幕間

幕間1 黒部ダム高校生溺死事件

 二〇〇七年三月二十六日月曜日、富山県黒部ダム。日本最大の貯水量を誇るこの巨大ダムは、未だに春の訪れを迎えているとはとても言えず、あちこちにまだ積雪があるのを確認できる。しかしながら、雪解けはすでに始まっていて、山からの雪解け水が一気にダムに流れ込み、ダムの水位は比較的上昇していた。とはいえ、この程度はこのダムにとって特段イレギュラーな事態というわけでもなく、毎年春になると訪れる年中行事のようなものだった。

 ところが、この日ダムの管理室では職員たちが慌しく電話をかけていた。相手は富山県警である。

「そうです。ダムの真ん中に何か浮いているんです。遠目からしか確認できていませんが、多分人間ではないかと。すぐに来てください!」

 すぐに放水が停止され、ダム職員たちがボートでダム湖の真ん中に向かう。近づいてみると、それは黒っぽい服を着た人間だった。うつぶせであるため顔は見えないが、明らかに男性である。

「土座衛門だな」

 職員の一人が呟き、それを合図に用意した棒などで死体を引き寄せる。死体はゆっくりとボートに近づいていき、その詳細が明らかになった。

「こりゃ、学生服か?」

 職員の一人が訝しげな表情をした。確かに、着ている黒っぽい服は高校生が着ていそうな学生服だった。ひっくり返してみると、まだあどけない高校生くらいの男子の顔が見える。目を閉じており、比較的穏やかな表情をしているのが印象的だった。

「若いのに入水自殺かな?」

「こんな場所でか? 子供が自殺に来るような場所じゃないぞ」

 観光地として有名な黒部ダムであるが、当然ながらダムゆえにかなりの山奥に存在している。自殺しようと思ったからといって気軽に来られるような場所ではない。

「でも、目立った外傷もありませんしねぇ」

 別の職員がザッと死体を見ながら呟く。

「とにかく、このままにしておけんな。こいつを引き上げるぞ」

 その言葉を合図に、職員たちは死体をボートの上に引き上げる作業を始めた。富山県警のパトカーがサイレンを鳴らして駆けつけたのは、その数分後の事である。

「土座衛門と聞きましたが」

 富山県警刑事部捜査一課の神崎十三かんざきじゅうぞう警部は、朝っぱらから呼び出されたためか少々不機嫌そうに聞いた。現場一筋のベテラン刑事だが、一週間後の四月一日付で定年退職する事になっている。そのために最近は大きな事件にはほとんど出ず、比較的処理が簡単な事件を担当しながら後進に対する引継ぎを行う事が多くなっていた。今回も近隣の所轄で引継ぎ処理を行っていたところ、通報があって引っ張り出された形であり、時期的にこれが刑事として担当する最後の事件になりそうであった。

「ええ。それも、学生服を着た中学生か高校生くらいの男の子でして」

 対応に出たダム職員が困惑気味に告げる。

「ふーん、となると、素直に帰れそうにはなさそうだな」

 神崎は少し複雑そうに呟いた。彼もさすがにそのくらいの歳の子供がわざわざこんなところで自殺するとは思えないようだった。となると、一通りの捜査は必要になってくる。つまり、このまますぐにUターンと言うわけにはいかないという事だ。

「遺体は?」

「浮かべておくわけにもいかないので、ボートに引き上げて、今は船着場に」

「結構です」

 神崎は船着場の方に向かった。滅多に起こらないとはいえ、ダム湖に死体が浮かぶ事がないとは言わない。だが、さすがに学生服を着た未成年というのは初めてではあるらしく、先着した地元の刑事たちも戸惑っているようだ。

 船着場に行くと、死体は桟橋の上に寝かされていた。すでに鑑識が一通りの検視をしている。

「お疲れさん」

「ああ神崎さん、ご到着ですか」

 鑑識が立ち上がって報告する。

「ザッと見ましたが、溺死で間違いなさそうですね。自殺か他殺か、はたまた事故死なのかは不明ですが」

「身元を特定できるような物は?」

「ポケットに財布が入っていました。その中に学生証が」

 鑑識がビニールに入れられたカード式の学生証を見せる。

「生田徹平……それがこのホトケの名前か。高校は……都立立山高校?」

 神崎は眉をひそめる。

「おい、都立って事は東京か?」

「おそらくは」

「何で東京の高校生がこんなところで死んでいるんだ?」

 神崎は死体を見下ろしながら眉をひそめる。自殺にせよ他殺にせよ事故死にせよ、東京の高校に通うこの生田という男子生徒が、はるか離れた富山の山奥のダムにいた理由が全くわからないので当然と言えば当然である。

「少なくとも、自殺に来るには遠すぎるな。東京なら、自殺者が行くのは樹海だろ」

 そんないささか偏見めいた事を呟いた時だった。所轄の刑事が駆け込んできた。

「警部、その制服と同じ格好をした高校生のグループが来ているんですが」

「何?」

 神崎は険しい表情をした。

「用件は?」

「メンバーの一人がいなくなって探していたら、パトカーが見えたので不安になったとの事ですが」

「すぐに確認してもらえ」

 神崎は指示を出した。しばらくして、死体と同じ制服を着た一団が不安そうに姿を見せた。

「東京の立山高校の方ですか?」

「は、はい」

 メンバーの一人が困惑した風に答える。

「あの、僕たちを呼んだって事は、何かあったんですか?」

 リーダー格と思しき男子生徒が尋ねる。

「いなくなったのは生田という名前の人ではありませんか?」

「そうですけど……」

「申し訳ありませんが、確認して頂きたい事があります。実は、今朝になってダム湖から溺死体が上がりましてね。その溺死体のポケットから生田徹平の学生証が見つかっているんです」

 メンバー全員の表情が青ざめた。

「あぁ、見ていただく前に、一つお尋ねしたいのですが」

「何でしょうか?」

「あなた方は、そもそもどうしてこんな場所にいたんですか?」

 神崎の問いにメンバーは少々戸惑っていたが、やがてリーダー格の男が告げた。

「僕たちは部活動の一環で、この近くのロッジで合宿をしていたんですが……」

 その数分後、彼らによって死体が立山高校一年生の生田徹平のものである事が確認された。

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