第70話 この世界の「私」
アルさんの事件から二日ほどが経ち、船は今日、ジュードレアに到着する。私達の長かったような短かったような船旅も、終わりを迎えるという訳だ。私はいつもより味わって朝食を食べ、船との別れの余韻に浸っていた。昨日の疲れと旅路の終わりの感傷からか、いつもよりも口数の少ない食卓だった。
「到着は夕方だな。今日はジュードレアに宿を取って、村には明日向かおう」
ガルさんが言う。私は頷くが、ガルさんは一刻も早く故郷に帰りたいのではないかと思い、「いいんですか?」と尋ねた。
「故郷へは森を通っていかないとならないから、慣れていても安全ではない。それに随分帰っていないから、様変わりしている可能性もあるしな」
ガルさんはフランセスカさんと契約を交わしてからというもの、故郷に帰れていないのだから、随分と久しぶりの帰郷ということになる。私は元の世界では生まれ育った場所も就職先も首都圏にあり、帰省というものは比較的身近な存在であったため、久しぶりに故郷に帰る時の気持ちというものは、想像することしかできなかった。
「楽しみですね。本当に、私も行ってしまって良いんでしょうか?」
「ああ、俺が紹介する」
そう言ったガルさんの表情は晴れ晴れとしていて、帰郷を楽しみにしていることは容易に察せられた。
ガルさんの村は獣人の村だというから、その中に人間である私が入ることは、なんだか気が引けるような気もした。それに、獣人狩りのせいで、人間への警戒心は強まっているかもしれない。せめて失礼のない振る舞いを心掛けなくては。いよいよ迫ってきた旅の終わりに、寂しい気持ちと漠然とした不安が入り混じる。
そういえば、アルさんはジュードレアの先に用があると言っていたのに、再び乗船することはなかった。大丈夫だったのだろうか……。それをガルさんに伝えると、一瞬だけ微かに不快そうな顔をしたため、もうアルさんのことは話題に出さないようにしようと心に決めた。まあ、あんなことをされて、不快感を露わにしない方が難しいだろう。私だって二度も殺されそうになった訳だから、当然良い感情を抱いているとは言い難い。
「ナコ水上都市には、獣人保護団体の本拠地があるらしい。噂だがな。本来どうするつもりだったのかは知らないが、咄嗟にそこを答えたというところだろう」
「そうなんですね……」
水上都市、少し興味があったな。なんて思いはしたものの、それを口に出すことはしなかった。
船は夕方、ジュードレアに到着した。私達は船を降り、二日ぶりの陸地を満喫する。しばらくは少し波に揺られているような感覚だったものが、徐々に戻っていくのを感じた。ガルさんは、すっかり獣人に戻っている。人間の姿も良かったが、やはり見慣れたこちらの姿の方が、なんだか安心できるような気がした。
ジュードレアは、一言で言うと要塞のような街だった。街並みは煉瓦造りになっていて、全体に無骨な鈍色で統一されている。街には、武器を扱っているお店のような看板と、酒屋の看板、宿屋の看板が多いように見受けられた。どこからか、鉄を打つような音も聞こえてくる。獣人はあまり見かけなかったが、路地裏に打ち捨てられた大きな檻があるのを見て、ここもあまり獣人に優しい土地柄でもなさそうだと感じた。恐らく、犬猫の大きさではないだろう。人一人くらいは余裕で入る大きさだ。用途はもう、想像に難くない。
「ここで良いか」
ガルさんが急に立ち止まったため、ぶつかりそうになりながら慌てて私も立ち止まる。目の前にあったのは、飾り気のない宿だった。私が頷いたのを確認すると、ガルさんは宿の中へ入って行き、店主に話を始めた。私もそれに着いて行き、隣で話を聞く。ガルさんが二つ部屋を取ろうとしたところで、つい「あっ」という声を漏らしてしまった。獣人に戻っているガルさんは、当然の如くその声を聞き逃すことはしなかった。
「どうした?」
「いえ……その、部屋、同じが……」
いいです、と口に出しそうになって、慌てて手を口に添える。しまった。ジュードレアに着いてから漠然とした不安を抱えていたせいで、そんな言葉が口をついて出てきてしまった。ガルさんは私の様子を暫く見ていたが、何も聞かずに、店主に二人部屋に変更することを伝えた。そして気遣うような眼差しで私の手から荷物を取り、店主に案内された部屋へと向かう。自分の荷物なのだから自分で持つと伝えたが、ガルさんは階段が急だからと言って、私の荷物を部屋まで運んでくれたのだった。
部屋に到着し、私は手近にあったテーブルの椅子に腰掛けた。最低限のものしか置かれていない簡素な部屋は、家具の雰囲気が統一されているためか、シンプルで無駄のない内装と錯覚してしまう。
ガルさんが荷物を置いて、備え付けの椅子を私の隣に移動させた。そこにどっかりと腰を下ろすと、ふうと一つため息を吐く。それから横目でちらりと私を見た。私もガルさんを見ると、ガルさんは体をこちらへ向けて、今度は真っ直ぐに私を見据えた。
「……どうかしたか?」
どう答えたら良いのか分からずに、私は首を傾げてしまった。ガルさんは私を安心させるかのように、表情を緩める。雰囲気が和らいだ気がして、自然と肩が下がる。いつの間にか力が入ってしまっていたようだ。
「いえ……」
「いつもなら、自分から同じ部屋にするとは言わないだろう。それに、表情も堅苦しい」
そう言われて、先ほど同じ部屋で良いと言った時のガルさんの反応を思い出した。これまでにも同じ部屋を使ったことはあるが、殆ど全て事故のようなものだった。自分から、同室にしようと提案したのは初めてである。ガルさんは今まで同室になる時には気まずそうにしていたが、今回に限ってはすんなりと提案を飲んでくれた。
表情が堅苦しいと言われたことを思い出して、笑顔を作る。若干、不自然になってしまったような気もする。私は、なんとなく「それらしい」言い訳を捻り出すようにして、作り笑いと共に口に出した。
「なんとなく、その……緊張しているのかもしれないです。ガルさんの村の方や、ご家族に会うと思うと……」
「緊張?」
ガルさんが首を傾げる。家族に会うと言ったって、私はガルさんの恋人でもなんでもないのだから交際の挨拶をする訳でもなく、こうまで緊張するのはおかしな話ではあるのだけれど。自分でも、何に対してここまでの不安を抱いているのか分からない。旅が終わってしまうこと? 故郷にいるガルさんを見て、やはりガルさんの居場所は故郷なのだと痛感することへの寂しさだろうか。私にはもう、故郷へ帰る術もなくて、ガルさんが故郷で暮らすとなれば、離れるより他ないということが、私の胸の中で不安と離れ難さとして膨らんできているのだろうか。とはいえ、従属契約が解除できない限り、あまり遠くへ離れることも出来ないのだけれど。その場合の身の振り方についても真剣に考えていかなければならない。
それに加えて、自分がフランセスカさんの容姿であることからくる不安もある。魔法使いというだけでも、獣人の方々にとっては敵視すべき存在であることに違いはないだろう。ガルさんのご家族にとっては、フランセスカさんはガルさんを連れ去った憎い相手である可能性もある。面識があるかどうか分からないが……。
心配そうにしているガルさんの表情を見て、何かを言わなくてはと気が焦る。結果として、私は胸中の思いの中でも一番話しやすい話題を選択したのだった。
「その、私は今、フランセスカさんの容姿な訳で……。となると、顰蹙を買うと言いますか、魔法使いが村に入るのは村の方にはあまり好ましく思われないんじゃないかと……」
「……まあ、そうだな」
否定されると思っていた訳ではないが、あまりにもあっさりと肯定されてしまい、私は身勝手にも少しだけ落ち込んだ。聞き齧った程度の獣人奴隷の歴史を考えるだけでも、村の獣人達に歓迎されないことは容易に想像ができる。
「警戒される可能性は高いだろう」
こちらを向いていたガルさんが、窓の方を向く。考えながら言葉を紡いでいるようだった。恐らく元より饒舌な方ではないガルさんは、話す度に、それが私にどう受け取られるのかを考慮しているようにも思える。
「だが、ホナミは魔女らしくは見えないし、俺の紹介もあるから、悪いようにはされないはずだ。何かあったら俺に言ってくれれば良い」
それでもやっぱり、不安か。窓を見ていたガルさんが、私に顔を向ける。眉が下がり、気遣うような視線に、私はこれ以上自分の不安を吐露するのも申し訳ない気がして、この話を早々に切り上げるべく、弱々しく首を振った。
「いいえ。何かあったら、ガルさんを頼りにさせていただきます」
「あぁ、そうしてくれ」
「それに、ちゃんと楽しみですよ。ガルさんのご家族にお会いできるの」
私は確かにフランセスカさんの容姿だけれど、フランセスカさんだった頃とは違う、ガルさんの友人……と言ったら烏滸がましいだろうか、知り合い? として、紹介をされるのだ。そのどこに、不安があろうか。
ふと、この不安は、もしかするとガルさんも常々感じていることなのかもしれないと思った。人間の多い中で生活するガルさんは、自分の容姿が獣人であることにより相手に与える影響について、考えない訳ではないだろう。
容姿といえば、この世界に来る前の私は、どんな顔をしていたっけ。どんな風に笑って、話していたっけ。いきなり俯いて黙り込んだ私を不審に思ったのか、ガルさんがこちらを覗き込むようにして見る。
「ホナミ?」
「すみません。この世界での自分の容姿について、ちょっと考えてしまいました。前の世界にいた時の顔も、もうあんまり……思い出せなくて。いつか自分が、どこにも居なくなるような気がするというか……」
ぽつりと言葉を落とすように呟く。言ってしまったら、本当に分からなくなってしまうような、元いた世界での自分が、自分の中から居なくなってしまうような気がして、口には出せずに居た言葉だった。すっかりフランセスカさんの体での生活に慣れてきて、毎朝見る鏡への驚きもなくなってきた。
この世界の誰も、「私」を知らない。
私が思い出せなくなったら、前の世界の私はもう、いなかったのと同じなのではないか、なんて。
「……正直な話、俺達獣人が、異種族の顔の区別をするのは同種よりも困難だ。中にはアルセスグレイみたいな特殊なのもいるが……」
ガルさんが落ち着いた口調で話す。私は静かにそれを聞いた。確かに、さすがに私だってよく知っているガルさんとバッツさんの区別は付くが、街を歩く獣人達を一人一人区別することは、人間の顔に比べて困難だろう。そのような感覚か……と考えたが、なぜガルさんが急にそんな話をしてきたのかは分からなかった。
「だからつまり……俺が言いたいのは……」
頭を掻いて俯くガルさんは、一生懸命に言葉を探しているようだった。私は言葉探しの邪魔にならないように静かに、紡がれるものを待つ。
「俺は、ホナミの元いた世界での容姿も声も、知らない。だが、見てくれが同じでも、ホナミが魔女と全く別人であることは分かる」
私はそっと頷く。ガルさんの言葉はまだ終わっていないようなので、口を挟むのは止めることにした。
「性格、喋り方、仕草、表情……全部が、ホナミの内面からくる、ホナミのものだ。だから……俺はホナミが選んでいるものが、ホナミそのものだと思ってる。選ぶ格好や、行動……言葉も」
容姿だけが、その人を形作るものではない。それは確かに、そうなのだろう。ガルさんにとって私は、私が選択するもの全てから形作られた「ホナミという人物」だったのだろう。フランセスカさんの容姿をしている私を思いの外すんなりと受け入れてくれたことも、容姿ではないものを見てくれていたからなのかもしれない。
「だから俺にとって、ホナミはホナミなんだ。フランセスカじゃない。いなくならないし、確かにここにいるし、俺が覚えてる。ホナミの選んだ言葉を、作った表情を、行動を、覚えているよ」
ガルさんの声は、柔らかだった。俯いた目に涙が溜まって、ぽつりとひとつ、床に落ちる。視界がぼんやりとして、喉がひりついた。
「……っ、ありがとう、ございます」
「私」は、この世界にちゃんと存在している。そう言ってもらえたのが嬉しくて、私は嗚咽を漏らした。手で乱暴に目を拭うが、涙は次から次へと溢れてくる。ガルさんは私が泣き止むまで、何も言わずにただ私の背中をそっと撫でてくれていた。
私が泣き止んでから、食堂を探しに街へ繰り出した。酒場はどこも昼より賑わっていて、時折道ゆく明らかに酔っ払っている人々が、陽気な様子でお喋りを楽しんでいる。
私達は適当なご飯屋さんを選んで入った。いくらガルさんの故郷の近くとはいえ、ジュードレアまで来ることは殆どなかったらしく、ガルさんも直感で店を選ばざるを得なかったようだ。
出てきたのは、シンプルな料理が多かった。野菜のグリルと焼いた肉、元いた世界で言うところの生ハムのような干し肉のスライス、パンとバター、葉物野菜を漬物にしたような付け合わせ。ガルさんは麦酒を頼んでいた。琥珀色が美しく、その上にはきめ細かな泡が浮かんでいる。リカーフェリテの料理と比べると、凝ったものは少ないように感じるが、それが街並みの無骨さによく似合っているような気がして、これはこれで良いものだと思った。
夕飯を終えて、夜風に当たりながら少しだけ街を見て回る。明日の朝にはここを発ってしまうため、のんびり観光をする機会は今日くらいなものだ。こうしてガルさんと夜道を歩く機会が、あとどれだけあるのだろう。そう思いながら立ち止まり、少し先を歩くガルさんの背中を見つめた。
ずっと一緒にいたいのだと言ったら、迷惑だろうか。
……いや、どの道契約の解除が出来ない以上、ある程度近くには居なければならない。その事実を少しだけ喜ばしく感じてしまう自分が、何より嫌だ。
「どうかしたか?」
ガルさんが、私が立ち止まっていることに気が付いて振り返る。街灯を浴びた白銀の毛並みが、鈍色の街並みと共に幻想的な風景として私の目に飛び込んできた。
「いいえ、何でもありませんよ」
その光景に少しだけ見惚れてから、私は駆け出して、ガルさんの隣へと並んだ。
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