第二章 探偵訪問

「……それで、結局入部したんだ。ミス研」

「うん」

 それから約二週間後、四月二十三日月曜日。瑞穂とさつきは教室で一緒に昼食を食べていた。

 あれからしばらくして、瑞穂は最終的にミス研に入部届けを提出していた。謎の男の忠告は確かに頭の片隅に引っかかってはいたが、次第に「何で名前も知らない正体不明の男の言う事をわざわざ聞かなきゃいけないのよ」という気持ちになり、だったらあえてここに入部してみるのもいいかもしれないと若干天邪鬼な考えで入部を決意したのだった。

 とは言え、もちろん理由はそれだけではなく、これが明らかに何か起こりそうな部活だったらさすがに瑞穂も躊躇していただろうが、特に何もある様子がなく、何人か他の部活の先輩に話を聞いてもそんなに悪い噂があるわけでもない。瑞穂としても、あの忠告の事だけが引っかかるだけで、あれさえなかったらあっさり入部していたであろう。

 何より、「他の人にはとても真似できないような事をしたい」という、瑞穂自身が合格発表の時に言っていた事を実現できそうな部活がした。いずれにせよ、いくつもの観点から見たところで特に問題はないと判断し、ほかに興味のある部活も特にはなかったので、最終的に入部と決まったのである。

 もっとも、入部届けを出しに行った時には、朝子からは「とんだ物好きもいたものね」と珍しがられ、幸からは「まぁ、かなり苦労すると思うけど、入った以上は頑張って」と何ともいえない声をかけられ、英美からは「すごいねぇ。度胸あるねぇ」などとまで言われてしまった。当の野川でさえ「こんなに早く出してくれるとは思わなかったよ」と、かなり微妙な発言をしており、瑞穂は何ともいえない複雑な気持ちを抱いていた。無論、中栗、佐脇、村林の二年男子三人組のように素直に喜んだ人間もいたが、瑞穂はこの部活が改めてかなりの変人の集まりだと再認識するに至った。

「で、どんな事してるの?」

「基本は雑談かな。毎週水曜日に多目的教室で正式な活動があって、それ以外は大体部室で雑談してる。活動も事件に対する議論とか、推理小説の読書会だから、正直かなり緩いと思う」

「ふーん、そっか」

 さつきはうらやましそうな表情をする。

「女子バスケ部は試合近いからって、新入生でも経験者はかなりハードな練習してる。戦争中の兵隊の気持ちがわかるよ」

「兵隊?」

「『月月火水木金金』って軍歌があったと思うんだけど。じいちゃんがよく歌ってるから何となく覚えちゃったんだけどね」

 要するに、土日返上で練習しているという事なのだろう。それにしても軍歌とは。瑞穂はさつきの意外な一面を見た気がした。

「でもさ、雑談ばっかりっていうのもどうなのよ」

「大丈夫。今日になってやっとまともな活動するらしいから」

「まともな活動って?」

 さつきが不思議そうに尋ねる。

「探偵訪問だって」

「探偵……何?」

「簡単に言うと、本職の私立探偵の人に色々話を聞いてみようって企画らしいよ」

「へぇ」

 さつきは物珍しそうな声を出した。

「というか、私立探偵って本当にいるんだね」

「部長の受け売りだけど、最近は探偵を規制する法律までできてるらしいよ」

「部長って『名探偵』の?」

「何でも、法学部を目指してるらしくって、そっち方面にも詳しいんだって」

 瑞穂はそう答えた。

「探偵訪問って、どこに行くの?」

「品川。そこそこ有名な興信所だって」

「よくその興信所も認めてくれたね」

 さつきが感心したように言う。

「ミス研御用達の場所で、毎年新入生を連れて行ってるみたい」

 瑞穂としても、かなり楽しみにしている。

「ま、楽しそうで何よりだけどさ」

 さつきは苦笑した。


 十五時半になり、放課後へと突入する。時間が押しているため、集合場所は最寄りの大崎駅である。

「あ、こっちだよ!」

 この間の活動同様、中栗が駅前で思いっきり手を振っている。周りの人間が何事かと言わんばかりの視線を向けているが、中栗は気にしない。

「早いんですね。私も結構早く来たつもりなんですけど」

「待ちきれなくてさ。授業が終わってすぐに走ってきた」

 中栗は笑う。よく見ると、額に汗が浮かんでいた。よっぽど急いでダッシュしてきたらしい。

駅前にいるのはまだこの二人だけである。

「他の方は?」

「もうすぐ来ると思うけど」

 と、やがて向こうから朝子が姿を見せた。

「早いわね」

 朝子はやや呆れたように言う。

「いつもの事です」

「部長会議の議長から個人的に呼び出しを受けてたんだけど、さぼってよかったのかしら」

「今さら何言ってるんですか」

 今度は中栗が呆れたような声を出す。ちなみに、このやる気のない文芸部長はこの前の金曜日に行われた部長会議も当然のごとくさぼっていた。おそらく、その件に関して何か呼び出しを受けていたのだろうが、それさえ無視したらしい。

「議長だって私が行かない方がホッとするでしょ」

「……もう何も言いませんよ」

 中栗がため息をついた。

 次に来たのは、野川と横川だった。

「相変わらず早いね」

 野川が苦笑しながら中栗を見る。

「あー、今年でこの行事も三回目か。面倒くせぇ」

 横川があくびしながら愚痴を言う。

「普段は行けない所だよ。もっと楽しもう」

「お前は気楽でいいよな」

 横川はそういって眠そうにする。

 やがて、集合時間から五分経った十五時五十分頃になって、佐脇と幸が姿を見せた。

「すみません。掃除当番が当たってしまいまして」

 佐脇が生真面目そうに答える。

「佐脇、あんた固すぎるのよ」

「遅れたのは事実です」

 幸の言葉に佐脇が突っ込む。この二人はこういう関係だと、ここ二週間で瑞穂も学習していた。どうやら同じクラスらしい。

「さて、時間も押しているし早速行こうか」

「楽しみです」

 瑞穂は素直にそう言った。

「あまり期待しない方がいいわよ。単純に話を聞くだけだから」

「それでも、楽しみです」

 朝子の言葉に、瑞穂はそう答える。

「ま、それだけの価値はあると思うよ」

 野川は微笑んだ。

「……ところで」

 と、唐突に朝子が発言する。

「さっきから聞いている限り、どうもわざとじゃないみたいだから、一応忠告しておくわ」

「何?」

「村林君は?」

 その瞬間、全員が顔を見合わせた。

「そう言えば……」

「忘れてたな」

 横川が悪びれずに言う。

 まさにその瞬間、自転車に乗った村林が駅のコンコースに突っ込んできた。

「ひどいッス! おいてきぼりッスか!」

 少し半泣きでゼイゼイ言いながら村林が叫んだ。全員が笑う。

「笑わないでほしいッス!」

「いいから、自転車置いて来てください。時間がないんです」

 あくまで佐脇は真面目だった。

「さ、今度こそ本当に行こう」

 野川の先導で、ミス研のメンバーは大崎駅に入っていった。


「……で?」

 朝子が少し皮肉めいた口調で誰となしに言った。

「何で私たちは門前払いを食らっているのかしらね?」

「仕方がないよ。先方の都合なんだから」

 野川はそうなだめながらも、自信が当惑した表情を浮かべていた。ここは品川。問題の興信所が入っているビルの前である。で、ミス研メンバー九人はその興信所の入り口で途方に暮れていた。

「しかし、急な出張ッスか」

 村林が残念そうに言う。

 確かに、野川はこの興信所の探偵に事前にアポイントメントを取っていた。時刻も間違いないし、場所も間違えてなどいなかった。

 だが、事務所側は申し訳なさそうに頭を下げたのだった。

「申し訳ありません。担当の者が急な出張で札幌に行ってしまいまして、受け入れができない状況です。今日のところはお引き取りください」

 大まかに言えば、そのような事を言われて退散せざるをえなかったのだった。それでも中栗や横川は連絡がなかった事を主張して抵抗したのだが、

「何しろ急な話でして、ついさっき出て行ったばかりなんです。連絡する暇もなかったんですよ」

 と、つれない返事で、最終的に締め出されるに至っていた。

「しかし、こうなるとどうしようもないね」

 野川は苦笑する。

「このまま解散ッスか?」

 村林が尋ねる。

「興信所はここだけじゃない。せっかくの活動だ。こうなったら、どこでもいいから尋ねてみようか?」

「でも、この辺りに他に事務所なんてありましたっけ?」

 幸が疑わしそうに聞く。

「ちょっと待って」

 野川は形態の地図検索で周辺を調べる。

「うーん、大きなのはなさそうだね」

「そりゃそうッスよ」

 村林は辺りを見回した。ここは品川駅前のビル街。割と大きな会社型の興信所はともかく、個人経営の事務所などあるような場所ではない。

「ないんなら仕方ねぇ。帰るしか……」

「いや」

 不意に、野川は目を光らせた。

「そう言えば、以前聞いた事がある」

「何をですか?」

「世田谷の事件を解決した時に、警察の人が言っていた。品川のこの辺りに、警察業界では伝説の名探偵がいるって」

「伝説の名探偵?」

 何とも胡散臭そうな異名である。

「その刑事の話だと、何でも今の日本で真の意味で『名探偵』を名乗る資格のある人間で、実際に殺人事件を解決した事もあるらしい」

「そんな馬鹿な」

 横川が笑いながら言う。とは言え、目の前に殺人事件を解決した事のある「高校生探偵」がいる以上、他に殺人事件を解決する探偵がいたとしてもおかしくないだろう。

「ちなみに、解決したのはどんな事件なの?」

「それが、僕も信じられないんだけど……」

「何だよ、野川らしくねぇな」

 野川は一瞬黙った後、こう言った。

「奥多摩で起きた『イキノコリ事件』。名前くらいは知ってるよね? かなりの大事件で、当時日本中が注目した大量殺人事件だ」

 その場が凍りついた。その事件の名前は瑞穂も知っている。確か何年か前に「リアル八墓村」だの何だのでマスコミが我先にと報道していた正真正銘の大事件で、最終的に警視庁は犯人を逮捕し、同時にその驚くべき真相が明らかになっていたはずだ。が、瑞穂はあくまで警察が解決したものと思っていたし、マスコミもそう報じていたはずだ。

「いくらなんでも、それは嘘じゃないですか」

 幸がそうコメントする。

「僕もそう思ったけど、その刑事は真剣な顔でそう言ったんだ。もっとも、すぐに上司の警部に『余計な事は言うな』って怒られて、それ以上は話さなかったんだけど」

 それが本当だとすれば、その探偵の実力は間違いなく本物である。

「ただね、その後でその探偵の噂とかを調べてみたんだ。腕は確からしいって言う意見が多かったけど、他にちょっとね」

「何だよ、はっきり言えよ」

 横川が野川に言う。

「何と言うか、あまりよくない噂があるんだ」

「よくない噂?」

「この人、過去にちょっとやらかしてるみたいなんだ」

 それ以上野川は詳しく語らなかった。あまり口にすべき事ではないと判断したのだろう。

「その人がこの近くにいるって?」

「でも、事務所らしきものは見当たりませんし、地図にもヒットしませんよ」

 中栗が訝しげに言う。大体、このビル街のどこに個人経営の事務所があるというのか。

「大体、その探偵の名前は?」

「うーん、それがさっきから思い出そうとしてるんだけど、思い出せなくって」

「お手上げッスね」

 そう言った時だった。

「キャ!」

 突然小さな悲鳴が上がった。振り返ると、歩いてきた女性に幸がぶつかったらしい。相手の年齢は二十歳前後だろうか。どこか大人びた風貌の、スーツを着た長髪の女性だった。

「すみません、ちょっと話をしていて」

「いえ、こちらこそ」

 慌てて謝る幸に対し、その女性は丁寧に頭を下げるとそのまま歩いていった。改めて周りを見てみると、いつの間にか歩道の真ん中を占領していた。

「これはまずい。ちょっと脇に寄ろう」

 野川が指示する。と、その時突然佐脇がアッと声を上げた。

「どうした?」

「今の女の人が……」

 佐脇がビルの方を指差す。が、そこには誰もいない。

「誰もいないけど」

「そうです」

 佐脇は告げた。

「あのビルとビルの間の路地に入っていって……」

 その路地は、人一人がやっと通れるような狭い路地だった。ビルに明かりをさえぎられてその奥は薄暗いが、どこかに続いているのは間違いなさそうだ。

 全員顔を見合わせる。

「こうなったらやけくそだ。探検がてらに行ってるか」

 横川が言った。誰も反対するものはなかった。


 路地に入り、しばらくは狭い道が続いた。

「あの女の人、どうしてこんなところに?」

「俺が知るかよ!」

 中栗の疑問に、横川が怒鳴り返す。奇妙な一列行進がずっと続いた。

 やがて、道は広い場所に出たが、そこは表通りではなかった。

「ここは……」

 いくつもの古いビルが乱立する、何ともいえない薄暗い場所だった。表通りにそびえ立つ高層ビルにさえぎられて、日光がほとんど当たっていない。乱立しているビルは高くてもせいぜい五階前後。何もかもが詰め込まれた雑居のような場所である。

「裏町のようだ」

 野川がポツリとつぶやく。ますますあんな女性が来るような場所ではない。

「謎ですね」

 中栗が少しうれしそうに言う。どうも中栗はこういう状況に憧れていたらしい。

「まぁ、せっかくだし見学しようか。こんな場所に事務所があるわけないけど、一応……」

「あ」

 突然、野川の言葉をさえぎって瑞穂が声を上げた。

「どうしたの?」

 朝子が尋ねる。

「あの、あれ……」

 瑞穂は古いビルの一角を指差した。

 そのビルは、周りのビルの中でも一際古い三階建てのビルだった。かなり年季が入っているようで、地震が来れば真っ先に倒壊しそうである。

 問題はその二階の窓ガラスに書かれている文字である。こちらもかなり古いようで、いささか読みにくかったが、そこにはこう書かれていた。


『榊原恵一探偵事務所』


 全員が顔を見合わせた。

「もしかして、あれ?」

 その時、野川はハッと顔を上げた。

「そうだよ、榊原。確かそんな名前だった」

「あれが、伝説の探偵の事務所ね」

 朝子が胡散臭そうに言う。想像していたよりかなり貧相な事務所である。見た限り、三階建てのその古ぼけたビルの二階を占有しているに過ぎないようだ。ちなみに、一階には『丸野診療所』という文字が書かれており、モグリなのか正規なのかわからない診療所があるようだった。

「とりあえず、行ってみようか」

 野川の言葉で全員が事務所に近づく。近くで見るとよりそのビルの年季の凄さがはっきりした。ビルの正面右に上に続く階段があり、ミス研部員のメンバーたちはその階段を上がっていく。二階に着くと廊下と窓のないドアがいつか並んでいて、そのうち真ん中のドアに『榊原探偵事務所 開業中』とそっけない文字で書かれたプレートがドアノブにかかっている。

「入るか?」

 横川が確認する。が、誰も行動に移らない。

「ねぇ、やっぱりアポなしっていうのは……」

 幸が不安そうな声を出し、誰も答えないまま時間が過ぎていく。狭い廊下はこの人数でいるには狭すぎ、すぐにでも何らかの結論を下さなければならなかった。

「……私が行きます」

 瑞穂が名乗り出た。

「いいのかい?」

「ここまできたら当たって砕けろです」

 瑞穂はそう言うや否や、ドアノブに手をかけた。その行動力に他のメンバーが感心する。

 と、その時だった。

「じゃあ、失礼します」

 そう言いながら、ドアが内側に開いて誰かが出てきた。ちょうど瑞穂が入ろうとしていたところに出てきたものだから、瑞穂とその人物は派手に頭をぶつけてしまった。

「痛っ!」

 ほぼ同時に二人が叫び、頭を抱えてうずくまる。瑞穂の場合はその拍子に携帯や財布などの荷物が床に落ちてしまった。

「いたた……あれ、あなたたちはさっきの……」

 相手は先程の女性だった。

「あ、どうも」

 野川がとりあえず頭を下げ、女性も頭を下げる。ちなみに、瑞穂は頭を押さえながら自分の携帯などを拾っている。

「お客かい?」

 と、奥から男の声がした。

「みたいです。どうしますか? お茶くらいなら出しますが」

 女性が返事を返す。

「いや、君は忘れ物を取りに帰ってきただけだろう。勤務時間は過ぎてるし、帰ってもらっていいよ。後は私がやる」

「そうですか。では、お言葉に甘えて」

 女性はそのまま一同にもう一度礼をすると、階段を下りて去ってしまった。

「とりあえず、寒いから入ってもらえませんか?」

 男が呼びかける。慌てて全員部屋に入ってドアを閉めた。

 その部屋は、いくつもの本棚が壁際に設置され、そこに何冊ものファイルが収められていた。瑞穂が顔を上げてよく見ると、そのファイルには何とか事件というように事件の名前が書いてあるのがわかる。要するに、これは全部事件の捜査ファイルなのだろう。

 入口のドアのすぐ傍に事務机が一つ。ポジション的に受付のようだ。机の主はいないが、どうやらさっきの女性がこの机の主だろうという予測は立てられた。奥の方に隣部屋に通じる入口があるが、おそらく給湯室なのだろう、

 部屋の中央には向かい合うようにソファが二つ置いてあり、そのソファの間にテーブル。そして、そのさらに奥に事務机が一つ置いてあった。そしてその事務机の椅子に、この事務所の主と思しき男が一人座っていた。

「えっ!」

 その顔を見て、瑞穂が思わず声を上げた。他のメンバーが何事かと瑞穂を見る。

 別に表情が怖かったとかそういう類の話ではない。もっと簡単な話で、その顔に瑞穂は見覚えがあったのだ。

「あなたは……」

 男は顔を上げない。瑞穂たちが来た事に気付いていないかのように、手元の文庫本を読み続けている。だが、その姿……アタッシュケースこそないがくたびれたスーツにネクタイという格好と、四十歳前後の痩身の体格に、瑞穂は見覚えがあった。

 

 それは、あの入学式の日に校門の前で瑞穂に声をかけ、ミス研に入るなと忠告した、あの中年男性だった。


 瑞穂はそれ以上声が続かなかった。忠告した本人に忠告を無視してミス研に入っている場面を見られてしまったという罪悪感があったのが一つと、そもそもの話として何とも声をかけづらい雰囲気だったためだ。だが、そんな雰囲気を感じていないのか、野川がこう尋ねた。

「あの、失礼ですが、榊原恵一さん、ですか?」

「……えぇ、そうですが」

 男……榊原恵一さかきばらけいいちは野川の方を見る事なく短く答えた。だが、その視線に瑞穂は正直何とも言えないものを感じていた。

 直接こちらを見ているわけではない。だが、それにもかかわらず、何か鋭い視線がこちらを貫くような感覚が瑞穂を襲っていた。まるで何もかも見透かすような、恐怖さえ感じる視線である。

 ただ、あくまで瑞穂がそう感じているだけで、他のメンバーが同じように思っているのかは微妙である。見た目的にはただの平凡な中年男であるのは変わりないし、瑞穂の考え過ぎという可能性もあった。

「何かご依頼ですか?」

 榊原は手元の文庫本から顔を上げずに尋ねた。

「いえ、我々は立山高校ミステリー研究会のものです」

 野川が代表で挨拶する。その瞬間、榊原の表情が険しくなった。

「高校のミステリー研究会の人間が私のような人間に何の用かね?」

 少々不機嫌そうな声で尋ねる。口調も来客に対する敬語ではなくなってしまっており、明らかに校門の前で話しかけられた時の対応とは違っていた。

「実は、僕たちは活動の一環として本職の探偵の方にお話を伺うという事をやっておりまして、今日はあなたから一つ探偵についてのお話をお聞きしたいと思い、こうしてお邪魔した次第です」

 榊原は一瞬動きを止めたが、すぐにこう答えた。

「私は別に話す気はないよ。そういうのは嫌いでね」

 取り付く島もない、事実上の門前払いである。

「アポなしで訪れたのは非礼だとは思っています。しかし、そこを一つ曲げて頂いて……」

「そもそも、私に話を聞いてどうするつもりだね?」

 野川の発言をさえぎる形で榊原は尋ねた。

「あなたのお話を参考に、今後の我ががミス研の活動の参考にしたいと考えています」

「どんな?」

「部内で書く小説の参考にさせていただいたり、部内で行われる推理小説の評論に活かさせていただいたり……」

「要するに、お遊びかね」

 榊原はそう言って部員たちの方を見ようともしなかった。さすがに野川も眉をひそめる。

「どういう意味ですか?」

「本当の犯罪を知らない甘ちゃんだと言っているんだ。冷やかしなら帰りたまえ。私は高校生の探偵ごっこに付き合うつもりはない」

 その場に動揺が走る。予想外に厳しいコメントだった。

「一介の私立探偵に過ぎないあなたが本当の犯罪を知っているとでも?」

 野川が穏やかに反論する。榊原はそこで初めて部員たちの方を見た。

「君の名前は?」

「野川です。野川有宏」

「野川有宏……あぁ、確かそういう噂があったな。天才高校生探偵、だそうだね」

 驚いたことに、榊原は野川のことを知っているようだった。

「それはどうも。世田谷の主婦殺人事件の報道でも読みましたか」

「想像にお任せするよ」

「お疑いでしたら、今ここで当時の真相をそのまま説明しますが」

 榊原はじっと野川の顔を見ていたが、不意に首を振った。

「結構だ。ならば、私の事くらい知っているのではないかね? 私がどうしてこんな場所で探偵事務所を開いているかも」

 榊原は挑むように野川の方を見た。

「ええ、まぁ。僕も噂だけは聞いていましたから」

 野川は余裕をもって答えた。

「あなたは元々警視庁刑事部捜査一課の警部補だった。しかも当時捜査一課最強の捜査班と呼ばれた特別捜査班のブレーン的存在として名を馳せながら、九年前にある事件で大失態を演じて辞職。以後、この事務所で探偵業を営む。違いましたか?」

「……その通りだ。よく調べているね」

 榊原は表情を変える事なく認めた。瑞穂としては、この一件くたびれた中年男が、かつて警視庁のエリート刑事だったという事の方が驚きだった。同時に、先程野川が言った「過去にやらかした事」がこの事だと悟った。

「つまり、その程度の実力って事じゃないですか。あなたも僕らに偉そうに言う資格はないと思いますけどね」

「では、君は失敗をした事がないと?」

「もちろん。探偵は失敗したら終わりですから」

 野川の答えに、榊原は小さく笑った。

「終わり……か」

「ええ。一度でも失敗したら、今まで築いてきたものがすべて終わりになる。そうなったら探偵生命は終わりです。だから、探偵は成功し続けなければならない。真実を常に当て続けなければならない。あなたはそういう意味では、探偵としては三流じゃないんでしょうか? 他でもない、失敗して探偵になったんですから」

「なるほどね」

 榊原は本を閉じた。

「で、用件は何かね?」

「あなたの武勇伝を聞かせていただきたい。辞職の経緯はどうであれ、あなたが現在日本で最も有名な名探偵らしいというのは事実です。我々ミス研としては、ぜひ、お話を聞かせてもらいたいのです」

「大げさな話だよ。私は自分で名探偵だと名乗った事は一度もない」

「ご謙遜を。数年前に奥多摩でたまで起きた『イキノコリ事件』。不可解な連続大量殺人をめぐるあの事件を解決したのはあなただと聞いていますが」

 榊原は迷惑そうな表情をする。

「……私が解決した事は伏せておいたはずなのだがね」

 謙遜でも何でもない、本当に嫌そうな表情だった。

「記録として残すという理由ならともかく、私は面白半分に自分が解決した事件を語る気はない。帰りたまえ」

「つまり、自分の推理力に自身がない? 名探偵の名が泣きますね」

「さぁね。判断はお任せするよ。言った通り、私は名探偵と名乗った事は一度もない」

 榊原はあくまでドライに話を進める。

「じゃあ、あなたが名探偵だというのもただの都市伝説に過ぎないというつもりですか?」

「私は一介の私立探偵だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 野川は一瞬黙ったが、挑むように続けた。

「……どうしてもその推理力を認めようとしないと?」

「自分の事はわからんからね」

「僕と比較されるのが怖いんですか?」

 野川は思い切って榊原を挑発した。

「……好きに考えればいい。私からすればどうでもいい話だ」

 しかし、榊原は動じない。その場が硬直する。

「じゃあ、いっその事、ここで証明してもらうというのはどうですか?」

 と、不意に横にいた中栗が提案した。

「証明?」

「せっかくだから、お二人に何かここで事件を推理してもらうっていうのはどうでしょう。いわゆる、推理勝負ってやつです」

 他のメンバーは一瞬呆気に取られていたが、野川は賛成した。

「それはいい考えかもしれません、昔の事件を解決する気がないというなら、今ここでその推理力をお見せして頂くのは問題ないでしょう?」

「……」

 榊原は答えない。ただ黙って、再び手元の文庫本に目を通しているだけだ。

「でも、どんな事件を推理するのぉ?」

 英美が疑問を呈する。

「そうですねぇ。じゃあ……」

 中栗は、手前のテーブルの上に新聞が置かれているのを見つけると、社会面を開けて適当な事件を指差した。

「では、今一番ホットなこれを」

 指差された記事には「豊島区生命保険会社強盗殺人事件」と大きく書かれていた。最近になって連日大きく報道されている事件である。瑞穂は、テレビや新聞の内容から事件の概要をとっさに思い出してみた。

「ええっと、確かそれってどこかの生命保険会社に強盗が押し入って、社員三人を射殺して現金を奪ったって事件でしたよね」

「犯人は警察の検問にかかる事なく未だに拳銃を持ったまま逃走中。話題性といい、なかなか面白い事件だと思うんですけど」

 中栗が興奮したように言う。野川は苦笑しながら、榊原に問いかける。

「そういう事なんですけど、どうしますか?」

 榊原はしばらく黙っていたが、文庫本を読みながらこちらを見ようともせず、

「それは依頼なのかね?」

 とだけ言った。

「と、言いますと?」

「私だって商売だ。調べろと言われれば調べるがね、依頼するというのならそれなりの費用はかかる。君たちにそれは払えるのかね? 最低でも万単位になってしまうが」

 全員押し黙った。さすがに、そこまでやろうという人間はいないようだ。

「では、こうしましょう」

 と、野川が提案した。

「別に本当に調べる必要はありません。新聞やテレビなんかで流れている情報。それだけを頼りにここでそれぞれ自分の考えを述べる。考えを述べるだけだったら、依頼料はいりませんよね?」

 野川の提案に、榊原は文庫本に目をやったままこう言った。

「生憎、私はその事件についてはよく知らないものでね。だから、私はこの件に関して今すぐ意見を述べる事などできない。今ここで意見を聞きたいと言うのなら、期待しないでもらおうか」

 取り付く島もない。が、ここまでくると野川も後には引けないようだった。

「わかりました。それでは明日、もう一度ここを訪ねさせて頂きます。一日あれば、それぞれの意見もまとまるでしょう。その際に、それぞれの意見を述べると言うのは?」

 あくまで自分と榊原、どちらの推理が優れているのかを確かめたいらしい。

「……一つ聞きたいのだがね」

 不意に、榊原は文庫本を見たままそう告げた。

「何でしょうか?」

「君は、そんな事をして何かメリットがあるのかね? ここでいくら意見を述べ合っても、事件の解決には一切貢献しない。やる意味もない、と考えるが」

 榊原の問いに、野川はこう答えた。

「少なくとも、僕とあなた、どっちの推理力が上なのかはわかると思いますが」

「わかってどうする?」

 榊原はそう返した。

「わかったところで、何か変わるとでも言うのかね?」

「僕は、あなたが本当に世間一般に言われる名探偵かどうかを知りたいだけですよ。それ以上でも以下でもありません。純粋な好奇心です」

 野川はそう言って微笑んだ。榊原はしばらく黙り込んでいたが、やがてため息をついてこう言った。

「……勝手にしたまえ」

「受けてくださる、と言う事で?」

「受けるとは言っていない。意見を言うのは勝手だが、私は別にそれに対して答える義理もない。それだけだ」

「つまり、意見は聞いてくださるという事でいいんですね」

 野川はそう解釈した。

「わかったら、帰ってくれないか。依頼でもないのに事務所にこんな集団でいられると迷惑だ」

 そう言って、榊原は椅子を回転させて全員に背を向けた。それが潮時だと思ったのだろうか。野川も素直に帰る姿勢を見せた。


「何だよあの態度! むかつく野郎だぜ」

 帰り道、夕日に照らされた品川のビル街を歩きながら横川はイライラした表情で愚痴をこぼし続けていた。その表情が怖くて、瑞穂は少々引き気味であったが、他の人間はそういう事には慣れているらしく特に変わった反応はしない。

「まぁまぁ、アポなしで尋ねたこっちも悪い。話を聞いてくれただけでもありがたいと思おう」

 野川がそんな横川をなだめる。

「お前は本当によくできた性格だよ」

「ほめても何も出ないよ」

「でも、どうするんッスか。明日までに、その何とか事件についての意見を考えないといけなったッスけど」

 村林が不安そうにいう。

「中栗君も、随分な事件を選んでくれたね」

「いやぁ、とっさにあれが目に入りまして」

 中栗は頭をかきながら謝る。

「とは言え、僕一人で考えるのも悪いな」

 野川はそう言ってしばらく考えた後、

「よし、じゃあ、ここにいるみんな全員に考えてもらうってのはどうだろう?」

「え、全員ッスか?」

 村林が驚いた表情をする。

「三人寄れば何とやらってね。九人もいるんだし、全員で考えればそれなりの意見は出るんじゃないかな。それに、瑞穂ちゃんにこの部に慣れてもらういい機会だし」

 野川はそう言って微笑んだ。

「部長命令なら従うけど、いいの?」

 朝子が尋ねる。

「せっかくだ。みんなであの探偵に一泡吹かせてやろうじゃないか」

「おっしゃ、乗ったぜ! あのすかした野郎にほえ面かかせてやる!」

 横川がこぶしを握り締めながら賛成する。

「じゃあ、今日一晩で問題の事件についてそれぞれそれなりに考えてくる事。明日の昼休みに一度部室に集まって意見をまとめ、放課後に事務所を訪れてあの探偵に意見をぶつける。これでどうかな?」

「別にいいですよぉ」

 英美が賛成し、他の部員も異論はないようだ。

「よし、決まりだね」

 野川がまとめた。

「でも、私、その事件の事あまり知らないんですけど」

 瑞穂が問いかける。

「なぁに、今一番ホットな事件だから、ネットを調べればいくらでも情報は出てくるよ。あとは、その情報をどうやって組み立てるか。探偵の基本だよ」

「は、はい。頑張ってみます」

 瑞穂は大きな返事をする。

「さてと、これからどうしますか。このまま解散ですかね?」

「うーん、一度部室に戻ってみるかい? まだ時間も早いし……」

「アッ!」

 と、突然瑞穂が声を上げた。

「どうしたの?」

「……しまった、携帯を事務所に忘れてきちゃった……」

 事務所で秘書らしき女の人にぶつかって携帯を落とし、そのまま秘書席の机の上に載せたまま忘れてしまっていた。

「すみません、取りに行ってきますんで、先に帰ってください。私、取りに行った後そのまま帰りますから」

「一人で大丈夫? 私も一緒に行こうか?」

 朝子が尋ねるが、

「大丈夫です。忘れ物取りに行くだけですし」

「そう?」

「じゃ、失礼します!」

 そう言うと、瑞穂は部員たちに一礼し、今来た道を戻り始めた。

「参ったなぁ、忘れ物なんてらしくないなぁ」

 そうぼやきながら、瑞穂はさっき入った裏路地に入り、その奥にある事務所の入ったビルへと向かった。

「ええっと、確かこの辺に……」

 そうこうしているうちに、目的のビルが見えた。

「あった、あった。さっさと携帯返してもらおっと」

 そう言って、ビルに近づいた時だった。

「ん? 君は確か……」

 そのビルの階段を、先程の探偵……榊原恵一が降りてくるところだった。手には黒のアタッシュケースが握られており、どうもどこかに出かけるようである。

「あ、どうも……」

「さっきのクラブの子だったね。何か忘れ物かね?」

 榊原はそう尋ねた。瑞穂の事には気付いていないようである。

「どうしてそう思うんですか?」

「他に何か理由があるかね? それぐらいしか理由が思いつかないんだが」

 言われてみればそうである。

「その、携帯を忘れちゃって……」

「携帯? ああ、亜由美ちゃんの席に置いてあったあれか。てっきり彼女のものかと思ったんだが」

 どうやら、秘書の名前は亜由美と言うらしいが、ちゃんと気付いていたようである。

「すみません、取りに行ってもいいですか?」

「いいも何も、これから出かけるから事務所には鍵がかかっているんだがね」

 まぁ、当然の話である。榊原は小さくため息をつくと、背広のポケットから鍵を出した。

「取ってきなさい。私はここで待っているから」

「す、すみません!」

 瑞穂はあわてて階段を駆け上ると、事務所のドアに鍵を突っ込んでドアを開けた。

「あ、あった」

 携帯は、ちゃんと机の上に置いてあった。瑞穂はホッとしながら携帯を手に取る。

「あれ?」

 その時だった。瑞穂は榊原のデスクの上に何かが置いてあるのに気がついた。少し興味がわいた瑞穂は、何ともなしにそちらに近づいた。

「これって……」

 それは、何かのファイルのようだった。その表紙に、文字が踊っているのが見える。


『黒部ダム高校生溺死事件捜査記録』


 その文字が見えた瞬間、瑞穂の背筋が凍った。冗談でもなんでもない、正真正銘の探偵の捜査記録、それも人が死んでいる事件の記録である。

「黒部ダムって……確か富山県のダムだよね」

 うろ覚えの記憶では、確か貯水量日本一を誇る、日本最大のダムだったはずだ。

 瑞穂は、思わず後ろを振り返り、誰もいないのを確認すると、再びファイルに目をやった。

「見ちゃ……まずいよね、やっぱり」

 自問自答する。探偵には守秘義務があると言う話を、何かのドラマで聞いた事があった。

 しかし、こうもあからさまに意味ありげに置かれていては、瑞穂の好奇心が刺激されないはずもない。そもそもの話、そんなファイルを出しっ放しにしている榊原の方が色々と問題があるのではないかと思ったりもした。

「……ちょっとだけ。最初の一ページだけ」

 結局、瑞穂は沸いてくる好奇心に負けて、そのファイルの一ページ目をめくった。

『事件概要』

 飛び込んできたのはそんな文字だった。

『発生日時・二〇〇七年三月二十六日月曜日 発生現場・富山県黒部ダム湖上』

「意外と最近の事件なんだ」

 瑞穂はそう呟くと、先を読み始めた。

『二〇〇七年三月二十六日月曜日早朝。富山県黒部ダム湖上に水死体らしきものが浮かんでいるという通報がダム職員から富山県警に入る。ダム職員によって遺体は引き上げられ、ダム湖桟橋にて検視作業が行われる。遺体はいわゆる学生服を着込んでおり、外見その他から高校生と思われたが、その後ポケットに入っていた財布から学生証が発見され、身元が判明した』

 そこまで何気なく読んでいた瑞穂であったが、正直どこに調査する余地があるのかいまいちよくわからなかった。

「うーん、なんかよくわかんないなぁ」

 そう呟きながらその次の文章を読む。が、そこで目に入ってきた文字を見て、瑞穂は思わず絶句した。

「え……」

 目がその文字に吸い寄せられる。

『被害者の氏名は生田徹平いくたてっぺい(十六)。事件当時、都立立山高校の一年生。死因は溺死。遺体写真は別紙に添付』

 と、次のページから何かがはみ出しているのが見えた。恐る恐るそれを引っ張ってみる。

「イヤッ!」

 それを見た瞬間、瑞穂は思わず小さく叫びながらファイルを手放し、そのまま後ずさった。ファイルが机から落ち、床に広がる。

 それは、写真であった。瑞穂が見慣れた制服を着て、地面に仰向けに寝ているように見える男子生徒の写真。否、寝ているのではない。その表情は青白く、それが文章で示されていた遺体写真である事は明白極まりない事実であった。

「どういう事……被害者が、うちの高校の生徒って……」

 被害者は、あろう事か今まさに瑞穂が通っている、立山高校の生徒らしかった。先程までの興味津々と言う気分は一転し、見てはいけないものを見てしまったというような感情が入り乱れ、瑞穂は少々パニックに陥っていた。

「嘘……だって、そんな話、今まで聞いた事も……」

「緘口令が敷かれているんだろう」

「キャッ!」

 不意に後ろから呼びかけられて、瑞穂は思わず飛び上がりそうになりながらバッと後ろを振り返った。そこには事務所の主・榊原恵一が立っていた。

「あ、あの……これは……」

 何か悪い事を見つかったような気分になり、瑞穂はしどろもどろになりながら言葉を出そうとする。が、榊原が最初に言ったのは、意外な言葉であった。

「携帯、見つかったかね?」

「え?」

 瑞穂は思わず聞き返した。

「携帯だよ。それを探しに来たんだろう?」

「あ、はい。ありました」

「それはよかった」

 そう言うと、榊原はそのまま黙ってしまった。

「えーっと、あの。怒らないんですか?」

 堪りかねて、瑞穂の方から質問した。

「怒るとは?」

「その……勝手にファイル見ちゃった事……」

 最後の方は声が小さくなりながら言う。

「あぁ、構わんよ。見られて困るものでもないし、むしろ見てもらうために置いた」

「は、はい?」

 聞き捨てならない言葉に、瑞穂は聞き返した。

「見てもらうためにって……」

「君、なぜあの部活に入ったんだね。一応忠告はしたはずだが」

 瑞穂が質問する前に、榊原は別の言葉を発する。その言葉で、瑞穂は直感した。

「覚えていたんですね。私が入学式の時に校門で話をした生徒だって事」

「仕事柄、一度会った人間の顔は必ず覚える事にしているものでね」

 そう言うと、榊原は中に入ってドアを閉め、デスクに近づくと、落ちていたファイルと写真を大切そうに拾った。

「質問の答えは?」

「……あんな事言われたら、余計に気になりますよ」

 瑞穂は少しふてくされたように言って榊原を見た。

「確かにそうだが、だからといって普通は入ろうとは思わないと思うのだがね」

 榊原は小さくため息をつきながら、そのファイルをデスクの引き出しに放り込んだ。

「私の質問にも答えてくれますか?」

「何だね?」

「あなたは探偵さんなんですよね?」

「まぁ、そうなるな」

「探偵がうちの学校の校門の前で何をしていたんですか? それにこのファイルですけど、見せるために置いたって、どういう事ですか?」

 立て続けに発せられた質問を聞いて、榊原は真っ直ぐ瑞穂の方を見た。

「さっきの反応だと、どうやら君はこの事件を知らないようだね」

「そこに書かれている黒部ダムの事件ですか」

「君がその件に無関係である事を一応確かめておきたかったものでね。携帯を忘れていたから、せっかくだから確認してみようかと思った。何しろ、君はイレギュラーな存在だったからね。私としても、今後君に対してどう対応するべきか判断する必要があったんだよ」

「……どういう意味ですか?」

 瑞穂の問いに、榊原は厳しい表情でこう言った。

「まぁ、御察しの通り、私は現在ある人物の依頼でその事件を追っている。表向きは事故死または自殺と言う処分が下されている事件だが、その調査の過程で被害者が通っていたあの高校が浮かんできた」

「もしかして、入学式の日にあそこにいたのって……」

「君が想像する通り、その事に関連してだ」

 一つの謎が解けた。が、それは同時に別の謎の出現でもあった。

「どうして、ミス研について調べていたんですか?」

「どうしてそう思う?」

「あの時、ミス研の冊子をほしがっていましたよね。それに、私にあの部に入るなと言った。何かあると思うのは当然です」

 榊原は黙ったまま聞いている。

「それに、私がイレギュラーってどういう事ですか? 私がミス研に入った事で、その何とかっていう事件についての捜査に支障が出るんですか?」

「……現段階では詳しくは言えない。ただ、これだけは言える。君は私の調べている事件と無関係である事がこれではっきりした事。まぁ、今年度入学なら当然だが、何がどこでつながるかわからないものでね。無関係とわかった事は大きな収穫だ」

「質問の答えになっていません。ミス研はどう絡んでいるんですか」

 はぐらかそうとしている榊原に対し、瑞穂は強気に迫った。こういう時の度胸の強さには自身がある。

 榊原はその反応に少々驚いた様子であったが、やがて首を振るとこう言った。

「では、一つだけ言っておこう。あの部活は私の調べている事件に少なからずかかわっている疑いがある。それだけだ。これでいいかね」

「……って事は、その生田という生徒の死に、ミス研の誰かがかかわっているかもしれないという事ですか?」

 瑞穂は確認を取った。頭の中に、ミス研のメンバー八名の顔が浮かぶ。少しの付き合いであったが、瑞穂の感覚では、少々変わっているところはあるとはいえ、みんな優しい人というイメージがあった。とても、そんな人の死が絡むような事件にかかわっているとは思えない。

「あくまで、私の推測に過ぎない。もしかしたら、私の考えすぎかもしれない。あまり気にしないほうがいい」

 榊原はそう言って、強引に話を打ち切った。

「さて、そろそろここを閉めるが、いいかね?」

「どこへ行くんですか? さっきのは、私にファイルを見せるためのお芝居だったんじゃないんですか?」

「いや、出かけるのは本当だ」

「どこへ?」

 榊原は一瞬考えた後、こう告げた。

「仕事だ。それとは別件のね。さぁ、もう出てくれないかね?」

 瑞穂はしぶしぶ事務所から出た。事務所に鍵がかけられ、一階に降りる。

「じゃ、ここでお別れだ。さっきの話だと、明日も来るんだろう。早く帰りなさい」

 榊原はそう言って歩き出そうとする。が、瑞穂はしばらくうつむいて何か考えていたが、やがて何かを決意したように話しかけた。

「……探偵さん」

 呼びかけられて、去ろうとした榊原の足が止まる。

「一つ、頼みごとがあるんですが、よろしいですか」

 その声の真剣さに何かを感じ取ったのだろうか。榊原はそのまましばらく背を向けていたが、ゆっくりと瑞穂の方を振り返った。

「聞くだけは聞こう。何かね?」

 その視線に、瑞穂は一瞬躊躇したが、やがて一回深呼吸してこう言った。

「私も、そのお仕事に同行させて頂けませんか?」

 言い終えると、瑞穂は頭を下げた。正直、即座に駄目だと言われて終わるだろうと考えていた。だが、そう言わずにはいられなかったのである。

 しかし、榊原はしばらく黙ったあと、こう尋ねた。

「理由を聞こうか」

 瑞穂は頭を上げた。

「駄目だとは言わないんですか?」

「理由次第だ。言っておくが、遊びじゃない。それなりの理由があるんだろうね」

 厳しい視線だ。当然である。高校生が探偵の仕事に同行したいと言っているのだ。普通ならつき返されてもおかしくない。理由を言う権利を与えられただけでも奇跡である。

「探偵さんは、さっき私たちがやっている事が遊びだと言いました」

「ああ」

「では、遊びではない推理と言うのはどんなものなんですか」

 二人の間に沈黙が支配する。

「……それを知ってどうするのかね」

「あなたは私たちをお遊びと批判した。だったら、私はあなたの言う本当の推理と言うものを知りたいんです。それを知った上で『お遊び』と言われるならまだいいです。でも、何も知らないのに批判されるいわれはありません」

「……」

「だからこそ、私は探偵さんの言う『遊びでない推理』『本物の探偵』を知りたいんです。そのために、あなたの仕事に同行したい。これが理由ではいけませんか」

 そう言って、瑞穂は気丈にも榊原を睨んだ。再び沈黙がその場を支配する。榊原は何かを考えるように目を閉じていた。瑞穂はそれを見ながら答えを待つ。

 しばらく時間が過ぎた。

「……勝手にしたまえ」

 不意に、榊原はそう言った。瑞穂は思わず驚いた表情で榊原を見た。

「え……」

「勝手にしたまえ。帰りたいなら帰ればいいし、来たければ来ればいい。勝手について来る分には私の知った事ではない」

「いいんですか?」

「ただし」

 遮るように榊原は振り向き、こう言い添えた。

「ついて来る以上は、それなりに覚悟はしてもらう。君たちがやっているような遊びでもなんでもない、現実の事件の残酷さを味わう事になるかもしれないが、それでもいいかね?」

 返事は一瞬だった。

「もちろんです」

「ならば、好きにしたまえ」

 そう言うと、榊原は駅の方に歩き始めた。瑞穂は慌ててその後を追った。


 榊原は品川駅に着くと、山手線内回りに乗車した。

「どこに行くんですか?」

 瑞穂は電車に乗る前、切符を買うにあたってそれだけ尋ねた。

「有楽町だ」

 榊原は短くそう答え、実際に有楽町の切符を買う。

「その仕事って、有楽町であるんですか?」

「いや、単なる乗換え地点だ」

 となると、地下鉄の有楽町線に乗り換えるのだろう。有楽町で乗換えとなるとそれしかない。そのままホームから電車に乗り、電車が発車した後、瑞穂は小声で尋ねた。

「目的地はどこなんですか?」

「少なくとも物騒な目には合わない場所だ」

 謎かけのような言葉を発して、榊原は黙ってしまった。

 夕刻迫る東京の山手線は、帰宅ラッシュの時間を迎えている。サラリーマンやOLたちがひしめき合う車内において、スーツ姿の榊原は見事に溶け込んでいる。

「……もしかして、そのスーツ姿はこういうところでの尾行のためですか?」

 瑞穂はふと思った事を尋ねた。が、榊原は小さく首を振った。

「いや、単純に私の嗜好だ。どうもスーツ以外の服を着る気が起きなくてね」

「ちなみに、私服は?」

 榊原は考え込んでいたが、

「そういえば、持っていないな……」

「スーツだけなんですか?」

 さすがにその言葉には瑞穂も耳を疑った。

「着る必要がないし、何となく慣れてしまった。何着かのスーツを着まわしている。事実上、スーツが私服代わりだ」

「ちょっと、それはずぼら過ぎませんか?」

「今思えば、刑事時代からまともな私服を着た記憶がないな。大学卒業後、私服らしい私服を着た覚えがない」

 榊原が少々唸りながら答えた。瑞穂は、この中年探偵の考え方が少しわからなくなってきてしまった。

「ちなみに、その大学ってどこなんですか?」

「東城大学法学部」

 別に自慢する風でもなく、淡々と答える。東京都内の私立大学では名門に属する大学である。法学部からは、官僚を何人も輩出しているという話を瑞穂も聞いた事があった。

「名門じゃないですか」

「そうらしい」

「って事は、もしかして警察ではキャリア組だったんですか?」

「なぜ?」

「いや、あの大学出身の警察関係者なら、普通はそうじゃないかと」

 榊原は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「生憎ながら、私はノンキャリアの元警官だ。交番の制服勤務から刑事に成り上がった口でね。だからこそ最終階級が警部補だったわけだ。もっとも、辞めた今となっては関係ない話だがね」

「意外ですね」

「……元々、親の勧めで入った大学だ。私の父は、私を官僚にしたかったようでね」

「その……御両親は?」

 瑞穂の問いに、榊原は淡々と答えた。

「大学在学中に交通事故であっけなく死んだ。だから、私はあまり気が乗らなかった官僚への道をやめ、普通の警官としての道を選んだ。何にしても、君も御両親には今のうちに孝行しておいた方がいい。いざ孝行しようとした時に、いなくなっている事もある」

「……すみません。変な質問をして」

 瑞穂は謝った。

「別に気にしていない。過去はどうあれ、今の私は裏町の貧乏探偵だ。私はそれで満足しているつもりだ」

 と、電車の速度が緩まった。

「そろそろか」

 榊原が呟くと同時に、電車は有楽町駅に到着した。下車していく乗客たちに混じって、榊原と瑞穂はホームに下りる。

「有楽町線ですか?」

「ああ」

 瑞穂の問いに短く答えると、榊原は地下鉄有楽町線のホームへ向かう。

「ああ、そうだ。一つ聞いておくべき事があった」

「なんですか?」

「本当にいまさらながらの事なんだが……君、名前は何と言うのかね?」

「な!」

 思わず、瑞穂はつんのめった。

「し、知らずに今まで私と会話していたんですか!」

「何しろ、君は今まで名乗っていなかったからね」

 言われてみれば、あれだけ話していながら名乗った事が一度もない。あまりに自然に会話していたせいで、すでに名乗ったような錯覚をしていた。

「まぁ、名乗らずとも会話は成立していたし、今までは支障なかったから聞かなかったのだがね。何しろ、直接的な接点はなかったからね。だが、さすがにこれからついて来るとなると、聞いておく必要がある」

 しばらく呆気にとられていた瑞穂だったが、やがて軽く咳払いすると、改めて名乗った。

「深町瑞穂。立山高校一年生です」

「深町瑞穂君か。覚えた」

 榊原の答えはそれだけだった。が、瑞穂はこの探偵が二度とその名前を忘れないような気がした。

「ところで、どこまで?」

「すぐだ」

 切符売り場の前で榊原は短く答えると、最低料金の切符を買った。改札をくぐり、ホームに下りる。すぐに電車が入線し、二人は乗車する。

「今さらつかぬ事を聞くが、家に連絡しなくていいのかね?」

「今日は、両親ともに帰らないんです。だから、多少遅くても。あ、でも、制服だとやっぱり問題ですかね」

 榊原はしばらく考えたが、

「いや、大丈夫だろう。何しろ、相手が相手だ」

「……さっきから意味がわからないんですけど」

「これが答えだ」

 そう言って、わずか一駅で榊原は電車を降りた。瑞穂も慌てて降りる。そして、その駅名を見た。

『桜田門前』

「これって……」

「こっちだ」

 榊原は、慣れた調子で歩いていく。瑞穂は後を追っていく。そのまま、出口から地上に出ると、テレビでよく見る建物が目に入った。

 東京の警察の本拠地、警視庁本庁舎の特徴的なビルが、目の前に建っていた。


 榊原と瑞穂は警視庁の正面の前に立った。

「さて、行くか」

「は、入るんですか」

「入らなかったら、来た意味がない」

 そう言うと、榊原は臆する事なく入っていく。瑞穂も慌てて後を追う。正面の門の前に立っている警官がジロリと瑞穂を睨み、瑞穂は少し身をすくめた。

「だ、大丈夫なんですか?」

「問題ない。ロビーまでなら一般人も入れる」

 そう言いながら、榊原はロビーに足を踏み入れる。ロビーには、こんな時間にもかかわらず背広姿の職員たちの姿が見られ、セーラー服姿の瑞穂の姿は少々浮いているように思えた。

「た、探偵さん。さすがにこれは……」

「なに。用事はすぐ済む」

「……この姿でも問題ないと言われた理由がわかりましたよ」

 肝心の警察が目的地なら、補導も何もあったものではない。

 と、榊原は受付に近づいて、受付の係員に声をかけた。

「失礼します。呼び出しをお願いしたいのですが……」

 そのような声が聞こえたが、さすがに瑞穂に受付の近くまで行く勇気はない。榊原はしばらく何事か話していたが、やがて終わったらしく瑞穂の元へ戻ってきた。

「探偵さん、ここって要するに、探偵さんの昔の職場なんですよね」

「まぁ、そうなるね」

「誰を呼び出したんですか?」

 と、直後に奥の方から一人の男が顔を見せた。年齢は四十代前後だろうか。榊原より一、二歳程度は若く見える。こちらは仕事中だけあってきちんとしたスーツ姿で、どこか知的な雰囲気を漂わせている。向こうはこちらに気がついたらしく、苦笑いしながら近寄ってきた。

「榊原さん、急に呼び出されてびっくりしましたよ」

 相手はそう言って榊原に微笑んだ。

「悪いな。急な話で申し訳ないが」

「いえ。ところで、そちらは?」

 男は瑞穂の方を見て尋ねる。

「ああ、私の仕事の見学希望者だそうだ。面倒なんで、勝手にしろと言ってある」

「ふむ」

 男はしばらく考えていたが、瑞穂に対して微笑んだ。

「はじめまして。警視庁刑事部捜査一課第三係係長警部の斎藤孝二さいとうこうじです」

「そ、捜査一課の警部さんですか」

 テレビなどではおなじみの役職だが、いざ会ってみると緊張してしまう。

「捜査一課にはいくつか係があってね。その中の一つ、第三係という捜査班の係長警部がこの斎藤だ。私がいなくなった後の捜査一課で、トップクラスの検挙率を誇っているベテラン警部だよ」

 榊原が横で解説する。

「あの、探偵さんと警部さんはどのような……」

「榊原さんは、かつての私の先輩でしてね。榊原さんが辞めた後も、いくつかの事件で非公式に捜査協力をお願いしています」

「事実上のただ働きだがね」

 斎藤の言葉に、榊原はそうコメントした。

「仕方ありませんよ。公には、警察が探偵に事件の捜査を頼むなんて認められていませんから」

「まったく、毎回毎回、厄介な事件ばかり持ち込んでくれる」

「私だけでは手に負えない事件しか持ち込んでいないはずですが。たいていの事件は榊原さんに出馬願わずとも何とかやっていけていますよ」

「まぁ、それくらいの実力がないと、捜査一課で生き残れないだろうがな」

 よく聞くと、斎藤が榊原に敬語を使い、榊原はフランクに話しかけている。先輩後輩という関係は間違いないようだ。

「ところで、今日は何の用ですか? 榊原さんから呼び出すなんて珍しい。今は、捜査協力を要請している事件はなかったと思うのですが」

「それだがな」

 榊原は、ポケットから一枚のメモ用紙を渡した。

「この事件について少し調べたい事がある。担当の刑事を紹介してほしい」

 斎藤はそのメモ用紙を見ていたが、しばらくして顔を上げた。

「この事件は、私の班が担当です」

「お前が?」

「ええ。今は本部を部下に任せて、資料探しのためにここに戻ってきただけなんですが」

「それは好都合だ」

「……この事件が何か?」

 斎藤の顔が真剣になる。

「実は、ある事情でこの事件を調べたいと思うんだが」

「それは……また随分珍しい話ですね」

 斎藤はそのように答えた。

「そうかな」

「あなたが自分から事件に首を突っ込むというのはかなり珍しい。基本的には依頼がない限り動かないという主義だったはずですよね」

「まぁ、少し事情があってな。どうしても調べる必要性が生じた。で、どうだ?」

「もちろん、協力していただけるのならありがたいお話ですが……」

 斎藤が当惑した様子で言う。

「詳しい事情は後ほど話す。協力しても構わないかね?」

 斎藤はしばらく黙り込んで考えていたが、

「……まったく、明日雪が降るんじゃないんですか?」

「余計なお世話だ」

「……いいでしょう。と言うより、実は私の方からもお願いしたいくらいだったんです」

 斎藤はそう言って苦笑した。

「では、さっそく現場に行きましょうか」

「頼めるか?」

「パトカーを正面に回しますよ」

 そう言って、斎藤は一礼すると、奥に引っ込んだ。

「行こうか」

 榊原は身を翻して正面に向かう。瑞穂も後に続いた。

「あの、いったい何の事件を調べているんですか? さっきのダムの事件ですか?」

「言ったはずだ。あの事件とは別件だと」

「では一体?」

 榊原は先程のメモ用紙を渡した。瑞穂はそれを読む。

「これって……」

 それを読んで、瑞穂の顔色が変わった。


『豊島区生命保険会社強盗殺人事件』


 それは、野川が推理勝負の題材に選んだ事件そのものであった。

「どういう事ですか! 確か、調査依頼は受けないって……」

「依頼じゃない。これはあくまで個人的な仕事だ」

 榊原はそう言った。

「どういう意味ですか?」

「私はね、ハイそうですかと、あんな馬鹿げた推理勝負を受けるほど落ちぶれたつもりはない」

 瑞穂は一瞬意味がわからなかった。

「え、でも、推理勝負で対抗するために調査するんじゃないんですか?」

「違う」

 榊原ははっきり断言しつつ、さらにこう言った。

「私は、あの馬鹿げた推理勝負を成立させないために、この事件を調べる。ただそれだけだ」

 警視庁の正面に斎藤が運転する覆面パトカーが停車する。その瞬間、榊原は瑞穂に背を向けたまま、しかし背筋が凍るほどに真剣な声でこう告げた。

「望み通り見せるとしようか。遊びでない本当の事件の恐ろしさ……そして、人間の恐ろしさというものを」

 その言葉に、瑞穂は何も言い返す事ができなかった。が、次の瞬間、覆面パトカーのドアに手をかけて顔を見せた榊原の表情は、今まで見せていたものと特に変化ないものであった。

「乗りなさい」

「は、はい」

 少し気後れしたが、瑞穂は気を取り直して榊原に続いてパトカーに乗った。二人が覆面パトカーの後部座席に乗り込むと、斎藤はゆっくりとパトカーを発進させる。

「さっそくだが、事件についての詳しい話を聞きたい」

 発進するや否や、榊原はさっそく運転する斎藤に対して情報収集を始めた。

「どの辺まで御存知ですか?」

「大まかに言って、テレビや新聞で報じている程度の事だけだ」

「となると、最初から説明した方がいいかもしれませんね」

 斎藤は一瞬考え込むと、

「事件が起きたのは、数日前の深夜の事でした」

 と、口火を切り、事件の概要について話し始めたのだった……。

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