6 世界樹と水晶玉と部屋
――あのときから比べると、この〝部屋〟もずいぶん変わった。
白蘭に招き入れられるたび、アレクは感慨深く思う。
入口の扉はアレクの無意識を反映して様々に姿を変えるが、ここは白蘭の思いどおりに変えられるのだ。
変わらないのはこの匂い――白蘭の体臭によく似た魅惑的な匂いだけだ。変態だと思われたくないから、なるべく意識しないようにしてはいるが。口に出さないと解読しにくいそうだが、白蘭はアレクの心をまったく読めないわけではない。
初めて会ったあの日、闇と淡い光で満ちていたこの〝部屋〟は、その翌日には今のように光あふれるサンルームのようになっていた。白蘭一人しかいないせいだろうが、広さもアレクの家のリビングとほぼ変わらない程度にまで狭められている。
窓もなく、照明器具もないのに、なぜか真昼のように明るい。かといって、白い床や壁や天井が自ら発光しているようにも見えない。本当に謎だが、ここはそういうところなのだ。何しろ、白蘭いわく、天人族の中でも最高の科学者が亜空間に作った部屋なのだから。
しかし、それほどの科学力を持ちながら、天人族は石で作られたインテリアを愛用していたようだ。この部屋の中央に置かれた丸テーブルも、その周囲に並べられた五つの丸椅子も、白蘭が入れられていた仮死維持装置を覆うように設置されているベッド――さすがにマットや掛布団は布製だったが――も、大理石によく似た石で作られていた。
大理石だと断言はできないのは、それらは皆、ほのかに温かかったからだ。白蘭はそれを当然のことのように思っていたから、もしかしたら天人族は石すら人工的に作り出していたのかもしれない。
『とりあえず、座って』
白蘭はにこりと笑うと、いつものようにアレクを丸椅子の一つに座らせてから、自分もその隣の丸椅子に腰を下ろした。顔と同様美しい素足は、ようやく床に着地した。
床に足をつけて歩くのが苦手だという白蘭は、椅子に座っているとき以外は、床から二、三センチメートルほど足を浮かせている。だから時々、足を動かさずに平行移動しているときがある。
白蘭によると、天人族は生まれつき念能力を持ち、通常は今のようにテレパシーで会話していたそうだ。おそらく白蘭は天人族の中でも特に念能力の強い天人だったのだろう。その証拠に、彼のように常に浮いていた天人はほとんどいなかったそうである。
丸テーブルの中央には、赤い布が折りたたまれて置かれている。この部屋にいる間、水晶玉を安置しておくための場所。今日もそこに水晶玉を載せると、やはり白蘭は複雑そうな表情をした。
そんな彼からそっと視線をはずし、壁の一角に掘りこまれた棚を見やる。そのうちの数段には、アレクが持ちこんだ衣服の他に、色とりどりの小石が山脈のオブジェのように積み上げられている。
まさか、あれが天人族の食料だとは。アレクはにわかには信じられなかったが、白蘭の話では、あれらはほんの一部で、全部でどれくらいあるのかは彼にもわからないという。
白蘭をここに閉じこめた天人は、彼を飢えさせることを最も恐れていたようだ。確かに、白蘭一人で食料を調達するのは難しいだろう。逆に、彼のほうが食料にされてしまいそうだ。いろいろな意味で。
――白蘭をこの〝部屋〟から出してはいけない。
改めてアレクは決意する。
少なくとも、父がこの世を去るまでは。
* * *
地人族の少年は、棚にある命玉の山を見つめたまま、さりげなく言った。
「
一瞬、心臓が止まった。もし天人族がここにいたら、彼の短い悲鳴を聞くことができただろう。
『もちろん。どうしてそんなことを?』
自分の動揺をおくびにも出さず、
「うまく言えないけど……最初に会ったときより、弱ってる気がする」
うまく言えないと言っているわりには、少年――アレクの口調は確信に満ちていた。
命玉から白蘭に目を移し、真正面から見すえてくる。
この緋色の目が苦手だ。あまりにも似すぎていて、いつも錯覚しそうになる。
『弱ってるって……私はもともと活動的なほうではないよ』
「前はもっと高く浮いてた」
白蘭は言葉の接ぎ穂を失った。そんなことはないと否定することもできない。
それは確かに事実だった。事実を否定すれば、アレクが言ったことを肯定することになってしまう。
『君は本当に賢い子供だね……』
だから、逆に油断してしまった。
白蘭は苦笑いしたが、アレクは彼につられて笑ったりはしなかった。
『病死に見えるかなと思ったんだ』
アレクが無言で目を剥いた。本当によく似ている。そう思いながら話を続けた。
『天人族がかかる病気なんて、君はまったく知らないだろう。実際には餓死でも、君にはわからないだろうと思った』
「どうして……」
意味がわからないとアレクの表情が言っていた。彼の感情は白蘭が知っている地人族よりも読み取りにくいが、その表情だけでわかることが存外多い。
『うん……君には申し訳ないけど、私も空に還りたかったんだ……』
卓の中央に手を伸ばし、今は亡い人の羽根が入った水晶玉を撫でる。
『アレク。私には許婚がいたんだよ』
アレクは虚を突かれたような顔をしてから、白蘭の指先に目を向けた。
「まさか、その水晶玉の――」
『いや、彼ではないよ。古くからの知り合いではあったけれど』
思わず白蘭は苦笑する。
彼――
それだけに、彼が天人族を裏切ったとはにわかには信じられなかったのだ。自分一人を助けたことも含めて。
『私の許婚は、幼なじみで親友だった。私が〝女〟になったら結婚して、子供を産むことになっていたんだ』
「……女?」
訝しげにアレクが眉をひそめる。白蘭はその表情を見てから、自分が余計なことを言ってしまったことに気づき、赤面して膝の上に手を戻した。
これは何でもないとごまかせる話題ではない。現に、アレクの目が説明を求めている。白蘭は己のうかつさを呪いながら嘆息した。
『男にしか見えないだろうけど、実は私は人工的に作られた半陰陽なんだよ。ただ、そのせいか、いろいろ不完全でね。私に子供を産ませたかったのなら、最初から女に作ってくれればよかったのに』
後半は完全に愚痴になってしまった。また我に返って頬を染める。
そっとアレクの反応を窺えば、彼は年に合わない難しい顔をして考えこんでいた。
いったい何を考えているのだろう。とても賢い少年だから、半陰陽のこともわかるはずだ。不完全という言葉の意味も。
いま思えば、あの頃にはもう天人族は、種族としての終焉を迎えていたのかもしれない。羽があるのが唯一の共通点と言っても過言ではないほど個体差が広がってしまった天人族は、地人族のように懐胎して子を産むことはできなくなっていた。天人族が同胞を増やすには、天恵の樹と科学の力を借りなければならなかったのである。
だが、長老たちは子宮の中で子を育てる〝母〟をあくまで欲した。黄英はその命を受けて白蘭を作り出したのだが、白蘭があの男と婚約した後、血を吐くようにこう告げたのだった。
――たとえ妊娠できたとしても、おまえはたぶん、生きて子供を産み落とせない。……すまない。
驚きはなかった。何となく、そんな気はしていた。
しかし、そのときにはもうそれでもいいと思っていた。あの男の子供さえ無事に産めれば、たとえ自分が死んでもかまわない。
初めてアレクを目にしたとき、自分は夢を見ているのだと白蘭は思った。
愛しい許婚が、まだ親友で、少年だった頃の夢。
だが、すぐに夢ではないとわかり、発作的に許婚の名前を呼んだ。そして、自分を覗きこんでいる少年が、許婚によく似てはいるが天人族ではなく、それどころか、自分たちが〝羽なし〟と蔑んでいた地人族であることを知った。
それでも、その感情を表に出さずにいられたのは、やはりアレクが許婚に似ていたからだろう。背中に翼はなくても、彼の容姿も声も、あの頃の許婚を彷彿とさせた。衝撃は受けたが、最終的に彼の話を信じる気になれたのも、たぶんそのせいだ。
しかし、いくらよく似ていても、アレクはあの許婚ではない。白蘭が唯一愛したあの男は、いつかもわからないほど遠い昔に死んでしまっていた。
許婚も天人族もいないこの世界で、自分一人生きつづけて何になる。仮死維持装置の中で泣きながらそう思ったとき、白蘭は飢えて死ぬことを選択した。
黄英がなぜ天人族を滅ぼしたのかは問わない。だが、なぜ自分だけを生き残らせたのか。それだけがとても恨めしい。
「これは言わないでおこうと思ってたんだけど……」
思考の海に沈みこんでいた白蘭は、アレクのその声で非情な現実に引き戻された。
アレクは何かを決意したような目をしていた。感情は読めない。彼が口を動かして発する声を待つ。
「天人族を滅ぼした天人は、その水晶玉と一緒に遺言も残してたんだ。――『この水晶玉を使って〝部屋〟に入れた者が、その〝部屋〟の中にいる者を生涯守れ』」
白蘭の頭は空白となった。しかし、次の瞬間には、様々な疑問で埋めつくされた。
なぜ自分だけ。なぜ地人族に。なぜ。なぜ。なぜ。
よほどひどい顔をしていたのだろう。アレクは宥めるように表情を和らげた。
「でも、そんな遺言とは無関係に、俺は白蘭を死ぬまで守りたいと思った。だから、このことは黙ってたんだけど……」
そこで言葉を切ると、椅子から立ち上がり、卓を回って棚の前へと歩いていく。何をする気なのだろう。白蘭は息を詰めてアレクを見守った。
アレクは棚から命玉を一つ手に取った。すぐに振り返り、白蘭の前に来て右手を突き出す。その手のひらの上には、真っ赤な命玉があった。
「生きてよ。白蘭はもう子供なんか産まなくたっていいんだ。白蘭に子供を産めって命令した天人は、もう一人もいないんだから」
既視感があった。否。既視感ではない。実際にそう言われたことは、一度としてなかった。
だが、あの男は――あの許婚は、早く子供が欲しいと自分が訴えるたび、困惑の表情を見せていた。
もしかしたら、黄英は自分だけではなく、許婚にもあのことを伝えていたのではないだろうか。そして、この部屋の〝鍵〟である水晶玉を許婚に譲った。
それに、あの夜も白蘭は許婚と同じ寝台の上にいた。眠っている自分を仮死状態にしたのは、もしかしたら――
白蘭は慄然として、許婚によく似た赤毛の少年を見つめた。
少年は何も言わずに微笑むと、白蘭の右手をつかみ、強引に命玉を握らせた。
もはや花を咲かせることもできない天恵の樹。今は世界樹としか呼ばれない巨木の姿が雷光のように脳裏に浮かぶ。
あれは、私だ。
―第1部・了―
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