受肉虚像彼女

園山制作所

【一番目:脇能】接続された男

【“秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず”


 ──世阿弥『風姿花伝』】


 文字が浮いていた。黒板を離れて、音もなく舞っていた。夕日を照り返すその引用文は、読み上げられる時をひっそりと待っていた。

 教室に駆け込んだ少年は、呼吸を整えても動悸が収まらなかった。深いため息を吐く。一番近い机に腰かける。


「どうしてこんなことに……」

「随分お疲れのようだね。抹茶サイダーがあるけど、飲むかい?」


 教壇から國府田こうだが気楽そうな声を投げた。


「ま、無理もない。小杜若こかきつばたちゃんを演じるのは骨が折れそうだ」


 一分ほどの沈黙。

 少年の方から切り出す。


「……先生、あいつらに授業をしてください」

「あいつらとは誰のこと? それに授業だって? テーマもずばり教えてもらえると嬉しいんだがね」

「俺が言おうとしてること、もう分かってるくせに」


 國府田はせせら笑う。


拙者せっしゃに助けを乞うあたり、マジでお困りのようだ」

「だからそう言ってんだろっ! 時間がないんです、俺は」


 少年は涙混じりにうめく。


「あの子を守らないといけないのに」

だからな」

「違うっ。俺は……俺は、あの子じゃない」

「ほう? つまり、アニメキャラと声優を同一視するのが誤りであるのと同じく、VTuberと中の人は別人だと言いたいのかね? なるほどなるほど、ようやく拙者の考えに同意してくれたわけか。なあ?」


 疲れ切っていて反論もできなかった。再びの沈黙。


「いいだろう。拙者がなんとかしてあげようじゃないか」

「引き受けて……もらえるんですか」

「代償はあるけどね」

「一体何ですか、それは?」

「心配しなくていい。VTuber文化がこの国から滅びる──たったそれだけのことだ」



 まばゆい都市の光に、夜が躍動していた。

 ねっとりとした初夏の空気が肌に張り付く。街中の至る所に浮かぶ色彩豊かな電子表示の群れは、まばらに降る小雨と共に、行き交う人々を幻惑している。

 天候にも関わらず、駅前の広場には人だかりができていた。可憐に舞う一人のVTuberと彼女に声援を送るファンたち。

 ここは画面の中のバーチャル空間ではない。生の現実世界である。


「こかきちゃーんっ! こっち向いてええええええー! 目線お願いしまあああすっ!」

「つばたちゃーんっ、愛してるーっ!」

【今日は文字参加! いつも見てます 小杜若さんはいつもキレイで可愛い!】

【10000円(100分間)のランドマークチャット:残業なので文字にて失礼! 応援してます!!】

【15000円(150分間)のランドマークチャット:ライブがんばれ!!!】


 男子高校生の鋤柄すきがらは無言でカメラを回していた。ファンたちの応援をありがたく、しかし疎ましく思いながら。プロ顔負けの高性能なカメラで推しのVTuberを捉える彼は、いわゆる切り抜き師だ。VTuberの配信を見やすく動画化するクリエイター。お目当ては、愛知県知立ちりゅう市を代表するのう愛好家女子高校生VTuberの小杜若こかきつばたである。

 今日は誕生日配信ということで特に人が多かった。濡れた額を手の甲で拭いつつも、推しから決して目を離さなかった。撮影中は一切も気が抜けない。


「みんな応援いっぱいありがとーなのです〜! ラスト一曲いっちゃまーす!」


 小杜若のかけ声によって、紺碧こんぺきちょうたちが集まってきた。彼女の使い魔だ。何千匹もの電子表示の蝶は広場を陣取る主人を覆い隠す。ファンのボルテージは最高潮に達した。それから一分近くも張り詰めた緊張が続き、現地の声援は落ち着いたが、反比例してコメントは膨れ上がっていった。

 一帯に流されていた古風な囃子はやしは、電子音楽を取り入れた現代的なものへと段階的に切り替わっていく。台風のように渦巻いていた蝶たちは音楽に追随して、小杜若を中心とした回転を加速させていき、ついに離散した。電子表示の情報量は圧巻だった。アニメそのものの世界観が広がる。

 使い魔がいなくなると小杜若が現れた。彼女の格好は軽やかなドレスから厳かな装束しょうぞくへと変わっていた。青を基調とし、白の杜若かきつばたの刺繍をふんだんに施した絢爛けんらんたる装束は、ファンの中でも人気の衣装だ。頭についた髪飾り──ふたつの能面が揺れる。


般若はんにゃにならなきゃ私がいい? そいつを刺せなきゃ誰もが敵だし病むしかないわ、病むしかないわ──」


 オリジナルソング『病むしかないわ』を披露する小杜若と目が合う。ラッキーだと感じた次の瞬間には、彼女は別の方向にピースサインを掲げていた。

 そこに感じる虚しさにも、鋤柄はいい加減慣れてしまった。

 ずっと俺だけを見てくれればいいのに。

 半ば投げやりに思いながらも、ランドマークチャットを手早く送信した。先月のバイト代全額。


 ライブ終了後、雨は止んだ。鋤柄は撮影機材を駅のコインロッカーに預けると、近くを散策することにした。推しを思う存分記録できた幸せを噛み締めつつ、夜風を浴びて歩くのは清々しい。

 人差し指で丸を描く動作をすると、個人用の電子画面が映し出される。知立市がホットな地域としてランキングに載っていた。さきほどの駅周辺はランドマークチャットによる広告が残留しており、小杜若を中心とした情報の坩堝るつぼと化している。

 推しの業績が知れ渡る──心の中でガッツポーズして、広告群の周縁に沿う形で歩き出す。

 そのままぐるりと回るはずだったが、いつの間にか広告郡の主エリア近辺に該当する「八橋やつはしかきつばた園」という庭園に着いていた。意識しないうちに広告に誘導されていたらしい。せっかくなので立ち寄る。

 庭園内は電子表示の篝火かがりびが無数に設置されており、幻想的で厳然な空気を醸し出していた。ライブ中に比べて涼しくなったこともあり、その雰囲気が一層増している。

 試しに篝火に手を伸ばす。


【照明に触らないでください】


 当然、熱くはないのだが注意文が表れた。

 庭園にはそれなりに見物客がいた。といっても、半数近くは電子虚像──VTuberとして現実にログインしている人たちだ。

 ライトアップされてシュールにたたずんでいる在原業平ありわらのなりひらの像の前で、客たちは思い思いの撮影を楽しんでいた。指を空中に滑らせ、電子画面をタップしている。写真お願いできますか。そんな繋がりは今となっては半ば郷愁の対象だ。

 池を進む度、きいきいとはしきしんだ。水面は電子の炎を浴びて、官能的な色味を深めている。

 鋤柄は屈んで池を見下ろす。

 夜に微睡む紫の花々──杜若。小さく艶やかな紫を咲かせたそれは、小杜若の名前の由来となった花。愛知県の県花でもある。

 ここで待ってれば、こかきちゃんが来たりして。

 今日のライブを思い出し、思わず顔がほころんだ。

 小杜若のモデルになったキャラクターには、杜若を眺める旅人に話しかけるシーンがある。気持ちの悪い想像だとは彼自身も理解していたが──。


「すみませえーん!」

「はっはいっ?」


 女性に声をかけられ、鋤柄は反射的に立った。

 まさか本当に?

 振り返ると、兎の耳が生えた二メートルぐらいの花嫁と新郎らしき二人組がいた。見たところ両方ともVTuberだった。

 花嫁が礼儀正しく頭を下げてくる。


「すみません。話に夢中であなたのことに気づかなくて……さっきドレスがあなたに当たっちゃったみたいで。ごめんなさい」


 ウエディングドレスで、狭い八つ橋を塞いでしまったのが気がかりだったようだ。

 声をかけてきたのが小杜若ではないことがショックだった鋤柄は、ぎこちない愛想笑いを浮かべた。


「別に大丈夫ですよ」

「そうですか? 本当に?」


 花嫁は今にも泣き出しそうだ。新郎が不安げにその肩を抱き寄せる。二人はこちらを見ながら何か話をしていた。

 俺の言い方に棘があったかな?

 鋤柄はある可能性に気づく。自分は間違った対応をしてしまったかもしれない、と。

 この花嫁の身体が不自由だとしたら? 電子表示のあなたとぶつかってもこっちは痛くも痒くもありませんと言われたら? VTuberとはいえ現実世界での彼女を「いない存在」と見なす返事は失礼だと言えなくもない。


「あの──お、俺の方こそすみません。もっと早く気づくべきでした。どうぞ」


 鋤柄は八つ橋の縁に立って道を開けた。


「何もそこまでしなくても。危ないですよ」

「いいんですよ。だって夫婦を邪魔しちゃ悪いですし」


 二人組は顔を見合わせるなり吹き出した。

 呆気に取られた鋤柄に対し、今度は新郎がぺこぺこと頭を下げた。


「この格好は趣味です。私たち親子ですよ」

「へえっ? じゃあ、えーと……」


 手で花嫁らしき人を示す。


「母です」

「てことは新郎さんは」

「娘でぇ〜す!」


 三人の笑い声が夜に弾けた。

 VTuberの身体で初めて現実にログインする母親(花嫁)のことを娘(新郎)がエスコートしている真っ最中だったらしい。ドレスが鋤柄に当たったとばかり勘違いして混乱した母は、娘に映写塗料えいしゃとりょうの仕組みを説明され、取り越し苦労だと理解したそうだ。

 だが、諸々の配慮がすべて無駄だったと感じた鋤柄は腹が立った。

 親子を見送る。気を取り直して歩き出すが、背後から呼ぶ声がした。

 今度はなんだよ。

 呆れながら声の主に目をやる。


「やわわわわ〜、すきがらー!」

「ああ、のうちゃんじゃん」


 大柄な親子夫婦とは打って変わり、一体の幼女がやって来た。祭りの屋台で買った仮面のように適当に能面をつけた、装束姿の女の子。両腕で募金箱を抱きかかえている。


「やわわわ〜」

「また募金集めてるの?」

「うん。すきがら、げんき? お金アる?」


 能ちゃんはFTuber──フィクションYouTuberだ。言動、姿勢、表情切り替えなどの全作業を人間の介在なしにAIが制御している。セルルック式CGのモデルを使用するため、見た目はVTuberと変わらない。FTuberは主に各自治体によって運営されており、一度でもアンケート記入と募金に応じた人を認識する。

 知立市が運用するFTuberの能ちゃんは、小杜若の妹という設定だ。


「すきがら、すきがら! 募金入れろ。イレテ。お金払って地域こーけんシロ」


 能ちゃんは目を輝かせ、たどたどしい口調で迫った。


「しょうがないなあ。手持ち全然ないけどいい?」


 庇護欲をそそる人格にするのがFTuberの成功のコツと言われている。

 人間に騙されたばかりの鋤柄は、汚い大人たちの策略にまんまと引っかかった。


「広告ミルぅ? 二十分!」

「長いよ。ほら」


 電子画面から決済を開き、自販機に小銭を入れる動作をする。小銭の電子音。


「五十円! ありがとお! やわわわ〜!」


【能ちゃんから5いいねをもらいました】


「次アッたらもっと、ちょーだい!」

「君、意外とがめついよね……」


 能ちゃんは募金箱に片耳を当てて上下に揺らし、騒音に微笑んだ。「じゃーね」と手を振り、どこかに走って行く。やや離れたところでログアウトした。彼女を構成していた電子の欠片は、蜃気楼が凍って爆ぜるかのように散らばっていく。

 今夜は人が多い駅周辺を中心に、過去のデータから募金参加確率の高い人を検出し、順番に位置情報を探って現れるつもりなのだろう。

 メタバース以後の時代。

 ベンチに座り、しばらくの間、視界に映ったVTuberたちを無心で追う。みんな楽しそうだった。普通の人の姿もいれば、獣人もロボットも仏様もいる。彼らの身体がぶれて映るまでそうしていた。鋤柄の目が疲れたわけではない。徐々にピントがずれたようになっていく彼らもまた違和感を覚え、空を仰いだ。止んだはずの雨が降ってきたのだ。しかも雨量が増している。濡れた地面が多様な色で煌めく。


「もう降らないと思ってたのに……。折りたたみ傘コインロッカーの中だ」


【各コンビニまでの経路 購入品:傘/料金目安:500円または4000いいね】


 呟きを検知した電子画面が自動で開いた。

 どこかコンビニに行こう、いいねはたっぷり残っているはず。鋤柄は立ち上がる。

 本降りになりそうだったので、急いで庭園を後にした。今度は広告群を避けられそうな道を選んだ。


 ネオンと電子表示の輝きは、雨によって複雑に反射していた。

 ビニール傘越しの世界。鋤柄は、自分の生まれ育った故郷──知立が綺麗だと思った。VTuber産業によって潤い、変貌していく元田舎が。

 大通りから外れても広告は付きまとう。どうでもいいVTuberによる歯磨き粉の広告には低評価サムズダウン

 情報から逃れる術はない。しかし、意識すれば能動的に選ぶことができる。鋤柄にとって、それは昔から小杜若ただ一人だけだった。

 小杜若に集まり、彼女自身が新たに広告の位置を確かめつつ、その周りを歩いていると、不思議なことに彼女の存在を肌で感じるのだ。

 そろそろ帰って作業をしなくては。

 駅に戻るルートをぼんやり考えていたところ、足元で光る物の存在に目を奪われる。


「杜若……」


 それは廃屋の軒下にある水たまりに咲いていた。電子表示の、ただのデータ。

 建物の壁を触る。わずかに葉の表示に乱れが生じた。景観のために電子の植物が展開されることは知っていたが、こんな人目のつかない場所で見るのは初めてだった。

 庭園の時のように杜若を愛でた。

 本物以上に美しい花だった。雨の中、その紫色を目印にして、誰かが訪れてくるのを待っているかのように見えた。

 小さな杜若。

 ──来てくれるわけ、ないか。

 気恥ずかしくなって頭を掻いた。


「一回でいいから、こかきちゃんと……」


 口を閉じた。

 何をしたいんだろう?


「呼びました?」


 推しとの関係性を深刻に考えそうになったその時、真横に突然現れたVTuberにはっとして、鋤柄は後ずさりした。


「……え?」

「こんつば〜」


 そこには、帯刀したショートカットのVTuberが立っていた。

 青の布地と白い杜若が織り成すコントラスト。その装束とマッチした、青い瞳と白髪。小面こおもてと般若の能面の髪飾り。いつでも足袋たびを履いた細い足……。

 鋤柄は目を見開いた。


「アイチ組3期生の小杜若です!」


 どんな音域でもキュートな印象を受けるよう細部にまで調整された声色。


「いつもライブに来てくれて、本当にありがとうございます。めっちゃ感謝してます」

「…………」


 なんでこかきちゃんがここに? それに、話しかけてもらってる──俺が? ていうか認知されてる?

 鋤柄の手から傘が滑り落ちる。

 小杜若はあどけない仕草で首をかしげた。


「あれ? ごめんなさい、もしかして聞こえてない感じ……?」

「いえっ! 聞いてます聞こえてます不束者ですが拝聴させていただいておりますうぅっ」

「あふふふっ。えーと、あの、すごく面白いお返事」


 品があるのかないのか分からない、この笑い方!

 推しが目の前にいる。

 ようやく状況を咀嚼そしゃくした鋤柄は絶叫しそうになったが、頭が理解を拒んだ。やがて、ひとつの歪な答えにたどり着く。


「君は……」

「ん〜?」

「に、にっ……偽物だ!」

「ええー。どうしてそんなこと言うの?」

「小杜若ちゃんはな、自分の一人称として『こかき』と『つばた』を交互に使う。俺みたいな『こかき』派と『つばた』過激派とで解釈の戦争になるから、二年前の誕生日配信で今後は両方とも使うって宣言したんだ。あの子は誰よりも心優しい子だからな。それ以来、彼女が言い間違えたのは二回しかない! なのにだ、君は今『こんつば〜』って挨拶したよな? でも、小杜若ちゃんがしゃべり出す時は原則『こかき』始まりだ。ということは、君は本物じゃない……!」


 有名VTuberのなりすましは珍しい話ではない。

 小杜若はにやにやしていた。うろたえることなく淡々と切り返す。


「うんうん、そう言うかもと思って文字表記してたんだー。ほら、見て見て」


【一回でいいから、こかきちゃんと……】

【呼びました?】

【……え?】

【こんつば〜】


 出会った直後の会話が、電子表示で漫画のふきだしのように浮かび上がった。


「これで分かってくれた? こかき、別に間違ってないよ。君が『こかき』って呼んでくれたから『つばた』バージョンの挨拶をしただけ」

「で、でもそれは」

「他の人から呼ばれるのもカウントしてるんだよ? コラボ配信の時とか、『こかき』ちゃんでーすって紹介されたあとにこの挨拶使うんだけど……。忘れちゃってた?」


 小杜若はくすりと笑った。


「違う違う違う! 小学二年から小杜若ちゃんを推してるこの俺が間違えるわけがない」

「もー、気にすることないのに。誰にだって間違いはあるじゃんか。つばただって、過去に二回やってるし。ね?」


 唇に人差し指を当てると、小杜若はそこから一匹の使い魔を出現させた。ライブでも見たあの蝶だ。

 二人は視線を交わした。


「……ほ、ほんとにあなたは小杜若さんなんでっふか?」

「ふふ、噛んじゃった? 大丈夫?」

「はい……」


 舌を噛んだ人を心配する言葉遣いは、かつて何かのコラボ配信で聞いた覚えがあった。

 本物なのか?

 心の底から歓喜が湧き上がりそうになったが、鋤柄はまたも現実的な視点に戻った。


「ごめんやっぱ信じないっ!」

「そんなあ〜」

「よくよく考えれば、こかきちゃんが俺の前に個人で来てくれるわけがないだろ。何の用事もないだろうし──」

「あるもん」


 小杜若は絞り出すように言う。


「鋤柄君に──伝えたいこと、あるから」


 なんで俺の名前知ってんだ?

 そんな疑問は瞬く間に吹っ飛んだ。目の前には、両頬をさくらんぼのように染めている推しがいる。偽物だとしても瓜二つ。鋤柄に抗う術はなかった。


「今日ね、いつ伝えられるかなって……ライブ中もそればっかり考えてた。『病むしかないわ』歌ってる時、目合ったじゃん」

「あれはやっぱり俺を見てたの?」 

「親子の夫婦にはさすがに驚いちゃったよね」

「さっきのも……」

「うん。能ちゃんにデレデレだったところも」


 小杜若の冷ややかな瞳は、一切の明るい光を許してはいない。片手は刀の柄を握っていた。


「ちょっ、そんなんじゃないって! 俺が好きなのはこかきちゃんだけだし」

「ほんと?」

「本当だよ」

「……そう、だよね」


 物寂しい表情でひとり呟く小杜若だったが、鋤柄が声をかけようとしたことに気づくと、ぱっと笑顔になった。


「もちろん信じてるよ。では改めまして。鋤柄君にお話があるのです」

「は、はいっ!」


 従順なファンは姿勢を正すほかなかった。


「なんでしょうか、こかきちゃん、あの──」

「好きです」

「…………」

「小杜若と……お付き合いしてくれませんか?」


 鋤柄は、自分の耳を疑った。都合のいい音しか聞き取れなくなったのではないか。そう勘ぐったが、真っ赤になった小杜若を見るあたり、音声の持つ意味が世間一般のそれとは乖離していないと信じざるを得なくなった。


「だめ……?」


 どうすればいいんだ。

 突然の出来事に、滝のような冷や汗がうなじを伝う。

 推しと付き合う? それは俺が望んだ展開なのか?

 推しとの関係性とは、それ自体で完結しているのが一般的である。しかし鋤柄の場合、小杜若という個人に昔から恋心を抱いていた。だからといって、二つ返事でゴールインするのが正解なのだろうか。VTuberと生身の人間の結婚を認めない社会や、彼女を推している他の人間たちを無視してでも好意を突き通すべきなのか……。


「ごめん」


 かすれた声で言う。


「君と付き合うことは……俺には、できない。ごめんなさい」

「そっか」


 小杜若はしゅんと眉を下げた。肩が小刻みに震えている。自身を抱きしめるように両腕を組み、うつむく。電子の涙が雨に混じって地面に吸い込まれた。

 どうすれば──鋤柄がおろおろしていると、徐々に妙な声が聞こえてきた。

 あふふ、あふふふ……。

 不安になって小杜若の顔を覗いた。しかし彼女は、耐えられなくなったとでも言わんばかりに顔を背けて大声で笑い始めた。

 まさかドッキリか?

 その可能性を考えたが、今の小杜若の反応はファンをたぶらかしたことへの愉悦には到底見えなかった。カメラマンやリポーターが来る様子も一向にない。

 もっと悪い事態が進行している。嫌な予感がした。残念ながら、鋤柄の予感は見事に的中していた。

 一通り笑った小杜若はやけに晴れ晴れした顔つきだった。


「そっかそっか、ダメかあ〜。十年前の告白の続きだったんだけどなぁ」

「十年前……?」


 顔を上げた鋤柄はき返した。


「秘密基地であったこと、もう覚えてないの?」


 鋤柄は声を出せなくなった。隙のない微苦笑をたたえる小杜若は、そんな彼をじっと見つめる。

 どこからかせみの鳴き声が聞こえた。現実でも映写塗料によるものでもない。

 それは過去の記憶。


 あの日起きた、事件へのいざない──。

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