12 赤き太陽(中)

 ――やっぱり、翠菻のようにはうまく歌えないな。


 何とかそれらしく歌えるようにはなったものの、本物を聴いてしまっているだけに不満ばかりが募る。

 何よりいけないのは、声が男だということだ。この歌はやはり女の透き通るような声でなくてはならない。


 ――体ばかりでなく、声も私は「男」なのだな。


 自嘲して面紗を取った白蘭は、いきなり大きな拍手に耳を打たれて驚いた。あわてて立ち上がり、拍手がしたほうを見やる。

 白蘭の視界に入らない位置に、神官たちが固まって立っていて、みな感極まった顔をして両手を激しく打ち鳴らしていた。


『聞いていたのか……』


 恥ずかしさのあまり、皺になるのも忘れて翠菻の面紗を握りしめた。自分一人しかいないと思っていたから好き勝手に歌っていたのに、まさかそれを人に聞かれていたとは。


『申し訳ございません。失礼だとは存じながら、つい聴き入ってしまいました。白蘭様はお歌がお上手なのに、普段は滅多にお歌いになりませんから』

『翠菻に比べたら、私のなんて子供の鼻歌だよ』


 そんなことは自分でいちばんよくわかっている。だから、儀式のときなど必要最小限にしか歌ってこなかったのに、よりにもよって発声練習のようなあの歌を聞かれるなんて。

 白蘭が深く静かに怒っていることがようやくわかったのか、神官たちの顔から笑みが消えた。彼らは申し訳ございませんでしたと次々と逃げ出していったが、上級神官が一人、弁解するように白蘭の前に進み出た。


『しかし、白蘭様。ここは神官の居住区ですから、まったく無人になることはありませんので……』


 そうだった。神殿は無休だから、夜勤の者もいるのだった。彼らは今の時間、部屋で寝ているだろう。いや、もしかしたらこの神官たちがそうだったのかもしれない。そうだとしたら、自分の歌声はさぞかし耳障りだったことだろう。


『すまない。まったく気づかなかった。迷惑だったろう?』


 一転して泣きそうな顔になった白蘭に、その神官は笑って首を横に振った。


『いいえ。私どもは白蘭様のお歌を拝聴することができて、たいへん幸運でした。この場にいなかった他の神官たちに自慢したいくらいです。翠菻様のお歌は、それはたいへん素晴らしいですけれども、私どもは白蘭様のお歌のほうが大好きです』


 たぶん世辞だろう。だが、そうとわかっていても、今の白蘭にはとても有り難かった。自分でもよくわからないけれど、翠菻には歌以外のことでも引け目を感じていたところだったから。


『ありがとう……』


 心からそう答えると、神官は照れくさそうに笑い、あとはもう夜まで誰もここにはいないはずですからと言って去っていった。


 ――なぜ私がここにいるのかもわかっているのか?


 一抹の疑惑を覚えた白蘭だったが、見える範囲内には誰もいなくなった。再び一人になった彼は、また長椅子に腰を落ち着けた。


 ――さて、今度は何をしよう。


 幸い、歌でかなりの時間を稼げたようで、空は赤く染まりはじめていた。

 あの男の色だ。いつもそう思う。力強いが、どこか寂しげな男の色。


『紅蓮。今、この瞬間に来てくれたら、私は一生君についていくよ』


 ふざけてそんなことを呟いたときだった。聞き慣れた羽音がしたような気がして、白蘭は目を見張った。


 ――まさか。でも。


 白蘭はいったん目を閉じてから、暮れなずむ空を振り仰いだ。


 ――ああ、〝赤き太陽〟だ。


 一目見て、そう思った。

 あの頃の倍以上はある大きな翼が、赤く光り輝いている。

 緋色の燃えるような長い髪が、夕日に溶けこんでいる。

 白蘭は立ち上がり、白い右手を空に向かって差し伸べた。

 太陽の化身は、その手をしっかり握りしめると、羽を羽ばたかせて白蘭の前に立った。

 白蘭が朝から待っていた男。今夜正式に守護天将となるはずの男。

 この天都でただ一人、その存在だけで白蘭に喜びを与えてくれる男。


『今度から、私も君を〝赤き太陽〟と呼ぼうかな』


 手を繋いだまま微笑むと、紅蓮はにやりと笑い返した。


『では、これから俺もおまえを〝白き月〟と呼ぼうか』


 とたんに白蘭は顔をしかめて、紅蓮から手を離した。


『それはやめてくれないか。耳にするたび、恥ずかしくてたまらなくなるんだ』

『毎日聞かされていれば、そのうち慣れる』

『駄目だよ。君だけは私を〝白蘭〟と呼んでくれ。それ以外は受けつけない』


 〝白き月〟でも〝天母〟でもなく――昔のまま、ただ〝白蘭〟と。


『わかった、わかった』


 紅蓮は宥めるように両手を動かすと、ところでと言って眉をひそめた。


『おまえはいつからここにいるんだ? まさか、昨日からここにいたわけではないだろうな?』

『さすがにそれはないけど……でも、よくここだってわかったね』


 無論、紅蓮ならわかるだろうと思ったからこそ、声に出して言ったのだが、それでも本当に来てもらえるとものすごく嬉しい。会った瞬間、抱きついて接吻してしまおうかとさえ思った。


『俺は謁見の間以外にはここしか知らないからな』


 そう答えて、紅蓮は周囲を見回した。


『相変わらず、警備はなしか。不用心だな。またおまえを攫われたらどうする気だ?』

『心外だな。私は君に攫われたわけではないよ。自分の意志で、君についていったんだ』


 そう。ここは――あの中庭。

 かつて、白蘭が初めて紅蓮と出会った場所。

 従順な人形から意志ある天人へと変わった、記念すべき場所。

 訪れると必ず紅蓮のことを思い出してしまうから、学問所を出てからはあえて来ないようにしていた。


『いくらおまえがそう言ってくれても、俺は日頃の行いが悪かったからな。きっと誰も信じてはいなかったぞ。神官どもは今でも俺を恨んでいることだろう』


 紅蓮は苦笑いすると、大きな右手を白蘭に差し出した。

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