8話「覚醒者」


 幼いころから、私の世界はこうだった。


 目に見える物みんなの重さや硬さ、味や色なんかがデータとして、情報としてわかるの。

 昔のことだからあんまり覚えていないけれど、小学3年生の頃にはもう、目が醒めていた。だからきっかけっていうのもよくわからなくて、それでも、今思えば目が醒めた理由もなんとくわかる気がするの。


「39度……」


 頭の上から温かいお湯が降っている。西鶴さいかくと遊んだ後、いつものところに戻って、みんなでお昼ご飯を食べることになった。

 いっぱい動いて汗かいちゃったから、私は先にシャワーを浴びたかった。ダイニングに向かうみんなと別れる時に、香織かおりも誘ったけど、「私は特に何もしてないから」って断られちゃった。


 今思えば着替えも持ってきてないよね。

 私はお家がいやってわけじゃないけど、ここの居心地がとってもいいから、休みの日はずっとここで過ごすの。それで服なんかも持ってきてる。


「……」


 ずっと引っかかっている。前と違って、今回は色々準備してから挑んだのに、結局はだめだった。やっぱり西鶴さいかくの言う通り、二人に任せておいた方がいいのかな。


「……いそがないと」


 みんなきっと、私が戻るのを待ってるはずだからあんまりゆっくりはしていられない。


 両手で器を作って、その中に少しお湯をためる。お湯を書き変えてシャンプーにするの。よくやるから時間はかからない。

 普段使ってるいい匂いがするものを作ろうとすると、やっぱり少し時間がかかるから、今日は体の汚れを落とすだけにしよう。

 白い光が溢れてきて、浴室をいっぱいにする。今は泡が立つだけでいいから、粘性も匂いも温度もお湯のまま。ただ、泡立つようにお湯の表面張力を弱くする。ついでに親油性親水性も高めておけば、もう立派なシャンプー。

 泡立てて洗った髪を、心に残ったままのもやもやと一緒に洗い流した。


 髪と体を洗い終わって新しい服に着替えたら、ドライヤーで髪を乾かす。まだ乾ききっていなかったけれど、お腹もすいてきたので、早々に切り上げてダイニングに向かった。


「さっばり……」

胡桃くるみ、待っていたわ。ちょうどいいところよ」


 ダイニングには三人いた。詩葉うたは香織かおり西鶴さいかく

 詩葉うたははピザの入った箱を開きながら、「ちょうど今届いたところよ」っと笑顔だった。


「照り焼きチキンとマルゲリータ、あと胡桃くるみちゃんが好きな明太チーズ、飲み物はコチャコーラでいい?」

「ん……ありがと」


 西鶴さいかくが、ガラスのコップに黒いシュワシュワを注いでくれた。

 5人掛けのテーブルとキッチン、冷蔵庫でダイニングはいっぱい。まだ兼継かねつぐけいは来てないみたいだから、使うのは4席。

 隣に香織かおり、向かいに詩葉うたはが座った。


 3種類のピザを1枚ずつ。それでお腹いっぱい。

 みんな話しながら食べてたのに、食べ終わるのは、私が一番最後だった。


「それでなんだけどさ、西鶴さいかく、世界について聞いていい?」


 食べ終わってお皿も洗い終わったら、香織かおりが言った。

 そういえばさっきもそんな話をしてた。ちょっとだけ気になる。


「もちろん、リビングで話そうか」

「それ、私も聞いていいかしら?」

「……私も」

「そんな大層な話じゃないんだけど、それでよければ」


 そういうことで、4人揃ってリビングに移った。詩葉うたはが紅茶と切り分けたリンゴを用意してくれた。

 涼しい風が入ってくる。外は朝とおんなじで、雲がちょこちょこっとあって、隙間に青色が見える。

 天気予報だと雲の割合が、9割未満だと晴れっていうから、今の天気もきっと晴れだ。


「それで香織かおりちゃん。世界について聞きたいことってあるかい?」

「聞きたいことかー、じゃあ、そもそもなんだけどさ、世界ってなんなの?」


 香織かおりっていっつも難しいことばかり言ってる。世界は世界なのに。


「それには色んな答えがあるんだよ。その答えを言うに差し当たって、まず基本的なことなんだけど、覚醒者ってわかるかい?」

「なんとなくだけど、不思議な力を持っている人のこと? アニメとか漫画でよくあるよね、今で言えば世界っていうのがそれに当てはまると思う」

「意味としては間違ってないよ。でもニュアンスに若干の違いがあると僕は思ってる」


 香織かおりが珍しくわからなそうな顔をしてる。


「覚醒っていうのは、言葉通り目が醒めること。僕達覚醒者はある日突然、目が醒めたみたいに気がつくんだよ、『この世界はこうだ』ってね。僕で言えば、それが欺瞞さ」


 すごい、なんとなくわかる気がする。


「それって、詩葉うたはとか胡桃くるみも?」

「ええ、世界は言葉。私にとってはね」


 私も頷いて答えた。

 そうなの。私にとって、世界とはデータ。

 この世界はいろんなデータで成り立っている。

 重さ、長さ、高さ、幅から、色、音、匂い、味そして温度。細かいところまでみんな挙げ始めるときりがないくらい、いっぱいのデータで溢れている。

 それがみんな、目に見えるの。


「それで言えば世界とは、その人個人がこの世界をどう捉えているのか、その答えそのものともいえる。偏見とか、バイアス。良く言い変えるならアイデンティティともいえるかもしれないね」

「ちょっと待って、それなら個人の偏見で世界を書き変えてるっていうの?」

「そうなるね、そしてどんな人であれ多少なりとも自分だけの世界を持っている。問題はそれに気がつけているかどうか。僕の調べでは、覚醒には明確なきっかけがあることまではわかってる」


 気のせいかな、そう言った西鶴さいかくの表情が少しだけ苦しそうに見えたのは。


「明確なきっかけって、わかるの? いつから、どうして世界が使えるのか」

「少なくとも、僕と兼継かねつぐけいちゃんは覚えているよ、しっかりとね」


 前に西鶴さいかくから、覚醒した時のことを聞かれたことがあった。私はずっと前からそうだったから、いつから世界に目醒めたのか、はっきりと覚えていない。それでもどうしてこの世界が私にあるのか、なんとなくわかる。きっと、そういうことだと思う。


胡桃くるみは、覚えてないの?」

「……なんとなく、しか」


 私はあんまり覚えていない、昔のことをみんなに話した。




 世界をそう見るようになったきっかけはよく覚えていないけれど、たぶんパソコンばかりやっていたからかと思う。

 なんで興味を持ったのかとか、誰から教えてもらったのかとか、よく覚えていないけれど、小学生の時にはもうプログラミングを始めていた。


 すごいの、プログラミングの中ではなんでもできる。

 色やサイズを変えたり、位置座標を割り出したり、ゲームなんかだと空も飛べる。張り付けたラベルとぜんぜん違う内容の処理を実行させて遊んだりしてた。

 お家の中にあるものを3Dモデル化したり、味をデータ化したり、知れば知るほど広がるパソコンの世界に、データの世界に深く深くのめり込んでいたの。


 ある日、本当にいつもと何も変わらない日だった。きっかけも些細なことで、使い古した鉛筆が短くて持ちにくかったから。あともう2センチ。パソコンなら数値を入力するだけで長さを変えられたのに、そんな風に思ってた。


 ぱちっと1回瞬きをして、気がついた。勝手に鉛筆が伸びたの。

 後になって、本当はもっと前から世界に干渉できた気がしたけど、気が付いたのはその日が最初だった。

 だからいつから世界がそう見えたのか、干渉できたのはいつからなのか、その辺りのこと、私は詳しく覚えていないの。




胡桃くるみは物心ついた時にはもうだったんだ。詩葉うたはは?」

「きっかけ。なのかしらね? 私の場合、どうして世界をそう捉えるようになったのか。そう言った方が近いわね」

「……どうして?」

「歌が好きだったの。音楽だけじゃなくて、詩とか俳句なんかも。それとよく辞書を読むために開いていたわ」

「辞書を読むの?」

「ええ。何かを調べるわけじゃなくって、あ行から全部読むの。思いのほか面白いのよ? 今はまだこの世にない言葉だって、いつかは辞書に書き足される。定期的に更新されて、この世界にあるすべては、やがて言葉で表すことができるようになる。それを知ってからね。私の世界が言葉になったのは」

「……そうなんだ」


 香織かおりのそれは、納得しているっていうより驚いているって言った方が正しそう。


「僕が思うに、世界は偏見やバイアスのようなもの。それを少し掘り下げてみようか」


 私は食後の紅茶に口を付けた。外から優しい風が入ってくる。風速2メートルくらい。ちょっと眠たくなってきた。


「まず、僕たちがいるこの世界、僕はここを『共有世界』と呼んでいる。多少価値観とかに個人差はあれど、皆が存在を共有できる世界だから。だけど僕たち覚醒者はそこが少し異なるんだ」

「どういうこと?」

「大前提だけど僕たちは皆、共有世界上で生きている。だから同じ物を認識し、同じ時間を共有して生活できているんだ。それが覚醒者場合、一人一人が独立した世界を持っていて、それ越しに共有世界を見ている状態にあるんだ」

「それって、もしかしてみんな、データとか言葉を見たくなくても見えるってこと?」

「そう。僕たちはもう、僕たちの意識に関わらず世界をそう捉えてしまう。見えないものまで見える代わりに、本来見ていたものが見えなくなっているんだ」


 私は普通の世界が見えなくて困ったことはないけれど、西鶴さいかくはきっと違う。

 気を遣った言葉も見方を変えれば嘘になる。嘘が、欺瞞が見える西鶴さいかくには、世界が少し、息苦しく見えてしまうのかもしれない。


「そして、その偏見という名の独立した世界は、共有世界に属する存在さえも書き変えてしまうほどに強力なものなんだ」

「なんでも書き変えられるの?」

「おそらくはね。ただ、共有世界に与える影響が大きいものや本質の強度が高い物、例えば生き物なんかへの干渉は、書き変えにかかる時間も長くなる。特にけいちゃんや然立姉妹みたいな世界は、書き変えることで過去にも影響が及ぶから、一日以上かかったりすることもあるよ」

「だから西鶴さいかくの干渉はあんなに早かったんだ。けいが所有権を変えた時は30分くらいかかってた」

「そうだね。特に書き変えは、世界によって特徴が異なるんだ。少し具体的な話をしようか」


 テーブルに並べられたりんごの切れ端を一つ手に取った。


「例えばこのりんごに干渉する時の話をしよう。まず僕の世界で干渉する場合、干渉する対象の外見、見え方って言ったらいいかな。それが変わることはないんだ。そして対象の形やイメージから著しく逸脱するものへの書き変えはけいちゃん以上に時間がかかる。この切れ端で箒のように飛んだりするのは無理だと思ってくれていいよ。できるとして、せいぜい金属や別の食べ物に変えるくらいかな」


 西鶴さいかくはりんごに噛み付いた。それなのに、シャキシャキっていうよりパキッと音がして、綺麗に割れた。チョコレートを折ったみたいに。


「次に胡桃くるみちゃんの世界で干渉するとしよう。さっき僕はりんごをチョコレートに変えたんだけど、それを胡桃くるみちゃんの世界でしようとすると、おそらく何度か世界を書き変える必要が出てくる」


 うん。見た目を変えなくていいとしても、チョコレートの味にするために甘味や塩気とかを整えないといけない。西鶴さいかくみたいに、パキッとなるくらいまでチョコレートに近づけるなら、固さだったり香りも整えないといけない。10工程くらいにはなりそう。


「もちろん程度にもよるけれど、ちゃんとしたチョコレートにしてもらうなら、形や大きさも変わってくるだろうね。でも何より胡桃くるみちゃんの世界の場合、やろうと思えばジェット機にさえ書き変えられる。負担は多い分可変性が大きい世界だね」


 えっへん。


「面白いね。西鶴さいかくは条件が整えば、短い木の枝一本で空が飛べるかもしれないけれど、胡桃くるみは木の枝を人が乗れるサイズの乗り物に変えて初めて空が飛べるようになる。同じ結果を得るのに、アプローチが全然違ってる」

「そうだね。どんな世界も万物が対象であるところは変わらないけれど、得意な部分や苦手な部分がある。それで言ったら、詩葉うたはちゃんの世界は僕らではできないことができるしね」

「そうは言うけれど、りんごを書き変えるのは大変ね。私の場合、干渉する対象から微妙に違ってくるわ」


 りんごにかんしょうするのに、りんごじゃないの?

 私は詩葉うたはの言っていることがよくわからなかったけれど、香織かおりはやっぱりわかるみたい。


「あ、そっか。詩葉うたはが干渉するとなると、対象は特定のりんごじゃなくて、りんごって言う概念全体になっちゃうんだ」

「そういうこと。りんごにチョコレートっていう付箋を貼り付けるってことは、全部のりんごがチョコレートになってしまうってこと。もう少し言えば、りんごを書き変えるより、アップルを書き変える方が厳しいわ」

「りんごをりんごと呼ぶのは日本人だけだけど、アップルになれば世界共通語。その言語を扱っている人全員に影響が及ぶから、ということかい?」


 西鶴さいかくもすごい。


「ええ。あとは印刷された文字を書き変えたり、誰かの発言そのものも書き変えられるけれど、あまり使わないわね」

「へぇ。すごく便利そう」

「無限に使えるわけじゃないけど、便利なのは間違いないね。使えば使うほど慣れてきて使える回数も早さも変わってくるし」


 だめだ、もう限界。


「8億円貯めた時なんかは大変だったよ。僕と胡桃くるみちゃんは一日中———」


 それからしばらく話していたみたいだけど、私の記憶はここまで。

 いつの間にか寝ちゃったみたいで、気がつく頃には毛布をかぶってソファーを独り占めして眠ってた。

 外にはお月様が出て、リビングには誰もいない。


 黒板のマグネットから、西鶴さいかく香織かおりは帰ったことがわかった。詩葉うたはは地下でギターと遊んでるのかな。

 変な時間に寝ちゃったから全然眠気がこなくって、それからその日は、ずっとアジト自室のパソコンと睨めっこしてた。


 眠気もデータにならないかな。なんて思った。

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