第一部 豊島区生命保険会社強盗殺人事件

第一章 ミステリー研究会

 二〇〇七年四月九日月曜日。都立立山高校入学式当日の朝七時。深町瑞穂は港区麻布地区にある自宅マンションの自室で目覚ましの音で目を覚ました。

「うーん……」

 軽く寝返りを打ち、寝ぼけ眼で目覚ましを止めると、その後五分ぐらいしてムクッとベッドから起き上がった。平部員だったとは言え中学時代は朝錬が多く、朝錬がない時でも一応はランニングに出かけていた事もあったので、割と寝起きはいい方である。

 軽く欠伸しながら起き上がると、瑞穂はさっそくパジャマから真新しいセーラー服に袖を通した。中学時代はブレザーだったので、何となく新鮮な感じである。とは言え、別に高校入学を記念して髪形を変えたわけでもないので、外見上は特に一ヶ月前と変化はなかった。

「高校生か……」

 瑞穂は鏡で服装をチェックしながら呟いた。合格発表から一ヶ月たち、卒業式では別に泣く事もなく、逆に号泣してしまった若い担任女性教師を慰めた後、由衣たちとその足で瑞穂の家に赴いてお祝いパーティーをしたりしたものである。が、間違いなく卒業式に出席し、卒業証書もしっかりもらったと言うのに、なぜか自分が高校生になったと言う実感がいま一つ持てなかった。

「みんな、こんなものなのかなぁ」

 瑞穂はそう呟くと、とりあえず身だしなみを整える為に洗面所に向かった。

「おはよう」

 洗面所で身だしなみを整えた後、キッチンに行くと、父の深町遼一ふかまちりょういちが無愛想な表情で新聞を読んでいた。都内の企業に勤務している父は、家庭ではひどく無愛想と言う印象が強い。実際問題、遼一が社内でどのあたりの地位にいるのか瑞穂はよく知らない。自宅が会社がある都の中心に近い事もあって出勤時間が遅く、それゆえ朝にこのように出会う事が多いため全く出会えないという事態だけは避けられていたが、それでも普段から無口であまり会話する事はない。

 そんな父親が経済新聞を読んでいる奥で、母の瑞江みずえが朝食の準備をしていた。

「瑞穂、何がいい?」

「トースト」

 瑞穂はそう言うと、冷蔵庫から牛乳を取り出して、グラスに注ぐとそれを飲んだ。瑞穂の家は典型的な核家族である。祖父母とも田舎におり、普段は親子三人で生活していた。東京の中心部である麻布に住んでいるだけあってどちらかと言えば富裕層に属するのであろうが、本人としては別に他の友達とも生活は変わらず、まぁ、一般的な家庭だなぁと思っていると言うのが現状だった。小さい頃にはやった、地球唯一の衛星であるところの天体に変わってお仕置きすると言う美少女戦士アニメの舞台がこの街を舞台にしていると後年に知って驚いた記憶がある程度だ。瑞穂も昔は年頃の女の子らしくああいったものにはまっていたりしたのだが、今となってはいい思い出である。

「はい、目玉焼きも付けといたわ」

「ありがと」

 瑞江がトーストと目玉焼きの乗った皿を瑞穂に手渡す。瑞穂は自分の席に着くと、トーストにバターを塗って、それをくわえた。

「お母さん、入学式来るの?」

「そうねぇ、行ってあげたいけど、高校になってまで来てほしい?」

「うーん、微妙かな」

 確かに、高校になってまで親に入学式にきてもらうと言うのは、どこか恥ずかしく感じる部分がある。

「じゃあ、行けたら行くって事にしておくわ」

 瑞江は苦笑しながらそう言うと、遼一に朝食を渡した。ちなみに、遼一の朝食は納豆つきご飯。瑞穂と違って和食派である。

「あなた、今日も遅くなるんですか?」

「ん」

 遼一は瑞江の問いに軽く頷いた。何でも、最近重要なプロジェクトがあるとかで帰りが遅い事が多い。

「瑞穂、学校間に合うの?」

「大丈夫。新入生は十時までに教室に入っておけばいいから」

「そうなの」

 瑞穂は朝食を食べ終わると、洗面所に行って歯磨きをし、八時頃に家を出た。

「じゃ、行ってきまーす」

 瑞穂はそう呼びかけると、部屋を出た。エレベーターで一階まで降り、最寄り駅の南北線麻布十番駅までは徒歩である。これから通う事になる立山高校は山手線大崎駅の近くにある学校だ。したがって、麻布十番駅から三駅先にある目黒駅まで南北線に乗り、目黒駅から山手線で大崎駅に行くと言うのが瑞穂の通学路になる。繁華街などで栄える品川駅とも一駅違いで容易に行く事ができ、かなり便利な場所だ。とは言え、駅そのものには山手線しか乗り入れていないのだが。

 地方では都会のマンション暮らしの人間はご近所づきあいに乏しいと言う話がま事しやかに語られているようだが、瑞穂は普通に朝に出会う近隣住民に対し挨拶をしたりしている。中学時代からよくランニングをしていた事もあり、彼女自身は人付き合いがいい方だった。

 そんなわけで、この日もすれ違うご近所の方々に挨拶し、真新しい制服に対してコメントを頂いたりしながら麻布十番駅に着いた。中学時代は自宅近くの中学校だったので、電車通学と言うのは初めてだったりする。それは同時に、東京名物の通勤ラッシュをこれから味わうと言う事でもあるのだが、その辺りは普段口数の少ない父親から聞かされているので瑞穂も覚悟している。どうも遼一は瑞穂が車内で痴漢に会わないかひどく心配しているようで、その辺りの事をうんざりするほど注意するのだった。何だかんだ言っても、一人娘の瑞穂の事は大切に思っているという事なのだろうか、などと瑞穂は思ったりした。

 先日購入した定期券を改札に入れ、ホームに出るとしばらくして電車が入線し、瑞穂はすし詰めになった車内の人となった。このまま目黒駅まで出た後、山手線で大崎駅まで出る。

 とは言え、想像以上に混雑する電車の惨状に、瑞穂は早くもげんなりとし始めていた。彼女が日本最大の混雑率を誇る錦糸町~両国間の中央本線に乗ったらどのような反応を示すのか少々気になるところではあるが、それはさておき、間もなく目黒駅の車内アナウンスが鳴ったので、瑞穂は降りる準備をし始めた。


 目黒駅で乗り換えた後、山手線で大崎駅までやってきた瑞穂は、そこから歩いて駅の近くにある立山高校に向かった。

 合格発表や制服の採寸ですでに何度か訪れているとはいえ、いざ改めて入学式となると何となく違った感じがした。周囲にも瑞穂同様にいかにも新品ですとでも言うべき制服を着て緊張した表情の新入生たちが歩いている。

 さて、駅から十分くらい歩いた場所に都立立山高校の校舎はある。学校の敷地は都内ゆえに広いという事もないが、逆に狭いという事もなく、校舎も古いというまでには至らないが、だからと言って新築というわけでもない、総合的に評すれば過不足ない一般的な高校といった感じである。

 それでも、校門の辺りでは登校してくる新入生たちを出迎える為に、生徒会と思しき生徒たちが出迎えのアーチを作っていたりして、入学式という雰囲気をかもし出している。幸いにも天気は晴れで、校庭に植えられている桜も満開だ。これで部活勧誘に必死な上回生の姿でもあればまさに定番といった感じなのだが、新入生に初っ端から威圧感を与えてはいけないという判断からなのかそういった上級生の姿は今のところはない。とは言え、入学式が終わった後、下校時間になったらそういった勧誘の人間も出てくるのだろうと瑞穂は推測した。

 そんなアーチをくぐって校舎の前に行くと、玄関の前にクラス分けが発表されていた。瑞穂は二組。とは言っても、そもそも瑞穂の出身である波ノ内第一中学校からこの学校に来るには瑞穂一人だけなので、どこのクラスに所属する事になろうが顔見知りがいないという点では変わりはない。したがって、瑞穂としてはどこになってもたいして問題ではなかった。

 そんなわけで、さっそく二組の教室に行くと、すでに何人かの新入生たちが教室にいた。緊張した面持ちで自分の席に座っている人もいれば、さっそく打ち解けて談笑している人間もいる。同じ中学から来たと思しき人たちが同じクラスになれた事をホッとしたように話し合っている姿も見える。中学時代にそれほど知り合いでなくとも、こういった場所で見知った人間がいるというのは安心するものなのだろう。

 とは言え、見知った人間のいない瑞穂としては現状特に話す相手もおらず、従ってそのまま自分の席に直行する事となる。ちなみに、最初だからか座席は出席番号順であり、瑞穂の席はちょうどクラスの真ん中辺りであった。机の横に鞄を引っ掛け、着席し、とりあえずは自分の居場所がある事になぜかホッとする。まぁ、焦らずともしばらくすれば友達もできるだろうと、瑞穂はどこか楽観的に考えていた。

 と、その時教室に入ってきた女の子が、瑞穂の机のそばを通ろうとして横にかけてあった鞄に足を引っ掛けたらしく、瑞穂の鞄が床に落ちてしまった。

「おっとっと」

 足を引っ掛けたその子はそう言いながらつんのめると、慌てて落ちた鞄を拾った。背の高い女の子で、瑞穂もどちらかといえば活発そうな外見なのだが、彼女は見るからにスポーツ少女といった風貌で、長身にさっぱりとした短髪と言うボーイッシュな格好だった。直感的に、何となく由衣に似てるなぁと瑞穂は思った。

「ごめんなさい、足元を見ていなくて」

 彼女はそう謝ると、鞄についた汚れを落としながら元の場所に引っ掛けた。

「大丈夫です」

「ならいいけど。はぁ、知り合いが誰もいないからちょっと緊張しちゃって。柄でもないなぁ」

 彼女はそう言うと、

「ああ、せっかくだから自己紹介ね。私、竹宮中学校から来た磯川いそかわさつきっていいます。あなたは?」

「ええっと、波ノ内第一中学校から来た深町瑞穂です」

 瑞穂も自己紹介した。さつきという子は多少強引そうではあるが、かなりサバサバした性格の気さくそうな子だった。

「ま、せっかく同じクラスになったんだから、これからよろしくね」

 さつきはそう言うと、窓際の自分の席の方に行った。

「ああいう人って本当にいるんだ」

 瑞穂はそう呟いた時、担任と思しき初老の教師が部屋に入ってきて、ざわついていたクラスの生徒たちが次々と着席していった。その担任が最初にごく平凡な自己紹介をした後(名前は山田ナントカだったようだが、平凡すぎてあまり印象に残らなかった)、間もなく入学式が始まる事が告げられ、そのまま瑞穂たちは廊下に並ばされると、入学式が行われる体育館へと向かう事となった。


 入学式が終了した後は各クラスに分かれてHRになったが、最初だからと言うべきかほとんど書類配布と自己紹介に終始し、入学初日はアッという間に終わった。HRも終了し、瑞穂は真新しい鞄に大量の書類やプリント類を突っ込みながら、帰宅準備をしていた。

「ふぅ、やっぱ多いなぁ」

 やはり入学初日となると、色々な関係書類が多い。さらにはこういった場面ではおなじみの自己紹介。瑞穂自身はそれなりに無難にはこなしたが、近年放映された某有名アニメの冒頭で某少女が発した某自己紹介をネタにする人間がおり、明らかに受け狙いで滑ったそいつは、入学早々さっそくおかしなレッテルを貼られる事となった。やはり、何事も最初の自己紹介は重要なものなのだと、瑞穂は改めて実感するにいたった。

 それはさておき、そういう風に滑る人間はいたものの、全体的に見ると漫画やアニメにありがちな変な人間がいると言うわけでもなく、ごくごく普通のクラスだった。と言うより、現実においてそんなクラスがあったら、逆にお目にかかりたいものだと瑞穂は思う。

「ねぇ、深町さん、だったよね?」

 と、誰かが声をかけてきた。振り返ると、さっき鞄に足を引っ掛けた女の子が立っていた。

「あなた、さっきの……」

「磯川さつき。何かの縁だし、よかったらこの後一緒に部活見学でもしない?」

 さつきが気さくそうに尋ねた。瑞穂としても異論はない。と言うより、瑞穂はこの子に対してどこか親近感を覚えていた。

「じゃあ、よろこんで」

「助かったぁ。竹宮中学から来たのって私一人で、正直心細かったの」

「実は私もそうなんです」

「へぇ、あなたも出身中学校から一人だけここに来たパターン?」

「はい」

「それじゃ、これも何かのご縁って事で、これからよろしく!」

 さつきが朗らかに笑いながら芝居気たっぷりに握手を求めた。瑞穂も苦笑しながらそれに応じる。

 それから二人で校舎を出ると、さっそくあちこちで勧誘が始まっていた。ブースを設置しているところも多く、部活の数の多さは中学校とは桁が違うといった感じだった。

「ここって、部活動に関しては力を入れているみたい」

 さつきがそう言った。

 それからしばらくそれぞれのブースを見学しながらさつきと互いの事を話し合ったりしていたが、それによると、さつきは竹宮中学時代に女子バスケ部のキャプテンをしていたらしい。確かに背が高いさつきはバスケにうってつけといった感じで、なるほどと納得させられた。

「じゃあ、ここでも女子バスケ部に入るつもりなんですか?」

「うーん、そのつもりだけど、他にもどんな部活があるのかなぁって気になってさ。見て回るだけでも面白いじゃん」

 さっき知り合ったばかりだというのに、さつきはすでに瑞穂に対し敬語抜きで話している。しかし、それで全く違和感がない。ある意味、これはもはや才能である。

「そういう深町さんは陸上部だっけ。ここでも入るの?」

「ええっと、せっかくだから別の部活で新しい事をしてみようかなって思っています」

 さすがに瑞穂は初対面の相手にフランクで話す度胸はない。とは言え、彼女相手ならすぐにため口になるのではないかとほとんど確信に近い予感がしていた。

「でも多いなぁ。よくわからない部活もあるっぽいけど」

 さつきは辺りを見渡しながら言った。確かに、よくよく見てみると野球部だのサッカー部だのオーソドックスな部活に混じっておかしな部もちらほらあるようだ。それでも「戦国武将愛好会」だの「缶蹴り部」だの「アニソン同好会」だのはまだ目的がわかるからいい方で、中には「神無月の会」だの「公安部」だのといった活動内容が一切不明なものがあった他、さらには「『自分以外の全員が犠牲になった難破で岸辺に投げ出され、アメリカの浜辺、オルーノクと言う大河の河口近くの無人島で二十八年間もたった一人で暮らし、最終的には奇跡的に海賊船に助けられたヨーク出身の船乗りロビンソン・クルーソーの生涯と不思議で驚きに満ちた冒険についての記述』を愛する読書愛好会」なる、もはや名前だけでは一見すると何が何だかわからない部活まであったりした。ちなみに、二重カッコ内の長ったらしい文章は名作「ロビンソン・クルーソー」の正式なタイトル名だったと瑞穂は記憶しており、だったら「ロビンソン・クルーソー愛好会」でいいじゃないか、と思ったりした。

 そんなこんなでしばらくあちこちを冷やかしていたのだが、やがて敷地の隅の方に行き着いてしまった。どうやら、ここで終わりらしい。さすがにこの辺りまでは新入生は来ていない。

「面白そうな部活あった?」

「うーん、微妙ですね」

 そう答えた時、不意に瑞穂の目にある部活が目に入った。


『ミステリー研究会』


 それは校庭の隅の方で小さくブースを開いている部活だった。ブースの前には男女一人ずつがいるだけで、お世辞にもあまりはやっているとは言えなかった。

 と言うより、明らかに場所が悪い。新入生たちが通るであろうコースを完全に外してしまっている。瑞穂たちのように全部の部活を見て回ろうとでも思わない限りまず来ないような場所で、おまけに校舎の玄関からは死角になっているため普通に見て回るだけではまず目に付かない。さらに肝心のブースも他の部活に比べて小さく、『ミステリー研究会』の名の入った飾り気のない立て看板も非常に味気ない。最初から勧誘する気がないのではないかと思えるほどだった。

「ミステリー研究会って、怪しいオカルトを研究する部活かしら?」

 さつきが不審そうな声を出す。

「あれ? でもさっき『オカルト研究会』っていうのがありましたよね」

「ああ、そういえば」

 オカルト研という怪しいものながら割合新入生の通り道にブースがあって、それなりに繁盛していたのが印象的だった。繁盛しているオカルト研というのもどうかと思うが、とにかく本家のオカルト研がある以上は、このミステリー研究会は別物と考えるべきだろう。

「じゃあ、この部活って何なのかな?」

 さつきが首をかしげる。瑞穂は少し考えたが、

「聞いてみましょう」

「え? いきなり?」

「わからない事はすぐに質問して解消するのが私のモットーなんです」

「はぁ、アグレッシブだね」

 さつきの言葉に少し苦笑すると、瑞穂はそのブースにいる上級生に声をかけた。

「あのぉ」

「はい?」

 ブースの男子生徒が、少々驚いた表情で瑞穂を見た。こんな場所に人が来た事に驚いているようである。

「この『ミステリー研究会』って、何をやる部活なんですか?」

「興味があるのかい?」

「いえ、まだ内容がわからないので何とも」

「ああ、まぁそうか」

 男子生徒は頭をかきながら、

「ここは、ミステリー小説……つまり推理小説を愛好する人間の集まりだよ」

「推理小説、ですか」

 ああ、確かに推理小説も「ミステリー」だな、と瑞穂は納得した。とは言え、瑞穂はせいぜいホームズやルパン程度を触りくらいしか読んだ事はなかったが。

「そう、古今東西の推理小説について語ってみたり、推理小説を書いてみたり、果ては実際に起こった事件についてみんなで話し合ってみたり……ま、そんな部活だよ」

 男子生徒はざっくばらんに部活の概要を説明した。

「でも、随分寂しい場所で勧誘していらっしゃるんですね」

「ちょ、それは言いすぎじゃ……」

 痛いところをズバリはっきりと言う瑞穂に、さつきが慌てたように言う。が、男子生徒は苦笑して、

「ちょっと色々あってね。ここしか場所が取れなかったんだ。にしても、はっきり言うね」

「私の性分ですので」

 瑞穂はキッパリ言う。

「まぁ、そんなわけでここに来たのは君が初めてだよ。正直、来ないと思っていたんだけどね」

「賭けは私の勝ちね」

 隣に座っていた女子生徒が告げる。ストレートの長髪に眼鏡をかけたどこか陰のある生徒で、さっきからずっと難しそうな推理小説らしきものを読み続けている。ちなみに、題名は『虚無への供物』で、作者は中井英夫となっている。

「賭け?」

「ええ、新入生が一人も来ないか否かでね。私は一人くらい物好きが来るに一票。彼は誰も来ないに一票」

「あーあ。こんな場所だし、来ないと思ったんだけどなぁ」

 男子生徒が残念そうな声を出す。女子生徒はいったん『虚無への供物』なる本を閉じて瑞穂の方を見た。

「初めまして。恩田朝子おんだあさこ。三年生でミス研の副部長やってるわ」

「ふ、副部長さんですか」

 瑞穂はその淡々とした態度に少々引きながら答えた。どう考えても、新入生を勧誘しようと言うような態度ではない。

「こっちは二年の中栗君」

中栗隆道なかぐりたかみちです」

 男子生徒……中栗が朝子の態度をフォローするように務めて明るく挨拶する。

「で、興味あるの?」

 が、そんなフォローも虚しく、朝子が無表情のまま質問する。

「え?」

「興味あるのって聞いてるの。推理小説とか読んだ事ある?」

「ええっと、ホームズとルパンくらいですけど」

「そっちの子は?」

「え、私はただの冷やかしで……」

 その剣幕にさつきは思わず正直に答えてしまう。

「ふーん」

 瑞穂とさつきの答えに朝子はしばし考え込んでいたが、

「ま、とりあえず私たちが発刊してきた冊子は渡しておくから、興味があるんだったらその冊子の後ろに活動場所と活動曜日が書いてあるんで、良かったら来てみてね」

 そう言って、手元にあった冊子を一冊ずつ瑞穂とさつきに渡し、再び本に目を戻した。

「ごめんね、彼女あまり人付き合いのいい人じゃないんだ。三度の飯より本の方が好きっていう人でね」

「はぁ」

「じゃあ、ここで伝えられる事もそんなにないし、よかったら来てみてよ。一応言っておくけど、怪しい部活じゃないよ。それなりに歴史がある、割合土台はしっかりした部活だから」

 中栗の言葉に、瑞穂たちも引き時だと感じ、その場を離れる事にした。

「何か、よくわからない部活だったね」

 さつきが少々呆れたように言った。

「まぁ確かに」

 瑞穂も一応同意はした。

「あれじゃ、誰も入らないって。勧誘する気まるでないし」

「これからどうしますか?」

「うーん、一応女子バスケ部も見ておきたいんだけど、いいかな?」

「ええ」

 こうして、二人は女子バスケ部に向かい、そのまま冊子の事はいったん忘れてしまった。


 その後、さつきはそのまま女子バスケ部の活動に少し参加させてもらうというので体育館で別れ、一通り見るものを見た瑞穂はそのまま帰宅する事にした。勧誘活動も一段落ついたようで、校舎の前にいる新入生の姿も少なくなり始めている。瑞穂としては現在どこに属するかを特に決めているわけではないので、明日以降気になる部に仮入部しながら考えてみようと思っていた。

 そんな事を考えながら校門まで来たところで、瑞穂は校門の前で何人かの生徒が訝しげな表情をしながら出て行くのを見た。どうやら、校門の前に何かあるらしい。

「何だろう?」

 瑞穂は不思議に感じて、他の生徒たちが見ている方向を見た。


 そこには一人の男が立っており、ジッと校門の横の校名が彫られたプレートを眺めていた。


 見た目は四十代前半だろうか。髪は七三で、相当に使い古したようなヨレヨレのスーツを着込み、そこにネクタイを締めており、ご丁寧にも手には黒のアタッシュケースを提げている。太っているというわけでもなく、どちらかと言えば痩身という方がいいのかもしれないが、良くも悪くも普通の体型である。パッと見た感じは人生に疲れきったどこぞのくたびれたサラリーマンといった感じで、お世辞にも格好いいとは言えないし、簡単に言えばどこにでもいるような中年男というのが妥当であろう。少なくとも、平日の真っ昼間に高校の前にたたずんでいるような人間には見えない。

 ただ、一つだけ普通とは違うかなと思った部分があった。その目つきである。パッと見た感じでは別に鋭いというわけでもなく、むしろ穏やかと言ってもいいものなのかもしれないが、その穏やかな表情の下から見るものすべてを見透かすような、何とも形容しがたい雰囲気をかもし出しているのだ。瑞穂は、そのギャップに何か言い知れぬものを感じた。

 と、不意にその男が瑞穂の方を見た。我に返ってみると、男に気を取られて、思わず立ち止まって男の方を見ていたらしい。慌てて目をそらし、そのまま歩き出そうとしたが、

「失礼。ここの生徒さんかね」

 男が瑞穂に声をかけた方が先だった。こうなると、そのまま何も言わずに立ち去るというのは何か気が引ける。と言うより、周りの生徒の視線が「あなたに任せた」という感じで立ち去っていき、どうも去りにくい。

「ええ、まあ」

 仕方なく、瑞穂はこの校門の前に立つスーツ男に返事を返した。そして、一度やると決めると、この深町瑞穂と言う少女はどちらかと言えば腹をくくる傾向がある。

「あの、何かこの学校に御用ですか? 来客なら校門横に来客用の玄関があるはずですけど」

 と、瑞穂は相手が何か言う前に言葉を続けた。会話の主導権さえ握ってしまえば、相手がとやかく言う前にこちらの意見を押し通す事が出来るかもしれないという事を、瑞穂は以前に父から聞いた事があった。もっとも、それはビジネスの世界の話で、こんな得体の知れない男に通じるかどうかはわからなかったが。

 で、肝心の男はと言うと、一瞬訝しげな表情を浮かべたが、すぐに何か合点がいったらしく、

「ああ、すまないね。いや、特に用はないんだが、たまたまこの近くを通りかかってね。前から一度この学校を見たいと思っていたもので、つい立ち止まってしまった。不審者に見られていたのならすぐに退散するよ」

 と、少々くだけた感じの言葉で答えた。

「はぁ……。でも、どうしてこんな都立高校を? 来年お子さんが受験なされるんですか?」

 瑞穂はパッと思いついた事を言ってみた。男は苦笑して、

「いや、そういう類のものではないんだが……」

 と言った。どうも曖昧ではっきりしない。瑞穂の表情が不審げなものに変わった。

「ところで、どうして私に声をかけたんですか? 何か聞きたかったんですか?」

 そこで思い切って、試しに瑞穂は鎌をかけてみた。

「いや、聞きたい事はあったんだが、新入生なら何も知らないだろうしね。申し訳ない、変な事で声をかけてしまって。お邪魔みたいだし、失礼させて頂こう」

 男はそう言って退散しようとした。が、その前に瑞穂は思わず呼びかけた。

「待ってください!」

 去ろうとした男が立ち止まり、振り返る。

「どうしてわかったんですか?」

「と、言うと?」

「とぼけないでください! 私が新入生だってどうしてわかったんですか? 外見だけじゃ、判断できないと思いますけど」

 瑞穂の視線は、明らかに不審者を見る目だった。この学校の制服は全学年共通で、学年ごとに違う類の装飾品はないはずである。にもかかわらず、この男は初めてあった人間を新入生だと見破ってしまったのだ。怪しいと思うのも当然である。

 しかし、男はなぜか平然としていた。

「……あぁ、その事か。しまったな、少々誤解を与えてしまったようだ」

 自分に言い聞かせるように呟くと、男は瑞穂に向かってこう言った。

「種を明かせば簡単でね。君の持っているその鞄、かなり膨らんでいるように見える。入学式がある日というのは授業がない分在校生はむしろ普段より荷物が少ないはずでね。それでも荷物が多いという事は、入学関連の荷物がある新入生ではないかと踏んだだけだ。特別に深い意味はないよ」

 言われてみれば非常に当たり前の事である。が、言われるまで気がつかなかったのも事実だ。何より、それを一瞬で考え、結論をはじき出したこの男が少々薄気味悪く思った。

「それだけかい?」

 男が尋ねる。

「ええっと、そう言えばお名前を伺っていませんでしたけど」

 瑞穂は慌てて尋ねた。何だかんだ言って、この男が何者なのか一切わかっていないではないか。だが、男はフッと小さく笑っただけで、

「まぁ、名乗るほどの者ではないよ。それに……」

 と言って、こう続けた。

「名乗らない方が君にとってもいい」

 その瞬間、男の目つきが一瞬鋭いものになった。瑞穂は何も言えなくなる。

「そうだ、新入生でもこれは聞いておいても損はないか。この学校にミステリー研究会という部活があるはずなんだが、何か知らないかね?」

「ミステリー研究会?」

 それは今まさにブースを訪ねた部活ではないか。

「ええ、一応は。さっき、冊子をもらいました」

 と、男の表情が険しくなる。

「冊子ね。よければ、少し見せてもらえないかな?」

 瑞穂は自分の名前すら名乗ろうとせずに意図の読めない頼みをしてくるこの男への警戒を強めた。

「どうしてですか?」

「……いや、嫌ならいいんだ。考えてみれば、名乗りもせずに頼み事をする私は不審者みたいなものだからね」

 男は苦笑しながら言った。まるで心を読まれたようで、瑞穂は少し怖くなった。が、ここで引かないのが瑞穂である。

「……さっき、前から一度この学校を見てみたかったと言っていましたけど、どういう意味なんですか?」

 逆に、思い切って男に尋ね返した。男はしばらく困惑していたが、申し訳なさそうに、

「悪いね。事情があって、内容は言えない。ただそうだね……ここまでの話のお礼に、老婆心ながら一つだけ忠告しておこうか」

 そう言って、こう告げた。

「そのミステリー研究会にはかかわらない方がいい。ろくでもない事に巻き込まれたくなければね。では、私はこれで」

 返事をする余裕もなかった。男は瑞穂が何か言う前にそのまま後ろを向くと、ゆっくりと歩いていってしまった。後に残された瑞穂は、狐につままれたような表情で、校門の前に立ち尽くしていた。

「何なのよ?」

 瑞穂は首をかしげていたが、やがて帰宅しようとしていた事を思い出し、夕方の帰宅ラッシュをこれから体験せねばならない事にいささかげんなりしながら、そのまま帰路に着いた。


 その夜、瑞穂は自室のベッドの上に寝転びながら、改めてミステリー研究会からもらった冊子を読んでいた。隣の机の上には持ち帰った書類が散乱している。

「かかわらないほうがいい、ねぇ」

 校門で話しかけてきた男の謎めいた言葉を思い出す。あの男には悪いが、瑞穂は気になる事はとことん気になる性分であり、余計にこのミステリー研究会の事が気になっていた。

「でも、冊子自体は別に普通なのよねぇ」

 パラパラっと冊子をめくりながら瑞穂は呟いた。内容は簡単な推理小説だったり推理評論だったり、はたまた実際に起こった事件に対する考察だったりと割と多種多様で、さすがに本職の推理作家には遠く及ばないとは言え、高校生のレベルとしては内容としても充分なものだった。素人目にはわからないが、瑞穂的には充分お金が取れるレベルだと思う。何か高校の文芸部の作品展でもあれば、間違いなく上位入賞しているはずだ。にもかかわらず、なぜあの男はあんな忠告をしてきたのだろうか。

 瑞穂は冊子の後ろについている奥付を見てみた。編集者として部員全員の名前が載っている。冊子内での作者の名前とは一致しないので、どうやら作品にはペンネームを使っているようだ。

 最初に部長らしき人物の名前があり、その下の副部長の欄に、ブースで対応したあの変に淡々とした恩田朝子と言う女子生徒の名前も見える。さらに一般部員の欄には朝子とともにブースにいた中栗隆道と言う二年生の名前もあった。

 この三人の他に五人の名前があり、部員は全部で八人。文化系の部活としては標準的な人数といえる。

「うーん、特に気になるところはないけどなぁ」

 瑞穂は冊子を横に放り投げた。普通に考えれば、少々運が悪くてあの場所にブースを出さざるを得ず、やる気がなくなって対応がおざなりになっている変わった部活というだけで済むのだろう。だが、あの男のセリフが嫌でも頭に浮かんできた。

「どうしよっかな」

 何だか気持ちがモヤモヤしてすっきりしない。まさか入学初日にこんな気分を味わうとは思ってもいなかった。

「あぁ、もう! 何が『お礼』よ! お礼って普通はいい意味のものよね。何でこんなにモヤモヤしないといけないの?」

 もっとも、お礼には「お礼参り」と言う悪い意味の言葉もあったりするので正確には彼女のこのセリフは正しくないという事になるのだけれども、とにもかくにもほとんど八つ当たり気味に彼女は叫んだ。

 しかしながら、ここはマンションの一室であり、従って壁は非常に薄いわけであって……

「どうしたの?」

「え、ああ、何でもない」

 台所まで響いた彼女の声に母・瑞江が当然の言葉を発しながら部屋を覗き、瑞穂は慌ててそれを言いつくろった。瑞江は不思議そうな表情のまま顔を引っ込める。

 無論、瑞穂だって考えている。このモヤモヤを取り除く手段がある事くらいわかっている。

 実際にミステリー研究会に行ってみる。これが一番かつ最善の方法だ。気になる事があればまず行動すべし。行動派の瑞穂にはもっともふさわしい解決法である。

「でも、言われたそばから行くっていうのも……」

 さすがにそれはどうなのかという思いは瑞穂の中にもあった。そんなこんなで、瑞穂の出した結論はと言えば、

「……明日になったら考えよ」

 とりあえず問題を先送りにし、瑞穂は今日渡された大量の書類を書くため、ベッドから起き上がると机に向かった。


 翌日、四月十日火曜日。登校した瑞穂が自分の席に座ると、さつきが声をかけてきた。

「おはよ!」

 さつきは瑞穂の席に近寄ると、まだ登校していない隣の席の椅子を引っ張り、そこに腰掛けた。辺りを見渡すと、すでに女子の間ではいくつかのグループが形成されつつある。

「ねぇ、昨日校門の前で不審者に啖呵を切ったって本当?」

 いきなり尋ねられて、瑞穂は思わずギョッとした。

「ど、どこでその話を?」

「いやぁ、さっきこのクラスの男子が噂してるのを聞いたんだけど」

「見られてたんだ……」

 まぁ、あれだけ堂々とやっていたら見られても当然である。とは言え、啖呵を切ったというのはいくらなんでも言いすぎである。

「啖呵じゃなくて、不審に思って質問しただけですよ。少し話したら、あっさり帰っちゃいましたし」

 去り際におかしな事を言われたという事は、この場では伏せておいた。

「そう? でもクラスの男子たち、度胸があるなぁって感心していたよ」

「……私の評価がおかしな方向に行こうとしている」

 瑞穂は少々頭が痛くなった。噂というのは本当にいい加減である。

「で、何だったの? その人」

「結局わからなかったんです。名前も名乗らなかったし……」

「おっと、その前にその敬語やめない? 私、そういう堅苦しいの嫌いなのよ」

 さつきはあっけらかんと言った。

「じゃあ……結局名前も名乗らなかったし、何だかよくわからなかったの」

「そう、そんな感じ」

 さつきはニッと微笑んだ。

「でも、頭がいい人っていうのはわかったかな」

「何で?」

「私が新入生だって事、すぐに判断したし」

 瑞穂は、鞄の一件を話した。

「へぇ、そんな事でわかるんだ」

 さつきは感心しながらも、どこか薄気味悪そうに言った。

「でも、みんなが噂しているほどの事はしてないよ。ただ少し話をしただけ」

「……そっかぁ。まぁ、気にするほどの事じゃないか」

 しばらく考えた後、さつきはそう結論付けると、すぐに別の話題に移った。

「それよりさ、部活動するか決めた? 私、ついさっき女子バスケ部に正式に入部届け出してきたところ」

「もう?」

 一応この後、体育館で部活紹介イベントがあるはずなのだが。

「他に入るつもりもないし、善は急げってね。で、瑞穂はどうするの?」

 早くも名前の方で呼び始めた。が、まったく違和感がない。

「うーん、とりあえず放課後になったら部室棟を見て回るつもり」

「やっぱ普通はそうなのかなぁ。でも、この学校部活の数多いから、全部見て回るのは無理じゃない?」

 昨日パッと学内の地図を見た限り、この学校の部室棟は校舎とは別に三つもあった。大小さまざまな同好会を含めれば、部活の数は五十を超え、昨日見たように毎年新入部員の争奪戦が繰り広げられるという。

「もっとも、全部女子バスケ部の先輩の話だけど」

 さっそく、部内でコミュニケーション能力を発揮しているようだ。

「気になるところだけ覗いてみるつもり。やっぱり、実際に見てみないとわからない事も多いと思うし」

「そっか。まぁ、それが普通だよね」

 さつきは納得したように言ったが、続いてこんな事を告げた。

「ところでさ、昨日見たミス研について気になる噂を聞いたんだけど、聞きたい?」

 瑞穂にしてみれば願ってもない話である。

「どんな話?」

「それが、何でもあの部活、名探偵がいるんだって」

「え?」

 その非現実的な言葉に、瑞穂は思わず聞き返した。

「名探偵って……あの推理小説によく登場している名探偵?」

「そう」

「眼鏡をかけた見た目は子供の高校生とか、犬神家にやってきたボサボサ頭の男みたいな?」

「うーん、あそこまで極端かどうかはわからないけど」

 さつきは唸ったが、とりあえずそういう意味の名探偵だという事は間違いないようだ。

「まぁ、さすがに小説とかみたいに万能の人間じゃなくて、昔に何か事件を解決した事があるだけらしいよ。でもその推理が見事だったから、校内では『名探偵』っていうあだ名がついているんだって」

「ふーん」

 ミステリー研究会の名探偵とは、何ともできすぎた話だと瑞穂は思った。

「あ、もしかして行ってみるつもり?」

「ちょっと興味あるし、覗いてみようかなとは思ってるけど」

 瑞穂は正直に言った。

「じゃあ、その名探偵さんのお話、また聞かせてね」

 さつきの言葉に、瑞穂は苦笑するしかなかった。


 放課後になり、瑞穂はさっそく部活の部室が集まっている部室棟に行く事にした。

 この学校の部室棟は校舎の南、グラウンドの東側にある。南北に伸びた二階建ての部室棟が三つ平行に並んでいて、校庭に面している西の棟から順に一号館、二号館、三号館と呼ばれている。一号館が一般的な文化系部室。二号館が体育系部室。三号館がそれ以外の少し変わった部活の部室が集まっている。入り口はどの棟も校舎に面している北側にあって、入り口のそばに各棟の二階へ続く階段がある。各棟の各階に部屋が九部屋、三棟合計で五十四室ある計算となり、すなわちそれだけの部活がひしめき合っていると言う事に他ならない。

 ミステリー研究会の部室があるのは、三号館の二階、階段のある北から数えて五番目の部屋である。この時間、体育会系の部活はほとんど練習に出ているため、二号館は部活時間にもかかわらずほとんど人通りがない。それに比べ、部室が主たる活動拠点である文化系の部活は賑やかなものであった。

 瑞穂は、とりあえずいきなりミステリー研究会の部室に行くのではなく、一通りの部活を見て回る事にした。

「見ていきませんか?」

 一号館の入り口の前では、各部活の勧誘員たちがやってくる一年生たちに対して必死に勧誘活動をしている。

「一緒に取材活動をしてみませんか? 新聞部です」

「初心者でも大歓迎です! 吹奏楽部へようこそ!」

「舞台の上で輝く事ができる。演劇部をどうぞよろしく」

 そんな感じで入り口は大変混雑していた。興味がありそうな一年生を、上級生が引っ張っていっては部室で説明をしている。

 瑞穂は、とりあえず美術部を覗いてみる事にした。

「私たち美術部は一人ずつテーマを決めて作品を作成し、それを各地の展覧会に出して賞をもらう事を目的にしています」

 女子の部長がやってきた一年生たちに説明をしている。油絵を描く人間が多いのか部屋は少し油くさかったが、それでこそ美術部の部室という感じがする。

「昨年度は、都内の美術部が集う展覧会において、我が部の現二年生が作成した油絵が見事金賞に輝き、賞をもらっています。普段は美術室を利用して作品を作っており、初心者でも私たちが丁寧に教えて差し上げます」

 見たところ、この部室はあくまで作品や制作道具の保管場所といった感じで、実際の制作は美術室で行っているらしい。とは言え、窓のそばに割りと大き目の白い花瓶が飾ってあるなど、さすがに美術部だけあって散らかっている中にもどことなくセンスのよさがうかがえた。

 一通りの説明を聞いた後、瑞穂は礼を言って廊下に出た。美術部室は一号館二階の階段から数えて五部屋目。すべての棟に共通しているらしいが、南北に伸びている建物の中で部屋が西側、廊下が東側に位置している。それゆえ、午後になって西日がきついこの時間帯、各部室は非常に明るく感じられる。

 対し、廊下側の窓にはなぜかすべてに鉄格子がはめられており、東側である事もあって今の時間帯はどこか暗い印象を与える。さらに、実のところ各棟の間の幅が三メートル弱しかないため、隣の二号館の建物がすぐそばに見えて少々圧迫されているように感じてしまう。

 瑞穂は美術部室を出た後辺りをきょろきょろ見渡していたが、不意にその視線が一ヶ所に止まった。

『文芸部』

 階段から数えて九番目、すなわち一番南端の部屋である。昨日ミス研にもらった冊子の事が少し頭をかすめ、何となく興味本位で部屋を覗いてみた。

 そこには見知った顔の人物がいた。

「あら、あなたは……」

その人物が声を上げる。ストレートの長髪に眼鏡。手に難しそうな本を広げ、部屋にポツンと置かれたパイプ椅子に座って読んでいたようだ。昨日、ミス研のブースで瑞穂たちに対応した女子生徒である。

「あ、どうも……」

 思わず頭を下げ、とっさに名前を思い出す。

「ええっと、恩田先輩、でしたよね」

 確か、恩田朝子と言う名前だったはずだ。

「覚えてたのね。で、何の用?」

 相変わらずそっけない態度である。見てみると、文芸部室にはいくつか本棚こそあり、そこに置かれている本はどれもボロボロで、何度も読み返されたのがわかった。

「ええっと、確か恩田先輩ってミス研の副部長さんでしたよね?」

「そうだけど」

「でも、ここ文芸部ですよね」

「掛け持ちしてるの。一応、仮の文芸部部長」

 朝子は端的に答える。読書の邪魔をされて、不快極まりないといった態度だ。見てみると、手には『恐ろしき四月馬鹿』なる小説が握られている。当然ながら、瑞穂はそんなふざけた小説の題名など聞いた事がなかった。

「仮って、どういう事ですか?」

「どうもこうもないわ。今現在、文芸部に現役在籍しているのは私だけ。だから仕方なく部長をやっている。それだけ」

「それだけって……」

「本当は正式な部長と副部長がいるはずなんだけど、両方休部中でね。この部活、歴史だけはこの学校にあるあらゆる部活の中で一番長いから、いまさらつぶすわけにもいかないって、名目上の部長を唯一残った私が強引に押し付けられたってわけ。もっとも、一人じゃ何もできないし、私は基本的にミス研の活動を主体にしているから、ここはほとんど開店休業中。私だって、あっちがうるさくて静かに本を読みたい時だけ利用しているだけだし、ほとんど部長会議に顔出しするだけが仕事ね」

 だから新歓活動もやっていないの、と、朝子は肩をすくめながら言った。

「あの、その本は?」

 気まずくなったので、瑞穂は話題を変えた。

「何? 興味あるの?」

「え、ええっと、聞いた事のない題名だったもので」

 朝子はちらりと手に持っていた文庫本を見た。かなり古い文庫本である。

「そうね。横溝正史って知ってる?」

「横溝……なんか聞いた事があるような……」

 瑞穂は考え込んだ。基本、あまり小説は読まない方だが、それでもどこかで名前は聞いた事があった。

「『犬神家の一族』の作者、金田一耕助の生みの親、と言えばわかるかしら?」

「は、はぁ」

 『犬神家の一族』くらいはさすがに知っている。去年、市川崑がリメイクしたと言う事で話題になったのを覚えている。と言うか、市川ファンだった父親が珍しく自ら映画を見に行こうと言い出し、家族総出で見に行ったものである。もっとも、瑞穂は最初の三十分を見た段階で寝てしまい、父親が少々不機嫌になってしまったが。

 と言うわけで、それに登場する名探偵の金田一耕助についても一応は知っていた。ただし、瑞穂にとって金田一と聞くと、どうしても某週間少年誌に連載されていた推理漫画を思い浮かべてしまうのであるが。

「で、その横溝正史の作家デビュー作が、この『恐ろしき四月馬鹿』。戦前の作品で、今となっては古本屋でしか手に入らない」

「とにかく、貴重な本なんですね」

 よくわからなかったので、瑞穂はそう言うにとどめた。

「でも、最近のにわか横溝ファンの中には『本陣殺人事件』が作家デビュー作だっていう人が多いわ。佐七シリーズだってあるのに。確かに、金田一のデビュー作だから混同しやすいかもしれないけど……」

「あのぉ」

 急に多弁になって一人で遠い世界に行ってしまった朝子に、瑞穂は恐る恐る呼びかけた。

「じゃあ、昨日読んでいた本は読み終わったんですか? ええっと、何とかの供物でしたっけ」

「中井英夫の『虚無への供物』。あなた、日本三大奇書を知らないの?」

「三大奇書?」

「小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』、夢野久作の『ドグラ・マグラ』、そして中井英夫の『虚無への供物』の三作品。どれも傑作よ。竹本健治の『匣の中の失落』を含めて四大奇書という事もあるわね。私、もうそれぞれ何十回と読み返しているわ」

「えーと」

 どうやら、おかしなスイッチが入ってしまっているようである。彼女はこういう話をするととまらないたちなのだと、瑞穂は理解した。

 そのまま一人で語り続けていた朝子だったが、しばらくして不意に我に返ったらしく、若干引き気味の瑞穂を見てコホンと咳払いすると、パイプ椅子に座り直した。

「で、何の用?」

「いや、気になったんで覗いただけなんですけど」

 瑞穂はドアのそばに立ったまま答える。

「そう……ところで、ミス研には来るつもり?」

「はい。昨日冊子を読んでみて面白かったんで、覗いてみようかと。そういえば、名探偵がいるって噂を聞きましたけど」

「名探偵、ね」

 朝子は少し自嘲気味に言った。

「期待すると少し幻滅するかもね。昔、一回だけ偶然的に事件を解決したのが誇張されて広まった名前だから。本人は、見た目はごく普通の高校生。解決した事件の真相も、正直呆気なかったし」

「でも、解決したのは事実なんですね?」

「ま、推理力はあるんでしょ。私はどうでもいいけど」

 朝子はそう言うと、本を片付けた。

「せっかくだから、一緒に行きましょうか?」

「いいんですか?」

「新歓期間中だから義理でいただけよ。どうせ誰も来ないだろうし、別にいいわ」

 朝子はそう言うと、近くの机の上に置いてあった鞄を持ち上げて部屋を出た。

「行きましょうか」

「は、はい」

 ほとんどなし崩し的に、瑞穂は朝子の後についてミス研の部室に行く事になった。


 先述した通り、ミス研の部室は三号館二階にある。相変わらず入り口でひしめく各部の勧誘員たちを避けながら一号館から出ると、二人は三号館に向かった。

「おーい、恩田じゃん」

 と、二号館の入り口で誰かが声をかけてきた。

 振り返ると、頭を三分刈りにして道着袴に胴垂をつけた、明らかに剣道部員と思しき男子生徒が駆け寄ってきた。

「何よ、こんなところで」

「何よはないだろ」

 三分刈り男が髪のない頭をかく。

「お、そっちの子は?」

「見学希望者」

「はー、そりゃよかったじゃねぇか。こっちは、ほとんど見学者がいなくてよ」

「気をつけてよ。怖がってるじゃない」

 朝子が非難めいた口調で言う。

「わりぃ。一応自己紹介な。紙内智彦かみうちともひこってんだ。剣道部の主将をやってる。こいつとは、昔からの腐れ縁でよ」

「ただの知り合いよ。縁なんてない」

 朝子はそう言って紙内を睨んだ。

「ほら、『竹刀』はさっさと行きなさいよ」

「きついなぁ」

「『竹刀?』

 瑞穂は首をかしげた。

「あぁ、俺の名前『かみうち』って読むけど、読み方変えたら『しない』になるだろ。で、剣道部にいる事もあってついたあだ名が『竹刀』ってわけ」

「はぁ」

 随分うまい名前である。

「本当に、何しに来たの? 今、練習中よね」

「部室から竹刀持ってくるように先生からおおせつかってよ」

「『竹刀』が竹刀を運びに来た、か」

「余計なお世話だ。んじゃ、急ぐんでそのうちな」

 そう言うと、紙内はガランとした二号館に入っていった。

「仲いいんですね」

「どうだか」

 朝子はそう言うと、三号館の方に歩き始めた。三号館はマイナーな部が多いためか、一号館に比べてあまり人通りはない。入口から入り、階段を上って二階に出る。

「こっち」

 朝子はそう言うと、階段から数えて五番目のドアを無造作に開けた。

「ああ、恩田先輩、お帰りですか」

 見ると、昨日ブースにいた男子生徒……中栗隆道が顔を上げて出迎えた。

「見学希望者を連れてきた」

「あれ、君って確か昨日の……」

 中栗は目を丸くする。

「一年の深町瑞穂です。よろしくお願いします」

「瑞穂ちゃんか。そっか、興味持ってくれたのか。いやぁ、ありがたいなぁ」

 中栗はそう言って喜んだ。

「他は?」

「まだ来てませんね。でも、もうすぐ来るんじゃないんですか?」

 朝子の問いに中栗が答えた瞬間、その言葉を待っていたかのようにドアが開いた。

「あれぇ、お客さんですかぁ」

 どこかのんびりとして間延びしたしゃべり方の声が聞こえた。入ってきた女子生徒が発したようだ。トロンとしてどこか眠そうな目つきをし、今にもそのまま寝てしまいそうな表情をしている。

「見学希望者らしいよ」

 中栗が説明する。

「ふーん、こんな部活に来る物好きがいるのねぇ」

「英美ちゃん、君だってその物好きな部類に入ってるんだよ」

 中栗が突っ込んだ。話の流れから判断すると、英美というのがその女子生徒の名前らしい。

「二年の朝桐英美あさぎりひでみ。よろしくぅ」

 女子生徒……朝桐英美が相変わらず間延びした声で自己紹介した。

「ま、見た通りマイペースな子でさ。調子狂うかもしれないけど、よろしく頼むよ」

「中栗君、それはひどいよぉ」

 英美はそう言いながらも、マイペースなしゃべり方は変えず、見た感じは怒っているようには見えなかった。

 と、英美の後ろから声がかかった。

「おい、早く入れよ。後ろ詰まってるぜ」

「あぁ、ごめんなさーい」

 英美はそう言うと、さっさと部室の奥に歩いていった。その後ろから、二人の男子生徒が入ってくる。

「横川先輩も一緒ですか」

「悪いかよ」

「悪いとは言っていませんけど……」

「入口でたまたま一緒になったンッスよ」

 横川と呼ばれたガラの悪そうなしゃべり方をする生徒の後ろにいるもう一人の男子生徒が答える。

「お、新入部員か?」

「見学ですよ。先輩、とりあえず自己紹介。このままだと、変に誤解されちゃいますよ」

「余計なお世話だっての」

 横川は中栗を睨んだ後、コホンと咳き込んで瑞穂に挨拶した。

「おう。俺は三年の横川卓治よこかわたくじってんだ。よろしくな」

「ついでに、二年の村林慎也むらばやししんやッス。よろしくッス」

 ちゃっかりと、後ろに控えていたもうひとりの男子生徒も自己紹介した。

 乱暴なしゃべり方をする横川は長く伸ばした髪を少し茶色に染め、制服もだらしなく着崩している。その姿はちょっとした不良で、こんな文化系の部活にいるような人間には見えなかった。

 対して、「ッス」という独特の語尾をつけている村林は、どちらかといえば非常に小柄な体格で、瑞穂よりも背が低いようだった。ニコニコと恵比須顔を浮かべているが、さっき見た剣道部の紙内よろしく五分刈りにしているのが何ともミスマッチである。

「にしても、これだけかよ」

「仕方ないッスよ。佐脇とサッちゃんは今頃ブースだろうし、部長は臨時の部長会議だし」

 ちなみに、今日も勧誘用のブースは出ているはずである。

「あれ、恩田先輩、文芸部の方で部長会議行かなくていいんですか?」

 ふと気になったように中栗が朝子に尋ねた。

「あぁ、そんな通達来ていたわね。いいでしょ、どうせ私がいてもいなくてもそう変わらないし、あんな部員一人の部活の事なんか誰も気にしないでしょうし」

「いいのかなぁ」

「おいおい、それよりその見学者の子の事、紹介してくれよ」

 横川がじれったそうに言った。

「そうですよぉ。私たち、まだ名前も聞いていないんですからぁ」

 奥の方で英美が言う。

「そうだったわね。中栗君と私は昨日会ったから知っているんだけど、改めて自己紹介してくれるかしら」

「は、はい」

 瑞穂は少し緊張しながら自己紹介した。

「えっと、波ノ内第一中学校から来ました、深町瑞穂です。正直なところ、ミステリーとかほとんど読んだ事ないんですけど、昨日もらった冊子が面白かったので見学に来させていただきました。よろしくお願いします」

 そう言って、ペコリと頭を下げる。

「改めてよろしく。まぁ、入部するかどうかはゆっくり決めてくれたらいいし、今日は気を楽にして見学してってよ」

 中栗が愛想よく言う。どうも、この中栗という男子生徒は曲者ぞろいのこの部活の中でも、割とまともな存在らしい。

「えーっと、実はここにいる他に三人ほど部員がいるんだけど、まぁ彼らもすぐ来るだろうし、気軽に話しかけてよ」

「それじゃあ……さっそくなんですけど具体的にこの部活って何をやってるんですか?」

 瑞穂の質問に、中栗はこう答えた。

「正規の活動としては昨日も軽く説明したとおり、古今東西の推理小説について語ってみたり、推理小説を書いてみたり、実際に起こった事件についてみんなで話し合ってみたり、そういう事を冊子にまとめて発刊している。とは言え、週二回の正規活動以外も、こうして部室に集まって、色々としゃべっている事が多いけれどもね。まぁ、体育会系と違って割合ゆるい部活だよ」

「皆さんやっぱり推理小説について詳しいんですか?」

「まぁ、そりゃ一応サークル活動としてやっているからね。ただ、最初からがっつりとマニアだったのは副部長くらいじゃないかな?」

 中栗は朝子の方をチラリと見ながら言った。

「いやぁ、去年の新歓はすごかったッス。何の気なしにこの部屋に来たら、いきなり横溝正史談義を延々一時間ッスからねぇ」

 村林が遠い目をしながら回想する。

「あれで入部希望者の大半が引いちまったんだったな」

 横川も朝子の方を見ながら言うが、朝子は別に気にする様子もない。

「でも入部者ゼロにはならなかったわ」

「文芸部の方はゼロになったんじゃなかったんですかぁ」

 奥から英美が付け加える。

「今年はああいうの、やめてくださいね」

「大丈夫よ」

 朝子はそう言うと、こう続けた。

「もう、さっきやっちゃったから。その上でこの子はついて来たの」

 その場が凍りつく。

「……そうなの?」

「はぁ、さっき文芸部室で少しばかり」

 瑞穂の言葉に、朝子以外の全員が顔を見合わせる。

「来たからいいじゃない」

「そんな問題では」

「おめぇはいつも、いつも……」

「副部長、自重って言葉を知ってるッスか?」

 部員たちがワイワイ騒ぎ出し、瑞穂は少々呆気に取られる。

「気にしないでぇ。いつもの事だからぁ」

 英美が瑞穂に呼びかける。

 と、再びドアが開いた。

「あー、全然駄目! 誰も来ないし、やってらんない!」

 背の高いポニーテールの女子生徒がそう大声を上げながら入ってくる。その後に続けて、黒縁の眼鏡をかけて第一ボタンはおろか襟元のフックまでしっかり閉めている、いかにも真面目そうな男子生徒が入ってきた。

「溝岸君、もう少し静かにしたらどうですか」

「佐脇、あんたも悔しいと思わないの!」

「あの場所では仕方ないと思うのですが」

 二人は互いに言い合いながら部屋に入ってきたのだが、すぐに瑞穂に気がついたようで、

「あれ、その子は?」

 と、女子生徒の方が尋ねた。

「見学希望者だってよ」

 横川が説明する。

「あ、あー。見学希望者……」

「今の発言は少々不用意だったかもしれないですね。部室に入部希望者がいる可能性を考慮しておくべきでしょう」

「だって、あんな調子じゃ誰か来るなんて思わないし!」

 女子生徒がふくれっ面をする。

「ええっと、一応紹介しておくと、そっちのやたら元気な女の子が溝岸幸みぞぎしさちさんっていって、もう一人の真面目君が佐脇倫明さわきのりあき。両方二年生」

「中栗! 勝手に紹介しないでよ!」

 女子生徒……溝岸幸が髪をかき上げながら中栗に不満を言う。

「真面目君というのはいささか不愉快な表現ですね」

 男子生徒……佐脇倫明も言葉通り不愉快そうな表情をする。とは言っても、眉が少し動いた程度で見た目はあまり変化ないのだが。

「何言ってやがる、この勉強馬鹿。学年一位を取っておきながら、この期に及んでそう言うか」

「余計なお世話です」

 横川の言葉に、佐脇は不愉快そうな表情のまま答える。

「学年一位、ですか?」

「ここに入ってから一度もその座を明け渡した事のない天才君で、五教科四八〇点越えが当たり前。そんなレベルながら進学校でもないこの学校に入ってきて、しかもよりにもよってこんなわけのわからない部活に所属しているわけのわからないやつ。ま、簡単に言えば変人って事で」

「君は失礼ですね、中栗君」

 瑞穂の質問に答えた中栗に対し、佐脇は言い返す。

「サッちゃん、ブースのほうは駄目だったッスか?」

 村林が幸に尋ねる。サッちゃんと言うのが、幸のあだ名らしい。

「さっき言った通り、全然来ない。場所が悪いんじゃないの?」

「まぁ、それは全員が思っている事だろうとは思うッスけど、仕方ないんじゃないッスかね。場所のくじ引いたの部長ッスし、運が悪かったとしか言えないッス」

「あー、もう! 何度も『ッス』ってうるさいわね!」

「俺の口癖全否定ッスか」

 ますます部室が騒がしくなる。

「あの……」

「まぁ、大体こんな部活だよ。よくも悪くも」

「ちょっと、新入生に変な事を吹き込まないでよ!」

 中栗の言葉に幸が突っ込む。

「大体さ、部長はどうしたの」

「部長会議よ」

「副部長、文芸部長でもあるはずのあなたが何を言ってるんですか」

「サッちゃん、その話蒸し返さないで。さっき散々言ったところだから」

「中栗は黙ってよ!」

 新入生を前に、段々カオスな事になってきた。

「ええっと……」

 やや戸惑いつつも、瑞穂は今まで紹介されてきたメンバーを整理してみた。

 まだ姿を見せていないが、部長会議に出席していると言う部長氏。話の流れからするに、おそらくこの部長こそが、さつきのいう「名探偵」なのだろう。

 副部長は恩田朝子。どうやら、本当の意味でのミステリーマニアと呼べる人間は彼女だけらしく、根っからの読書好きといった感じがする。文芸部の部長もやっているそうだ。それからやや不良めいた横川卓治。この三人が三年生という事になるらしい。

 二年生は全部で五人。割合まともな存在である中栗隆道、のんびりしたしゃべり方の朝岡英美、「ッス」という語尾が特徴の村林慎也、ややきつい性格でポニーテールをしている溝岸幸、学年一位で見るからに生真面目そうな佐脇倫明。合計八人が、このミス研の面子という事になるのだろう。

「えーと、瑞穂ちゃんだっけ? 名前は中栗から聞いたんだけど」

 と、不意に幸から呼びかけられた。

「は、はい。そうです」

「ふーん。ま、興味持ってくれたのはうれしいけど、こんな面子だから色々苦労するかもね」

「溝岸君、新入生相手にそこまで言うのは少し言い過ぎだと思うけどね」

 佐脇が突っ込む。

「いいじゃない。どうせすぐばれる事だし」

「いや、それでも一応面子ってものがね……」

「いくら取り繕っても、合わなかったら辞めていくわ。だったら、最初からぶちまけたほうがいいのよ」

「幸らしい言葉だと思うけどぉ、今言うべき事じゃないよねぇ、それ。少なくとも、新入生の前じゃぁ」

 相変わらず英美がのんびりと言う。

「英美! あんたもそのしゃべり方どうにかしなさいよ! 聞いていてイライラしてくるのよ」

「そう言われてもねぇ。これが私のスタンスだからねぇ」

 幸に言われても、英美は特に動じない。

「ねぇ、一つ言ってもいいかしら」

 騒がしい中、不意に朝子が言う。

「何ですかぁ」

「とりあえず、せっかく来てもらった一年生には座ってもらった方がいいと思うのだけれども」

 一瞬、部屋が静かになる。

「あー、まぁ、そうね」

 幸は罰の悪そうな表情をすると、奥から椅子を引っ張り出してきて瑞穂に勧めた。瑞穂は恐縮しながら椅子に座る。

「まぁ、とりあえず、部長が帰ってくるまでくつろいでいてよ」

「はぁ」

 中栗の言葉に、瑞穂は気の抜けた返事をする。

「あの、もう一つ質問していいですか?」

「どうぞ」

 瑞穂の言葉に中栗が答える。

「皆さん、その、やっぱり好きな作家とかいるんですか?」

 その言葉に、全員顔を見合わせた。

「恩田先輩は横溝正史ファンでしたよね」

 中栗が確認の意味をこめて聞く。

「どんな作家でも読むけど、一番好きなのはやっぱり横溝正史ね」

「僕は有栖川有栖とか好きだけど、英美ちゃんはエラリー・クイーンのファンだったかな」

「そうですよぉ、中栗君」

「自分はファイロ・ヴァンスが好きですね」

 佐脇が実直に答える。瑞穂は、「自分」が一人称の人間を初めて見た。

「慎也は?」

「俺? 俺は東野圭吾とかッス」

 中栗の問いに、村林は気さくに答える。

「幸はなんだったっけぇ」

「北村薫とかね」

「横川君は何かあったかしら」

「恩田、そりゃどういう事だ! おれがミステリー読むような人間には見えないってか!」

「事実そう見えるわ。確か、部長に引きずられる形で入部したと記憶しているんだけど」

「余計な事言うな! と言うか、そういうおめぇは五月に一ヶ月遅れで途中入部してきたんだったはずじゃなかったか?」

 横川が怒鳴る。その場に小さな笑いが生まれた。

 と、その時だった。

「何か楽しそうな事をやっているみたいだね」

 不意に入り口から声がかかった。

「あ、部長!」

 村林が呼びかけ、全員がそちらを向く。

「部長会議、終わったッスか?」

「ああ。恩田君、部長会議をボイコットしたね」

「行っても意味ないし」

「行ってあげなよ。議長が泣いてたよ」

 苦笑しながら入ってくる男子生徒……おそらくはこのミステリー研究会の部長氏は、そこで初めて瑞穂に気がついたようだ。

「おや、新入部員かい?」

「一応、見学希望者らしいわ」

 朝子が言う。それを聞いて、部長は瑞穂の前に立つと、頭を下げた。

「ようこそミステリー研究会へ。僕は、この部の部長をやっています、野川有宏のがわありひろといいます。以後、よろしく」

 部長……野川有宏はそういって挨拶した。この中では一番の長身で、佐脇同様に眼鏡をかけている。とはいっても、黒縁眼鏡で度が強そうな佐脇と違い、あまり矯正が入っていない細いフレームの眼鏡をかけていて、どこか温和な雰囲気をかもし出している。

 瑞穂も慌てて自己紹介した。

「はじめまして。一年の深町瑞穂です」

「深町君ね。興味を持ってくれてありがとう」

 野川はにっこりと笑った。これが噂の「名探偵」とは、第一印象からは思えなかった。


「で、どうなったの?」

 翌日、四月十一日水曜日。一年二組の教室で、瑞穂から昨日の話を聞いていたさつきが興味津々といった感じで尋ねた。

「とりあえず、昨日は顔合わせと雑談で終わって、今日正式な活動があるから、ぜひそこに参加してほしいって」

「それで、問題の『名探偵』は?」

「会ったけど、まだ少し話しただけだし、どうとも言えない」

「そっか」

 さつきは少し残念そうな表情をする。

「でも、断片的な事は聞いたかな」

「何々?」

「その野川さんって人、幼い頃に両親が事故死して孤児院に入って、今の里親に拾ってもらったんだって」

「へぇ、結構苦労人なのね」

「で、一年生の冬に、何か大きな事件を解決して、一躍『高校生探偵』として有名になったんだとか」

「つまり、『名探偵」なのは本当なわけか」

 さつきは納得したような表情で言う。

「どんな事件なの?」

「それを今日の活動で話してくれるらしいんだけど」

 瑞穂はそう答える。と、ちょうどチャイムが鳴った。

「ま、明日にでも、どんな感じだったのかまた教えてよ」

 入学式から二日経ち、そろそろ本格的に授業が始まっている。最初であるためか比較的まだゆっくりしたペースではあるが、そのうちだんだん早くなっていくだろうという事は、瑞穂にも予想できた。

 さっそく始まった数学Ⅰでは、中学校時代にやった因数分解や展開のさらに発展した内容を繰り返しやる事になった。実の所、瑞穂は中学校時代に三平方の定理をやった時に「果たしてこんなものが将来何の役に立つのか」と、一般的な中学生がほとんど疑問に思っていながら口にできない事を、まったく臆する事なく直接先生に質問したと言う武勇伝を持っている。もっとも、肝心の教師側も曖昧な答えしかできず、極めて不満の残った事は否めないのであるが。

 もっとも、だからといって瑞穂は別に数学が嫌いというわけでもない。最初なので復習部分も多く、それなりに理解はできている。ゆえに、演習の余った時間は、今日のミス研でどのような事が話されるのか、その事に考えをめぐらせていた。

 昨日一日話しただけだが、とりあえずの感想としては、雰囲気のいい部活といった感じだった。確かに、集まっている部員たちはかなり個性的な人間が多いが、その分どこか親しみやすい感じだった。

 今日の活動の様子がいいようなら、このまま入部してもいいかもしれない。瑞穂はそう考えていた。もっとも、頭の片隅にあの謎の男の忠告がなかったと言えば嘘になってしまうのだが……。

「ま、何とかなるでしょ」

 瑞穂は小さな声で呟いていた。


 その後、現代文、現代社会、英語Ⅰ、古典、体育と授業は続き、十五時半頃になって授業は終了した。この学校は帰りのHRはないので、掃除当番以外は授業終了と同時にそのまま下校となる。もっとも、終了のチャイムが鳴ってから二十分後には、武道場の方から剣道部の掛け声が聞こえてきたのにはいささか驚いてはいたが。

「剣道部って、そんなに早く準備できるものだっけ?」

 後者の廊下を歩きながら、瑞穂は思わず呟いた。道着袴に着替え、胴垂をつけて道場の準備をする。普通に考えて二十分でできる作業ではないと思ったりしたが、物事何でも慣れなのだろうと強引に納得して、瑞穂は目的地に向かった。

 四階にある多目的教室。ここが、ミス研が普段活動に使っている教室なのだと言う。四階は特別教室が集中している事もあり、あまり人通りの多い場所ではない。しかもなぜかこの学校は音楽室や美術室などが一階にあって、四階にあるのは地学講義室だの書道教室だの特別講義室だの、正直あまり使わないだろうと思えるような教室ばかりである。

 そんな教室群の一番奥が多目的教室だった。多目的教室などとは言っているが、要するに使わなくなった教室をそのまま放置しておくわけにもいかないのでそう呼んでいるだけのようである。

 その多目的教室の前で、中栗が手持ち無沙汰に待っていた。

「あ、おーい! ここだよ!」

 誰もいないのに必死に中栗が手を振る。

「あの、そんな必死にならなくても大丈夫ですから」

 瑞穂は逆に少し気後れしつつも、中栗に近づいた。

「いやぁ、何と言うか、来たはいいけどこのまま帰られたら色々ショックが大きいと思うし……」

 要するに、誰も来なくて切羽詰っているのだろう。

「もしかして、私だけなんですか?」

「そう言う事になるね。やっぱ、ブースの場所が悪かったのかなぁ」

 何やらブツブツ言っていたが、

「とにかく、よく来てくれたね。さ、入って入って」

 中栗の勧めで多目的教室に入る。

 そこは、あちこちに机や椅子が積み重ねられた部屋で、その中央に四角の形に椅子が並べられていた。すでに、ミス研のメンバーは全員集まっており、思い思いに話をしている。

「あら、来たのね」

 朝子がいきなりそんな言葉をきけた。

「昨日があれだから呆れたかと思ってたんだけど」

「いえ、そんな……」

 瑞穂は恐縮する。

「遠慮しなくていいのよ。結局、そういう部活だから」

 幸がため息をつきながら言う。

「まぁまぁ、せっかく来てくれたのにその挨拶はないだろう」

 正面でそう言っているのは、昨日最後に会ったこの部の部長……野川有宏である。相変わらず温厚そうな表情で、それでいてどこか貫禄がある。

「さてと、見学者も来た事だし、始めるとしようか」

 瑞穂が座ったのを見て、野川がそう言った。

「え、あの、他の人を待たなくても?」

 一応、ここは聞いておくのが筋だと思って瑞穂は尋ねた。

「あの後何人か来たんだけどね、彼女がちょっと暴走してしまって……」

 野川は苦笑しながら朝子を見た。

「あの程度の話題についてこられない人間なんて、別に入部してほしくもないわ」

「だからって、いきなり横溝正史の生涯を熱く語り始めなくともいいだろうがよ。そういうのは文芸部でやってくれよ……」

 横川がため息をついた。

「あいにく、文芸部には入部希望者ゼロなのよ」

「ブースはおろか新歓活動もしなかったらそうなるって」

 横川がさらに深いため息をつく。

「サッちゃんもサッちゃんで、来る人来る人に厳しいと言うか、最初からオープンと言うか……」

「本当の事言って何が悪いのよ」

 中栗の言葉に、幸がふてくされたような表情をする。どうやら、諸悪の根源はあの二人らしい。まぁ、瑞穂も昨日の時点で薄々そんな気はしていたのではあるが。

「とにかく、せっかく来てくれたんだ。さっさと始めようか」

 野川はあくまでマイペースに言う。

「さて、おそらくこの部活については色々聞いていると思うけど、一番多かったのは多分『名探偵』がいるとか、『高校生探偵』がいるとかじゃないかな?」

 唐突に中栗が瑞穂に話しかけた。

「はい。何でも、昔何か事件を解決した事があるとか……」

 瑞穂はさつきに言われた事を告げた。

「やっぱり気になるよね?」

「ええ、まぁ」

「そこで、今日は予告通り、名探偵ご本人からその事件についてお話してもらおうと思う。というわけで、野川先輩、お願いします!」

 中栗は芝居かかった口調で、野川にバトンタッチした。他のメンバーも全員席についている。

「参ったな。そんな風に言われると話しづらい」

 野川は頭をかきながら、しかしまんざらでもない様子で、おもむろに話し始めた。

「では、僕が最初に携わった事件について話そう。と言っても、まともに解決したのはこれだけなんだけどね。やっぱり、漫画みたいに高校生探偵大活躍ってわけにはいかないって事らしいよ」

「どんな事件なんですか?」

 瑞穂は尋ねた。それに対し、野川は気楽に答える。

「簡単に言えば、ある殺人事件だ」

 瑞穂は驚きのあまり椅子から転げ落ちそうになった。

「さ、殺人事件?」

 さすがに、殺人事件は想定外だった。いくら「名探偵」とは言え、所詮は高校生。せいぜい窃盗か何かだとばかり思っていたのに、よりにもよって本当に殺人事件を解決していたとは……。

「あの、それって冗談じゃないんですよね?」

「こんな事で冗談を言っても始まらないよ。そうだね。せっかくだし、データを言っておこうか。すでに解決した事件で、このあたりの情報は公開されているはずだよ」

 そう言って、野川は情報を話し始めた。

「事件は、僕が一年生の時の一月に起こった。日にちは忘れたけど、二〇〇六年一月の事だね。年度で言えば二〇〇五年度か。まぁ、その辺りはどうでもよくて、それは世田谷で起きたある殺人事件だった」

 野川は何も見ずに話し続ける。

「被害者は町水梨枝子まちみずりえこという女性でね。職業は専業主婦。新橋の会社に勤めている町水和清まちみずかずきよという旦那がいる。事件は夫の和清が大阪出張していた夜に起こった。梨枝子は自宅に侵入してきた何者かによって首を絞められ、絞殺されていた。死亡推定時刻は二午後十一時。すぐさま警察による捜査が始まった」

 具体的な名前や地名が出るに至って、瑞穂は非常に生々しい感覚を覚えた。

「当時、僕は現場近所に住んでいる叔母の家にたまたまいてね。そこに聞き込みの刑事が来て、そこで色々事件の事を話していった。その時話された話から、僕は一つの仮説を立てて、それが認められて関係者の前で推理を話す事になった。まぁ、簡単に言えばそんな感じの流れだったわけだ」

 野川はそう言って、話を続ける。

「その時、警察は被害者の夫である町水和清を第一級容疑者としていた。僕のところに来た聞き込みも、町水夫妻の仲や、事件当日の目撃情報を探すものだった。だけど、事件当日、彼には鉄壁のアリバイがあった」

「アリバイ、ですか?」

「彼は、事件の次の日の朝五時には大阪のホテルで目撃されていた。彼の主張によると。事件当日の午後五時頃に商談を終えてホテルに帰ってから、ずっと一人だったという事らしい。ルームサービスは午後八時時にとっていた。この時間なら、大阪から東京に行く事は飛行機を使えば簡単だ。だが、犯行時刻は午後十一時。その時間帯だと新幹線はおろか、飛行機だって動いていない。つまり、東京から大阪に朝の五時までに帰る方法がなかったんだ。要するに、津村秀介や西村京太郎なんかでおなじみの、一種のアリバイ工作式の事件だったというわけだ」

「津村と西村?」

 瑞穂にとって、西村京太郎はさすがに名前を聞いた事があるが、もう一人の津村秀介は全然知らない名前だった。

「両方とも、トラベルミステリーで有名な作家よ」

 朝子が教えてくれる。

「知らないかなぁ、津村は浦上シリーズで有名なんだけど。亡くなったのが惜しい」

 野川が残念そうに言ったが、すぐに話を戻した。

「このアリバイの一件さえなければ、和清は間違いなく犯人だった。町水夫妻の仲は冷え込んでいて、収入こそあったものの、互いの価値観がどんどんずれている状態だった。ちなみに、子供はいない」

「要するに、そのアリバイ工作を野川さんが見破ったって事ですか?」

「そう言う事」

 野川はにっこり笑った。

「とは言っても、事実は小説より奇なりどころか、極めて現実的な話だったんだけどね。さて、問題です。犯人はどうやってこのアリバイトリックを成し遂げたんでしょうか?」

 野川が瑞穂に対して芝居がかった口調で尋ねる。

「え? えーっと」

 いきなり聞かれて瑞穂は慌てる。

「新幹線や飛行機じゃないとすると、自分で車を運転したとか、あるいは通常路線とか」

「彼は車の免許を持っていない。それに、一般路線に乗った形跡もなかった」

「じゃあ、船とか?」

「なるほど、いい着眼点だね。だけど、船ではなかった」

 野川はそう言うと、

「ま、少し卑怯な話だったし、この辺で種明かししておこうか。推理小説の題材としては反則気味の話だ」

 と、いきなり言った。

「どう言う事ですか?」

「実はね。その日昔の夜間飛行を思い出そうという企画が航空会社で行われていてね。昔懐かしいプロペラ旅客機を大阪まで飛ばす特別便が出ていたんだ。この特別便は一般には公にされておらず、一部のマニアにだけ知られたものだった。結論から先に言うと、彼はこの飛行機に乗っていたんだ」

 瑞穂はガクッと肩を落とした。そんなの反則だ。言われてみるとはっきり言って拍子抜けする結末だった。これが小説なら真っ先に本を投げているだろう。

 だが、小説ならともかくこれが実際の殺人事件となると、やっぱり解決するのは難しいのだろうと瑞穂は思った。おまけに、何だかんだ言っても野川は高校生に過ぎない。むしろ、高校生でよくこの結論に行き着けたものだと、同時に感心したりした。

「言った通り、この便の情報は一部の人間しか知らなかった。警察でもつかめていなくてね。でも、僕は必ずそのような飛行機があるはずだと思って、必死に調べたんだ。そして、警察よりも先にこの飛行機の存在に行き着いた。で、実際に和清に突きつけたところ、和清の荷物からは問題の飛行機のチケットが発見された。この飛行機はその日しか飛んでいない。そのチケットがあったと言う事は、彼がその飛行機の乗ったという何よりの証拠だった」

 野川はそう言って、懐かしそうな表情をした。

「いやぁ、あのチケットが見つかった時は本当に嬉しかったよ。自分の推理が当たったという気持ちと、これで犯人を捕まえる事ができるという気持ちだね。だけど、後者については果たせなかった」

「どうしてですか?」

「逮捕する直前、和清は警察の一瞬の隙をついて逃亡し、そのままマンションから飛び降りて自殺してしまったんだ。正直あれはショックだったな」

 予想以上に重い話である。さすがに、この時ばかりは野川の口調も重くなった。

「証拠があったから彼の犯行で間違いはなかったけど、何ともやりきれない事件だったよ。そんなわけで、それから僕は『名探偵』だの『素人探偵』だの呼ばれるようになった、と、こういうわけだよ」

 予想以上にちゃんとした話で、ちゃんと事件を解決していた事実に、瑞穂は感心した。

「要するに、運がよかったって事ですよね、それ」

 と、幸が不満そうに言う。まだ機嫌が直っていないらしい。

「まぁ、そう言われてしまうとそうなんだけど、運も探偵の能力のうちってね」

 野川は認めつつも朗らかに笑った。

「とまぁ、今回は僕の事件の話をしたけど、こんな感じで毎週この時間に事件の題材か何かを各自集めてきて発表したり、推理小説の論評をしたり、自作の推理小説を評価したり、まぁそうやって話し合うのがこの部活の主な目的かな。もちろん、課外活動なんかもよくしている、実際の私立探偵に会いに行ったりとかね」

 野川はそう言って、瑞穂を見た。

「どうだい、少しでも興味を持ってもらえたかな?」

 瑞穂は考え込む。

「もし入部したいって言うなら、新歓期間終了までは気楽に待ってるから、ゆっくり考えてくれて構わないよ」

 だが、この時、すでに瑞穂は心を決めていた。

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