第5話 葛藤



 コーデリアの胸にあった一点の黒いシミは、嵐の前の黒雲のようにむくむくと膨らんだ。

 生まれて初めて、農民の実態を知ったせいである。

 とたんに、無邪気にパーティーを楽しめなくなった。


(農民が何万人も餓死している? どうして? それなのに、私たち貴族はどうして毎日美食を食べられているの? どうしてそんな悲惨な事実が、国民に知らされていないの?)


 シェナ王国は独裁国家である。民主主義という考え方はない。だから悪いことは、いっさい国民に知らせないようにしていた。


 彼女は胸を痛めた。農民も、自分と同じシェナ王国の国民だ。それが飢えて死んでいるのに、贅沢三昧の生活を送っていていいのかしら? 彼女は貴族令嬢として育てられても、そういう考え方をできる女性だった。

 そこで、公爵夫人と踊り終わったジェイコブ王太子に尋ねた。


「あの、殿下、質問をよろしいでしょうか?」

「いいですよ、可愛い人」

「シェナ王国では、農民が飢えているのですか?」


 その瞬間、王太子の目に、凶暴な光が宿った。

 が、あまりにそれが一瞬だったため、シャンデリアの光線の具合でそう見えたのだろうと思い、コーデリアはすぐに忘れた。


「農民が? なぜですか?」

「あの……噂で聞きまして」

「噂ですか。根も葉もないことですね」


 ジェイコブ王太子は穏やかに微笑んだ。


「悲しいことに、この国にも、反体制の考え方をする者がいます。そういう輩(やから)の言うことには、耳を貸さないことです。何でもかんでも国が悪いように言いますからね」

「では、事実ではないのですか?」

「当然ですよ。我が国は豊作なのです。各地方の領主がしょっちゅう父に報告に訪れますが、収穫量が減ったという話は一度たりとも聞きません。収穫が増えているのに、どうして飢えることがありますか?」


 それは、収穫が減ったなどと報告すると、残虐なグレイス二世が機嫌を悪くするからである。それが怖さに、どんなときでも地方領主は収穫が増えたと報告するから、結果として国に納める税が増え、農民は餓死したり一家心中したりしているのだ。


「そう、豊作なのですか……」


 コーデリアは考え込んだ。ではレオ第二王子は、反体制派の誰かに嘘を吹き込まれたのだろうか? しかしそんなことは、現地に調べに行けばすぐにわかることである。第二王子は調べもせずに、私にあんなことを言ったのだろうか?


 コーデリアの沈黙は、ジェイコブ王太子をイライラさせた。何をこのメス豚は、農民のことなど気にしているのだろう。女ごときが考えることか!


「まあ仮に飢えたとしましょう。でもそれが、どうしたというのです?」


 この問いは、コーデリアをひどく驚かせた。優しい婚約者の口から出るにしては、思いもしない冷たい台詞に聞こえたのである。


「どうした、とおっしゃいますと?」

「ではこう聞きましょう。ブラウン家には使用人がいましたか?」

「ええ、それは」

「使用人は、あなたと同じ身分でしたか?」

「いいえ……違います」

「農民は、その使用人より下です。奴隷身分です」


 コーデリアは黙った。

 するとさっきの凶暴な光が、再び王太子の瞳に宿った。


「我々の生活する社会には決まり事があります。貴族は貴族であり、平民は平民であり、奴隷は奴隷であるということです。これが崩れたら大変なことになる。そういう大変なことが起こらないためにも、奴隷が飢えることなどは考えないほうがいいのです。特に王家はこれを守らねばならない。わかりましたか?」


 コーデリアは思わず目を伏せた。

 王太子の顔を直視できなかったのである。


『コーデリアさん。あなたはいつもうっとりと兄を見つめていますが、人の本性は数か月やそこらではわかりませんよ。第一印象が良いほど、のちになって評価が変わるものです。こんなに早く婚約して正解だったかどうか、よく考えることですね』


 レオ第二王子の言葉が甦った。

 王太子に対する印象が、明らかに変わってしまった。


(どうしよう。農民が餓死しているのが事実かどうかはともかく、奴隷が飢えることなど考えるな、と言う王太子様より、農民のことを考えて舞踏会を楽しめない第二王子のほうが正しく思えてしまう)


 コーデリアは葛藤に苦しんだ。が、彼女は女である。どれほど王太子の性格に疑問が生まれても、自分を愛し、婚約者に選んでくれたことに対して、無条件ですべてを捧げたい気持ちがあった。


(そうよ。王太子様は、よその国の王族からだって妻を迎えることができた。それなのに私を選んでくれたのは、政略ではなく純粋な恋愛、私に一目惚れしてくれたからよ)


 王太子からの嘘の手紙を信じていた彼女は、やっぱり彼に従おうと決めた。たとえどれほど第二王子が正しいことを言おうとも、しょせんコーデリアを愛してはいない。それどころか、高慢で聡明さのない女性だと決めつけたのだ。


 だかこのとき、すでにジェイコブ王太子は飽きていた。コーデリアを愛している芝居をすることに。


(さあ、婚約発表も済んだ。予定どおり毒見役と……フフフ、天国から地獄に突き落としてやるぞ)


 王太子はそのときから、優しい目つきをすることをやめた。

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