贖罪者

奥田光治

第一章 事件の終焉

 その事件は、二〇〇八年六月九日月曜日の夜に発生した。同日午後七時頃、東京都大田区蒲田駅近くの住宅街。警視庁蒲田西警察署地域課所属の中松義一郎なかまつぎいちろう巡査部長は、自転車で住宅街の巡回を行っているところだった。大学卒業と同時に警察官となり、交番勤務一筋で三十年も地元のお巡りさんとしての人生を送って来た男だった。同僚からは中松の力量なら充分に出世できるはずだと言われ続けていたが、中松自身は出世は性に合わないとこうして交番勤務を続けていた。

 そんな中松にとって、この夜間の巡回は日々欠かさず続けてきた日課のようなものだった。この日も中松は三十年間ずっと回り続けてきたルートで馴染みの住宅街を見回り続けていた。今までにも巡回中に家に侵入しようとする窃盗犯や喧嘩をする不良などを捕まえた事はあるが、幸運にも殺人などの重大犯罪に遭遇した事はなく、それが中松のささやかな自慢ではあった。

 だがこの日、いつも通りに巡回を行っていた中松の目に、何の前触れもなく突然とんでもないものが飛び込んできた。

「んっ?」

 それが中松の乗る自転車のライトに照らされた瞬間、中松は思わずそんな声を上げて急ブレーキをかけていた。夜になって人通りのない閑静な住宅街の道路の真ん中……そこに誰かがうつぶせになって倒れているのが目に入ったからだ。一瞬酔っ払いか何かかと思った中松だったが、その正体がわかった瞬間、そんな考えは一瞬で吹き飛んでしまった。

 なぜなら、道路の真ん中で倒れたまま動かなくなっていたのはセーラー服姿の女子高生と思しき少女だったからである。

「おい、君! 大丈夫か!」

 中松は自転車をその場に停めて少女の下へ駆け寄った。だが、その姿を見て中松は思わずギョッとしてしまった。道路に倒れているその少女のセーラー服の至る所に切り傷のようなものが確認され、そこから覗く白い肌から血がにじみ出ているのである。それは酔っぱらった不良少女や交通事故の被害者といった風ではなく、どう見ても誰かに切り付けられたとしか思えない有様であった。

 未成年者暴行……尋常でないその有様に、中松の頭にはそんな言葉が浮かび、一気に緊張感が高まった。

「君! しっかりしろ!」

 繰り返しそう呼びかけると、不意にその少女が呻き声を上げた。どうやら気絶しているだけで死亡はしていない様子である。一瞬ホッとした中松だったが、何気なく彼女の右手を見てそのまま絶句してしまった。

「これは……」

 彼女の右手……そこには一本の包丁が握られており、しかもその刃や包丁を握る彼女の右手自体が真っ赤な血で染まっていたのである。右手に傷はないので彼女の血というわけではなさそうだが、そうなると尋常ではない何かが起こっているのは間違いなさそうだった。

「一体何があったんだ……」

 そう呟いて改めて彼女の顔を見やると、不意に中松は彼女が自分のよく知る人物である事を思い出した。彼女はこの近くの住宅に住んでいる吉木瑠衣子よしきるいこという少女で、朝の巡回中によく礼儀正しく挨拶を返してくれる女の子という事で記憶に残っていたのである。最後に会ったのは一週間ほど前で、その時には特に変わった事はなかったはずだ。

 いずれにせよ、このままにしてはおけない。中松は無線を手に取ると、警視庁本部と救急にそれぞれ連絡を取って、応援と救急車を要請した。それから十分ほどして、救急車の方が先に現場へと到着した。

「どうですか?」

 中松が尋ねると、彼女を見た救急隊員は淡々とした表情で応えた。

「全身に無数の切り傷がありますが、幸い命にかかわるようなものはなさそうです。気絶しているだけのようですね」

「そうですか……」

 と、そこで近隣をパトロールしていたパトカーが一台、現場に駆けつけてきた。降りてきたのは中松とも顔見知りの若い警官二人で、それを確認すると中松は彼らに指示を出す。

「署の本格的な応援が来るまで、ここを見張っておいてくれ」

「構いませんが、中松さんはどちらへ?」

「彼女の家だ。これだけの騒ぎになっているのに誰も出てこないのはおかしいだろう。一人ついてきてくれ」

 そう言うと、中松は警官の一方を引きつれて、彼女が倒れていたところから三十メートルも離れていない場所にある彼女の家へと向かった。二階建ての小さな家で、玄関口に「吉木」の表札がかかっているが、その玄関のドアが開きっぱなしになっていて、中には明かりもついていない。彼女がこの家を飛び出してきた事は明白だったが、それだけに物音ひとつしない中の状態が不気味だった。中松は懐中電灯を取り出すと明かりをつけ、もう一人の警官に合図してゆっくり家の中に入っていく。

「すみません、警察です! 誰かいませんか?」

 玄関口でそう声をかけるが、返事はない。玄関から中に入ると手前右手に二階へ上がる階段、正面奥へ廊下が伸びていて、その先に半開きになった扉が確認できる。そして階段に明かりを照らすと、その所々に滴下血痕が続いているのが確認できた。どうやら、異常の元凶は二階らしい。

「入りますよ!」

 そう声をかけてから中松と警官は中に入り、ゆっくりと二階に上がっていった。だが、階段の踊り場まで来たところで、その歩みが止まった。

「こ、これは……」

 階段の踊り場……そこに腹部から血を流してうつぶせに倒れている、薄汚いつなぎ姿の四十前後と思しき男の死体が転がっていた。中松が、定年間近のこの歳になって警察官として初めて殺人事件にかかわる事になった事を理解したのは、それから少ししての事だった……。


 それから一時間後、現場となった吉木家は管轄する蒲田西警察署の刑事課の面々が詰めかけて騒然とした空気に包まれていた。路上で血まみれの包丁を握って倒れていた吉木瑠衣子は病院に搬送され、現在は治療を受けている状態である。

「どう思う?」

 蒲田西署刑事課の霧神治勝きりがみはるかつ警部補は、死体が発見された踊り場の前で部下の巡査部長にそんな質問を投げかけていた。

「どう、といいますと?」

「君にはこの事件がどう見えるか聞いているんだ」

 改めてそう問いかけると、巡査部長は少しためらいつつもはっきりと言った。

「……シンプルに考えれば、あの少女がこの男を刺し殺して家から逃げ出した……としか見えませんね」

「だよなぁ……」

 霧神は苦い表情で呻くように呟き、さらにこう続けた。

「だが、そもそもこいつは一体誰なんだ? 少なくとも、この家の人間じゃない事は確実だが」

 捜査が始まって少し経つが、この踊り場の男の身元は未だにわかっていなかった。最初はあの少女の家族かと考えられたのだが、連絡を取ってみた結果彼女の両親は健在で、そしてその両親以外に彼女の家族は存在しない事がわかった。今、その両親は事件の知らせを聞いてここに駆けつけているところである。となると、他人の家の階段の踊り場で死んでいるこの男はいったい何者なのかという話になってしまう。

「ひとまず、あの少女の情報を」

「はい。名前は吉木瑠衣子、十六歳。大崎駅前にある都立立山高校の一年生で、この家には両親と三人で住んでいます。両親に電話で聞いた話では、今日は両親が二人とも仕事の関係で帰りが遅くなる予定で、その間この家には彼女が一人きりだったようです」

「ふむ……。この男についてわかっている事は?」

「年齢は四十前後。検視官の報告では死因は腹部を刺された事による出血死で、死亡推定時刻は本日午後六時から六時半前後。つまり、中松巡査部長が路上に倒れていた吉木瑠衣子を発見する一時間から三十分ほど前という事になります。ただし、腹部の刺し傷以外にも全身に打撲痕が確認できました」

「殴られた、という事か?」

「いえ、どうやらこの階段の上から転げ落ちたようです。実際、二階の廊下に血だまりが確認されている事から、どうやら二階で刺された後で階段をこの踊り場まで転げ落ち、そのまま絶命したようですね」

「二階には何がある?」

 霧神が上を見ながら聞くと、巡査部長がすぐに答えた。

「二階には四部屋あって、家族それぞれの私室と両親の寝室に割り当てられています。なお、問題の血だまりは吉木瑠衣子の私室の前で確認されました」

「……ますます彼女が刺したとしか思えない状況だが、それ以外に何か手掛かりは?」

「一階の廊下の奥にリビングがあって、その横にキッチンがあります。そのキッチンの脇に勝手口があるのですが、その勝手口の鍵穴近くのガラスが小さく割られて鍵が開いている状態でした。おそらく、外からガラスを割って手を突っ込み、鍵を開けたのではないかと」

「住人の吉木瑠衣子がそんな事をするはずがないし、となるとそれはこいつがこの家に侵入した痕跡か」

「他に考えにくいですね。それと、そのキッチンの冷蔵庫がなぜか半開きになっていました」

「冷蔵庫?」

「勝手口の件がある以上、開けたのは確実にこいつですね。ただ、中はほとんど荒らされていなくて、一番上のシュークリームの箱の蓋が開いていただけでした。その割に中が無事なのが不思議なんですがね。あと、リビングのテーブルにはなぜか救急セットが出されていて、こちらは荒らされた形跡がありました。これも何が目的だったかまではわかりませんが」

「状況的に、何か家探ししていたって事か……」

「冷蔵庫の食料を食べるでもなくそのまま救急箱を調べている以上、そうなりますね」

 と、そこへ規制線をかき分けてさらなる集団が現場に姿を見せた。それを見て霧神が呟く。

「本庁捜査一課のお出ましだ」

 その言葉通り、先頭の男が霧神の前に出て挨拶した。

「本件を担当する、警視庁刑事部捜査一課第五係係長の岡田三四郎おかださんしろうだ。こっちは主任の品野彩芽しなのあやめ警部補」

「品野です」

 傍らに控える女性が小さく頭を下げる。年齢は二十代後半から三十代前半だろうか。まだ若いのに捜査一課の主任警部補であるところを見ると、ノンキャリアではなくキャリアか準キャリアの人間である事が予想できた。

「蒲田西署の霧神です。早速ですが、先程本庁に問い合わせた被害者の身元について、何かわかった事はありませんか?」

 ところが、それを聞いた瞬間、岡田の表情が硬くなった。

「それについてだが、この件については今後我々が主導して捜査を行う事になった」

「……という事は、身元がわかったという事ですか。前科者か何かですか?」

 だが、その問いに対して岡田は首を振った。

「いや、ある意味もっとひどい。送られた指紋をデータベースで検索した結果、被害者の身元が判明した。名前は岸辺和則きしべかずのり、三十九歳。……この名前に聞き覚えは?」

 それを聞いた瞬間、霧神の表情が変わった。何しろその名前は、霧神が署内で毎日のように見ている名前だったからだ。

「まさかこいつは……」

「あぁ。風貌が変わっているから一見するとわかりにくいが確かだ」

 岡田がその正体を告げる。

「岸辺和則は五年前、香川県高松市で妻を惨殺して逃亡し、現在に至るまで指名手配を受けていた凶悪な殺人犯だ。香川県警の捜査本部からも照会依頼が来ていて、本庁はちょっとしたパニックになっている」

 それは、五年に渡って全国を逃亡し続けてきた殺人犯の、あまりにも唐突過ぎる最後だった。


 翌日、蒲田西署に設置された捜査本部で、殺された殺人犯・岸辺和則に対する情報共有が行われていた。五年前の殺人事件は当時世間の注目を集めていた事もあり、その犯人が都内の住宅地で殺されたという結末に、捜査員たちも戸惑いを隠せないでいた。

「事件発生は五年前……二〇〇三年の六月六日深夜。岸辺は当時住んでいた香川県高松市内の自宅で、当時三十三歳だった妻の岸辺美里きしべみさとを自宅にあった包丁で刺殺。遺体は翌日、現場を訪れた新聞配達員が開きっぱなしになっていた玄関を不審に思って室内を確認した事で発見されましたが、その時点ですでに岸辺は逃亡し、以降行方はわかっていませんでした」

 事件の急転を受けて、急遽香川県から駆けつけてきた香川県警刑事部捜査一課の柳村琳太郎やなぎむらりんたろう警部が捜査関係者に五年前の事件の詳細を説明していた。五十代半ばと思しき白髪交じりの彫りの深い顔の刑事で、いかにも古き良き現場一筋叩き上げの刑事と言った風貌である。柳村の説明に対し、岡田がすかさず質問する。

「犯人が岸辺である事に間違いはないのですか?」

「その点については間違いないと思って頂きたい。五年前の捜査で、すでにかなりの証拠が挙がっています。そもそも本人が逃走しているところからして問題ですし、現場から押収された凶器の包丁には岸辺の指紋が付着。さらに近所に住む夜勤明けの警備員が、帰宅途中に現場から血痕が付着した服を着て慌てて飛び出してくる岸辺の姿を目撃しています。それ以外にも彼が犯人だと特定する物的証拠は山ほどあり、彼が妻を殺害した真犯人である事に疑いはありません。我々もそれで奴の逮捕状を取り、全国に指名手配している状態でした。まさか……今になって都内の一般住宅内で殺される事になるとは、夢にも思っていませんでしたが」

 柳村は首を振りながらそう答えた。

「岸辺が妻を殺害した動機は?」

「県警内でいくつか推測は立てられていますが、決定的な決め手がなかったので残念ながら現在に至るまで一つに特定する事ができていません。従って本人の自白が必要だったのですが、こうなってはもう……」

 ここで話は今回の事件の話題へと移った。霧神が前に立って報告する。

「現場の状況から考えて、岸辺が勝手口の窓を割って吉木宅に侵入して室内を物色中、二階で吉木瑠衣子と鉢合わせをしたと考えるのが妥当かと思われます。勝手口付近には岸辺の靴跡も検出されており、奴がここから侵入したのは確実です。また、凶器の包丁は吉木宅にあった物ではない事が両親によって確認されており、岸辺が持ち込んだと考える他ありません」

「包丁に指紋は?」

「吉木瑠衣子の右手のものだけでしたが、岸辺は軍手をはめていたため奴の指紋が残っていない事に不思議はありません」

「つまり、岸辺は包丁を持った上で勝手口から不法侵入し、女子高生がいる部屋に姿を見せたという事か……」

 どう考えても、悪意があっての行動としか思えなかった。

「実際、医者の話では吉木瑠衣子の体に何カ所もつけられた切り傷は凶器の包丁によるものと一致しており、さらに凶器の包丁からも岸辺の血液以外に吉木瑠衣子の血液反応が確認されています。包丁で刺される前に、岸辺がその包丁で吉木瑠衣子を切りつけていたのは疑いようのない事実です」

「確かにそうだ。問題は、誰が岸辺を刺したかという事だが……」

 しかし、状況的にもはや結論は明確だった。

「被害者……ここはあえてそう呼ばせてもらいますが、被害者の吉木瑠衣子が反撃して岸辺から包丁を奪い、そのまま岸辺の腹部を刺した……。そう考えるしかないと思われます」

「まぁ……そうなるだろうな」

 岡田が頷き、他の捜査員たちもその意見に同意するようなしぐさを見せた。どう考えてもこの事件は、瑠衣子を襲撃した凶悪殺人犯の岸辺が、瑠衣子からの想定外の返り討ちを食らって死んだとしか思えなかったのである。

「となれば、吉木瑠衣子には正当防衛が成立する事になるな。まぁ、そうでもなければ一女子高生が見知らぬ男を殺す理由など想像もできないが」

「念のため、彼女の学校で話も聞きました。事件当日、彼女は所属する部活を終えた後、午後五時には学校を出ています。これは複数の友人の証言によって確実です。学校から自宅まで交通機関等の所要時間を考えると、午後六時には自宅に到着していたと考えられます」

「岸辺和則の死亡推定時刻は午後六時から六時半。奴が吉木瑠衣子の返り討ちで殺害されたとすれば襲撃時間もほぼ同じだろうから、時間に矛盾はないな」

「あとは、本人から話が聞ければ一番なのですが……」

 その言葉に岡田は頷いた。

「その点はこちらに任せてほしい。病院には品野君がついていて、吉木瑠衣子の意識が戻り次第連絡して来る手はずになっている。聴取も同じ女性の方がやりやすいだろう。それより、事件当日の彼女の様子に不自然な点はなかったのか?」

 その問いに対し、霧神は即座に答えた。

「友人たちの話では、表向きは普段と変わった様子はなかったと言います。ただ、友人の中でも特に仲のいい子が、事件の五日ほど前に気になる事を彼女から聞いたと言っています」

「気になる事?」

 霧神は少し声のトーンを低くして答えた。

「『気のせいかもしれないが、最近、家の近くで誰かに見られているような視線を感じていて気味が悪い』と」

 その瞬間、岡田たちの表情に緊張が走った。

「……彼女は、事件の数日前から誰かに監視されていた可能性があるというのかね」

「断定はできませんが……」

 と、その時岡田の携帯が鳴った。見ると、相手は病院にいる彩芽からである。

「失礼、病院からだ」

 そう断ってから電話に出る。

「私だ……うむ……そうか……」

 しばらく相槌を打っていた岡田だったが、次第にその表情が険しくなっていく。

「確かかね……ふむ……あぁ……そうか……わかった、では後で」

 そこで電話は切れる。岡田は深くため息をつくと、捜査本部の全員に会話の内容を報告した。

「たった今、吉木瑠衣子の意識が戻った」

 おぉ、と一瞬安堵の声が響く。が、岡田の表情は険しいままだった。

「だが、厄介な事になった」

「何かあったんですか?」

 霧神のその問いに対し、岡田は重々しい口調で告げた。

「意識は戻ったが……ショックからか、事件当時の記憶を思い出せないと主張しているらしい。私の部下が尋問を試みているが……少し厄介な事になるかもしれないぞ」


 同じ頃、蒲田西部病院の一室で、彩芽は意識が戻ったばかりの瑠衣子と対面していた。ベッドの傍らには担当看護師や瑠衣子の両親がいて、彼らが立ち会う中での尋問である。

「本当に何も思い出せないの?」

 彩芽の問いに、瑠衣子は恐る恐ると言った風に頷く。

「私……何でこんなところにいるんですか? 部活が終わって、学校を出て……その後……思い出せない……私に、何があったんですか……何で警察の人がいるんですか……」

 困惑気味に言うその表情に、嘘は感じられなかった。何も思い出せないというのは事実らしい。

「落ち着いて。まずはゆっくり息を吸って……」

「何なんですか……今、いつなんですか!」

「今日は六月十日の火曜日よ。あなたはどこまで覚えているの?」

「わ……私は……部活を終えて……学校を出て……その後がわからない……何で……何でその後急に明日になっちゃってるんですか!」

 パニック状態の瑠衣子に彩芽は辛抱強く尋ねる。

「学校を出たのは何時頃なの?」

「ご、五時頃……だったと思う……その後、何がどうなったのか思い出せないの!」

 どうやら、事件直前の学校を出たところで記憶が途切れてしまっているらしい。だが、彼女は改めて自身の姿を見て半狂乱状態に陥りつつあった。

「何で……何で私、こんなに全身傷だらけなんですか! 何でこんなに右手首が痛むんですか! 何で……どうして……」

 泣きじゃくりながら叫ぶ彼女に彩芽はなおも何か尋ねようとしたが、後ろから肩を叩かれてそれはできなかった。振り返ると、主治医が黙って首を振ってこれ以上の質問を許さない構えを見せている。彩芽も現段階での尋問はこれ以上不可能と判断して、一度病室の外に出た。

「彼女の容体はどうなんですか?」

 彩芽が尋ねると、四十代半ばと思しき『禾本なぎもと』と書かれた名札を付けた主治医は今の彩芽の尋問に対して少し非難めいた視線を送りながらも答えてくれた。

「全身の切り傷は大したものじゃありません。命にかかわるものでもないし、刃物が鋭かったのが逆に幸いして、このまま安静にしておけばほとんど跡が残らないまま治るでしょう。性的暴行等の痕跡についても一切確認されませんでしたのでそちらの方も心配しなくても大丈夫です。あと、右手首を軽くひねっていますが、これは無理な体勢のまま右手一本で相手を刺したがためだと思われます。それ以外に外傷はありませんね」

 報告書によれば、包丁には彼女の右手の指紋のみが付着し、岸辺の血痕が付着していたのも右手だけだった。抵抗する彼女が岸辺との格闘中に無我夢中で相手から包丁を奪い、そのまま反射的に体勢を整える事無く右手一本だけで相手を刺したと考えれば辻褄は合う。もちろん、か弱い女子高生が右手一本で無理な体勢から大の男の腹部を刺せば、右手首をひねるくらいのことはするだろう。つまり、右手の捻挫は彼女が岸辺を刺した事を明確に示すものだった。

「ただ、事件のショックで事件前後の記憶をなくしているのは事実のようです」

「治るんですか?」

「さぁ、そこまでは私には何とも……。こういうのは、治るときはあっさり治りますが、治らない時は本当に死ぬまで治りませんからね。御気の毒ですが……」

 と、そこへ彼女の母親の吉木波瑠よしきはるが遠慮がちに顔を出した。瑠衣子の方は父親の吉木啓吾よしきけいごがついているらしい。

「あの……娘は……」

 禾本医師が先程と同じ説明を波瑠にもする。それを聞いて、波瑠は少し不安そうな表情を浮かべながらも、命に別条がないという事で少しホッとしたような顔をした。だが、彩芽はそんな彼女にもいくつか質問をしなければならなかった。

「お母さん、死んだ男……岸辺和則に心当たりはありませんか?」

「い、いいえ! だってその人、指名手配中の殺人犯なんですよね。そんな人とかかわりを持ったことなんかありません」

 確かにどう考えてもこの一家と岸辺に繋がりらしい繋がりなど確認できなかった。

「事件当日、何か変わった事はありませんでしたか?」

「そうですね……。そう言えば、昨日の朝は停電が起こって大変だった事を覚えています」

 波瑠の言葉に彩芽は顔を上げた。

「停電、ですか?」

「はい。どうも玄関脇にある配電盤が故障したらしくて、すぐに夫が電力会社に電話しました。でも、幸い大したことはなくて、駆けつけた業者の人が一時間くらいで修理しました」

「それは故意にいたずらをされたという事ですか?」

 もしそうなら何か事件に関係があるかとも思ったのだが、波瑠は首を振った。

「いえ、業者さんの話だと、老朽化による機械故障が原因みたいです。修理が終わった時には娘も夫ももう家を出ていたので私が料金を払ったりして対応して、その後すぐに私も出勤するために家を出ました。午前九時を少し過ぎた頃だったと思います」

「失礼ですが、お仕事は?」

「夫は民事専門の弁護士、私はインテリアデザイナーをしています。私の所属する事務所は十一時からの開業になっているので、私は出勤が多少遅くなっても問題なかったんです。ただ、その後は警察から事件の連絡を受けるまで家には戻っていないので、その間家で何があったのかはわかりません。多分、夫も同じだと思います」

 時間帯が事件発生時刻とは違う事もあり、どうやらこの停電は事件に関係なさそうである。彩芽は質問の方向を変える事にした。

「捜査本部の調べでは、岸辺はお嬢さんを襲う前にキッチンやリビングを物色しているみたいなんです。何か心当たりは?」

「キッチンやリビング、ですか?」

 そう聞いて彼女は考え込んだが、すぐにその顔色が変わった。

「ま……まさか……」

「どうしたんですか?」

「……じ、実は、一週間くらい前に近くの公園で近所の奥様達と井戸端会議をしていた事があるんですが、その時に、ヘソクリの隠し場所の話になって……」

「……もしかして、隠し場所を話した?」

 波瑠は青ざめながら頷いた。

「もちろん小声でしたけど、こうなってみると誰も聞いていなかったと自信を持って言えません」

「そのヘソクリはどこにあるのですか?」

「その……リビングの奥の棚の菓子箱の中に入れてあるんです……。預金通帳とキャッシュカードで、そこに旅行の積立貯金が二百万円ほど入っています。暗証番号も私の誕生日だから簡単に引き出せるはずです」

 おそらく、岸辺が侵入して探していたのはそれである。

「奥さん、あなたはその時どう言ったんですか?」

「どうって……『うちだったらそういうものを隠すとき菓子箱を使うかなぁ』って」

 推測だが、岸辺はどこからかそれを聞いたとき「~箱」という部分までしか聞き取れなかったのだろう。それが故に、彼は「箱」の名がつく物を調べていたのではないか。例えば冷蔵庫の中のシュークリームの箱や救急箱を……

「その時に彼女が帰宅して、気付かれる前に襲った……」

 彩芽は携帯を取り出し、すぐにこの推理を捜査本部に知らせた。それが終わって一息つくと、波瑠が重苦しい顔でこちらを見ていた。

「あの……娘には、どう伝えたらいいんでしょうか。その……自分が人を刺したかもしれない事を……」

 そう、彩芽にはもう一つ重い仕事が残っている。すべてを忘れている彼女に、彼女が岸辺和則を返り討ちにして殺害したかもしれない事を伝えなくてはならないという事だ。今ここで伝えなくとも、この情報社会ではいずれ必ず彼女の耳にこの情報は入ってしまう。というより、このままいけば事件は明日にでも彼女の正当防衛という形で決着がつき、そうなれば新聞やテレビでその事実が大々的に報道されてしまうだろう。そうなって立ち直れないほどのショックを受ける前に、誰かがやらなければならない仕事だった。

 だが、混乱状態に陥っている今はタイミング的によろしくない。背後で主治医も無言で首を振っている。だが、明日の新聞発表までに知らせねばならない事も事実である。

「もう少し……もう少しだけ……待ちましょう。それくらいのわがままは許されるはずです」

 彩芽の重い言葉に、誰もが深いため息をついて同意したのだった……。



 その後、被害者……すなわち吉木瑠衣子本人からの目撃証言こそ得る事はできなかったが、数々の状況証拠から事件の状況は概ね明らかにされる事となった。

 現場の状況から、岸辺和則は事件の一週間前に公園を通りかかった際に吉木波瑠の家のヘソクリの事実を知って、それを強奪する事を計画。一週間に渡る下調べの後、決行に移した。瑠衣子が感じていたという謎の監視するような視線もそれで説明がつき、さらに周辺への聞き込みの結果、現場近くを毎日歩いて通学している近所の女子大生が、事件の三日前の夕方、自宅に帰宅する途中に吉木宅の辺りをうろついて中を伺っている怪しい男性を目撃していた事が発覚。高田というその女子大生の目撃証言ではその男は目立つつなぎを着ており、写真を選ばせたところ彼女は事件当日に岸辺が着ていたつなぎを見事に選び抜いた上、さらに同じようにして顔写真も選ばせたところこれも迷うことなく岸辺のものを選出。これで岸辺が数日前から被害者宅を標的として狙っていた事実がはっきりした。

 事件当夜、岸辺は勝手口の窓を割って鍵を開け、吉木宅に侵入。これは勝手口の窓ガラスに残されていた軍手の繊維が岸辺の付けていた軍手の物と一致し、足跡も一致した事から確定である。その後、彼は吉木波瑠のセリフから室内の「箱」を探していたが、その最中に被害者の吉木瑠衣子が帰宅。発覚を恐れた岸辺は二階の部屋に行った瑠衣子を追いかけて襲撃し殺害しようとしたが、彼女の抵抗に逢って部屋の前で包丁を奪われ、そのまま反射的に彼女が突き出した包丁に腹部を刺されて人事不省。いったんは二階から踊り場まで追いすがったもののそこで力尽き、その後彼女は包丁を持ったまま家の外の路上に飛び出したまでは良かったものの、そこで事件のショックから意識を失った。

 捜査本部はその日の夜のうちにはこの結末にたどり着き、特に矛盾らしい矛盾もなく、反論もなかった事から検察もこれを受理。岸辺和則は被疑者死亡のまま書類送検とし、吉木瑠衣子は正当防衛で不起訴という形で事件は早急に幕引きとなった。

 翌日、蒲田で起こったこの事件に対し、新聞各社は社会面の隅に以下のような小さな記事を掲載した。


『警視庁は、六月九日に大田区蒲田の住宅街で発生した殺人事件について、被害者が五年前に香川県内で起こった殺人事件の被疑者として指名手配されていた男であり、この男が現場の住宅に住む女子高生を襲った際に被害者の抵抗にあって死亡した正当防衛事案であると発表した。死亡したのは指名手配中だった岸辺和則容疑者で、岸辺容疑者は五年前に香川県高松市の自宅で妻の岸辺美里さんを殺害したまま逃亡し、行方がわからなくなっていた。警察の発表によれば、岸辺容疑者は六月九日に大田区蒲田の住宅に金銭目的で侵入し、当時この家にいた高校生の長女(十六)に殺意を持って襲い掛かった所、抵抗した長女に持っていた包丁を奪われて逆に刺されてしまい、そのまま死亡したとの事である。これに伴い、警察は五年前に発生した岸辺美里さん殺害事件及び今回の住宅襲撃事件について岸辺容疑者を被疑者死亡のまま殺人及び殺人未遂の容疑で書類送検とし、長女については正当防衛が認められるとして罪に問わない方針を固めている』


 正直、他の事件の記事に比べれば非常に簡潔で短い記事だった。確かに指名手配犯が返り討ちにあって殺害されたということ自体はやや驚きを持って受け止められたが、所詮は自業自得だと同情しない声の方が大きく、また被疑者が死亡して捜査自体が終結してしまった事もあり、世間も「よくある一事件」として即座にこの事件の事を忘れ去ってしまった。実際、その次の日にはこの事件の話など記事のどこにも載らなくなってしまったものである。


 ……だが、そんな誰もがこの「ありふれた事件」をすっかり忘れてしまった中、ただ一人、この事件に心を苦しめ続けられている人間がいたのである……。

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