15 御前会議(後)
――今日は黄英様は来られないのか。
どうしても抜けられない用事があれば欠席することもあるが、白蘭の知るかぎり、今まで黄英が御前会議を欠席したことはなかった。
――まさか、黄英様が?
誰が自分に席を譲ってくれるのかと紅蓮は言っていた……
無意識に胸の結び目を握って気づく。これをこのまま肩に掛けていたら、あとで紅蓮に何を言われるかわからない。
白蘭は控えの間の片づけに入ってきた神官を呼び寄せると、肩からそっと面紗を外して差し出した。
『悪いけど、これを私の執務室に置いてきてもらえるかい? 絶対この結び目を解かないで、このままそっとしておいて。いいかい? 絶対に解いちゃ駄目だよ?』
『かしこまりました。結び目は解かず、このままそっと、ですね?』
神官は莞爾と微笑むと、恭しく面紗を受け取り、退出していった。
謁見の間に入る前に気づけてよかった。安堵の溜め息をついて自分も移動しようとすると、扉の前でじっとこちらを見ている蒼芭とまた目が合った。何か自分に言いたいことでもあるのだろうか。訝しく思ったとき、白蘭はふと、昨日紅蓮が蒼芭に関して言っていたことを思い出した。
『蒼芭殿は、私には問われないのですね』
白蘭のほうからそう話しかけると、蒼芭は驚いたように羽を動かした。
『何をか?』
『〝赤き太陽〟とは、まだ友人同士なのかと』
しばらく考えるような間を置いて蒼芭は答えた。
『問えばそうだと答えるのか?』
『もちろん』
『では、その問いは、あの小僧が守護天将の御名を受けた後にすることにしよう』
蒼芭は白蘭に背中を向けると、謁見の間へと入っていった。
『白蘭様……』
先に入らず白蘭を待っていた翠菻が、不安そうに彼を見上げる。会話の意味はよくわからないながらも、白蘭が蒼芭を挑発していることは感じ取ったのだろう。
『ごめん、待たせたね。入ろうか』
翠菻の背を押すようにして白蘭が謁見の間へ入ると、神官は静かに扉を閉めた。
天卓の座席は、黒蘆を中心として、天卓の十三人となった順番に左右交互に振り分けられている。そのため、最後に天卓に加わった白蘭の席は、その前に天卓になった翠菻の左隣にあった。
だが、今日謁見の間を訪れてみると、黒蘆の左隣にあった黄英の席には別の者が座っており、そこから一つずつ順番が繰り上がった形で、白蘭の右隣が空席となっていた。翠菻の席はその席のさらに右隣ということになる。
――ということは……
やはり、いなくなるのは黄英なのだ。そして、白蘭の右隣の空席に、あの男が座ることになる。何だか動悸がして隣が見られない。だから、そんな自分を寂しげに見つめている翠菻にも気づかなかった。
皆のはるか頭上から、天卓を睥睨していた最長老・黒蘆は、全員が着席したのを確認すると、重々しい念波を発した。
『では、会議を始める』
天卓の十三人は、神殿か十二の院のいずれかに例外なく属しているが、院の長なら必ず天卓になれるというわけでもない。中には天卓が一人も属していない院もある。
しかし、基本的には、天卓が各院の長ということになっており、事前に各院の問題や意見をまとめて神殿――正確に言えば黒蘆――に提出して、その中で論ずる価値ありと黒蘆が判断したものが、議題として採り上げられる。そうでなくては、いつまで経っても会議は終わらない。
だが、今日の御前会議は、実質、黒蘆の独演会で、議論の余地はまったくなかった。
まず黒蘆は、科学院の黄英が天卓の脱退を表明したと事務的に話した。確かに黄英は老人ではあるが、まだ引退するほどの高齢ではない。結局、黄英の脱退理由は明らかにされなかったが、おそらく席を一つ空けるために黒蘆自身が脱退を迫ったのだろう。黒蘆はもともと科学院に属していた天人で、黄英とはつながりも深い。
では、なぜ黒蘆はそこまでして紅蓮を天卓の一員にしようとするのか。客観的に見るならば、やはり白蘭には異様に思える。他の天卓も内心そう思っているに違いないのだが、表立っては疑問を訴える者はいなかった。自分の利害には直接関わらないことであるからかもしれない。
『したがって、軍事院に属する紅蓮に守護天将の御名を与え、我ら天卓の一員とし、黄英の脱退により生じた空席を埋めるものとする』
本日の本題ともいうべき黒蘆のこの決定を聞いたとき、天卓の間で低い念波が湧き起こった。すでに知らされてはいたものの、こうして御前会議の場で発表されると、改めてその内容に驚かされるのだろう。
何となく蒼芭の様子を窺うと、軍事院の長である彼は、指のある腕を組んだまま、身動き一つしていなかった。
他の天卓はともかく、蒼芭なら何か文句を言うのではないかと思っていただけに、この無反応は意外だった。これなら通例どおり、御前会議に諮ってもよかったのではないか。
――ああ、そういえば。どうして御前会議に諮らなかったのかと訊こうと思っていたんだった。
しかし、こうしてその機会が訪れても、今の雰囲気ではなかなか切り出しにくい。白蘭自身は、紅蓮が守護天将の御名を受けることにも天卓の一人になることにも反対ではないから、わざわざ自分から水を差すような真似をしなくてもいいのではないかと躊躇してしまうのだ。
――蒼芭様が何か言ってくれれば、それに乗じることもできたのに。
自分の優柔不断さをさしおいて、人に責任をなすりつけていたとき、黒蘆が紅蓮の入室を促した。白蘭は我に返り、神官たちが開く扉を振り返った。
紅蓮が姿を現したとき、この謁見の間が一気に明るくなったような気がした。天卓は色調の暗い体の持ち主が多く、紅蓮のように明度の高い髪や肌をした者は少ないのだ。
白蘭以外の者もそう感じたのか、先ほどよりも大きな念波が場に満ちた。もっぱら戦場か練兵場にいる紅蓮はあまり顔を知られていない。これがあの〝赤き太陽〟かと意外に思ったのだろう。
紅蓮は特別緊張した様子も感激した様子もなく、まったく普段どおりにまっすぐ歩を進めた。一瞬、白蘭のほうに目をやり、わずかに口元を緩ませると、天卓の前で片膝をつき、黒蘆に対して深々と頭を垂れた。
『真実の闇を司る偉大なる天人、黒蘆様。お召しにより、紅蓮、参上いたしました』
――やればできるんじゃないか。
軽く感心して白蘭は友を見下ろした。紅蓮が知ったら、おまえはまだ自分を子供だと思っているのかと苦笑いしたことだろう。
『うむ』
黒蘆は満足げにうなずくと、紅蓮に守護天将の御名を与え、本日より天卓の一員に加えることを改めて宣言した。天卓の人々は今度は沈黙を保った。
『紅蓮よ。異存はあるまいな?』
『御意。不肖未熟の身なれど、謹んで命に従います』
紅蓮の答えを聞いたとき、白蘭は我知らず溜め息をついた。これで紅蓮は正式に守護天将となり、天卓の十三人の一人となったのだ。
かつて、あの草原で紅蓮がしてくれた約束は、今夜ようやく果たされた。白蘭は自然にこみ上げてくる笑みを抑えるのにかなり苦労した。
『おまえの席は白蘭の隣だ。わからぬことがあれば白蘭に訊くがよい』
『承知いたしました』
紅蓮が立ち上がり、白蘭に歩み寄ってくる。白蘭はもう嬉しさを隠すことができなくなって、全開の笑顔で紅蓮を迎えた。
『君が隣に座るなんて、学問所を出て以来だね』
隣に腰を下ろした紅蓮に囁くと、紅蓮はおどけて頭を下げた。
『新参者ゆえ、よろしくご指導のほど賜りたく存じます、白蘭殿』
『こちらこそ、よろしくお付き合いのほどお願いいたします、紅蓮殿』
真面目にそう答えた後、白蘭はこらえきれずに紅蓮と笑った。
そんな二人に周囲は半ば呆れたような視線を注いでいたのだが、紅蓮のことしか視界に入っていなかった白蘭が気づくことはまったくなく、御前会議はお開きとなった。
この後、白蘭は自分の部屋に紅蓮を招こうと思っていた。もはや蒼芭にも翠菻にも一目もくれず、紅蓮と共に謁見の間を退出しようとすると、予想外の邪魔が入った。
『白蘭、紅蓮。おまえたちは、ここに残れ』
黒蘆だった。白蘭は紅蓮と顔を見合わせたが、最長老にそう言われたら留まるしかない。今さら座り直すわけにもいかず、その場に並んで立っていた。
その間にも、朱葭以外の天卓たちは、次々と謁見の間を後にしていく。最後に残った翠菻は、白蘭の背中をじっと見つめると、こらえきれなくなったように顔を覆い外へ出た。
彼女を含めた他の天卓たちは、黒蘆が何の話をするためにあの二人だけを残したのか、すでに見当はついている。気づいていないのは、当の本人たちだけだった。
やがて、謁見の間は、白蘭と紅蓮、黒蘆と朱葭の四人だけになった。
羽を生やした赤獅子の体を持つ文天・朱葭は、御前会議の書記でもあるが、文書の形では残さない。すべて記憶するのである。その彼がここに残っている以上、今から黒蘆が話そうとしていることは、世間話でも雑談でもなく、正式な記録に残されることなのだろう。しかし、なぜ自分たちだけにそんな話を?
『天母・白蘭』
不意打ちのように、黒蘆は白蘭を本来の御名で呼んだ。
『はい』
反射的に白蘭は跪いた。嫌な予感がする。黒蘆が白蘭をこう呼ぶときは、いつもあの話をするときだった。自分一人だけにするならかまわないが、今ここには朱葭と紅蓮がいる。特に紅蓮の前でこの話はされたくなかった。だが。
『おまえは、なぜ自分が天母の御名を与えられたのか、その理由を忘れてはおるまいな』
――やはり。
思わず白蘭は目を閉じたが、すぐに開き直って、今ではすっかり暗記してしまった口上を述べた。
『真実の闇を司る偉大なる天人、黒蘆様。それは、長老様方が選ばれた者と交わり、完全なる天人をもうけるためでございます』
『そのとおりだ』
黒蘆は満足げに答えたが、白蘭は自分の隣に立っている紅蓮が激しく憤っているのを感じていた。
無論、この体勢では顔は見えない。しかし、長年の付き合いでわかるのだ。
紅蓮は今、黒蘆に対して怒っている。おそらく、黒蘆が白蘭を侮辱していると思ったのだろう。黒蘆や神官以外の人々は、紅蓮を含めて誰も今までこのことには触れずにいてくれた。自分が何のために作られたか、皆すでに知っていたのに。
白蘭は屈辱とは思わない。もう慣れた。ただ、何もこんな日に――紅蓮が守護天将となった晴れがましい日に、わざわざこんなことを紅蓮の前で再確認しなくてもいいではないかと恨めしく思うだけだ。
『しかしながら、天人は思う相手とでなければ子を生せぬ。その相手ともなかなか子が生せぬゆえ、我らは天恵の樹に子をも作らせるようになった』
――今さら、何を言っているのだ?
訝しく思って顔を上げると、黒蘆と朱葭がじっと自分と紅蓮を見つめている。
戸惑って隣の紅蓮を見上げてみれば、彼は苛立たしげに顔をしかめていた。まだ怒りが収まらないようだ。
これ以上黒蘆が何か言ったら、不敬罪どころでは済まないことをしでかしそうである。だが、黒蘆は言葉を発する前に、朱葭と共に深い溜め息を吐き出した。
『白蘭……おまえ、まだわからないのか?』
その念波はこれまでの厳粛なものとは打って変わり、呆れ果てたような感情を含んでいた。黒蘆からこんな感情を感じ取ったのは、これが初めてかもしれない。
『おまえは勘のいい子供だと思っていたが……そうか。おまえはまったくそのようには考えていなかったのか。朱葭よ。これはとんだ見こみ違いだったようだ』
『そのようですな、黒蘆様』
『申し訳ございません、黒蘆様。私には黒蘆様が何をおっしゃりたいのかまったくわかりません。いったい何をわからないと?』
黒蘆は先ほどよりは軽く嘆息すると、わかりの悪い孫に言い聞かせる祖父のように説明した。
『白蘭よ。おまえはなぜ私がおまえ一人にこの話をしないのかと疑問に思わなかったか。書記である朱葭はともかく、なぜここにおまえ以外の者を同席させるのかと』
白蘭は黒蘆の言葉を反芻した後、愕然として紅蓮を見上げた。ちょうど紅蓮も白蘭と同じ答えに至ったようで、緋色の目を見張っている。
『まさか……紅蓮が?』
『そうだ。ようやくわかったか、天母・白蘭。おまえの伴侶は、今おまえの隣にいるその守護天将、紅蓮だ』
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