一ページ
景文日向
結局、一冊の本にどれほど余白があるか。それが問題です。
人生は、一冊の本の様だ。しかしそこには、少なからず余白が存在する。忘れてしまったこと、思い出したくないことがそうなってしまうのだ。
僕の人生なんて余白だらけだろう____そう、
もしかして、活字中毒なのは僕の人生を埋めるためなのではないか。本を読んでいる間は無駄なことを考えなくて済むし、人生のページが補完されている様な気がする。他人によって補完されたそれを、人生と呼べるかはわからないけれど。エッセイ本を読み終わった後感慨に耽っていると、そのような思考が噴出してきた。頭をぶんぶん振って、思考を追い出す。
気晴らしに別の本でも読もう、そう思い小説に手を伸ばす。何度も読み返して、状態はあまり良くない一冊。表紙を見ると、学生時代の記憶が蘇ってくる。あの時も学年トップだった、あの時は全国模試で一位をとった__思い返せるのは勉学のことばかりだ。
「つまんない人生だな」と、囁かれた気がした。当然それは幻聴なのだが、真理でもある。僕の人生はつまらない。少しの才能と多大な努力でここまで上り詰めても、その先がない。後は朽ちて死んでいくだけだ。弥生は持っていた本を横に置いた。たまには、書を捨て旅に出ることにした。行き場所は近所の公園と、随分短い旅。しかし、それで十分であった。職場と家の往復しかしていないのだから、公園でも何か発見があるかもしれない。靴を履き、玄関から外に出る。冷えた風が弥生の身体に吹きつける。
「さむっ」
思わず口から発された言葉。そういえば今日は、寒気が上空を支配しているのだったか。近所の公園は歩いて三分ほどで着いた。流石にこの寒さでは、子どもたちも家にこもっているらしい。公園には見慣れた男が一人で、何をする訳でもなく佇んでいた。
「優斗さん、何してるんですか」
大体この男は何も考えていないのがオチだ。声をかけても問題ないだろう。
「弥生。いや……ぼーっとしてただけだけど。それにしてもお前が外に出てるなんて珍しいな」
予想は的中した。優斗は小学校からそういうところがあって、整った顔立ちが相まってミステリアスな人間として扱われていた。家が近所なので付き合いは長いが、未だにこの男のことはよくわからない。日本人離れした黄緑色の瞳で見つめられると、何もやましくはないのにどきりとしてしまう。
「そうでしょうか?」
何も答えないのはおかしいので、ありきたりなことを言っておく。
「うん、何かあったのか?」
「……どうせ貴方にはわかりません」
優斗はあまり勉強していなかったのが祟って、名前さえ書ければ受かるような高校しか合格していなかった。弥生はそんな彼を、内心軽蔑していた。それを表に出すことは決してなかったが、気づかれているだろうとは薄々思っている。
「お前、いつもそうやって壁作るよな。幼馴染のよしみだ、聞いてやる。話してみろ」
「わかりましたよ……」
弥生は自分の考えを話した。優斗は何を言う訳でもなく、ただ聞いていた。話が終わると、
「お前、相変わらず小難しいこと考えてんな」
とだけ溢した。弥生もこの反応は想定内で、やはり彼に話すのは間違いだったと後悔していた。
「貴方から見ればそうでしょうね」
「誰から見てもそうだろ、俺の弟でも理解できないと思うぜ。アイツが頭良い訳じゃないけど」
優斗は弟と不仲であった。それは弥生も知っている。十も歳が離れていれば自然なのかもしれないが、二人の仲の悪さは異常だった。兄が原因で家出少年になったなんて、綾瀬家も大変である。
「……そうですね」
適当な相槌を打つと、
「たまにはバカやってみるのも面白いんじゃねえの?
「あの人のテンション疲れるんですよ。いつもポジティブすぎて」
「だから良いんじゃねえの? 今のお前に必要だと思うけどな」
正のことは悪く思っていない。ただ、自分とはタイプが正反対なのだ。本も読まず、適当な高校を卒業した後は土方仕事に励んでいる。家が近いという理由だけで何となく友人関係でいるが、それもいつ消滅するかわからない。不安定な関係性だった。だが、たまにはこの面子で飲みに行くのも悪くないかもしれない。
「まあたまには、いいですよ」
渋々承諾した弥生。
「よし、じゃあ今から行くか! 正には連絡しといたし。上野の居酒屋で、焼き鳥が旨いんだこれが」
「今から⁉ 急すぎますよ、別に良いですけど……」
半ば強引に弥生は連行された。昼間から酒など飲まない弥生だが、優斗の強引さには勝てなかった。
電車で上野へと向かう途中、二人は無言だった。話すこともないし、本の一冊でも持ってくれば良かったと弥生は後悔した。そして後悔している間に、上野に到着した。
「正、あそこだな」
行儀悪く正を指さす優斗。そこには、はっぴ姿のいかにもお祭り男という風体の人物が立っていた。
「相変わらず、わかりやすい格好してますね」
「そうだな。おーい、正ぃ来たぞー」
改札を抜け、正に声をかける優斗。正も即座に
「昼から飲む酒はうまいぞ! 二人とも元気にしてたか?」
と返してきた。
「はぁ、まぁそれなりに……」
「俺は元気だけど、財布が元気じゃねぇ」
優斗は無職だ。弟にも軽蔑されている一番の理由はこれである。ハローワークなどにも行っておらず、本当に働く気が無い。
「お前さん、まだ働いてないのか。しょうがねぇから今日は奢ってやるよ」
「甘やかすのは良くないと思いますけどね……」
三人は居酒屋へと歩いていた。上野の街は雑多で、正直弥生は得意ではない。だが良い居酒屋があるのも事実なので、たまにはいいかと割り切る。道中では正の仕事の愚痴をたっぷり聞かされた。あの新人は使えない、上司がうるさい……土方稼業にも色々あるらしい。そう考えていると、
「ここだな」
居酒屋に着いていた。見た目は小汚い店だが、確かに焼き鳥の良い匂いが漂っている。正が入店すると、「いらっしゃい! おうあんちゃん、好きな席に座ってくれ!」と威勢のいい声が飛んできた。「こっちこっち!」と正が勝手に席に座り弥生たちを誘導する。仕方なく席に着くと、二人は早速焼き鳥を注文していた。自分だけ注文しないのも変なので、便乗してネギまを頼んだ。それと生ビールも。
「いやぁ、弥生が小難しいこと考えてるからたまには遠出して酒でもってな。正のスケジュールもちょうど空いてて良かった」
話は唐突に始まった。優斗から見た自分は思い詰めている様に見えているらしい。
「弥生は昔から変わんねぇなぁ! 人生、もっと適当に生きても良いと思うぜ」
正も優斗も、自分とは正反対の人物だ。だから、この考えや悩みを理解してくれることは一生無いと断言できる。だが、人生適当でも良いという考えには概ね賛同の意だった。自分は勉強や本にばかり縛られている、適当でいられない人間だ。だからこそ、少しは手抜きしても良いのかもしれない。それが上手く出来るかはわからないけれど。
「お待たせ、ネギま三本と生ビールだよ!」
弥生の思考を遮る大きな声。昼間からの酒は禁断感があって、ドキドキする。意を決して一口飲むと、ビールの苦味が舌の上を駆け巡った。
「うまいか?」
「美味しいですね」
ネギまも絶品だった。タレは秘伝の味の部類なのだろう、コクがあってそれでいてしつこくない。
「良かった。今日くらいは馬鹿に生きてみようぜ」
「……悪くないですね」
生ビールをもう一口飲み、答える。彼らには当たり前に出来て自分に出来ないのは、悔しい。今日一日は馬鹿になってやる__そう弥生は決意した。
飲み会もグダグダになってきた頃、弥生は今朝の思考などどうでもよくなっていた。酔いが回りきって、頭が働かない。これが馬鹿になるということなのかはわからないが、少なくとも普段の自分とは違う。
「……俺さぁ、弥生の話聞いて思ったことがあるんだけど」
顔が真っ赤な優斗が言う。
「別に、余白だらけの人生でも良いんじゃねえ? まだこれから思い出作れば、余白も埋まってくだろ。もっと楽しもうぜ」
少し支離滅裂な物言いだが、弥生には言いたいことが伝わった。
「そうですね、じゃあ今日は記念すべく余白を埋めた一日目ってとこですか」
「そうそう」
二人は笑いあった。弥生は心から笑ったのが久しぶりであることに気が付いたが、その気付きを無視した。
今は馬鹿でいい。明日から皆の思う湯島弥生に戻ればいいのだ。
一ページ 景文日向 @naru39398
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