13 赤き太陽(後)

『さて。予定はあったが早めに参上した俺に、どこを案内してくれるのかな?』

『そうだね。まずは天恵の樹を見ようか。君には楽しくないかもしれないけど』


 翠菻の面紗を右手に持ち替えた白蘭は、空いた左手を紅蓮の手に重ねてふわりと浮き上がった。

 そのとき、紅蓮は白蘭の持つ面紗に目を留めて、訝しそうに顔をしかめた。


『白蘭』

『何だい?』

『その面紗は、もしや翠菻のものではないのか?』

『あ、うん、そうだよ。よくわかったね』

『見覚えがあるからな。しかし、なぜ翠菻の面紗をおまえが持っている?』

『うん……実は昨日、彼女に歌を歌ってもらったのだけど、ついうっかり眠ってしまって……』


 決まりが悪くて、つい笑ってしまう。


『起きたときにはもういなくなっていて、これが体に掛けられていたんだ。風邪でも引くと思ったのかな。私は非力だけど病弱ではないのに』

『俺は非力とも思わんが。で、それをどうして今持っている?』

『うん? 翠菻に会ったとき、すぐに返せるようにと思って』


 紅蓮は少し呆れたように面紗を見やった。


『そのように皺だらけにしたものをか?』

『あ……』


 指摘されてあわてて面紗を見る。そういえば、先ほど神官たちに歌を聞かれたと知ったとき、力任せに握りしめてしまったのだった。白蘭は眉根を寄せて紅蓮を振り返った。


『紅蓮……どうしよう?』

『最初からそのように持ち歩かず、神官にでも預けておけばよかったんだ。おまえの思考回路は、時々俺には理解しがたい』

『紅蓮……』


 恨めしく自分を睨む白蘭に紅蓮は意地悪く笑ったが、ふいに白蘭の手から面紗を取り上げると、手早く広げて二つに折った。何をする気なのかと戸惑っている間に、紅蓮はそれを白蘭の華奢な肩に掛け、胸の前で端をきつめに結んだ。


『とりあえず、今はこうしておけ。きっと、翠菻は皺だらけになっていても気はしないだろうさ。それどころか、そのままおまえに持っていてほしいと思っているかもしれん』

『どうして?』


 真顔でそう訊ねる白蘭に、紅蓮は珍しく困ったように笑った。


『おまえは、本当に……まあいい。よく謝って返しておけ』

『それはもちろんだけど。それにしても君、見かけによらず器用だよね。いつも感心するよ』

『器用のうちか、これが。おまえが不器用すぎるんだ』

『笑ってごまかすのは得意なんだけど』


 白蘭は自虐的に笑うと、せっかくなので、紅蓮が自由に使えるようにしてくれた両手で紅蓮の右手をつかんだ。


『いちばん下まで一気に降りるよ。なるべく静かにね。花を傷つけないように』

『わかった』


 天恵の樹は、神殿の中央を貫くように生えている。否。正確には、天恵の樹を取り巻くようにして神殿が建てられたのだ。その根は天都のはるか下、大地の奥深くにあり、そこに天人の子供たちが実る……らしい。

 中庭に面した通廊を横切ると、大理石の手摺越しに天恵の樹を見ることができる。樹というよりは、巨人の作った花束を見ているような感覚だ。甘い花の香りが仄暗い空間に立ちこめている。

 紅蓮の手を引きながら、白蘭は手摺を飛び越え、下へ向かって降りた。

 この天恵の樹の管理は、神殿で行われる最も重要な仕事の一つである。命玉の大部分はこの天恵の樹を介して作られていた。神殿は天都唯一の農場にして工場でもあった。

 天都に住む者で、まったく天恵の樹を見たことがない者は子供でもないかぎりいないだろうが、毎日間近に接することができるのは、神殿に住まう神官くらいのものだ。

 かつてあんなものを見て楽しいかと言い放った紅蓮だったが、やはり見れば興味深いと思うようで、白蘭に言われたように、できるだけ風を起こさないようにしながら天恵の樹を眺めていた。時々、花の陰から命玉を回収する神官らしき人影が見えたが、そういうときは白蘭が落下の速度を上げてやりすごした。

 ほどなく、足下に青く光る床が見えはじめ、二人はそこに音もなく降り立った。そこが終点であり、神殿の最下層――通称、神の間と呼ばれる場所だった。

 結界こそ張られていないが、上級神官か天卓の十三人しか立ち入れない神聖な場所であり、白蘭も儀式が行われるとき以外に訪れたことはない。だが、今ここに紅蓮といるところを神官たちが見つけたとしても、誰も責めたりはしないだろう。この男にはもうその資格があるのだから。

 天恵の樹を物珍しそうに見上げている紅蓮をそっと覗き見る。その手はいまだ繋がれたままだ。もしかしたら、これほど長く紅蓮の手に触れていたことはなかったかもしれない。何となく自分からは離しがたくて――紅蓮も離さなかった――そのままになっていた。


『じゃあ、次は私の部屋にでも行こうか?』


 紅蓮の気を引きたくてそう言うと、紅蓮は我に返ったような顔をしてから、なぜか苦笑いした。


『せっかくだが、それはまたの機会にしよう。そろそろ神殿の入口から入っておかないと遅刻扱いされそうだ』

『ああ、そうか。それもそうだね。なら、私は入口の内側で待っているよ』

『智天殿が出迎えてくれるのか。それはすごいな。天卓には皆そうしてくれるのか?』

『もちろん』


 ここぞとばかりに白蘭は微笑んだ。


『天人族最強の、守護天将にだけだよ』

『俺はまだ守護天将ではないが』

『じゃあ、訂正する。〝赤き太陽〟にだけ』

『それは至極光栄だ。では、また後で』


 白蘭から手を離すと、紅蓮は大きな羽を羽ばたかせて舞い上がり、明らかにここに来るとき以上の速度で上昇していった。きっと、中庭からいったん外へ出て、神殿の入口に回るつもりなのだろう。規則など平気で無視しそうで、案外律義なところもあるのだ。

 白蘭は紅蓮を見送ってから、紅蓮がきれいに結んでくれた面紗の結び目をつかんで溜め息をついた。そして、誰よりも早く紅蓮を出迎えるために、ここから入口への最短距離を選んで飛んだ。

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