便利屋スターフィッシュ
春チヨ。
1
せまい路地に慌ただしい足音が反響していた。
隙間を惜しんで乱立する建物のあいだを道が続いている。
それは蜘蛛の巣のように複雑に分岐を繰り返し、大通りから遠くはなれた暗く湿った街の底へと絡めとろうとするようだった。
男は身体全体で息継ぎを繰り返していた。汗の浮かんだ顔で走ってきた道をふりかえる。古い中層ビルのあいだを縫う道には人気はない。大通りの騒音から隔絶され、男のもの以外の足音や声も聞こえてこない。
追跡を振り切れたことに安堵して、ゆっくりと息を吐き出した。
「なーんて、逃げ切れたと思ったか?」
弾むような声が路地に響いた。
男は緩んだ呼吸を詰まらせながら行く手を見た。
正午の陽射しは建物に遮られているが、目を向けた道の先には光が差し込んでいた。
そこにひとりの青年が立っている。
白いワイシャツにネクタイをしめ、紺色の薄手のジャケットにチェックのスラックス姿。袖を腕まくりし、革のショルダーバックを斜め掛けにして背負っていた。
耳や頬にかかる黒髪は毛先がはねている。
青年は
自信と快活のみなぎる瞳でニッと笑っていた。
「く……くっそ!」
舌打ちと悪態を吐き捨てると男は右の路地に飛び込んだ。
肩口が建物に擦れるほどのひときわ狭い道。砂埃を蹴散らし、雨風に朽ちた段ボールを飛び越え、後ろを振り返ることなく一目散に駆けていく。
両脇を挟んだ建物が迫るような圧迫感。右に曲がっても左に曲がっても同じ風景がひたすらに続いている。
頭上の青空は小さく切り取られ、薄暗い路地のなかで足掻くにつれ、方向感覚がわからなくなってくる。かすかに差し込む陽の光も雲によって遮られてしまう。
薄暗く冷たい街の底で反響する自分の足音と乱れた呼吸が男の意識を塞いでいく。
「ここは、……さっき通った……?」
どこか見覚えのある、建物のあいだを道が伸びている。
「いや……初めて通ったか……? どこなんだ、ここは」
来た道を振り返る。行く手とおなじ道が続いていた。
日差しの届かない、建物の日陰で、男の身体が総毛立つ。
全力疾走で熱を帯びた身体が一気に冷えていく。氷のような汗が流れ落ちる。
恐々とした固い動きで頭上をみあげる。外壁の剥がれ落ちた中層ビルの上には、木材やトタンでくみ上げられた質素な建物群が載っていた。
違法に増築され続けた家屋が積み上がり、城のように聳え立っていた。
崩れ落ちそうな危うさと、絶妙な配置で組まれた秩序が空に伸びている。
男はそれを見上げたまま息を飲んだ。
無数の視線が向けられている気がした。どこにも住人の姿はない。だが、建物のなかから、閉じた窓や戸の向こうから、あらゆるところから、それ以上の侵入を拒むような無言の警告を受けているようだった。
男の身体は、街の最奥に眠る化け物をまえにしたように竦んで動かない。
「どうした迷子か? お困りか?」
頭上から降って来た声に身体を跳ね上げる。
男の見上げた先、積み重なる建物に沿って螺旋をえがく階段にさきほどの青年の姿があった。勝手知ったる我が城のような振る舞いでゆっくりとした足取りで降りて来る。
「その様子じゃ、帰り道だってわかんなくなってんだろ」
「な、なんなんだよ。このめちゃくちゃな道が、わかるってのか」
「まぁな」
階段を下りきった青年は建物の屋上へと降り立った。違法建築群の土台となっている三階建てのビルだ。
「あんた、俺から逃げるとき右の路地に入ってから四つ目の角を左に曲がっただろ。そこ、五つ目の角を右に曲がって、さらに左に曲がって直線で抜けてたら通りに近い路地まで出れたんだぜ」
低い手すりを跨ぎ越すと、一メートルほどの離れた隣の建物へと飛び移った。ベランダと室外機を足場にして、まるで猫のように降りて来る。
「もっとも、きのう道だったところに掘っ建て小屋ができてて通れないとかしょっちゅだし、保証は出来ないけどな」
道に降り立つ青年に男はたじろいだ。
「……わ、悪かったよ。盗ったモンは返すから」
服のしたからいくつかの品物を取り出した。商店から万引きしたものだった。
それを見ると青年は眉根に細かなシワをよせる。目つきの鋭さが増し、相手を睨みつける。
「謝る相手が違ぇだろ。どうすんのか決めるのは俺じゃねぇ」
怯んだ男は背中を丸めてうわずった声をあげた。
「……あんた、何なんだよ……何者なんだ……?」
すると青年は口の端を持ち上げて、勝気な笑みを浮かべた。
「俺は便利屋だ」
彼が胸を張るとネクタイピンがチカッと白く輝いた。
「便利屋スターフィッシュの
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