感謝虫

浜辺士郎

感謝虫

しばしば、駅のホームでは人間がアリに見える。真黒のスーツを着て、ぞろぞろと歩き回り、電車が来れば一目散に駆け寄っていく。まるで何かに操られているかの様に皆一様に動き回っている。しかしそんな人々の流れに逆らう人物があった。その人物はまぶかに帽子をかぶり、人々を啓蒙するかの様に、嘲笑うかの様に、飄々とした雰囲気を醸していた。その時、その人物の目線の先には一本の電車が近づいて来ていた。ベンチに腰掛けているサラリーマンも立ち上がり、列を成す。その人物もスタスタと線路側へ歩いて行き、まさに電車が流麗にやってこようとする間際、行き良いよくジャンプした。そう、電車に飛び込んだのだ。けたたましい金属音が全体にこだまし、次に悲鳴や絶叫が広がった。アリのような群れは、ちりじりと無秩序になっていく。場は係員により、迅速に整頓されていき、個々の活動をゆるやかに再開していった。

 モダンなインテリアに囲まれた空間で、うた子は夫と共に食後の紅茶を楽しんでいた。イタリア製の照明に照らされたイギリス製のユーカリ色のティーカップにはインド産の茶葉の茶色の水色が抽出されていた。うた子の夫は紅茶を吸い切ると、コツンとティーカップをおき、内ポケットにあった葉巻を燻らせはじめた。

「今日帰りの電車を待っている時にね、自殺現場に遭遇したわ」

「そういえば社内でも問題になっていたよ。若い青年だったらしいね」

「若いかどうかはわからなかったけど気持ちのいいものではなかったわ」

「ああ、見る方も片付ける方もいいものではないな。羨ましいのは簡単に死ねた本人だけだ。もっとも本当に楽に死ねるかどうか判ったものではないがね」

そう言った夫を軽蔑するような表情を浮かべたうた子の方も、紅茶を飲み終えた。

「ちょうど会社の人間もいて、その人、女の人なんだけど、その人に雨の様に血が降ったのよ。私ゾッとしちゃった。だけどハンカチで拭ってあげたわ。」

「それは珍しいね。でも気をつけたほうがいい。会社で注意喚起されているんだが、感謝虫と呼ばれる虫がいてね」

うた子はその感謝虫というネーミングに瞳孔を丸くした。

「何なの感謝虫って?」

「寄生虫の一種さ。最近その生態が明らかになってきたんだ。その虫に寄生されると周りの人間を意のままに操ってしまうんだ。なに超能力の類じゃない。そして自分の都合の良い環境を手に入れるわけだ。その環境は虫にとって居心地がいいようになっていて、宿主の脳細胞を食べながら大きくなるらしい。そしてオスとメスで交尾をして卵を身篭ると、宿虫を自殺に導く。その自殺は四方に血が飛び散る方法をとるらしい。その血に卵が含まれていてその血にからまた寄生が始まるんだ」

うた子は、あの女の人が、もし感染していたらと思うと少しおそろしくなってしまった。

次の日うた子は会社に出社した。昨日血を浴びた女性も普通に出社していたらしく、うた子に礼を言いにきた。その女性は40代半ば、うた子より一回り年をとっているおばさんだ。そのおばさんとうた子は部署が違う。そのおばさんの部署にはうた子の親友がおり、時々その女性の話を聞いていた。親友曰く、根暗でボサッとしていて、なにを考えているかさっぱりわからない。身嗜みも疎かで、いつも眉毛はぼさぼさ、左右は繋がってて、喋りかけると、ボソッとモヤのような返事がくる。うた子その話を聞かされると、おばさんの社会ヒエラルキーが、一番下の人間のようにさえ思えてくる。

しかし今目の前にいるおばさんは明らかに話とは違った。きっちりとメイクもして、太ってはいるが洗練された身なりをし、今にも馥郁とした香りが立ち上って来そうな雰囲気だった。そこでうた子はランチの時間に親友におばさんについて聞いてみることにした。

「あの人、今日話してみたんだけどとてもいい人そうだったわよ」

「そうなの。私びっくりしちゃった。昨日と今日で全く雰囲気が違うんだもの。違う人になっちゃったみたい」

うた子はそんなことがあるんだと感心したが、昨日の夫の話を思い出した。

「他に何か変わったことはあった?」

「そうね。確かにあったわ。部署のみんなは彼女に優しくなったわね。そして彼女がとても感謝してくれるのよ。それが大いに気持ちがいいの。あの人に感謝されたら何でもやってあげたくなるわ」

うた子はどきりとした。夫の話では自殺者の血を浴びると感謝虫に寄生される。そして、周りを操るらしいのだ。ネーミング的に、感謝して人を操るのだろうというのは想像がつく。そんな巧妙な虫がいることが信じられなかったが、親友を危ない目には合わせられない。

「あの人に近づかないほうがいいわ。それは悪いことが起こるわよ」

親友は怪訝な表情を浮かべた。

「なぜそんなことを言うのかしら。私はあの人が変わってくれて嬉しいわ。私もういくわね。そろそろ時間だし」

うた子の憂いは親友には届かなかったらしい。それもそうだ、感謝する人間なんていくらでもいる。それに感謝虫の話を知らない親友にとってはなおさら普通のことなのだろう。しかし、うた子は気になって仕方がなかった。親友の部署ばかりを覗いては変なことが起きやしないかとそわそわしていた。親友はあの女性と親しく話している。そしてその部署全員を交えてランチへと向かっていく。そんな毎日が続く。

一週間後、様々な変化が目に見えて現れるようになった。一つはおばさんの体型だった。ふくよかだった体型が今では鎖骨が浮き出しているのが見える。肌もハリがなくなり、殴り書きしたようなメイクは若干の恐怖さえ感じた。親友を含めた周りの人間たちは微笑を浮かべたままおばさんにお菓子などを次々と持ってきていた。その姿は女王アリへ餌を運ぶ働きアリを連想させた。うた子はその日のランチに親友を呼び出した。

「あなたたちの部署の人間はどうしちゃったの?気味が悪いわよ。絶対にあのおばさんのせいよ。部署を移動したほうがいいわ。私が人事部に掛け合ってみるから」

「余計なことしないでもらえる?私はこれで幸せなの。実は今日からあのおばさんの家にみんなで住むつもりなのよ」

うた子はそれを聞いて体中から汗が吹き出した。これは普通ではないと感じたうた子は夫に相談した。

「それは感謝虫の可能性が高い。今は軍が対応してしているんだ。民間の会社や警察ではもはや手に負えなくなっていてね。早いところ軍に掛け合ってみるよ」

うた子は少しほっとして、手元にあるレモンティーをすすった。夫も同じようにティーをすすり、少し考えてからまた語り出した。

「おそらく、そのおばさんに寄生しているのはメスだ。周りを操り自ら子育てに好ましい環境を作り上げる。不幸中の幸いはまだオスとメスで交尾をしていないことだな」

「交尾すると何か問題があるの?」

「一つは卵を持ってしまい繁殖してしまうことだ。その時はおばさんは死んでしまっていただろう。もう一つは交尾の仕方に問題があるのだ。実はオスがメスのいる宿主の体内に入るために、オス自らが寄生している人間を、メスが寄生している人間に食べさせるのだ。ああ、おそろしい」

それを聞いたうた子は親友の今日の話をおもいだ足一刻の言うよもないことを悟った。おそらくあの部署の誰かにオスが寄生していて、自らを食べさせようと言うんじゃないかと考えたのだ。うた子はすぐに夫に軍へと通報するように懇願した。夫はもう遅いからと躊躇してしていたがうた子の鬼気迫る様子に触発され、ようやく重い腰を上げた。

これで寄生されていなかったら一生涯の恥になるな、と夫は憂いたが、その後の軍からの報告によるとおばさんは感謝虫に寄生されていたらしい。夫は軍から勲章を授与され、鼻が高くなった。うた子も親友たちが洗脳から解き放たれ自由になったことを喜んだのだった。

「いやはや、人を救うと言うのは心が洗われるようだな」

ゆったりとしたクラシックをかけた部屋で夫がそういった。うた子はよく言うもんだと思ったが、その皮肉も親友が無事だった安堵感から表にだすことはなかった。

「そういえば、あのおばさんの周りの人達みんなオスには寄生されてなかったらしいわよ。一体オスはどこにいるんでしょうね」

「さあね、あの電車事故の時一緒にいた誰かだと思うよ。それかまた別の事故現場に居合わせた人だろうね」

何か、簡単に寄生されているかどうかわかる方法があればいいのにね、と言ううた子。

「簡単にわかる方法はあるにはあるよ。実はオスに寄生された人間の意識はね、無意識にメスが寄生した人の方へ向かうんだ。そしてメスがなにをしているか観察して時が熟したときに、自らを食べさせに出向くらしい。まあ、もう済んだことじゃないか」

夫はそう言って笑うとテレビのスイッチをつけた。時計は21時ごろを指しており、ニュース番組の始まるBGMが流れ始める。そして女性キャスターが本日に起こった出来事を流麗に流し読んでいく。その淡白かつ淀みのない声で眠気を誘われたうた子は寝室へと向かうことにした。

「なんだかねむくなっちゃった。少し早いけどもう寝るわね。おやすみなさい」

「ああ、最近は気を張ってたようだからね。安心して気が抜けたんだよ。ゆっくりお休み」

夫は穏やかで何気ない会話をかわし、陶然と頰と頰を重ね合わせ,妻を見送った。テレビのニュースキャスターが、ある女が軍から脱走したと言う台本ををささやかに読み上げている事を知らずに。

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感謝虫 浜辺士郎 @jaapj

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