一ページ

景文日向

結局、一冊の本にどれほど余白があるか。それが問題です。

 人生は、一冊の本の様だ。しかしそこには、少なからず余白が存在する。忘れてしまったこと、思い出したくないことがそうなってしまうのだ。

 僕の人生なんて余白だらけだろう____そう、湯島弥生ゆしまやよいは考える。勉強ばかりに打ち込み、読書に耽って。青春らしい思い出など残さぬまま二十七の冬を迎えていた。成績は確かに学年トップで、友人も居ない訳ではなかったが。それでも、とても大事なものを失っている気がした。東京大学法学部卒業と、箔だけはついた。なので人に経歴を言えば、尊敬されるか妬みを買うかのどちらかだ。現に出版社勤務の身で、それで辛い思いをしたこともある。そのようなことを考えながら、手に持っていたエッセイ本に目線を落とす。そこには特筆すべき内容は書かれていなかったが、弥生はじっくり読み込んでいった。彼は活字中毒である。部屋が本で覆いつくされ、寝床にも本が散乱していた。

 もしかして、活字中毒なのは僕の人生を埋めるためなのではないか。本を読んでいる間は無駄なことを考えなくて済むし、人生のページが補完されている様な気がする。他人によって補完されたそれを、人生と呼べるかはわからないけれど。エッセイ本を読み終わった後感慨に耽っていると、そのような思考が噴出してきた。頭をぶんぶん振って、思考を追い出す。

 気晴らしに別の本でも読もう、そう思い小説に手を伸ばす。何度も読み返して、状態はあまり良くない一冊。表紙を見ると、学生時代の記憶が蘇ってくる。あの時も学年トップだった、あの時は全国模試で一位をとった__思い返せるのは勉学のことばかりだ。

「つまんない人生だな」と、囁かれた気がした。当然それは幻聴なのだが、真理でもある。僕の人生はつまらない。少しの才能と多大な努力でここまで上り詰めても、その先がない。後は朽ちて死んでいくだけだ。弥生は持っていた本を横に置いた。たまには、書を捨て旅に出ることにした。行き場所は近所の公園と、随分短い旅。しかし、それで十分であった。職場と家の往復しかしていないのだから、公園でも何か発見があるかもしれない。靴を履き、玄関から外に出る。冷えた風が弥生の身体に吹きつける。

「さむっ」

 思わず口から発された言葉。そういえば今日は、寒気が上空を支配しているのだったか。近所の公園は歩いて三分ほどで着いた。流石にこの寒さでは、子どもたちも家にこもっているらしい。公園には見慣れた男が一人で、何をする訳でもなく佇んでいた。

「優斗さん、何してるんですか」

 大体この男は何も考えていないのがオチだ。声をかけても問題ないだろう。

「弥生。いや……ぼーっとしてただけだけど。それにしてもお前が外に出てるなんて珍しいな」

 予想は的中した。優斗は小学校からそういうところがあって、整った顔立ちが相まってミステリアスな人間として扱われていた。家が近所なので付き合いは長いが、未だにこの男のことはよくわからない。日本人離れした黄緑色の瞳で見つめられると、何もやましくはないのにどきりとしてしまう。

「そうでしょうか?」

 何も答えないのはおかしいので、ありきたりなことを言っておく。

「うん、何かあったのか?」

「……どうせ貴方にはわかりません」

 優斗はあまり勉強していなかったのが祟って、名前さえ書ければ受かるような高校しか合格していなかった。弥生はそんな彼を、内心軽蔑していた。それを表に出すことは決してなかったが、気づかれているだろうとは薄々思っている。

「お前、いつもそうやって壁作るよな。幼馴染のよしみだ、聞いてやる。話してみろ」

「わかりましたよ……」

 弥生は自分の考えを話した。優斗は何を言う訳でもなく、ただ聞いていた。話が終わると、

「お前、相変わらず小難しいこと考えてんな」

 とだけ溢した。弥生もこの反応は想定内で、やはり彼に話すのは間違いだったと後悔していた。

「貴方から見ればそうでしょうね」

「誰から見てもそうだろ、俺の弟でも理解できないと思うぜ。アイツが頭良い訳じゃないけど」

 優斗は弟と不仲であった。それは弥生も知っている。十も歳が離れていれば自然なのかもしれないが、二人の仲の悪さは異常だった。兄が原因で家出少年になったなんて、綾瀬家も大変である。

「……そうですね」

 適当な相槌を打つと、

「たまにはバカやってみるのも面白いんじゃねえの? ただしと三人で飲みに行くとかさ」

「あの人のテンション疲れるんですよ。いつもポジティブすぎて」

「だから良いんじゃねえの? 今のお前に必要だと思うけどな」

 正のことは悪く思っていない。ただ、自分とはタイプが正反対なのだ。本も読まず、適当な高校を卒業した後は土方仕事に励んでいる。家が近いという理由だけで何となく友人関係でいるが、それもいつ消滅するかわからない。不安定な関係性だった。だが、たまにはこの面子で飲みに行くのも悪くないかもしれない。

「まあたまには、いいですよ」

 渋々承諾した弥生。

「よし、じゃあ今から行くか! 正には連絡しといたし。上野の居酒屋で、焼き鳥が旨いんだこれが」

「今から⁉ 急すぎますよ、別に良いですけど……」

 半ば強引に弥生は連行された。昼間から酒など飲まない弥生だが、優斗の強引さには勝てなかった。

 電車で上野へと向かう途中、二人は無言だった。話すこともないし、本の一冊でも持ってくれば良かったと弥生は後悔した。そして後悔している間に、上野に到着した。

「正、あそこだな」

 行儀悪く正を指さす優斗。そこには、はっぴ姿のいかにもお祭り男という風体の人物が立っていた。

「相変わらず、わかりやすい格好してますね」

「そうだな。おーい、正ぃ来たぞー」

 改札を抜け、正に声をかける優斗。正も即座に

「昼から飲む酒はうまいぞ! 二人とも元気にしてたか?」

 と返してきた。

「はぁ、まぁそれなりに……」

「俺は元気だけど、財布が元気じゃねぇ」

 優斗は無職だ。弟にも軽蔑されている一番の理由はこれである。ハローワークなどにも行っておらず、本当に働く気が無い。

「お前さん、まだ働いてないのか。しょうがねぇから今日は奢ってやるよ」

「甘やかすのは良くないと思いますけどね……」

 三人は居酒屋へと歩いていた。上野の街は雑多で、正直弥生は得意ではない。だが良い居酒屋があるのも事実なので、たまにはいいかと割り切る。道中では正の仕事の愚痴をたっぷり聞かされた。あの新人は使えない、上司がうるさい……土方稼業にも色々あるらしい。そう考えていると、

「ここだな」

 居酒屋に着いていた。見た目は小汚い店だが、確かに焼き鳥の良い匂いが漂っている。正が入店すると、「いらっしゃい! おうあんちゃん、好きな席に座ってくれ!」と威勢のいい声が飛んできた。「こっちこっち!」と正が勝手に席に座り弥生たちを誘導する。仕方なく席に着くと、二人は早速焼き鳥を注文していた。自分だけ注文しないのも変なので、便乗してネギまを頼んだ。それと生ビールも。

「いやぁ、弥生が小難しいこと考えてるからたまには遠出して酒でもってな。正のスケジュールもちょうど空いてて良かった」

 話は唐突に始まった。優斗から見た自分は思い詰めている様に見えているらしい。

「弥生は昔から変わんねぇなぁ! 人生、もっと適当に生きても良いと思うぜ」

 正も優斗も、自分とは正反対の人物だ。だから、この考えや悩みを理解してくれることは一生無いと断言できる。だが、人生適当でも良いという考えには概ね賛同の意だった。自分は勉強や本にばかり縛られている、適当でいられない人間だ。だからこそ、少しは手抜きしても良いのかもしれない。それが上手く出来るかはわからないけれど。

「お待たせ、ネギま三本と生ビールだよ!」

 弥生の思考を遮る大きな声。昼間からの酒は禁断感があって、ドキドキする。意を決して一口飲むと、ビールの苦味が舌の上を駆け巡った。

「うまいか?」

「美味しいですね」

 ネギまも絶品だった。タレは秘伝の味の部類なのだろう、コクがあってそれでいてしつこくない。

「良かった。今日くらいは馬鹿に生きてみようぜ」

「……悪くないですね」

 生ビールをもう一口飲み、答える。彼らには当たり前に出来て自分に出来ないのは、悔しい。今日一日は馬鹿になってやる__そう弥生は決意した。


 飲み会もグダグダになってきた頃、弥生は今朝の思考などどうでもよくなっていた。酔いが回りきって、頭が働かない。これが馬鹿になるということなのかはわからないが、少なくとも普段の自分とは違う。

「……俺さぁ、弥生の話聞いて思ったことがあるんだけど」

 顔が真っ赤な優斗が言う。

「別に、余白だらけの人生でも良いんじゃねえ? まだこれから思い出作れば、余白も埋まってくだろ。もっと楽しもうぜ」

 少し支離滅裂な物言いだが、弥生には言いたいことが伝わった。

「そうですね、じゃあ今日は記念すべく余白を埋めた一日目ってとこですか」

「そうそう」

 二人は笑いあった。弥生は心から笑ったのが久しぶりであることに気が付いたが、その気付きを無視した。


 今は馬鹿でいい。明日から皆の思う湯島弥生に戻ればいいのだ。

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