第78話 決着
工房での作業がひと段落ついて時計を確認した時、俺はギョッとした。昼飯の時間はとっくに過ぎている。ホナミには昼に戻ると伝えたのに。俺は急いで帰り支度をして、師匠達に挨拶をして帰路に着いた。
家に帰る道すがら、ホナミとローザの声が聞こえた気がして、声のした方へ駆け寄る。どうやら俺の気のせいではなかったらしく、ホナミとローザがベンチに座って何か話をしているようだった。何の話をしているのか疑問だったが、ホナミが愛想笑いのような表情を浮かべているのに対し、ローザが不機嫌そうな顔をしていることに、どことなく嫌な予感を覚えたため、俺は二人に話しかけようとベンチに近付いていった。
そしてその嫌な予感は、見事的中することとなる。ローザはホナミに対して腕を振り上げて、どうやら頬を打とうとしたようだ。
すんでの所で、ローザの腕を掴んで阻止することは出来た。驚くホナミとローザに一斉に見られながら、今までなあなあにしていたローザとの関係を、はっきりさせるべき時が来たのだということを痛感した。
「すまんホナミ、ローザと二人で話をさせてくれないか」
ホナミに言うのは心苦しかった。了解して去っていくホナミの、一瞬見えた表情が、どことなく寂しげだった気がして、自分に都合の良い幻でも見たのかという思いと、俺はホナミにだけは誤解をされたくないのだという思いが過ぎる。それが、今の俺の嘘偽りない本心なのだろう。
ホナミの背中が十分に小さくなったのを見届けてから、ローザに向き直る。ローザはバツの悪そうな顔をして俯いていた。
「さっきのは何だ」
「……ガルもお兄ちゃんも、どうしてそんなにニンゲンに関わろうとするの?」
答えになっていない返答に面食らう。ローザは顔を上げ、こちらを見た。意志の強い瞳には、薄っすらと涙の膜が張っている。
「私達獣人がどんな目に遭ったか忘れた?」
「忘れた訳じゃない。けど、ホナミ個人とは関係ない」
「関係ないなんてことない! ニンゲンなんて……っ」
「ローザ。お前がホナミを好かないのは分かったが、それは人間だからという理由か?」
言うと、ローザは黙り込んでしまった。唇が何か言葉を紡ごうとしては震え、閉じるを繰り返している。頭に血が上っているのは、側から見ても明らかだ。とりあえず、落ち着かせなくては。
「……少し長くなりそうだな。座ろう」
黙り込むローザの肩に手をやり、ベンチへと誘導する。ローザを座らせて、俺はその横に腰掛けた。
ローザとまたこうして話す機会が訪れるとは、正直思ってもいなかった。それもそうだ、ホナミに出会う前までは、少なくとも魔女フランセスカが死ぬまでは、もう故郷に帰ってくることなど無いだろうと思っていたのだから。
「…………分かっているくせに、私の口から言わせたいのね」
ローザが呟く。何と答えたものか考えるが、この場は妙な装飾をせずに、思ったことを言葉にするべきだろう。
「言われなければ、答えられもしないだろ」
「酷いね」
ローザは、笑っていた。無理に作ったような痛々しい笑顔が、胸に刺さる。
ローザの表情を見て、バッツさんに言われたことを思い出した。「お前はもう、あいつの気持ちも分かるだろ」と。今の俺には、ローザがどんな思いで笑顔を作ったのか、酷いと言ったのか、想像することが出来た。それだけに、胸の痛みは増していくばかりだ。
ローザのことは、妹のように思っている。幼少期の俺は、ローザが俺にやたらと関わってくるのは、俺を兄と同じように思っているからだと考えていた。しかし、思春期の頃合い、ローザのあからさまな態度によって、ローザが俺を兄と慕っている訳ではないことに気が付いた。
しかし、ローザは俺にとっても兄のように慕っているバッツさんの妹だ。その上幼い頃からの付き合いの女の子を、無下に扱う気にはならなかった。かと言って、気持ちに応えられる訳でもない。気付いていないかのように躱し、自分達の関係を何処にも着地させないことが、その時の俺に出来る精一杯だったように思う。
しかし……ホナミを想う今、その幸福も残酷さも、少しは分かるつもりだ。そして今からやろうとしていることが、ローザを傷付けるだろうということも。思えばもっと早く、決着をつけるべきだったのだ。本当に、ローザのことを思うのであれば。
「ガル。ガルが好き。ずっと好きだった、小さい頃からずっと……。ずっと、待ってた。会いたかった……」
想いの丈を吐露したローザは、ついに堪え切れずに涙を流した。はらはらと流れていくそれを、ローザは手で拭う。手を伸ばしそうになった親切心を、はっとして捨て去った。
「だからね、だから、あの子が憎いの、ガルに想われているあの子が」
「うん」
「ニンゲンは嫌い。私からお兄ちゃんを奪っていったのに、ガルまで」
「……なぁ、ローザ」
ローザが涙を拭いながら、こちらを見る。俺も、真っ直ぐにローザを見つめた。
「お前が人間を嫌う気持ちは理解できる。バッツさんは獣人狩りに遭っていなくなったし、俺だって似たようなモンだ。お前は身近な人を二回も失って、辛かっただろう」
ローザが頷く。涙は一時的に止まったらしく、目元は微かに赤いが、もう涙が零れてはいなかった。
「その憎しみを失くせだなんて言うつもりは無い。でも今は、俺とお前の話をしよう」
そう言うと、ローザは目を見開いた。彼女が混乱の最中にいることは、想像に難くない。兄がいなくなり、幼馴染がいなくなり、そして戻ってきた。兄の無事は聞いたが、彼は自分の元へは帰ってこないという。その上幼馴染は、彼らを連れ去った「ニンゲン」を連れてきて、あまつさえその人間のことが大事だと言うのだ。何の冗談かと思っても仕方がないし、ホナミに敵意が向く気持ちも理解出来ない訳ではない。
しかし、今決着を付けるべきなのは俺とローザの関係であって、他の要素を混同させては話がややこしくなるだけなのだ。
「ガルと、私の……」
「あぁ。勘付いているだろうが、俺は、お前の気持ちに応えることは出来ない。ホナミの存在があろうが、無かろうが、それは変わらない」
決して、ホナミがいるからローザの気持ちに応えられない訳ではない。そこも、伝えておくべきだと思ったことだった。ホナミのことだって、こちらが一方的に好いているだけなのに、俺のことで絡まれるのもホナミには良い迷惑だろう。
「そう……ね。ガルが私のこと、好きじゃないのは分かってた」
ローザが言う。俯いているから、表情は分からない。
「でも、いつか、もしかしたらって、期待してた。ガルがそんな人じゃないことは、分かっていたのに」
希望が捨てられない気持ちも、都合良く考えたくなる気持ちも、今なら分かる。それは以前の、村に居た頃の俺では分からなかった気持ちだ。
「俺達の話をしようとは言ったが……ホナミのお陰で、俺はお前と向き合おうと思ったんだ、ローザ。それだけは、お前に伝えておきたい」
ローザが握り締めた拳に、ぽつりと、雫が落ちた。願わくば、ローザのホナミに対する悪感情を可能な限り取り除いてやりたかった。そうして個人としてホナミを見れば、ローザもいくらか、気が楽になる可能性もあると思ったからだった。何かを憎み続けることも、辛いものだ。
「今更、ローザが俺を大切に思ってくれていたことに気が付けた。今までずっと、曖昧な態度を取って悪かった」
ローザが首を振る。再び涙を拭いながら、ローザが嗚咽混じりの声で言った。
「そんなことない、ガルはずっと、私のこと妹みたいにしか見てなかったの分かってた。私が勝手に希望を持ってただけなの」
「ローザ……」
「なあなあで誰かを好きになるような人じゃないって分かってた、でも、何でも良いから、私を見て欲しかった」
今のローザは、まるで俺の写し鏡のようだ。俺はここまで感情を露わにすることは無いが、今までうわべをなぞるようにしか理解出来なかった言葉が、硝子の破片のように深々と心臓に突き刺さってくる。
「言わせて悪い。俺にとって、お前は大切な幼馴染なのは変わらない。伝えてくれて、ありがとう」
ローザが声を上げて泣く。子供のように、感情の発露を抑えずに泣いている様を見て、今までローザが堪えていたものの大きさを知った。
泣き続けるローザを見ていると、視界の端にブランが映った。ぎょっとしてこちらを見ているブランに、家に帰るようアイコンタクトをとる。ブランがジェスチャーで家の方向を指してきたので、俺は頷いた。伝わったか。
暫く泣いたローザは、いつの間にか泣き止むと、いくらかスッキリした顔で俺を見上げた。
「は〜……なんか、すっきりしたかも。ありがとう、ガル」
あーあ、失恋しちゃった、と言って立ち上がったローザは、うんと伸びをする。俺も立ち上がって、とっぷりと暮れた空を見上げた。長年の肩の荷が下りたような気持ちだった。
ローザが振り返り、こちらに微笑みかける。
「あの子のこと、好きなんだね」
「……あぁ」
「妬けちゃうな。でも、お幸せに」
そう言って去っていったローザの背中が、小さくなっていく。その背中が見えなくなるまで、俺はその場を動けなかった。
好意を伝えるのは、相当な勇気が要ったことだろう。泣いて泣いて、それでも最後は前を向いたローザに、尊敬の念を抱いた。
俺は、あんな風に前を向けるだろうか。ホナミに想いの丈を伝えて、応えることが出来ないと言われても、手放すことが出来るだろうか。従属契約で結ばれていることを内心喜んでしまうような仄暗い執着心を、自らの手で殺すことが出来るのだろうか。
「……帰るか」
とりあえず今は、家に帰ってホナミと話をすることが先決だ。ホナミの去り際の表情を思い出す。一瞬だけ見せてすぐに引っ込めた、不安そうな、寂しそうな表情だ。ホナミにローザとの仲を誤解されることは避けたい。
なんだか無性にホナミに会いたいような、会いたくないような、複雑な気持ちだった。
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