第四章 対決

 その言葉を聞いた瞬間、瑞穂としては最初呆気を通り越して呆然としたというのが正直な感想であった。だが、その言葉の意味がわかってくるにつれて、今度はこれまで以上の大パニックが瑞穂を襲った。

「ちょっと! ちょっと待ってください!」

 思わず、瑞穂は叫んでいた。

「何で、どうしてわかったんですか!」

「どうしてと言われてもね」

「今までの情報のどこに犯人がわかる要素があるんですか!」

 混乱状態の瑞穂に対し、榊原は当惑しながらも真剣な表情でこう言った。

「どこだと言われれば、すべてという事になる。今まで聞いてきたすべての情報を総合した結果だ」

「そんな事言われても……」

 瑞穂にしてみれば、どうにも納得できない。聞いている情報は同じなはずなのに、なぜこの探偵には犯人がわかるのか瑞穂にはまったくわからないのだ。

「せめて、ポイントとなるべき事だけでも教えてください」

「ポイントか。そうだな……」

 榊原は少し考えたが、やがてこんな事を告げた。

「では、推理の取っ掛かりとなった情報を言おう。一つはあのビルの非常階段。もう一つはテンキーだ」

「は、はい?」

 正直、瑞穂からしてみれば何を言っているのかさっぱりわからない。今回の事件、犯人は正面の玄関を通っているはずで、非常階段が登場した場面など一度もない。テンキーにしても、犯人が社員六人の中にいる事を特定するくらいしか情報的価値はなかったはずだ。それがなぜ推理の取っ掛かりになるのか。

「それってどういう……」

「悪いが、時間がない」

 榊原はポケットから取り出したメモ用紙に何か書き込んで破ると、運転席の斎藤に渡した。

「ここに行ってくれ。大至急だ」

 そのメモ用紙を見た斎藤の表情が一瞬当惑するのを、瑞穂は見逃さなかった。

「本当にここですか?」

「ああ。事態は一刻を争う」

 斎藤は不思議そうな表情をしながらも、軽く頷くとパトカーを出発させた。

「新庄、聞こえるか?」

『はい』

 斎藤が無線で新庄に呼びかける。

「榊原さんが何かを掴んだようだ。私はそれに同行する。問題の二人に対する事情聴取は少し待つよう伝えてくれ。しばらくは監視を続行。そっちは頼む」

『了解しました。健闘を祈ります』

 簡単な通信である。が、その会話は警察が榊原に対して全面的な信頼を置いている事をうかがわせるものであった。

「あの、どこに行くんですか?」

「真犯人に会いに行く」

 瑞穂の問いに対し、榊原はあまりにもあっさりと答えた。

「真犯人って……」

「斎藤、問題の人物に会ったら私に話をさせてほしい。これはあくまで私の推理にすぎない。正しいかどうかは、私が直接話して判断する。これなら万が一間違っていても警察に迷惑をかける事はない。それでいいか?」

 斎藤は少し押し黙ったが、すぐに頷いた。

「誰が相手なのかは私にもわかりませんが、それで構いません。あなたがそこまでするという事は、よほど確信があるようですし」

「助かる」

 そう言ったきり、榊原は目を閉じて黙り込んでしまった。おそらく、頭の中では今までの情報をもう一度再確認しているのだろう。

 その隣で、瑞穂も必死に考えていた。犯人はテンキーの存在から残された社員三人のうちの一人で、榊原の話だと品倉は外されるらしい。というより、話しぶりから見てどうも品倉も被害者の一人に過ぎないようだ。となると、残りは二人……新開と下木だけである。このうち、時間的に品倉殺害の犯行が可能なのは新開だけ。なら、真っ当に考えれば新開が犯人だろう。

 だが、そうなると榊原が言った「非常階段」の意味がわからなくなってしまう。彼が犯人なら、非常階段など登場する余地がないからだ。結局、いくら考えても情報が堂々巡りするだけで真相らしきものが一切見えてこない。

 と、不意に車の速度が落ちた。

「間もなくです」

 斎藤の言葉に、榊原は目を見開いて小さく頷いた。そこはどうやらマンションが林立するエリアらしかった。という事は、誰かの自宅という事だろうか。

 やがて、あるマンションの棟の前で覆面パトカーは停車した。

「ここです」

 斎藤が緊張した様子で告げる。それを見て、急に瑞穂も緊張してきた。考えてみれば、これから始まるのは推理小説でおなじみの、犯人と探偵の一騎打ちという事ではないか。しかも、榊原の推測が正しいなら、相手は正真正銘の殺人犯である。

 マンションの周辺は暗く、薄暗い街灯が光っている程度だ。人通りはまったくない。その暗闇を、榊原はジッと睨みつけていた。まるで、誰かがやってくるのを待っているようにも見える。

「斎藤」

 不意に榊原が呼びかけた。

「何でしょうか」

「大至急、これについて調べてくれないか?」

 榊原は再び何かを二枚ほどメモして斎藤に手渡した。それを受け取り、まず一枚目を見る。その内容は瑞穂にも見えた。

『山手線大塚駅の防犯カメラを調べてほしい』

 斎藤が困惑した表情をする。

「これはどういう意味ですか? 大塚駅のカメラなら犯人逃走の映像が映っている可能性があるのですでに調べてありますが」

「それは犯行後の時間帯だな」

「もちろんです」

「もっと正確に調べてほしい。具体的には、事件前の午後九時からだ」

 不思議そうな表情をしたままではあったが、斎藤は無言で頷く。現場に来る犯人が映っているとでも思っているのだろうかと瑞穂は思ったが、榊原の真剣な表情に口を挟む事ができない。

 続く二枚目は、死角になって瑞穂には内容を読み取る事はできなかった。だが、一瞥した斎藤の顔色が変わった。

「榊原さん、これは……」

「頼む」

 榊原の真剣な様子に、斎藤も小さく頷くと、無線で何事かを指示していた。ただ、声が小さくて瑞穂には聞き取れない。

『了解です。すぐ調べます』

 無線の向こうから新庄が答え、すぐに通信は切れた。

「これで手駒はそろった。後は待つだけだ」

 榊原は小さくそう言った。

 そのまま時間が過ぎていく。時刻は、やがて午後九時に差し掛かろうとしていた。と、その時だった。不意に榊原が緊張した様子で言った。

「来たか」

 榊原の言葉に、瑞穂は慌ててその視線の方向を見る。すると暗闇の向こうに、確かに誰かが歩いているのが見えた。

「君、ここで待っていたまえ」

 突然榊原は瑞穂にそう言った。

「この先はあまりに危険だ。さすがに連れて行くわけには……」

「嫌です」

 緊張しながらも、瑞穂は即答した。

「私も行きます。見られるのが駄目なら近くに隠れています。ここまで来て置き去りなんてあんまりです」

「これは君たちのやっている遊びじゃない」

 榊原が小さいながらも厳しい声で言った。が、瑞穂も負けていない。

「最初に言いましたよね。私だって遊びのつもりでついて来たわけじゃありません。遊びじゃない探偵の仕事がどんなものかを知りたくてついて来たんです。いまさら前言撤回するつもりはありません」

「相手は殺人犯だぞ。もしかしたら命にかかわるかもしれない」

 榊原がさらに厳しい声で言う。

「それでも、私は知りたいんです。私の意志です。私だって、伊達や酔狂でこんな事は言っていません!」

 瑞穂も榊原を睨む。すでに殺人現場を見た段階で覚悟はできている。二人の信念が無言の視線を通してぶつかる。

 やがて、榊原がふうとため息をついた。

「時間がない。こんな事を議論している場合じゃない。忠告はした。それでも来るというなら勝手にしたまえ。ただし、斎藤の指示に従って、絶対相手に顔を見られないように!」

 最後は叩きつけるような言い方だった。

「それと最後に一つ。この先にいったらもう引き返せない。もしかしたら、今までの平凡な日常に戻れなくなるかもしれない。その覚悟はあるかね?」

 その榊原の言葉に、瑞穂は少し迷った。だが、判断は一瞬だった。

「望むところです」

「……わかった。いい度胸だ」

 そう言うと、榊原はアタッシュケース片手に車を飛び出していった。瑞穂も後に続く。

「こっちへ」

 斎藤が指示を出し、瑞穂と斎藤は手近な茂みの陰に隠れた。榊原だけが問題の人影に近づいていく。やがて二人はマンション前の開けた空間で相対した。

「どうも、こんばんは」

 それが榊原の第一声だった。不意に片手にアタッシュケースを持ったスーツ姿の男に挨拶されて、人影はビクッとしたようにその場に立ち止まる。よく見ると、人影は何かを持っている。

「あれは……」

 瑞穂の横に隠れる斎藤が厳しい声で小さく呟く。その間にも、榊原は言葉を続けていく。

「初めまして。品川で私立探偵を開業している榊原恵一と言います。以後、お見知りおきを」

「探偵……」

 人影が答えるが、少し遠いせいか瑞穂には聞き取りにくく、声もくぐもって聞こえた。

「探偵が私に何の用ですか?」

「実は今、ある筋の依頼で例の豊島区の生命保険会社で起きた殺人事件を追っていましてね。もちろん、あなたはご存知のはずですが」

 相手は押し黙ったまま答えない。しばらく沈黙がその場を支配したが、やがて耐え切れなくなったのか相手が言葉を発した。

「それで、私に何か?」

「いや、何」

 直後、榊原は何気ない様子でずばり切り込んでいく。

「せっかくですので、あなたに事件の真相でもお知らせしましょうかと思いましてね」

 暗くてよく見えないが、相手がたじろいだのが瑞穂にもわかった。

「何の事でしょうか」

「言った通りです。事件の真相……これをあなたにお話ししようと思いましてね。こうして待たせて頂いたわけです」

「なぜ私に?」

「その理由はあなたが良く知っていると思いますがね。どうされますか?」

 榊原の鋭い視線が相手を射抜く。が、相手は何を思ったのか、その視線を真正面から受け止めてこう応じた。

「……面白いですね。いいでしょう、ぜひ聞かせてください。何の関係もないあなたがどんな推理をしたのか興味があります」

 その相手の声色を聞いて瑞穂はゾッとした。その声にはどこか小さな笑い声が含まれていたように感じたのだ。

「あの人、この状況を楽しんでる」

 瑞穂は思わず呟いた。

「どうやら、一筋縄ではいかない相手のようだ」

 斎藤も独り言のようにそうコメントした。だが、榊原も然る者で、その不気味な状況を気にする様子もなく、淡々と推理を始めた。

「では、お言葉に甘えて。今回、私はこの事件を調べるにおいていくつもの情報を収集しました。警察の見解は、テンキーの存在から犯人が番号を知る社内の人間であるというもの。これに関して、私は特に異を唱えるつもりはありません。番号を知る者が社内の人間だけだったのなら、犯人は社内の人間で間違いないのでしょう。これがこの事件の前提条件です」

 しかし、と榊原は続けた。

「調べてみるとどうも妙な証拠が次々出てきましてね。それが私の推理の取っ掛かりになりました」

「妙な証拠、ですか?」

「具体的には非常階段とテンキーです」

 榊原は断定した。だが、驚いた事に相手もそれがどういう意味なのかわかっていないようで、首をかしげる動作をした。

「言っている意味がわからないんですが」

「順に説明しましょう」

 そう言って、榊原は推理の口火を切った。

「まず、現場となった大谷ビルの非常階段は、鍵こそかかってはいるものの、その鍵は簡単な操作で外部からも開閉可能なものでした。つまり、犯人は非常階段からも出入りできたはずなのです」

「でも、警察の話だと犯人は正面玄関から入ったんですよね。カメラに映っていたとか」

「そもそも、そこがおかしいんです」

 榊原は断言した。

「犯人は社内の人間。それはさっきの話から間違いない事実です。とすれば、犯人も非常階段の鍵の事は知っていたと判断すべきでしょう。この犯行は計画的犯行。仮に知らなかったとしても、当然、犯人は事前に現場の下調べはしているはずですから」

「確かにそうですが、それが何か?」

「ではどうして、犯人は非常階段を使わずに馬鹿正直に玄関を通ったんでしょうか?」

 根底を突き崩すような質問だった。

「どうしてって……」

「考えてみると、これは犯人の行動として不自然なんですよ。あのビルには玄関とエレベーターホールに防犯カメラが設置されています。玄関を使うという事は、それらのカメラの前を通過する事に他なりません。その一方で、非常階段はこのカメラのエリアから外れています。防犯上の欠陥としか言いようがありませんが、何にせよ非常階段を使えば、犯人は姿を一切カメラに映す事なく犯行が可能なはずなのです」

 アッと思わず瑞穂は小さく呟いていた。確かに、考えてみれば不自然な話だ。

「にもかかわらず、犯人はあえてカメラに姿が映る玄関を通って犯行に及びました。いくら姿を隠したところで、カメラに映されているという事実は犯人にとっては脅威以外の何物でもありません。しかもそのカメラの映像を犯人が確認する術はありませんから、本当に顔が映っていないのかどうかを自身で確認できないはずなのです。つまり、犯人はより簡単なルートがあるのを知りながら、あえてリスクが高い方のルートを選んだ事になる」

 榊原はジッと相手を見た。

「私の経験則ですが、計画殺人を起こす人間は己の計画に文字通り命を賭けます。つまり、その計画に無駄な要素や必要最低限以上のリスクを入れる事はまずない。これは人間の心理として当然です。それでも一見して無駄な要素、もしくはリスキーな行動があったとすれば、そこから導かれる結論は一つ。その一見すると無駄に見える行為に、何らかの必然性があったという事です。この理論に従えば、今回の場合、犯人にとっては玄関から入ってカメラに映る事は必然だったという事になります」

 榊原の言葉に、相手は反応を示さない。一方、茂みから見ていた瑞穂は、圧倒的な榊原の論理に息を呑んでいた。

「では、その必然性とは何か。私が真っ先に思いついたのは、犯人が非常階段の事実を知らなかったのではないかという事です。すなわち……犯人は外部の人間」

 その言葉に、瑞穂は思わず首をひねって呟いていた。

「え、どういう事?」

 さっき、榊原自身が犯人は内部犯だと言っていたはずではないか。それは自ら否定するというのだろうか。そしてそれは、相手も同じ思いのようだった。

「言っている事が矛盾していませんか。あなたは最初に犯人は内部犯で間違いないと言っていた。でも、今度は犯人を外部犯だと言っている。どっちなんですか?」

「犯人は内部犯である……何度も言うようにそれは正しい理論であると思われます。ですが、今の非常階段の話でわかるように、犯人が外部犯だと示す証拠があるのもまた事実なのです」

「でも、非常階段から入るか玄関から入るかなんて、言ってしまえば犯人の都合で……」

「一つだけならそうでしょう。ですが、根拠はもう一つあるんですよ」

「それがテンキーですか。どこがおかしいんですか?」

「あのテンキー、指紋が拭かれていました」

 榊原は端的にそう言った。相手が訝しげな声を出す。

「それが何か?」

「おかしいではないですか。仮に犯人が内部犯なら、なぜ自身の指紋が付着していて当たり前のテンキーの指紋をわざわざ拭く必要があるんですか?」

 その言葉に、瑞穂は殴られたような衝撃を受けた。その間にも榊原の推理は続く。

「言ったはずです。犯人は自身の犯罪において無駄な行動をしない。しかし、これこそまさに犯人にとって無駄な行動以外の何物でもない話としか言いようがありません。なぜなら犯人が内部犯だとするなら、普段から使っているテンキーに自分の指紋はすでについているはずだからです。仮に番号変更後に一度も事務所に来なかった新開さんが犯人だとしても、あのテンキーは毎週変更されるタイプですから、すべてのキーに必ず全員の指紋がついている。社員の誰が犯人でも、本来であるならばテンキーの指紋は拭く必要性が一切ないはずなのです」

「単に不安になったという事では? 犯行時に押したとなると、どうしても不安になりますよね」

 相手が反論を加えるが、榊原は即座に反証する。

「ならば最初から手袋をすればいい。事実、防犯カメラの映像では犯人は手袋をしているようでした。にもかかわらず、犯人は犯行時の指紋が残らないはずのテンキーの指紋を時間を使って拭いてしまいました。これは極めて不自然な状況です」

 榊原の反証に、相手は挑むように尋ねる。

「だったら、その理由は何だと言うのですか?」

「そうですね。例えばそのテンキーについているのが本来あってはならない指紋……つまり外部の人間の指紋だったとすれば、残すわけにはいかない以上、当然拭かざるを得ないでしょうね」

 榊原の言葉に、相手は低い笑い声を上げながら尋ねた。

「探偵さん、さっきからあなたは何を言っているんですか。犯人は内部犯であると言いながら外部犯だと言い、手袋をしていると言いながらテンキーについてはならない指紋がついたと言う。何もかもが滅茶苦茶で、矛盾しています」

「そう、矛盾している。それこそがこの事件の本質なのです。そして、ここから導き出せる結論は一つとなります」

 そう前置きして、榊原はさらに論理を展開してこう告げた。

「すなわち、犯人は内部の人間かつ外部の人間だった人物という事です」

 その言葉に、相手の雰囲気が変わった。

「……いい加減にしてください。何をわけのわからない事を言っているんですか」

「何でも何も、そのままの意味ですよ」

 そう言いつつ、榊原は手札の一枚を切る。

「つまり、表向きは内部の人間と見せかけておきながら、実は外部の人間だった人物がいるという事です。そしてその人物こそが、この事件の真犯人です」

 その場が凍りついた。相手はしばらく榊原を睨みつけていたが、やがて押し殺した声でこう尋ねた。

「つまり、偽者の社員がいたと?」

「そういう事です」

「馬鹿げた事を。殺された人間も含めて、社員全員の身元ははっきりしているはずですよね。どこにそんな人間がいるんですか」

「ええ。確かに全員の身元は本物でした。死んだ後ではね」

 その言葉に、相手はピクリと肩を震わせる。

「どういう事ですか?」

「生前はわからないという事です。そうですよね、身元を偽ってあの会社に潜り込み、まんまと本人と入れ替わって強盗殺人を実行した……」

 その瞬間だった、相手が動き、その表情が街灯の下にさらされ、榊原の追求相手……すなわち真犯人の表情があらわになった。

「な……」

 その顔を見て、斎藤が呻いた。そんな中、榊原は真犯人の名を告発する。


「湯船鞠美!」


 相手……被害者・七井佐和子のルームメイトだった湯船鞠美は、凄惨な笑みを浮かべながら榊原と相対していた。

「あなたが広沼隆正、舛岡勝義、七井佐和子、そして品倉譲を殺害し、五千万円を強奪した真犯人です!」

 榊原の告発に対し、鞠美は笑みを浮かべたまま動じる事もなく、不気味な雰囲気をかもし出していた。


「そんな……」

 瑞穂は呆然としていた。榊原の答えは、瑞穂の予想した二択のいずれでもない、完全に想定外の人物だった。その一方、鞠美は不敵な笑みを浮かべながら、即座に反撃に打って出ていた。

「私が、犯人って……私はあの会社の人間じゃないんです。完全な外部の人間。あなたの言う内部の人間であり外部の人間である人物というのがどういう意味なのかはいまだによくわかりませんけど、私に犯行は無理です」

「なぜでしょうか?」

「あなたの言った通り、私はテンキーの番号を知る事はできませんから。言っておきますけど、佐和子が話した事はありませんでしたよ」

「えぇ、確かに。彼女に話せるわけがありませんね」

 榊原は淡々と告げる。その言い方に鞠美は何か引っかかったようだった。

「……それはどういう意味ですか?」

「七井佐和子さんがテンキーの番号を話せるわけがない。なぜなら根本的な話として、七井佐和子さんはテンキーの番号を知らなかったはずだからです」

 榊原の言葉に、鞠美はハッと嘲るように笑った。

「何を言っているんですか。佐和子はあの会社の社員だったんですよ。テンキーの番号を知っていて当たり前じゃないですか」

「それなんですがね。そもそもの話として、七井佐和子は本当にあの会社の社員だったのでしょうか?」

 本当に根本的な事を言われて、鞠美は笑みを浮かべたまま榊原を睨んだ。

「何が言いたいの?」

「考えてみれば、生前の七井佐和子があそこで働いていたとされるのは事件当日までのわずか三日に過ぎません。確かに現場で発見された七井佐和子の死体は本人でした。しかし、事件前に実際に働いていた七井佐和子が本人だったかどうかは確認できていません」

「はっきり言ってください。私、まどろっこしいのは嫌いなんです」

 榊原はいったん深呼吸して、自身の結論を告げた。

「では、お望み通りはっきり言いましょう。事件三日前にあの会社に入社し、実際に働いていたのは七井佐和子本人ではなく、七井佐和子を自称していたあなただったのではないか、と私は言っているんです」

 その言葉に、茂みで斎藤は虚を突かれたような表情をしていた。

「そうか……人物の入れ替わりか!」

 斎藤が小さく呟いているのが瑞穂にも聞こえる。その間にも、榊原の推理は進んでいた。

「あなたはルームメイトです。こっそり本物の七井佐和子の印鑑や通帳を持ち出す事も可能で、写真さえ自分の物を用意すれば、自分の顔の『七井佐和子』名義の履歴書を作成できます。住所や固定電話番号も本物の七井さんと同じだからこの辺りから疑われる心配もありませんし、住民票提出を求められても、本人は就職活動中だったから、その際に彼女自身がもらってきた住民票を一枚失敬すれば問題ありません。つまり、あなたは本人の知らないところで、七井佐和子を名乗って就職する事が可能な立場にいたのです」

「何のためにそんな事を?」

「もちろん、すべては今回の犯行のためです」

 榊原の手によって、湯船鞠美の恐るべき犯罪が明らかにされていく。

「おそらく、最初から現金強奪のために偽りの名前で就職したのでしょう。そうでなければ就職三日という短期間で犯行を実行するはずがないし、長期計画だと本業の大学院生としての生活にも支障が出る上に、些細な事でばれる可能性も高まります。いずれにせよ、これが事実だとすれば社員であるあなたは当然テンキーの番号を知っている。つまり、あなたも条件に合致するんですよ」

「そんなの、ただの想像じゃないですか」

 鞠美は嘲るように言った。だが、榊原はひるまない。

「実際の所、就職したのが本物の七井佐和子かどうかを調べるのは簡単です。いくらあなたでも、計画実行中に本物の七井さんの行動を制限できるわけがない。となれば、あの会社で『七井佐和子』が働いていたはずの時間に、別の場所で本物の『七井佐和子』と会っていた人間は必ずいるはず。調べれば、すぐにわかる話です」

 鞠美は笑みを崩さない。榊原は気にせず続けた。

「あなたが犯人なら、テンキーの指紋が消された理由もはっきりします。犯行時はともかく、通常勤務時に手袋をして勤務などできません。他の場所は注意さえすれば指紋を残さずにすむかもしれませんが、直接触れざるを得ないテンキーやドアノブにだけは絶対に指紋が残ります。つまり、あのテンキーにはいるはずの七井佐和子の指紋はなく、本来いないはずのあなたの指紋が残っていたはずなのです。犯行当日手袋をしたとしても、これはさすがに指紋を消さないと危ない。だからこそ、あなたはテンキーの指紋をすべて消さざるを得なかったのです」

「馬鹿げています。もしそれが事実なら、生き残った社員の人が入れ替わりに気付くはずじゃないですか」

「いいえ。新開さんも下木さんもあなたが入社して以降は出張や風邪で社にいませんでした。品倉は顔を知っていたかもしれませんが、彼は血が苦手だという事でした。そんな品倉に遺体確認ができるわけもなく、従って彼も死んでいるのが別人だと気付く事ができなかった。つまり、生き残ったメンバーの中に、亡くなったのが本当に生前勤務していた『七井佐和子』なのかを確認できる人間は誰もいなかった事になるのです」

 榊原は厳しい視線で鞠美を睨んだ。

「そもそも、あの日に犯行を行ったのも、翌日になると新開さんが出社してくる事を恐れての事だったと考えられます。あなたとしては、トリックがばれないためにも自分の顔を知る人間は殺しておく必要がありました。ですが、労力的に殺す人数は最小限に抑えたい。下手に殺す人数を増やすとほころびが大きくなりますからね。犯行直前のターゲットは入社時で社にいてあなたの顔を知る広沼社長、舛岡専務、品倉、そして身代わりに死ぬ予定の本物の七井佐和子の計四人。だからこそ、あなたはこれ以上殺す人間を増やさないためにも、新開の帰社以前に犯行を実行するしかなかったのです」

「待ってください。品倉という社員は死んでいないんじゃないですか?」

 鞠美がとぼけた風に言う。が、榊原は追及を緩めない。

「品倉は血が苦手で被害者の身元確認ができないので、しばらく生かしておいても安全と判断したのでしょう。ただし顔を見られている以上、いずれ殺すつもりだったのは間違いありません。それにこのままでは犯人が見つからないままで、自身が捕まるまで警察の捜査が継続してしまいます。だからこそ、あなたは品倉に怪しい行動をさせ、品倉にすべての罪をかぶせて殺害したのです」

「殺害した、というのは?」

「とぼけるのはやめましょう。先程、品川埠頭で彼の死体が見つかっています。あなたの思惑通りになったわけです」

「へぇ、そうだったんですか。知りませんでした」

 鞠美はそう言っただけだった。そして、即座にさらなる反撃に移る。

「でも、探偵さん。一つ忘れていませんか?」

「何でしょうか?」

「現場で見つかったのは本物の七井佐和子です。これは免許証から間違いない事。しかも、佐和子は事件当日間違いなく再出社のためにあのビルを訪れているじゃないですか。佐和子の携帯には広沼社長からの通話記録もあったらしいですし、どう考えても佐和子があそこの社員だったと考えるべきじゃないですか」

 その言葉を聞いて、榊原はいったん押し黙ったが、すぐに静かにこう続けた。

「いいでしょう。あなたが事件当日どのような行動をしたのか、ここで最初から説明する事にしましょう」

 ここからが勝負の本番のようだった。


「あの日の表向きの流れはこうです。午後六時に品倉が退社し、その三十分後の午後六時半に七井が退社。この後二人は合流し、ビジネスホテルに泊まっています。午後九時頃に七井に広沼社長からの呼び出し電話が入り、午後九時半頃に七井が再出社。午後九時五十分に犯人と思しき人物がビルに入り、午後十時五分に逃走。その際の銃声で前のコンビニの店員が気づき、その数分後には警察が来ています」

 榊原はそこで一度鞠美を一瞥した。

「しかし、七井佐和子イコールあなただとすれば、この表向きの流れの裏に、裏の流れが潜んでいる事となります」

「でも、再出社したのは間違いなく本人ですよね。犯人が来たのはその二十分後。彼女が社員じゃなかったとすれば、その空白の時間は何なんですか? 彼女が再出社して、強盗が来るまでの二十分間、その広沼や舛岡とかいう人と事務所で一緒に働いていたという事実を証明する充分過ぎるほどの根拠になると思うんですけど」

 鞠美の反論にも榊原は動じない。

「その問いには後で答えるとして、ここで一つの可能性を答えておきましょうか。つまり、確かに『再出社』したのは本物の七井佐和子ですが、午後六時半に退社して、その後品倉と一緒に過ごしていたという七井佐和子は果たして本人だったのか、という話です」

「……さっぱり意味がわかりませんが、何が言いたいんですか」

「簡単な事です。品倉と一緒にいた『七井佐和子』はあなただった……ただ、それだけの話です。まぁ、品倉はあなたを七井と信じ込んでいたわけですから、これは当然の帰結ですが」

 榊原は鞠美をジッと見つめて、結論を告げる。

「つまりあの日、あの事件のタイムテーブルには本物と偽物、二人の『七井佐和子』がいたという事なのです」

「でも、退社する佐和子の姿が防犯カメラに映っていたんじゃないんですか?」

「確かに映ってはいましたが、それはあくまで後姿で、同じなのは服装だけです。彼女が本人かどうかはカメラの映像からは判別できません」

 榊原は圧倒的な情報を確実に処理して鞠美にぶつけていく。

「退社後に品倉と行動を共にしたのは、第一に品倉のアリバイをなくして品倉に疑いの目を向けさせるためだったと考えられます。後に品倉が警察に事情聴取を受けた際、殺された七井佐和子と一緒にいたという事実は品倉にとって不利以外の何物でもなく、彼自身の言動にも不審なものが出るはずです。警察はそういう人間を疑いますから、スケープゴートとしてまさに当たり役だったのでしょう。さらにもう一つの理由として、あなたを七井と信じきっている彼に証言させる事で、品倉と行動した『七井佐和子』が事務所で殺された『七井佐和子』……もっと言えば三日間働いていた『七井佐和子』と同一人物だと判断させるためというものもあったはずです。短期間とはいえ一緒に働いていた同僚……それもベッドインまでしていた女性の身元を根底から勘違いしているなど、普通は思いませんからね。品倉は事件直後の事情聴取で、七井の方から積極的に言い寄ってきたと言っていました。警察は苦し紛れの言い訳と踏んだようですが、おそらくこれらの目的のために本当に入社してからあなたが言い寄ったのだと考えられます」

 榊原の言葉に、茂みで推理を聞いていた瑞穂は首をひねった。

「あの、スケープゴートって何ですか?」

「ミステリー用語で、犯人が自分の罪を着せるために用意する生贄ポジションの人間です。榊原さんが言ったように、犯人が捕まらない限り警察の捜査は終了しませんので、誰かに罪を着せる事は犯人にとってかなり有効な手法となります」

 斎藤はそう答えながらも、なぜか唇をかみ締めている。品倉の話を苦し紛れの単なる言い訳と判断した自分を悔いているのだろう。だが、その状況なら自分でも間違いなく言い訳と判断するに違いないと瑞穂は考えていた。

「さて、表向きの流れでは、七井佐和子は午後九時頃に広沼社長……正確には社長席の固定電話から呼び出しを受け、そこで寝ている品倉を置いてホテルを出て再出社した事になっています。事実、発見された七井佐和子の遺体が持っていた本人の携帯には、着信履歴が残っていました」

「じゃあ……」

「ですが、あの会社で働いていた七井があなたなら、広沼社長が知っている携帯の番号は当然あなたのものですから、本物の七井さんに通じるはずがありません。よって、この電話をかけたのは広沼社長ではない。となると、電話をかけた人物は本物の七井佐和子の電話番号を知っているあなた以外にはいません。つまり、あなたは社長席の固定電話を使って午後九時頃に彼女に電話をかけたんです」

 という事は、と榊原は続けた。

「あなたが実際ホテルを出たのは午後九時より前……おそらく午後八時半頃であり、午後九時の時点で、すでに現場となったあの部屋にいた事になる。あの夜、広沼社長による再出社要請なんて、本当はなかったんです。あの電話は、本物の七井佐和子を現場に呼び出すためのものだったんですよ」

「待ってください。防犯カメラに私の姿は映っていません」

「そのための非常階段でしょう」

 茂みから見ていた瑞穂は再び頭を殴られたかのようなショックを受けた。

「あなたが二度目にあの部屋に入った経路は玄関ではなく、防犯カメラのない非常階段だった。犯人はさっき私が言ったように非常階段の存在を知らないわけではなく、使わなかったわけでもなかった。ただ、気付かれないように使っただけだったんです。ただし、そのために内部犯に見せかけるには不可解な状況が残ってしまい、私の推理の取っ掛かりになってしまったわけですが」

 一呼吸おいて、榊原は推理を続ける。

「この辺りは想像になりますが、気になって残業しに来たとでも言って残っていた広沼と舛岡を納得させ、さらに紹介したい子がいるとでも言って社長の固定電話で本物の七井さんに電話をかけたんでしょう。本人にはあくまで就活の紹介とでも言って。入れ替わりが事実なら、本物の七井さんは現時点でも無職のはずですから、この申し出には飛びついたはずです。もちろん、就活ですからスーツ姿のはず。おそらく、あなたは普段から彼女が着ていたスーツと同じものを購入し、問題の三日間はそれを着て出社していたはずです。カメラに映った際に衣装の齟齬が出ないように」

 鞠美はしばらく黙っていたが、やがて榊原に反論した。

「それで、佐和子がやって来た瞬間に殺したって事ですか? でも、あの時間では規則で事務室には入れないと聞いた覚えがありますが」

「それ以前にあなた以外の人間がいなければ問題ありません」

 榊原はそのように言った。

「……どういう意味ですか?」

「つまり、広沼社長と舛岡専務は、本物の七井さんがビルにやってくる以前にすでに殺されていたという事です。時間としては、午後九時時半の少し前でしょうか」

 榊原の答えに、鞠美は笑みを崩さないままではあったが、唇をかみ締めながら榊原を睨みつけた。

「銃声はどうなるんですか? いくらなんでも気づかれると思いますけど」

「サイレンサーをつければ問題ない話です。確かあなたはライフル射撃部の出身でしたね。本物の七井さんがライフル射撃部にいたという経歴が確認できましたし、あなたは七井さんと同じサークルに所属していたと証言していました。銃の腕の方は問題ないはずです。死亡推定時刻も三十分程度の幅は許容範囲でしょう。おそらくですが、舛岡専務の手が事務室のドアに引っかかっていたのもわざとですね。本物の七井さんが部屋に入れるように」

「随分都合のいい話ですね。それから私はどうしたんですか?」

 鞠美が挑むように尋ねる。榊原はそれを真っ向から受け止めた。

「就活のつもりで部屋にやってきた七井さんは、受付室に倒れている舛岡にまず驚くはずです」

「そこで通報されたら終わりのはずですよね」

「いいえ、七井さんが友達思いなら、通報前に何はともあれここにいるはずのあなたの姿を探したはずです。無我夢中で隣の部屋に入り、そして七井さんはあなたを見つけた。おそらくは、床に倒れて気絶している振りをしているあなたを」

 榊原は鋭い視線が鞠美を貫く。

「慌てて駆け寄った七井さんは、あなたが生きている事に気がつきほっとする。そして、そんな隙が生まれた瞬間を狙い、あなたは隠し持っていた拳銃で容赦なく脳天と背中を撃って射殺した。あなたは、七井さんの友人思いの性格を利用したんです」

 榊原の言葉に、多少なり怒気が含まれているのを瑞穂は感じ取っていた。が、鞠美は榊原に対しこう切り返す。

「あなたの想像に過ぎませんね。それに、犯人はその後防犯カメラに映っていたじゃないですか。犯行が探偵さんの言うように行われたとすれば、あれは誰だったんですか?」

「言うまでもないでしょう。犯人自身です。それ以外に該当者がいませんから」

「言っている意味がわかりませんね」

「つまりあなたは、七井さんを殺害した後、カメラに映った格好をして一度ビルを脱出したのです。ただし、脱出口は玄関ではなく非常階段で、この時、問題の五千万円も持ち出しているはずです。あなたはまずその五千万円および凶器の拳銃をある方法で現場から遠ざけ、午後九時五十分頃、今度は再び玄関からビルに入り、わざとその姿をカメラにさらした。目的は犯人がやってきたのがこの時間だと錯覚させるためです。つまり、あなたは本来午後九時半前後に行われた犯行を、午後十時前後に行われたように偽装したのです」

「何のために?」

「あなたがさっき言い訳したように、七井さんが再出社して残る二人と一緒に残業したかのように表向き見せかけるためでしょう。犯行が七井さんの訪問直後ではなく、七井さん来訪から時間が経っていたあの時間帯に行われていたとなると、七井さんがまるで本当に会社で仕事をしている最中に広沼社長や舛岡専務と同時に襲われて死亡したように見せかける事ができます。つまり、この時間工作は本来広沼社長や舛岡専務と面識のないはずの本物の七井さんが、あたかも問題の二人と一緒に残業に参加した……要するに七井さんが広沼社長ら二人の良く知る社員であるのだと暗に指し示し、彼女が実は入れ替わっていたという可能性をつぶす補強工作だったという事なんです。」

 鞠美は黙ってそれを聞いている。

「そして、あなたは再び現場に立った。部屋には死体が三つ。あなたは、そこで今度はカセットか何かにあらかじめ録音しておいた銃声を再生し、向かいのコンビニに聞こえるようにしてわざと事件を発覚させた。つまり、あの銃声も計算のうちだったという事です。そして、あなたは現金の入っていない見せかけ用の空のケースを持って玄関から逃走した」

「どうしてわざわざ事件を発覚させる必要が?」

「一つはこの事件の通報が発生直後であると誤認させ、工作の余地を否定するため。事実、銃声から警察への通報までは、近隣で暴力団による発砲事件があった事もあってすぐだったと聞いています。要するにあの辺りでは銃声があれば必ず通報される状況下にあったわけで、そんな場所で銃声を起こす事で事件直後に通報が行われるように仕向け、何らかの工作をするだけの時間の余地がない事を暗に示し、何も工作のない強盗事件に見せかけたかったというう事になります。何も工作もない強盗事件と判断されれば、あなたの入れ代わりトリックが発覚する可能性も格段に低くなりますからね」

 鞠美は反応しない。榊原はさらに続ける。

「もう一つは一刻も早く捜査をしてもらうためです。あそこの防犯カメラは二十四時間で映像が消去されてしまうタイプでした。トリックの都合上、映像が消えたら話になりませんから、消える前に事件を発覚させる必要があったわけです。さらに、もたもたしていると罠にかけてホテルにいる品倉に逃げられてしまい、彼のアリバイが確定してしまう危険性もありました。そうなったらせっかくのスケープゴート作戦が無駄になってしまいます。それに死亡推定時刻もある程度正確に出してもらわねばならないという都合もあったのでしょう。この犯行は表と裏のタイムスケジュールによって成り立っていますから、できるだけ正確な時刻特定をしてもらう必要があったのです」

 榊原はそこで少し声のトーンを落とす。

「ただし、この方法は工作の事実を否定する事ができるというメリットがある反面、検問に引っかかる確率が増えるというリスクもありました。だから、あなたは二度目に突入する以前に強奪した金を処理しておいたのです。犯人の容貌がわからない以上は、警察が検問で重要視するのは奪われた金と拳銃の二つです。しかし、これを逆に言えば、検問を実施されても金と拳銃を持っていなければ充分検問を突破できる事になります。だからこそ、あなたは非常階段から脱出した時点で強奪した金と拳銃を処理した。犯行が本当は午後九時半に行われたとするなら、実際の犯行と表向きの犯行の時差は二十分。つまり、この二十分の間、犯人は金と拳銃の処理を自由にできた事になります。警察は犯人が示した表向きの時間に犯行が行われた事を前提に検問をしますから、まさか二十分ものブランクがあった事など想像もしていません。故にあなたは充分に検問の範囲外に金や拳銃を隠す事ができた。二度目の逃走の際は、空のケースや着ていた物さえ処分してしまえば、検問にかかる可能性はありません。銃声をわざと聞かせたのは、表向きの犯行時刻に犯人が銃を持っていたという事を印象付け、検問の捜索対象に『拳銃の所持』という項目を入れるためでもあったのでしょう。実際、先の発砲事件の影響もあって、警察は金よりも拳銃に重点を置いて検問をしていたようですしね」

 そこで鞠美は顔を歪めるように笑った。

「さっきから曖昧ですね。金と拳銃を処理したって、具体的にはどうしたんですか?」

「そうですね。これは想像になりますが、山手線というのはどうでしょうか?」

 聞いていた瑞穂にとっては少々予想外の答えだった。

「もしかして山手線の駅のロッカーにでも隠したって事ですか? そんなの、すぐに警察が調べるんじゃないんですか?」

「いえ、隠したのはロッカーではないでしょう。そんな場所はすぐにでも調べられるでしょうから」

「じゃあ、どこに?」

「おそらく、山手線の車内です」

 サラッととんでもない事を言い始めた。

「山手線は環状線です。基本的に同じ電車が終日円形の路線を何周もするシステムで、一周平均は約一時間前後。真の犯行時刻は午後九時半で、その時刻ならまだ電車は混雑しているはず。現場のビルから最寄りの大塚駅までは約五分。犯行直後に駅から脱出し、入場券か何かでホームに入り、車内の網棚にでもにケースか何かに入った金と拳銃を放置してそのまま電車から降りて現場に戻れば、検問が実施されるころには金と拳銃は現場から遠く離れた山手線の車内です」

「馬鹿げています。忘れ物か何かと勘違いされて届けられたらどうするんですか。忘れ物ならまだしも、不審物と見られたら、それこそ本末転倒です」

「名札でもつけておいたら、少なくとも不審物扱いはされないでしょう。忘れ物扱いされたとしても、鍵がかかっていれば駅員は中身を改める事をしない。後日問い合わせて引き取りにいけばいいだけの話です。それに、その時間帯山手線はまだ混雑しているはず。放置しておいても誰も放置荷物とは思わないはずです」

 榊原は鞠美を睨んだ。

「一度ビルを脱出した後、最寄りの大塚駅に行って車内に金と拳銃を放置し、再び舞い戻る。移動時間や待ち時間を含めても、ちょうど二十分前後でしょうかね。あの二十分という時間差は、この金と拳銃の処理にかかった時間ではないかと私は踏んでいるのですが、いかがでしょうか」

 鞠美は答えない。いつしか、彼女の顔から笑みが消えている事に瑞穂は気が付いていた。

「そんなの、証拠はないですよね」

「ええ。ですが、調べれば証拠は出てくると思います。山手線の駅にも防犯カメラはあるはず。単純に犯行時間が誤認されている事から調べられていないだけで、真の犯行時間に絞って調べれば、あなたか現場のカメラに映っていた不審人物が、一度電車に乗りながらそのまま下車するというような不可解な行動をしている映像が見つかるはずです」

 この時点で、瑞穂は先程榊原が斎藤に渡した一枚目のメモの指示……『大塚駅の防犯カメラの映像を調べろ』の真意を知った。

「午後十時時五分、あなたは今度こそ本当に現場を脱出しました。この時点であなたは金と拳銃は持っていません。あなたはすぐにカモフラージュとして着ていた服と空のケースを捨て、拳銃の音の入ったカセットテープを処分した。テープについては音さえ消えればいいのですから、磁石か何かを近づけるだけで充分でしょう。服とケースについては、現時点では見つかっていませんが、現場近くをもう一度捜索すればいずれは出てくるはずです。そして、あなたはその後大塚駅に向かった」

「何のために?」

「一周してくる金と拳銃を乗せた車両に乗るため、そして真の意味で逃走するためです」

 榊原は断言した。

「検問については金と拳銃を持っていないのですから簡単に突破できたはずです。あるいは、駅まで五分という近さですから検問そのものにかかっていないのかもしれません。そして、あなたは大塚駅に到着すると一時間かけて一周して来た車両に乗り、一度放置しておいた金と拳銃の入ったケースか何かを再度手中に収めた。後はそのまま自宅最寄りの駅で下車すれば逃走完了です」

 ただし、と榊原は言い添えた。

「そのケースは家には持って帰らなかったはずです。何しろあなたの自宅は七井佐和子の家でもありますので、刑事の訪問は予想されていました。あなたは金と拳銃が入ったケースを自宅近くのどこかに隠し、大学からの帰りと称して刑事の前に現れた。これが午後十一時半頃の話です。今さらではありますが、あなたも大学の図書館にいたと言うだけで、アリバイらしいアリバイはなかったはずです」

 確認した上で、榊原は推理を続行する。

「さて、犯人が捕まらない限り、このままではいつまでたっても金を使う事はできません。だから、あなたは最後の仕上げに取り掛かった。すなわち、あなたの罠にはまって不審な行動をし、刑事たちから疑いの眼で見られている品倉譲を犯人に見立てて殺害する、という仕事です。犯人さえ作り上げてしまえばもはや自分に追及の手が及ぶ事はありません。そもそも先ほども言ったように、品倉は七井さんに化けていたあなたの顔を知っているわけで、どの道生かしておくわけにはいかなかったという事情もあったのでしょう」

 榊原の言葉を、鞠美は無表情のまま聞いている。

「ここで最大のポイントは、遺体確認をしていない品倉譲はこの時点でもあなたを七井佐和子だと思っているという事です。逆に言えば、七井佐和子の名前を出せば、品倉はある程度操れる状態にあったのです」

「へぇ、で、どうするんですか?」

 鞠美は無表情のままどこか楽しそうに尋ねた。そのギャップに、瑞穂は背筋が凍る。が、榊原は表情一つ変えずに推理を続けた。

「ポイントは、品倉の遺体から携帯電話がなくなっている事です」

「元から持っていなかったんじゃないですか?」

「いいえ。事件直後に警察が直接彼の携帯電話にかけ、彼自身もそれに出ていますので持っていたのは間違いありません。つまり、携帯電話は犯人が持ち去った事になる。最初に言ったように、計画的な犯罪者は無駄な行動をしません。だとするなら、この携帯電話持ち去りにも意味がなくてはならないはずです。そしてなくなったタイミングから考えるなら、その意味は品倉殺害にこそあると見るべきです」

「回りくどいですね。はっきり言ってください」

「簡単に言えば品倉殺害には携帯が使用された。そう考えるべきでしょう」

「まさか、佐和子を騙って電話でもしたって事ですか? でも、そんな事をしても気味悪がられるだけでしょ。だって、佐和子は死んでいるんですから」

 鞠美はそう切り返す。が、榊原も負けてはいない。

「いいえ、直接的に七井さんを騙る必要はない。例えば第三者の携帯を使って、七井さんの友人を騙ってメールをすれば充分でしょう。『佐和子の事について話したい事がある』、あるいは『佐和子の葬儀の件について話したい』とでも書けば、内部犯が犯人だと警察から聞いている品倉は、疑う事なく訪ねてくるはずです。実際に使う携帯については、誰かから盗んだ携帯か飛ばしの携帯を使用したと考えています。自分の携帯を使うとそれこそ彼が『七井佐和子』名義で登録している携帯からの連絡になって、文字通り死者の連絡になってしまいますから」

「どうしてメールなんですか?」

 鞠美は細かい部分に突っ込んでいくが、榊原は落ち着いて返答する。

「電話だと声からあなたが品倉の知っている『七井佐和子』だとばれてしまいますからね。ちなみにアドレスについては、『七井佐和子』として品倉と付き合っていたあなたなら充分知る事ができるはずです。『佐和子から聞いた』とでも書けば、相手も疑う事はないでしょう」

 鞠美の表情が醜く歪んだ。それは榊原に自分のやった事を言い当てられている事に対する驚愕と、何か楽しい事を聞いている事によって浮かぶ笑みが混じったような、何とも言えない表情であった。大学院生という事は、まだ二十代のはずである。だが、それはとても普通の二十代の女性が出せるような表情ではない。瑞穂はその表情に恐怖さえ抱いた。人間にこんなおぞましい表情をする事ができるという事を、瑞穂はこの場で思い知った。

「メールの文面はさすがにわかりませんが、あなたは品倉を品川埠頭の倉庫に呼び出しました」

「どうしてそんな場所に?」

「殺害しやすい場所というのが一点。もう一点は品川は新開さんの自宅に近かったからでしょうね」

「新開さん? どうしてそんな人がいきなり?」

「今までの犯行形態を見る限り、この犯人は非常に用心深い性格をしている。想定しうる事柄を徹底的に検証し、その対抗策を盛り込んだ計画を立てている。これもその一つです。万が一、スケープゴートの品倉が犯人でないとばれた場合でも、次の容疑候補が自分にこないようにする工夫をしている。つまり、新開さんに対する疑いを残す事で、万が一に品倉に対する仕掛けがばれた場合でもすぐに別のスケープゴートを立てられるようにしてあるわけです」

 あまりにも巧妙に立てられた計画だった。その周到さに、瑞穂はもはや絶句する他なかった。

「それで、呼び出した後は?」

「言うまでもなく、品倉を殺害したのでしょう。それ以外の目的はなかったはずですから。ボロが出る前に、一気に片をつけたはずです」

 榊原は淡々と言うが、その残虐さに、瑞穂は思わず小さく呻いた。

「そう考える根拠は?」

「品倉にとって、あなたの容姿は『七井佐和子』なんです。死んだと思っていた人間が目の前に現れたら、品倉はパニックになるはずです。そうなると、どんな想定外の事態が起こるかわからない。それを防ぐためにも、彼がパニックを起こす前に殺す必要性があった。殺害後、あなたは拳銃を彼の手に握らせて自殺に見せかけ逃亡。そして、今に至るというわけです」

 榊原はそう答え、さらにこう続けた。

「驚愕の死体」

「は?」

「品倉の遺体ですがね、文字通り驚愕の表情で死んでいたのです。あれがヒントでした。この状況下、彼があそこまで驚愕の表情を浮かべる状況は何かを考えました。仮に自分が犯人だと名指しされてもあそこまでの表情はしないでしょう。まして死の間際です。色々考えてみたのですが、考えついたのは一つだけでした。すなわち……死者を見た場合、すでに死んだと思っていた人間を目撃した場合、さらにその幽霊が今まさに自分に銃を突きつけていた場合、です。どんな人間でも、死んだ人間が目の前に立っていたらこれ以上ないくらいに驚くはずです。そう考えたら、今までの情報がすべてつながりました」

 そう言って、榊原は鞠美の持っているものを睨んだ。それは、榊原が持っているアタッシュケースとは別物の、より頑丈そうなアタッシュケースだった。

「その中身、改めさせてもらってもよろしいですか?」

「どうして?」

「私の予想が正しいなら、その中身は奪われた五千万円のはずです」

 鞠美がケースの取っ手を反射的に握りしめる。

「スケープゴートの品倉は死にましたからね。もう、隠しておく必要はありません。刑事も表向き関係ないと考えられているあなたの家に張り込みをする余裕はないでしょうし、していたとしても品倉の事件の捜査や第一級容疑者の新開及び下木の自宅の見張りにまわされているはずです。万が一品倉の自殺が偽装とばれた事を考えると、その金を持ち込めるのは今夜だけですね。そう思ったからこそ、私はこうしてここであなたを待っていたわけですが」

 鞠美は答えない。榊原はとどめを刺しにかかる。

「もう一度言いましょうか。そのケース、中身を見せてください。それとも、私相手ではそんな権利はないとでも言って言い逃れますか」

 榊原が静かに、しかし挑発するように告げる。だが鞠美はそれを聞いて、フウとため息をついた。

「いいでしょう。わかりました」

 そう言うと、彼女は持っていたケースを地面に下ろして一気に開けた。それを見て、茂みの瑞穂は息を呑んだ。中には榊原の予想通り、この場には不釣り合いな一万円札がぎっしりと詰まっていたのである。

「奪われた五千万円ですね?」

「どうでしょうか?」

 しかし、ここに至って鞠美ははぐらかす。

「これがその強盗で奪われた五千万円だっていう証拠はありますか?」

「では、どうしてそんな大金を?」

「それこそ言わなきゃ駄目ですか?」

 いくら生命保険会社でも紙幣のナンバーは控えていないだろう。それを見越しての言い逃れだった。だが、榊原はこう切り返す。

「指紋を確認すれば、それが問題の紙幣かどうかは確認できます。あなたはともかく、他の社員の指紋はついていて当然ですから。紙についた指紋はただでさえ消しにくい上に、近頃は紙からの指紋検出も可能ですのでね。まさか、すべての紙幣の指紋を消したとでも言うつもりですか?」

 それを聞いて、鞠美はしばらく黙っていたが、不意にフッと笑った。

「まぁ、いっか。そうですよ、確かにこれはあの事件で奪われた五千万円みたいですね」

 認めた。鞠美の言葉に、瑞穂は緊張しつつも、どこか得体の知れないものを感じていた。

「ただし」

 そして、その感覚は、続く鞠美の言葉で実証された。

「それと私が殺人を犯したという話は別問題です」

「どう言う事でしょう」

 何と、この期に及んで鞠美は罪を認めようとしていないのである。

「こうなったら仕方ありませんね。実は、私も品川の埠頭に呼び出されたんです」

 そう言うと、鞠美は携帯を取り出して榊原に見せた。

『今日十九時半頃。品川埠頭に来てほしい。七井佐和子さんについて話があります』

 確かに、そんなメールが携帯にあるのが確認できた。

「まさか、ここまで予想して自分の携帯にもメールをしておいたのか」

 瑞穂の隣で斎藤が緊張した声を出す。

「私も気になったので、品川埠頭に行きました。ただ、何か嫌な予感がしたので指定時間から五分くらい遅れてですけど」

「それで?」

「着いてみたら、何だか騒がしい音がしたんです。隠れて様子を見ていたら、若い男の人がすごい表情で立っていました。何だろうと思ってみていたら、いきなり銃声がしてその人が吹っ飛んだんです」

 榊原の表情が渋くなる。

「つまり、あなたは事件の目撃者だと?」

「そうです」

「犯人の顔は見ましたか?」

「さぁ、暗くて見ていません。でも、その後犯人は私を待っていたようで、しばらくうろついていたんですけど、そのうち諦めて帰っていきました。恐る恐る遺体の方に近づいていくと、隅の方にこのケースが置いてあって、見てみるとお金が入っていたんです」

「そんな都合の良い話があったと?」

「あったんだから仕方ないじゃありませんか。それとも、否定するだけの証拠がありますか?」

 鞠美が挑むように榊原を見据える。明らかに榊端に対して挑みかかっている構図だ。

「それで、あなたはその金を持ち帰ったと?」

「どうしたら良いかわからなくなって。もちろん、後で警察には言うつもりでした」

 ちなみに、と鞠美は続ける。

「近くにいたので、多分私の体からも硝煙反応は出ます。その辺りは考慮しておいてくださいね」

 斎藤が舌打ちをした。

「あいつ、先手を打ったぞ」

 つまり、硝煙反応……銃を撃った際に出る火薬の痕跡が見つかっても、自分が撃ったものではないと暗に反論しているのである。

「では、強盗事件の方も?」

「知りません。散々荒唐無稽な話をしていましたけど、あの日、私はそんな場所に行った覚えはありません」

「あの日、あの場所に行っていないと?」

「もちろんです」

 その瞬間、榊原はフッと小さく笑みを浮かべた。

「墓穴を掘りましたね」

「え?」

「あなたは間違いなく当日現場を訪れています。これは証拠もある事実です」

「言いがかりはよしてください」

「言いがかりではありません。あなた、最初に刑事が訪れた時、別れ際にこう言っていますよね。『どうか、佐和子のためにも一刻も早く犯人を捕まえてください』と。これは、刑事がメモした正式な証言で、法廷での効力もある代物です」

「それが何か?」

「何かじゃありませんよ。あなた、どうして犯人が『逃走中』だと知っていたんですか?」

「え?」

 鞠美の表情がはっきり歪むのが瑞穂のいる場所からも見えた。

「刑事は『七井佐和子が会社で殺された』という事しか言っていません。刑事の会話からだけでは、犯人が逃走中なのか捕まっているのか、判別がつかないはずです。なのに、あなたはしっかりと断言した。『犯人は逃走中』だと」

「あっ……」

 鞠美が思わず呟くのを瑞穂も聞いていた。少しずつ、鞠美の理論にほころびが生まれている。

「これがわかるのは、実際に現場にいた人間か犯人自身かの二択です。しかし現場にいた人間は全員死亡している。となると、これに該当するのは犯人しかいないはずです。いかがでしょう、反論はありますか?」

「か、帰る途中で逃走中というニュースを見て……」

 初めて鞠美が詰まった。が、榊原は容赦ない。

「嘘はいけません。あなた、帰宅した際に刑事が通告するまで事件の存在を知らなかったはずではないのですか。そうでなければ、刑事に対してあのような対応をするはずがありません」

「……」

 鞠美は歯を食いしばって必死に理論をくみ上げている様子だった。

「さぁ、あなたが犯人だと認めますか?」

「……冗談言わないでください」

 鞠美はそう言うと、榊原を睨みつけた。

「いいです、認めます。私、あの日確かにあのビルに行きました。でも、それでも私は殺人犯ではありません!」

 最後はほぼやけくそみたいな言い方だった。

「お聞きしましょうか」

「さっき探偵さんが言った通りの事です。ただし、役割は逆でしたけど」

「と言うと?」

「佐和子が私に紹介してきたんですよ。短期アルバイトとして自分の働いている会社はどうかって。あの日は、その面接の日だったんです」

「事件は午後十時に起きていて、おまけに当日は残業が行われるほど忙しさでした。それにもかかわらず面接があったというのですか?」

「あっちの事情なんて私は知りません。本当にそう言われたんですよ」

 鞠美はそう主張した。

「面接時間は午後十時十五分くらいだったと思います。私、面接の十五分前くらいにはあのビルの前にいたんです。そしたら、いきなりビルの上のほうから銃声がして、わけがわからないでいるうちに、変な格好をした人が飛び出してきて、私のすぐそばを走り去っていきました。その後は、何だか怖くなってそのまま帰ったんです」

 隠れて聞いていた斎藤の表情が渋くなる。

「この主張、意外に筋が通っている」

「え? どういう事ですか?」

「この主張が正しいなら、犯人が逃亡していた事を知っていた事、にもかかわらず彼女が防犯カメラに映っていない理由、おそらく今後の捜査で見つかるであろう大塚駅のカメラに映る彼女の姿、すべてに説明がついてしまうという事です」

 瑞穂の問いに、斎藤が小さな声で答える。

「そんな、無茶苦茶な……」

「ですが、どんなに言い訳めいていても、反論できなければ認めるしかない。あの女に勝つには、彼女の反論が尽きるまでこちらも反論し続けなければならないんです」

 そんな事、並の人間にできるものではない。瑞穂は思わず榊原を見た。しかし、当の榊原はまったく動じる様子がない。相変わらずの表情で鞠美を睨んでいる。

「それがあなたの主張ですか」

「そうです。これなら文句ないですよね」

 鞠美はそう言って不敵な笑みを榊原に向けたが、それでも榊原は一切動じない。

「なるほど、確かに一見筋の通った話に聞こえますね」

「だったら……」

「ただし」

 そう言って、榊原は鞠美の言葉をさえぎった。

「それは『働いていた七井佐和子が本人だった』というう前提条件の下で初めて成立する話です」

「だから、佐和子は間違いなく働いて……」

「言ったはずですよ。彼女が本当に働いていたか否かは簡単にわかると。何度も言いますが、彼女が会社で働いていたという三日間のアリバイを調べれば、彼女が働いていたとされる時間帯に別の場所で本物の七井佐和子が目撃されているはずです。さっきも言ったように、いくらあなたでも、本物の七井佐和子の行動を制限する事などできはしない。つまり、もし七井佐和子が実際は働いていないとすれば、あなたの主張した『短期バイトを七井佐和子に紹介してもらった』という主張そのものが根本から崩れ去る事になる。調べればすぐにわかる事なんですよ!」

 相手の矛盾を突いた鋭い反撃だった。鞠美はすぐに反論できない。

「さて、このまま同じ主張を繰り返して、七井佐和子のアリバイが出てくるのを待ちますか? それとも、また証言を変更でもしますか?」

「……」

 鞠美は答える事ができない。そこに榊原が一気に畳み掛ける。

「できるわけないですよね。証言変更を認めれば、働いていた七井佐和子が実はあなただったと認めるのと同じですから。そしてそれを認めるという事は、少なくとも事件当夜にあなたと本物の七井佐和子の入れ代わりがあったという事まで認める事になりますからね」

「クッ」

 鞠美が小さな声を上げる。

「どうしますか。三日間働いていた七井佐和子が実はあなただったと認めますか?」

 鞠美は先程と打って変わって、非常に苦しそうな表情をしていた。しかし、一度してしまった証言は覆らない。かと言って、このまま黙秘をしても、いずれこの証言は覆されてしまう。ばれるのが遅いか早いか。筋の通った反論をしたかと思ったら、いつの間にか鞠美は崖っぷちまで追い詰められていたのである。

 しかし、そこは榊原の追及を何度も切り抜けてきた鞠美である。スウッと一度深呼吸すると、何かを覚悟したような表情でこう告げた。

「まさかここまでばれるなんて思いませんでした」

「認めるんですね。七井佐和子と偽ってあの会社に就職した事。そして、事件当夜、本物の七井佐和子とあなたとの間で入れ代わりがあった事」

 榊原の問いに対し、鞠美は一瞬言葉を躊躇した後、ついにこう言った。

「…ええ、認めるわ。確かに、私は佐和子の名前であの会社で働いていました」

 しかし、鞠美はまだ諦めたわけではなかった。

「ただし、それでも私は殺人なんてやっていません」

 鞠美は榊原を見やるときっぱりとそう宣言した。

「嘘……まだ反論する気?」

 瑞穂はその執念をもはや理解できなかった。それを横目に、斎藤が静かに告げる。

「榊原さんも言っていた通りです。犯罪者は自分の人生を賭けて犯行を行う。そう簡単に自分の罪を認めない。わずかな可能性でも反論しつくすまで、あの女は絶対に勝負をやめようとはしないでしょう。文字通り、負けは即自分の人生の死を意味しますから。そして、榊原さんも相手が反論しつくすまで、絶対にこの勝負を降りるつもりがない。あの女がしでかし、何人もの人間の人生を台無しにしたこの事件を許すつもりが毛頭ないからです。そのためなら、あの人は命や人生だって賭けるでしょう。これは遊びでもなんでもない、犯罪者と探偵の、文字通り命を賭けた論理の一騎打ちです」

「そんな……」

 斎藤の言葉に、瑞穂は言葉を失うしかなかった。同時に、今までの自分の認識の甘さを嫌というほど認識していた。これは、自分たちがやっているゲームなどではない。正真正銘の「対決」……理論と言葉と駆け引きが武器の「決闘」だ。

「これが、本物の探偵……」

 瑞穂は、今までに榊原が言っていた様々な言葉を思い返し、改めてその意味を噛み締めていた。

 そんな中、二人の対決……否、決闘は、最終局面に入ろうとしていた。

「偽装就職や入れ代わりまで認めておいて、この期に及んでどんな事情があったと言うのですか?」

「名前を偽って入社したのは悪かったと思っていますよ。ただ、大学院の研究論文のために、少しこういう職種の情報が必要になって……」

「先に言っておきますが、あなたのした行為は私文書偽造罪及び私印不正使用罪。れっきとした犯罪です。この件について認めている以上、あなたが警察の取調べを受ける事は確実です。その手に持っている金の事もありますしね」

「ばれた以上は仕方がありません。それについてはジタバタせずに受けましょう。お金もちゃんと提出します」

 ですが、と鞠美は続ける。

「さっきも言ったように、私は殺人については絶対に認めません」

「奇遇ですね。私もあなたを私文書偽造罪などという微罪で裁かせるつもりは毛頭ありません。あなたには、殺人の罪をしっかり償ってもらいます」

 二人の間に見えない火花が散る。そして次の瞬間、鞠美による最後の反論が始まった。

「確かに、私は身分を詐称してあの会社で働いていました。事件当日、私は品倉さんと一緒にあのビジネスホテルに行きました。そこまでは認めます。ですが、その後私はあの会社には行っていません」

「どう言う事でしょうか?」

「そのまま帰ったんです。品倉さんに残したメモは、一人で帰るための偽りでした。だから、その後品倉さんや会社がどうなっていたのか私は知りません」

「ですが、あなたが帰宅したのは午後十一時半頃。二時間以上の差がありますが、これはなぜですか?」

「いろいろ考える事があって、その辺りをブラブラしていたんですよ」

「そんな言い訳が通ると、本気で思っているのですか?」

「この主張が嘘だと言う証拠でもあるんですか?」

 二人の視線が激しくぶつかる。

「言っておきますけど、探偵さんがさっき言っていた大塚駅の映像。あれ、まだ正式に調べ終わっていないんですよね。だったら、そんな不確かなものをここで証拠にするのはなしですよ」

「そんな事は当に承知の上です。それより、本物の七井佐和子があのビルにやってきた一件はどう説明しますか?」

「どうも、最近私が佐和子の名前を使って勝手に就職していた事に薄々気付いていたみたいだったから、それについて何か聞きに来たんじゃないでしょうか。で、会社の人に話を聞いているところを強盗に襲われて殺された。ただし、佐和子本人はもういないから、本当のところはわかりませんけど」

 七井の証言が得られない事をいい事に、鞠美はそのような証言をしてきた。

「信じられませんね」

「信じてもらわないと話にならないんですけどね。それとも、何か矛盾でもありますか? もっとも、もしあったとしてもまた反論するだけですけど」

 二人は互いを睨むように対峙している。

「これは、まずいな」

 不意に斎藤が呟いた。

「これでは埒が明かない。肝心の七井が死んでいる以上、あいつはどうとでも言える。このままでは、いくらやっても堂々巡りか」

 確かに、このままいってもジリ貧になるのは明白だ。事件当夜の関係者がほとんど死んでいるため、相手はどんな言い訳でもできるのである。

「どうすればいいんですか?」

「あの女を追い詰めるには、今までのような小手先の間接的証拠では話になりません。あれはその程度で参る女じゃない」

「と言うと?」

「決定的証拠。簡単に言えば、彼女が殺人を犯した事を証明する直接的な証拠。それが一つでもあれば、いくらあの女でも、言い訳しようがない」

 斎藤と瑞穂は固唾を呑んで二人の対決を見守る。おりしも、鞠美本人も斎藤と同じような事を告げていた。

「探偵さん、もうわかっているんじゃないんですか? こんな証言の矛盾をつつくだけじゃ、私は捕まりませんよ」

「……でしょうね」

「証拠……私が四人の人間を殺したって言う直接的な証拠はありますか? それがなければさっきのご大層な推理も全部創造の産物ですよね。証拠がないなら、私は今の主張を繰り返すだけです」

「あくまで、殺人はしていないという言う事ですか?」

「だから、違法就労は認めたじゃないですか。でも、ただそれだけです。私を論破したいと言うなら……」

 その瞬間、鞠美は突然口調を変えた。

「証拠持って来い」

 短く、しかし今までの会話とはまったく違う低い声に、瑞穂は悪寒を覚えた。その表情は、今までに診た事がないほど醜く歪み、だが、その一瞬後には、鞠美は元の表情に戻っていた。

「いかがですか?」

 鞠美の言葉に、榊原は押し黙った。

「……どうやら、証拠はないようですね。もう行ってもいいですか?」

 榊原は答えない。

「返事がないという言う事は、行っていいって事ですね。面白いお話、ありがとうございました。ただ、もう二度と私に顔を見せないでください。不愉快ですので」

 そう言って、鞠美はケースを閉じるとそのまま背を向け、マンションに向かおうとした。その時だった。

「あなたの主張はこうです」

 榊原が突然発言した。鞠美は立ち止まり、振り返る。

「あなたは身元を偽って就労していたが、事件当日の夜は現場に行っていない」

「ええ」

「そこで起こった殺人には関与していない。当然、今日品川で起きた品倉殺しも関係ない。ただ、現場に呼び出されただけ」

「その通りです」

「……では、一つ質問します」

 榊原は鋭く告げた。

「あの履歴書は何なんですか?」

 その言葉に、鞠美は虚を突かれたような表情をした。

「……は?」

「履歴書。現場から見つかった履歴書です。金庫に入っていましたよね。当然、入社当時に書いたものでしょう」

 鞠美はしばらく考えていたが、やがて思い出したような表情をした。だが、それでもそれが何を意味するのかわかっていないようだ。

「それが何か?」

「警察は、その履歴書を元に身元確認などを行っています。そして、その結果警察はあの死体を七井佐和子と断定した」

 榊原は切り札を叩き込んだ。

「当然です。履歴書の写真は正真正銘、七井佐和子のものでしたから」

 その瞬間、鞠美の表情が変わった。

「あなたは違法就労の事実は認めています。何もかもが他人のものだった履歴書ですが、一つだけ偽れないものがある。履歴書に貼る顔写真。これだけは、自分のものを使わざるを得ない。でないと、一発で別人だとばれてしまいますから。つまり、履歴書に貼られているべき写真は本来あなたのものでなければならない」

「……だから?」

「では、どうして現場から見つかった『七井佐和子』の履歴書の顔写真は、七井佐和子本人のものなのですか!」

 榊原の言葉に、鞠美の表情が青くなった。

「そ、それは……」

「入社時に提出した顔写真はあなたのものであるはず。そうでなければ、いくらなんでも広沼社長が雇い入れるわけがありませんから。しかし、事件後に発見された履歴書に貼られていた写真は間違いなく七井佐和子のもの。あの履歴書の顔写真は、あなたの入社から事件発覚までの間に、あなたの顔写真から七井佐和子の顔写真に貼り替えられているんです。では、誰が貼り替えたのか」

 榊原は一気に畳み掛ける。

「一人しかいないでしょう。その顔写真が偽物だと知っているあなた自身です。履歴書の顔写真は、あなたが貼り替えた。それ以外に該当者はいません。他の社員はそもそもあなたと七井佐和子が入れ代わっている事を知りませんし、知っていたとしても肝心の七井佐和子の写真を手に入れるチャンスはなく、そもそもそんな事をする意味すらない。逆に、本物の七井佐和子は貼り替えるチャンスがない。何しろ履歴書は事務室の金庫の中で、テンキー番号も金庫番号も知らない七井佐和子にはとても手が出せないからです。あなただけなんですよ。ルームメイトで就活中の七井佐和子の証明写真を手に入れる事ができ、なおかつ履歴書の収められている金庫番号を知り、湯船鞠美と七井佐和子の入れ代わりの事実を知る人間というのはね」

 鞠美は唇を噛み締めている。これから迎えようとしている結末に、必死に耐えるように。

「では、いつ貼り替えたのか。事件前という事はないでしょう。そんな事をすれば違法就労が一瞬でばれてしまうだけで、まったく意味のない行為にしかならない。自滅するだけですし、そもそもその行為を他の社員が怪しまないはずがない。かと言って、事件後は履歴書そのものを警察が押収していますから問題外。となると、それが可能なのはただ一つだけ。事務所にいる人間が全員死に絶え、警察が来る前……」

 榊原は断言した。

「事件発生時刻そのものというう事になります」

 鞠美は目を見開いた。もはや、反論する余地もない。

「あなたは間違いなく事件発生時刻にあの部屋にいたのです。そして、よりにもよって履歴書の写真を自分のものから七井佐和子のものに交換していた」

 榊原が宣告する。

「つまり、あなたは三人もの人間が血を流して倒れている横で、死んでいる七井佐和子があたかもこの会社で働いていたかのように見せかける工作をしていた……言ってみれば自分の存在を消そうとしていた事になる。これは、明らかに犯人の行動以外の何物でもないじゃないですか!」

「ち、ちが……」

「あくまであなたが犯人ではないと言うなら、この時本物の犯人は何をしていたんですか? あなたの主張が正しくてあのカメラに映っていた人物が犯人だった場合、あなたが履歴書の写真貼り替えをしていた時、犯人はまだ逃亡していなかったという事になる。つまり、犯人がまだ室内にいたにもかかわらず、あなたは逃げる事も叫ぶ事も助けを呼ぶ事もせず、ただ履歴書の顔写真を交換する作業を実行していたという事になってしまう。こんな不自然な話、いくらなんでもありえるわけがない!」

 榊原が止めを刺しにかかる。

「あなたは自分が違法就労していた事をばれるわけにはいかなかった。七井佐和子が実は別人だったというのがこの計画の肝であり、この錯誤がある限り自分に疑いは及ばない。だから事件の後、あの履歴書の写真は貼り替えざるを得なかったんです」

「そんなの、持ち去れば良い話……」

「いいえ、そんな事をすれば被害者の身元に注目が向いてしまいます。一度疑われてしまえばどうなるかわかったものではありませんから、持ち去る事はできなかったんです。だから、あなたは現場で顔写真を貼り替えざるを得なかった。もちろん、入れ代わりがばれていなければこの処置は有効だったはずです。ですが、あなたはさっき、自分から違法就労の事実を認めてしまいました。その時点で、計画のために作られたこの履歴書は、あなたを追い詰める決定的証拠になってしまった。つまり、履歴書の写真が入れ替えられていたという事実そのものが、私が先程述べた身元錯誤による殺人計画をあなたが実行し、あなたがこの事件の犯人であるという、動かぬ物的証拠になるのです!」

 鞠美は呆然と榊原の推理を聞いていた。

「念のために言っておきますが、今さら違法就労の事実などなかったと否定しても無駄です。履歴書である以上、執筆は自筆であるはず。印字や定規で引いた文字などは使えない。だから、履歴書の筆跡は確実にあなたのものであるはずです。いくらなんでも、本人に気付かれる事なく特定企業への履歴書を書かせる事などできはしない。よって、履歴書をそっくり交換するという手も使えない。従って、七井佐和子名義のあの履歴書の筆跡は、あなたのものと判定されるはずです。その事実が、違法就労が事実だった事を明確に示す物的証拠になる。あなたが認めようが認めまいがね」

 榊原は鋭く睨んだ。

「これでもまだ続けますか。犯人の見ている前で、血まみれの死体に囲まれながら一心不乱に履歴書の写真を貼り替える行為に対し、納得できる言い訳ができるとでもいうつもりなのですか」

 鞠美は答えない。否、答えられない。

「いかがですか!」

 榊原が鋭く宣告する。鞠美は立ち尽くしたまま、手に持っていたケースを落とした。

「……勝負ありだ」

 茂みの奥で、斎藤が呟いた。

「……クッ」

 と、不意に鞠美が声を漏らした。

「クックック……ハハハハハハ……参ったわね……」

 そう言うと、鞠美は手で目を押さえて、ほとんど苦笑に近い乾いた笑い声を上げた。

「完璧のつもりだったんだけど、まんまと罠にはまってしまったわね。どこまでも言い逃れるつもりだったんだけど、まさか履歴書なんて……もうこれで詰みね。打つ手なしだわ」

「認めるのですか?」

 榊原の言葉に、鞠美はあっけらかんと答えた。

「ここまで追い詰められたら仕方がないじゃない。ええ、認めるわ。あの四人を殺したのはこの私、湯船鞠美よ。これで満足かしら? 名探偵さん」

 それは、鞠美が正式に榊原に対し敗北宣言をした瞬間であり、同時にそれは長い「決闘」に終止符が打たれた瞬間であった。しかしその敗北宣言はどこか凄みのあるもので、瑞穂はまだ寒気が止まらなかった。

「動機はやはりその五千万円か」

 犯人が自供したのに伴い、榊原の口調も敬語から厳しい口調に変わる。一方の鞠美も、素の口調に変わっていた。

「ええ。正確には、五千万円というよりは金そのものね」

 鞠美の答えは単純明快だった。

「しかし、どうして七井さんを? ルームメイトじゃなかったのか?」

「……最初から全部計算の上よ。それに、元々あの子の事は気に食わなかったし」

 鞠美はそう言った。

「最初から殺すつもりでルームメイトになったと?」

「そういう事」

「一体なぜ……どうしてこんな犯罪を?」

 榊原の詰問に対し、鞠美はしばらく遠い目をしていたが、唐突にこんな話を始めた。

「私ね、小さい頃に捨てられたの」

「……」

「親父は二歳の頃に他界。私が五歳の時に、母親は他に男を作って子供までできた。私が邪魔になった母親は、私を親父の弟夫婦に『一週間だけ預かってくれ』という名目で預け、そのままどこかに蒸発した。結局、そのまま叔父夫婦の世話になったけど、そういう経緯だから叔父夫婦は私に冷たくてね。ぐれたりはしなかったけど、正直暗黒の青春を送ったわ」

 鞠美は続ける。

「私は世の中を恨んだし、絶対に世の中を見返してやるって思っていた。犯罪に興味を持つようになったのは、高校生の頃だったかしら。世間を見返すにはどうすればいいか考え始めて、真っ先に思いついたのが犯罪だった。いずれにせよ、私はその頃から犯罪というものに強い憧れを抱くようになっていた」

 鞠美の独白は続く。

「大学に入ったはいいけど、叔父夫婦はまったく私の事なんか眼中になくて、私は奨学金とバイトでためたお金で何とか食いつないでいる状態だった。そんな時よ、この計画を思いついたのは。私は決意したわ。絶対にばれない完全犯罪を成し遂げて、あの叔父夫婦や、世の中を見返してやるんだって」

 尋常ではない考え方だった。なまじぐれなかった分、長年の不満が内に溜り、それが歪んだ考えを生み出したのではないか。瑞穂は思わずそのように考えていた。

「つまり大学入学直後……四年前には今回の犯罪計画の大まかな骨子はできていたというのか」

「えぇ、そうよ。ルームシェアをする事にしたのも、この計画で必ず必要となる生贄を確保するためだった。どうせ殺すのは確定していたから、できるだけ気に食わないやつを選ぶ事にした」

「それが七井佐和子さんだった」

「あの子、私がほしかったものを全部持っていた。優しい両親、恵まれた環境、そして財産。世の中こんなに不公平なのかって思ったわよ。生贄にするには、ちょうどいい人種だったわね。彼女がライフル射撃部にいたのも好都合だった。犯行には銃を使うつもりだったし、いい練習になったわ」

 鞠美はせせ笑った。が、榊原は厳しい表情のまま、不意にこんな質問をした。

「……何が目的だったんだ?」

 その言葉に、鞠美の笑みが引っ込む。

「……どういう事?」

「ただ金のためというには四年と言う準備期間は長すぎる。それに、そこまでしておいて最終的な標的は住吉ライフ保険という小規模会社。あまりにも釣り合いが合わない」

 榊原はジッと鞠美を睨んだ。

「本当は、もっと大きな目的があったんじゃないか?」

 鋭い指摘だった。鞠美は黙って榊原を見据える。そのまま何分か時間が過ぎた。だが、先に折れたのは鞠美の方だった。

「……さすがに、鋭いわね」

 鞠美は息を吐いて答えた。

「お察しの通り、当初の標的は別の会社だったわ」

「どこだ?」

「社名は今さら関係ない。あえて言うなら……私を捨て、母親を奪って逃げ出した男が勤めている会社と言えばわかるかしら」

 その瞬間、榊原はすべてを悟ったようだった。

「動機は復讐か」

「復讐と言うより、仕返しね。あの男、母親と一緒に幸せな生活を送っていたわ。中堅企業の重役でそれなりの資産もあり、順風満帆。ふざけないでよ。娘捨てておいて自分たちだけ幸せな生活とか、そんな馬鹿げた事があって許されると思う? 娘の私が苦しんだんだから、あいつらだって苦しむべきなのよ!」

 鞠美は叫んだ。

「では、どうして標的が変わった?」

「狙えなくなったから」

「なぜ?」

「簡単よ。二人とも死んじゃったの。母親もその男もね」

 鞠美は虚ろな笑い声を上げた。

「私は、当初今回の品倉の役を、あの憎い男にやらせるつもりだった。やらせた上で社会的な汚名を着せて殺すつもりだった。でも二年前、あの男は私が機会をうかがっている間に勝手に母親を殺して、勝手に自殺しちゃった。動機は知らないけど、罠にかけて冤罪をかぶせる前に、勝手に本物の人殺しになって死んじゃったのよ。笑えるでしょ」

 それが本当だとすれば、皮肉な話であった。

「だったら、その時点で計画を中止する事もできたはずでは?」

「探偵さん、他人のあなたから見たら確かにそうかもしれないわね。でもね、私はもう止まれない所まで来てしまっていたの。私にとって、もはやこの計画を完成させる事だけが生きがいになっていた。今さら中止にするなんて、考える事もできなかった。一度道を踏み外すと決めた以上、後戻りなんかできなかったのよ! 二年間、これだけに取り組んでいた。それ以外のすべてを犠牲にした。中止なんか、できるわけないでしょ! 中止しちゃったら、そこまでの二年間を否定するようなものじゃない!」

 最後はどこか叩きつけるような言い方だった。

「フフ……あなたにはこの気持ち、わかるわけないでしょ。そうね、計画を煮詰めているうちに、私自身どこかおかしくなっていたのかもね。計画を成功させる。私の大学時代の目標はそれだけだった。それ以外には何もない。佐和子との友達づきあいも計画の一端に過ぎない。そう考えていたわ」

 鞠美は天を仰いだ。

「四年間。すべてをこの計画に注ぎ込んだ。それだけのものを犠牲にしてきている以上、私は、なんとしてもこの計画を成功させないといけなかった。失敗したら、それこそ何のための四年間よ。二年前も、多分同じ気持ちだったと思うわ」

「……だからこそ、ここまで入り組んだ複雑な計画を練り上げた」

「失敗するわけにはいかなかったから。二年前に計画が一度頓挫してからも、さらに二年かけて何度も綿密に計画を練り直したわ。ばれた際の反論も何度もシュミレーションした」

そこで、鞠美は凄惨な笑みを浮かべた。

「佐和子がこの時期になっても就職できていないのはなぜだと思う?」

「……なぜだ?」

 榊原は何か感づいていたようだが、あえて尋ねた。

「あの子ね、早い時期に大企業への就職が決まってたのよ。でも、それだと今回の計画に支障が出る。だからね、卒業間近になって彼女を騙って勝手に辞退の連絡をしておいたわ。あの子、意味がわからず呆然としてたっけ」

 その言葉に、瑞穂は戦慄した。

「でもねぇ、今になって思えば、計画云々と言うのは建前で、あの子が就職する事に耐えられなかったんだと思うわ。生贄のくせに一人だけ幸せになろうったってそうはいかない。ああいう連中の幸せそうな顔を踏みにじるのが、私にとって楽しみになっていたのかもね」

 鞠美はそう付け加える。

「そして、あなたはこの計画を実行した」

「ええ」

「あの会社を選んだのは?」

「さっきも言ったように、元々はあの男がいる別の会社を標的にして、それに合わせた計画を練っていたわけだけど、狙う意味がなくなった。そうなると、どの会社でもいいと言う事になって、ならより計画の成功率が高い会社に狙いを定める事にした。で、いろいろ調べてあの会社になったの。小規模でなおかつ金があり、就職の審査がかなり甘い会社。あの会社はその条件にピッタリだったわ」

「……話を聞いている限り、君にとって今回の計画は、金というより犯罪を実行する事そのものが目的だったように聞こえる」

 鞠美は小さく笑った。

「そうかもしれない。でも、金がほしかったのも事実。正直、その辺りの事は自分でもよくわからない。何としてもこの計画を成功させる。その執念だけで動いていたから」

 そう言って、鞠美はフウと息をついた。

「でも、まさか一週間もしないうちにばれちゃうなんてね。正直、今はむなしいだけよ」

 鞠美はそう言うと、榊原を見据えた。

「さ、終わりにしてよ」

「抵抗しないのか? 今ここにいるのは私だけだが」

「とぼけないで。一探偵のあなたがあんなに詳しい情報を知っているわけがない。バックに警察がいるのは目に見えていたわ。どうせ、この近くを警察が見張っているんでしょ」

 鞠美は髪をかき上げた。

「さっきあなたも言っていたわね。犯罪者は無駄な行動をしない。ここで暴れたって無駄なだけ。引き際くらいはわかっているつもり。無様に捕まりたくはないわ」

 榊原は少し黙っていたが、やがて茂みの方を見た。それを見て、斎藤は瑞穂にここにいるよう小さく告げると、茂みから出て、鞠美の元に近づいた。

「警視庁捜査一課の斎藤です。湯船鞠美さん、豊島区生命保険会社強盗殺人事件の件についてお話を伺いたいので、ご同行願えますか?」

「手錠はかけないの?」

「逮捕状はまだ出ていません。したがって任意同行の形です。もちろん、拒否する事もできますが、その手に持っているケースの件で引っ張る事は充分に可能です」

「……今さらどうでもいいわ。やったのは私。それでいいじゃない」

「認めるのですか? 認めるとなると、緊急逮捕が可能になりますが」

「一度言った言葉を覆すつもりはないわ。犯人は私よ。一度敗北宣言した以上、逃げも隠れもしないわ。さ、手錠をかけて」

 それを聞いて、斎藤はしばらく黙っていたが、やがて手錠を取り出した。

「湯船鞠美、殺人容疑で緊急逮捕する」

 ガチャリと手錠がかけられる音がする。

「榊原さんも、一段落ついたら事情をお聞かせ願います。明日にでも捜査本部に顔を出してください」

「ああ。ところで、一応言っておくが……」

「わかっています。いつも通り、榊原さんの名前は出しません。警察の懸命の捜査により犯人が判明した。それでよろしいですね」

「すまないな」

「いえ。我々としても、こちらのほうが色々と面倒がなくていいので」

 そう言うと、斎藤は鞠美の方に視線を向ける。

「行こうか」

 短く告げると、斎藤は鞠美を覆面パトカーのほうへ連行しようとした。が、何かに気がついたらしく、一度止まる。携帯が鳴ったようだ。

「ああ、私だ。今、すべて終わった。来てくれないか」

 どうやら新庄からのようだった。

「二枚目のメモの件、調べがついたようです」

「どうだった?」

「メモの内容は『湯船鞠美について調べてくれ』との事でしたね。おおむね、さっき彼女が言ったような経歴が確認されました。それと、山手線大塚駅のカメラを調べた結果、榊原さんが言った時刻にこの女の姿が映っていたそうです」

「そうか……」

「気になるのは拳銃の入手ルートですが、調べた結果、ライフル射撃部のOBに、この前発砲事件を起こした暴力団とつながりのある人間がいたらしく、その辺りが怪しいのではないかと。この点からも、突き詰めればこの女の犯行が立証できそうですね」

 榊原は黙って頷いた。

「最後に、何かありますか?」

 斎藤が確認する。榊原はそのまま黙っていたが、鞠美の方を見ないままこう告げた。

「確かに、君の境遇には同情する部分はある。世の中には同情すべき事情のある殺人者がいるのも事実だ。そういう犯罪者に対しては、私もそれなりの対応はするつもりだ」

 が、その直後に榊原の声は厳しくなった。

「しかし、君は何の関係もない人間を犯罪に巻き込み、あまつさえ命を奪った。それだけは断じて許せない。君は自分のやった行為で、自分と同じ立場の人間を何人も生み出した事をわかっているのか?」

 鞠美は答えない。

「人の命を奪うという行為を正当化する理由など絶対に存在しない。さっき同情できる殺人者に対してはそれなりの対応をするとは言ったが、殺人の罪を正当化するとまで言うつもりはない。まして、君はまったく関係ない人間の命を奪った。君はこの計画に人生を賭けたと言った。だが、そんな君の勝手な賭けで、何人の人生が滅茶苦茶になったと思っている。甘ったれるんじゃない。自分の不幸を他人に押し付けているんじゃない。君はただ、逃げただけだ。その証拠に、先程の弁明を聞いても君は自分が殺した人間に対する罪悪感など一切考えていない。いや、考えようともしていない」

 そして、榊原は鞠美を見据えた。

「君のこの賭け、最初から勝てるはずがなかったんだ。他人の人生を犠牲にして、勝てる賭けなんかあるはずがないんだからな」

「……」

「これだけははっきりと言っておこう」

 榊原は告げる。

「君のやった行為を蔑む人間は多々いるだろうが、賞賛する人間は一人だっていはしない。何が無様に捕まりたくないだ。どんなに格好つけても、君のやった事を格好いいなんて思う人間はいない。君がやったのは……殺人というのはそういう事だ!」

「うるさい」

 鞠美はただ一言そういった。だが、その声はどこか苦しそうなものだった。

「……行きましょう。刑事さん」

 鞠美はそう言うと、そのまま覆面パトカーの方へ去って行った。斎藤も小さく頭を下げ、鞠美と共に去る。後には榊原だけが残った。やがて、覆面パトカーの去る音が聞こえる。静けさが辺りを支配した。

「さてと……深町君、もう出てきても構わんよ」

 不意に、榊原はそう呼びかけた。ガサリという音がし、茂みからオズオズと瑞穂が出てくる。

「これで今日の仕事は終わりだ。満足かね?」

 瑞穂は、その問いに答える事ができなかった。

「正直、どう答えたらいいのか……」

「少し、ショックが強すぎたか」

「いえ、そうじゃなくて、何と言うか……」

 それ以上、どう表現していいのかわからない。瑞穂としてはそんな感覚だった。正直なところ、とても先程まで目の前で繰り広げられていた攻防戦が、あまりに日常とかけ離れていて現実的に思えなかったのである。

「……送ろう。さすがに、この時間帯で女子高生を一人では帰せない」

 突然、榊原はそう言った。

「送るって……」

「通りでタクシーでも拾えばいいだろう。代金は私が払う。こんな時間まで引き回した事もあるし」

 たった今まで殺人犯と対峙して激しい論理合戦をしていた人間とは思えないほど、ごく普通の何気ない調子で榊原は言った。

「早くした方がいい。すぐにここも本格的に警察が捜査を始める。何しろ真犯人の自宅だ。家宅捜索だって行われるだろう。下手に居合わせると君も事情聴取を受ける羽目になるかも知れない。騒がしくなる前に帰った方が吉と見るが、どうかな」

 瑞穂は頷くしかなかった。さすがに、事情聴取を受ける気はない。

 論戦の舞台となったマンションの前を去り、そのまま表通りに出てしばらくするとタクシーが通りかかったので、榊原はそれを止めて瑞穂と共に乗り込んだ。

「どこまでかね?」

 瑞穂は慌てて最寄りの駅の名前を言う。さすがに自宅まで送ってもらうのは気が引けた。無愛想な運転手は、小さく頷くとタクシーを発進させる。ちょうど入れ替わりに、パトカーが何台かこちらに向かってきた。それを尻目に、タクシーはマンションから離れていく。

 しばらくは二人とも黙ったままで、どこか気まずい雰囲気が車内を支配していた。

「あの……」

 五分くらいたってから、瑞穂が唐突に呼びかけた。

「聞いてもいいですか?」

「何だね」

「探偵さん、確かこの事件を調べる前にこう言っていましたよね。『あの馬鹿げた推理勝負を成立させないために、この事件を調べている』と」

「ああ、言ったな。よく覚えているね」

「よくわからないんです。どうしてこの事件を捜査する事が、部長との推理勝負を成立させない事につながるんですか?」

 榊原は一瞬何か考えたようだが、すぐに答えた。

「簡単な話でね。結論の出てしまった事件を推理勝負の題材にする事はできない。だから、推理勝負を回避するには、真相を明らかにしてしまって推理する行為そのものが不可能にしてしまうのがいい」

「じゃあ、別の質問です」

 瑞穂は榊原をジッと見た。

「どうして、そこまでして部長との推理勝負を避けようとしたんですか?」

 その問いに対し、榊原は押し黙った。瑞穂は続ける。

「正直に言って、推理勝負を避けるために大本の事件を解決してしまうというのは普通じゃありません。どうしてそこまで……」

「……君は、今回の事件を見てどう思った?」

 不意に榊原はそう聞き返した。

「どういう事ですか?」

「あの時、私はこうも言った。『そこまで見たいというのならば、望み通り見せるとしよう。遊びでない本当の事件の恐ろしさ……そして、人間の恐ろしさというものを』と。それについての感想は?」

「……正直、それについては嫌ってほど痛感したっていうのが感想です」

 瑞穂はそう答える。

「だろうね」

「でも、それが何か?」

「……だったらわかるはずだが、実際の事件と言うものには必ず犯人がいて、そして被害者がいる。理不尽に命を奪われた被害者だ」

 榊原は厳しい言葉で言う。

「私はね、そういう殺人事件を肴にして面白半分にする推理勝負が大嫌いでね。事件である以上必ず被害者がいる。苦しんでいる人、理不尽に命を奪われた人、人生を台無しにされた人……。被害者だけじゃない。捜査関係者だって文字通り自分の人生を犠牲にして捜査に取り組み、向こうも人生を賭けている犯罪者と文字通り命がけの勝負をしている」

 榊原は続ける。

「もちろん、意見を言う事、推理する事自体を否定しているわけではないし、作り物の事件について話し合う事は別に構わない。事実、私も推理小説は好きな方だし、楽しんで読ませてもらっている。また、現実の事件について個人でどんな推理や考えを持とうとそれは人の勝手だと思うし、それは人間として当然の感情だ」

 と、ここで榊原は語調を強めた。

「だが、現実の事件について複数人で論じる以上はそれなりの覚悟と責任を持つべきだ。特にゲーム感覚の推理勝負など論外だと考える。面白半分の推理勝負にどんな覚悟があるというのかね。実際に被害者が出ている事件に対し何の覚悟もなく無責任な推理を伝聞頼りに言うだけ。はっきり言うが、それは実際に死んでいる被害者に対する冒涜以外の何物でもないと私は考えている。だから、そんな事件を面白半分ゲーム感覚で推理勝負のネタにするという行為自体が、私には許せない」

 榊原の言葉に、瑞穂は言い返せない。

「だからね、私はあの推理勝負を成立させるわけにはいかなかった。だが、私が勝負を拒否しても、一度この事件に興味を持った君たちは部活で同じような事をしていただろう。それを防ぐには、君たちが興味を持ってしまった事件そのものの真相を白日の下にさらし、勝負そのものを成立させないようにするしかなかった。それはどうすべきか。面白半分の推理合戦などではなく、本気で事件を解決する。これしかないと私は判断した」

「だから、捜査に協力を……」

「私は探偵として、安易な推理勝負だけは絶対にしないと、心に決めている。やる以上は真剣に、覚悟を持つべきだ。それが事件関係者に対する礼儀と言うものだと、私は信じている」

 と、ちょうど目的地の駅に着いた。

「いずれにしろ、これで明日の朝刊には事件解決の記事が載る。推理勝負はご破算。君の所属するサークルのメンバーも、私の事務所に来る必要性がなくなるわけだ。あとは、君たちの判断次第という事になる」

 榊原はタクシーを降りる瑞穂にこう呼びかけた。

「くれぐれも、私が解決したという事はみんなには言わないでくれ。そんな事を言ってしまうと、せっかく推理勝負を回避した意味がなくなる。では、また会えるかどうかはわからないが、ここでお別れとしよう」

 そう言うと、タクシーのドアが閉まり、タクシーは榊原を乗せたまま発車して行った。瑞穂は呆然としてそれを見送るしかなかった。


 翌日、大半の新聞の朝刊の一面にこの事件解決の記事が踊った。

『豊島区生命保険会社強盗殺人事件容疑者逮捕

 二十三日深夜、警視庁は二十日に発生した豊島区生命保険会社強盗殺人事件及び二十三日に発生した品川埠頭射殺事件の容疑者として、被害者の七井佐和子さんの友人で明政大学大学院生の湯船鞠美容疑者(二二)を緊急逮捕した。調べに対し、湯船容疑者は容疑を認めており、警察は犯行に至った経緯を慎重に調べている。この事件は、東京都豊島区の生命保険会社「住吉ライフ保険」で社員三名が拳銃によって殺害されたもので……』

 瑞穂は、朝起きてすぐにこの朝刊を読み、改めて事件が解決したという事を実感した。しかし、紙面から伝わってくるのはどこか遠い世界で起こったような感覚だけで、瑞穂が前日味わった背筋が凍るような感覚はどこにもない。新聞の紙面は、あの時感じた恐怖や驚愕といったものを排除し、淡々と事実だけを報じていた。

 学校に行くと、昨日の夜体験した事がすべて嘘のように感じられてしまう。そのくらい、昨日の夜の出来事は、瑞穂にとって日常から遠く離れた出来事であった。

「みーずーほ! 何ボーっとしてるの?」

 昼休み、さつきに呼びかけられて瑞穂は我に返った。

「ええっと、ちょっと昨日の夜色々あって、少し寝不足で……」

 事実、あの後帰ったはいいが、興奮なのか何なのか結局寝付けず、二時間くらいしか寝ていなかった。

「ふーん。そうそう、さっきどっか行ってたみたいだったけど、あれ何?」

「ちょっと部室にね」

 結局、榊原の思惑通り、肝心の事件が解決してしまったのでミス研メンバーとしては当惑してしまった。本来なら昼休みに各自の考えをぶつけるはずだったのだが、すでに答えが出ているものに対して推理も何もない。

「うーん、どうしよっかな」

 野川が苦笑しながら言った。一応昼休みに集まりはしたものの、どうしたものかとなっている。

「タイミングが悪かったみたいね」

 朝子が冷静に言う。

「解決しちゃったものは仕方がないか。放課後の事は追々メールで連絡するよ。とりあえず、この場は解散で」

 野川がそう決定し。結局何も話さないままお流れになったのである。追々連絡するとは言っているが、事務所再訪はなくなるだろうと瑞穂は推測していた。

「ところでさ、今日の数学の宿題なんだけど……」

 さつきが話しかけてくる。瑞穂は軽く頭を振って、その会話に参加していった。

 正直、もうあんな体験は二度とする事はないだろうし、また日常が戻ってくるだけだ。あの探偵は嫌っていたようだが、これからもあの部活で色々面白い話し合いなんかをしていく。そんな三年間が続くだけ。瑞穂はそう思っていた。


 だが、これは単なる通過点に過ぎなかった。『この先に行ったらもう引き返せない。もしかしたら、今までの平凡な日常に戻れなくなるかもしれない』。湯船鞠美と対決する直前、榊原は瑞穂にそう言っていた。そして、それは現実のものになろうとしていた。

 事件の種は、瑞穂の知らないところですでにあちこちから吹き出ていた。やがて、その種は一気に「事件」という花を咲かせる。「犯罪」という非日常は、すでに瑞穂のすぐそばまで迫っていた。

 それも、瑞穂の身近な場所である立山高校、さらにはミステリー研究会をも巻き込む形で……。

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