんな大口を叩いていた。そして、そのほとんどを現実のものにした。まだ実現していないのは、この〝蒼芭に勝つ〟ことくらいだが、それは今夜、実質果たされたのではないかと白蘭は思っている。天人族最強の御名を与えられたのは、蒼芭ではなく紅蓮――闇の中でも自ら光り輝く炎のようなこの男なのだから。
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