合わせ鏡の向こう側

下等練入

第1話

「なにをしてもうまくいかない……」


 私――志保しほはそう独りつぶやきながら大きく息を吐く。

 今日何度目のため息だろうか。

 ため息が作り出す湿度のせいで、薄暗くじめじめとした部屋が私の気持ちまでじっとりと湿らせる悪循環に陥っていた。


 世間は今、五月病の流行時期のピークに到達した。

 残念なことに私もこの流行病はやりやまい罹患りかんしてしまったらしい。

 卒業式の日恋人に振られ、それをバネに楽しい大学生活を送ろうと決意して早二か月、私の希望は早々に打ち砕かれた。


 新しい恋人どころか、友達の独りもできない。

 バイトを始めても変な客に付きまとわれるし、店長に言っても改善しようとしてくれない。

 毎朝起きるたびにベッドに縛りつけられているようで、玄関から出る一歩を踏み出すにも十分以上かけている。


「もっと普通に生きたいのに……。もう疲れたよ……」


 この鬱々うつうつとした気分をどうにかできないかとネットでなにか調べても、「五月病です。この時期を乗り切れば好転します」としか出てこない。

 違うそんなことが知りたいわけじゃない。

 私はただ、私を振った八重香やえかが後悔するくらい充実した生活を送りたかっただけなのに。

 彼女を見返したいと思い、挑戦し失敗するたびにどんどんと頭の中で彼女が締める割合が増えていく。

 意識しちゃいけない、忘れなきゃいけないとわかっているはずなのに心がいう事を聞いてくれなかった。


「ねえ、なんで私のこと振ったの……」


 未だに消せないでいる彼女との写真にそう語りかけるが、デジタルデータになってしまった彼女から返事は来ることはない。

 永遠に変わることのない切り取った彼女の笑顔がそこにはいるだけだった。


 卒業式のあの日、「ごめん志穂、私たち大学も別だしさ、遠距離のせいで志保と喧嘩するのも嫌だから恋人から友達に戻っちゃダメかな?」と八重香は申し訳なさそうに首の後ろをきながらそう言ってきた。

 首の後ろを掻くのは八重香の癖でめんどくさいときや、さっさと話しを切り上げたいと思っている時すると私だけが知っている。


「もう私のこともう好きじゃない?」


 彼女の態度から私が好かれてないのくらいわかっている。

 ただどうしても、もしかしたら絶望しか見えないこの状況の中で少しの希望はあるのではないかと期待してしまう自分がいた。

 ただ現実はそんなに甘くない。

 八重香はため息をかみ殺す様な姿を見せると、半ば呆れと疲労が混じったような表情をした。


「そういうわけじゃないけど。志穂がそう聞くってことは今後絶対トラブるじゃん? だかさ、わかるでしょ」


 目ほど雄弁ゆうべんなものはない。

 そうたずねてくる彼女の目に私が映っていないことだけは疑いの余地よちうなく伝わってきた。

 これ以上私と付き合うのはめんどくさいとはっきりと物語っている。

 もう本当に終わりなのかな……。

 ただ友達として居られるなら、悪くはないのかもしれない。

 今にもあふれ出しそうになっていた涙を、彼女にばれない様グッと堪える。

 もし八重香が今後恋人を作らなければ友人としていい関係を築けるのではないかという愚かでわがままな考えの下、私は口を開いた。


「ところで友達ってことは、八重佳に新しい恋人ができたとかも報告されたりする? 惚気話とか?」


 そんなこと話さないでと内心強く願いながら彼女の返事を待つが、まるであらかじめ決められた台本でも読んでいるかのように間髪入れず答えてきた。


「まあ出来たらするかもしれない、志保も恋人出来たとかあれば聞くよ」


 ニコッという笑顔をこちらに向けてきたが、その笑顔が特別じゃないことぐらい私は知ってる。

 八重香お得意の作り笑い。

 万人に嫌われないための彼女の処世術。

 その笑顔を向けられきゃっきゃと黄色い声を上げる人たちを見て、本物の笑顔を知っている優越感に浸っていたが、まさか私がその対象になるとは思ってもみなかった。

 ただ誰が元カノの色恋の行方など知りたいだろうか?


「ならごめん、友達にはなれない……。もう連絡してこないで」


 絞り出したような声で何とかそう返事をすると、作り物だった彼女笑顔から一瞬で温度が消えた。

 まるで鉄仮面でも被ったかのような無機質な表情でこちらを見ると、「あっそう、わかった」と言ったきりそのまま一瞥もくれることなく、彼女は去ってしまった。

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