第4話03(2)

 蝙蝠?


 今、蝙蝠って言ったのか? 蝙蝠って、あの間近で見ると結構きつい顔した悪魔みたいな、二対の羽を生やした、あの蝙蝠?


「体を、いえ、実際には──実体を吸われるようになくなった」


「……」


「意味がわからないわよね、別にいいのよ。これ以上、私に付き纏わなければ全て丸く収まるのよ。だから、喋ったのよ。ねえ、夜神吉良君」


 朝比奈は。


 僕の名前を、強く、呼んだ。


「私には実体がない。体が虚像、存在が、儚い。全く困ったものよね。これが、何かの病気であるならば、どれだけ、楽だったことか」


「……」


「私の秘密を知っているのは、私の知る限りでは、この世に三人だけよ。私が通っている病院の先生と、私のお母さんと、それと──あなただけよ。夜神君」


 頭の理解が追い付かない。言葉が、出てこない。


「さて、私はあなたに事の詳細を語ったわけだけど、これから先、あなたに私の秘密を黙ってもらうために、一体、何をしたらいいのかしら? 「はらわた」がぶちまけても秘密を洩らさないと、どうしたら、あなたに、夜神君に誓ってもらえるのかしら? どうやって、声が出ないようにすればいいのかしら?」


 ペティナイフ。


 その刀身がさらに強く押し付けられている。


 本気だ、こいつは、仮にも同級生に対して、三年間同じクラスである、僕に対して、なんて追い込み方をするんだ。こんなサイコパスがいていいのか?


 残虐非道。


 悪逆非道。


 残忍酷薄。


 そんな奴と、およそ、二年間同じ空間で、机を並べて生活を共にしていたと思うと、正直、ぞっとする。


「病院の先生の話では、原因不明、というより、原因はないんじゃないかと言うの。何度も何度も、精密検査をして、そんな結論しか出てこない。なんて、最初から言うなれば、産まれた時から、私は──元々こうだったのではないのかと、なんて言われてはたまらないわよね」


 朝比奈はまるであざけ笑うように、自嘲する。


「あまりにも、酷い話だとは思わない? 私、昔はとても可愛くて、クラスの人気者だったのに」


「……」


 自身が可愛いと、容姿端麗、クラスの人気者だという、自覚はあったのか。


 だけど、病院に通っているというのは、どうやらあながち嘘ではなかったのか。


 早退に、欠席。


 一体どんな、気分だったのだろうか。


 僕みたいに、僕のように──たった数ヶ月の経験ではなく、中学校をいれると、およそ、六年間に渡る時間を、その謎を抱いたまま日々を送るということは。


 何を選び取り。


 何を切り捨て。


 何を望み。


 何を諦めたのか。


 この六年間は朝比奈にとって、十分な時間だったのやもしれない。


「へえ、随分優しいじゃない」


 やはり、エスパーの力も備わっているらしい。朝比奈は僕の心を読んでいる。その言葉は優しいはずなのに、朝比奈の声音は、冷たいままだった。


「優しさなんて、欲しくないのよ」


「私が欲しいのは、これまで通りの平穏な日々。それさえ守ってくれれば、その、綺麗な白いワイシャツに赤い染みを作らなくて済むのだけれど、クリーニング代が勿体ないでしょう?」


 朝比奈の顔は伺えないが。


 背中から、くすりと笑む声がする。


「私の日常を脅かさないと誓えるのなら、そのまま、体を正面に戻して、進みなさい、夜神君。こちらを振り向けば、その瞬間、あなたの腹部から内臓をぶちまけることになるけれど」


 一寸の迷いのない言葉。


 僕は、体を正面に向けた。


 そのまま、前だけを向いて、歩き出す。


「そう、ありがとう」


 僕の行動を見て、肩の荷が下りたらしい。


 選択を与えられているように見えて、事実、選択の余地はなかった。こちらとしては、それに同意をするしか選択肢はなかったに等しい。


 それでも、朝比奈はその素直な行動に少なからず、安堵したのだろう。


「それじゃあね」


 そう言って、これで別れると思っていたのだが、僕が甘かった。


「うぐっ……」


 スパっと。


 予想もしていなかった。


 ペティナイフを、あろうことか、勢いよく、切り裂いた。その熱さにも似た感覚が押し寄せる。その刀身に着いた僕の血を、朝比奈はペティナイフを軽く振り、綺麗に落としていた。


 痛みに堪えきれずに、その場に蹲る。


 止まるかもわからない、右腹部を抑えながら。


「……ふぅーっ」


「あら、泣き叫ばないの? 強いのね」


 まるで、他人の絵空事のように。


 今も尚、蹲っている、僕を見下すかのように。


「今はこれで、見逃してあげる。でもね、私は夜神君を信用していない。ここまでされれば、少しは身をもって理解したはずよ。それくらい──私の問題は大きいの」


「お、お前……」


 きらりとペティナイフが光を放つ。


 僕の抗議の念を聞くまでもなく、遮るように、ペティナイフを僕に向けている。


 僕の体が、恐怖している。


 条件反射というやつだろう。


 一度の攻撃で僕の体は、条件反射が刻み込まれていた。


「夜神君、たった今、これからも私たちは他人として、接してね。よろしくね」


 その言葉を最後に、今も蹲っている僕なんか無視して、踵を返して歩いて行く。その姿を見ながら、ようやく立ち上がることができた。その頃には朝比奈の姿はどこにも見当たらない。


「女神だと、ふざけるな……あれは──魔王だろうが」


 脳味噌の構造が、一切合切違う。


 ああは言っても、実際に朝比奈の要望を受け入れれば、実際に行動に移すとは思ってはいなかった。どこか、少しだけ、甘く考えていた。


 先刻受けた傷を確認するように、右腹部を抑えている、右手をどかした。


 よし、そんなに深くはない。


 次に僕は、廊下を染め上げている、自身の血を処理していた。幸い、男子トイレが近くにあったため、トイレットペーパーを即座に入手することができた。


 そんなに深い傷ではないこともあって、流れる血の量も少なくて済んだ。だけど、このワイシャツだけは、言い逃れができない。こんな赤く染まったシャツを妹に見られてしまえば、きっと尋問が始まってしまう、早々に捨てておこうか。


 弁償して欲しい。


 最後の仕上げに、トイレットペーパーを僕の体に、包帯の代用品として、巻きつけて、応急処置を済ませた。


 大丈夫。


 このくらいなら、僕は問題にならない。


 廊下を拭き終わったトイレットペーパーを、無事誰にも見られることなく、流し終えた。


「あれ? 吉良、何でまだいんの?」


 部室から雨霧が出てきた。


 ネタが見つかったのかどうかは、わからないが、今日の部活動は終了したのだろう。


 今出てきてよかった。


 あんなのを見られていたら、今頃、この廊下は血で溢れ返っているところだ。


「あの人の所に行くんじゃないの?」


 疑問を露わにして問う。


 この扉を一枚挟んだ向こう側で、何があったのか知らない様子だった。それなのに、雨霧に悟られることなく、あれだけの怪奇てきなことをやってのけた朝比奈未来は、やはり只者ではなかった。


「雨霧、……お前、廊下の曲がり角を曲がるとき、誰かにぶつかることを想定しているか?」


「は? まあ、特に気にして歩いたことはないかも? たぶん」


「いいか? これからは、いかなるときであろうと、曲がり角を曲がるときは絶対に人がいないことを確認してから、歩けよ!」


「はあ⁉ さっきから、何を言っているの?」


「歩いている時も、走っている時も、一度、止まれ。右と左と正面を目視で確認してから歩き出せ! さもなければ僕はお前を一生許さないからな!」


 一体全体、僕の言っている言葉の意味が理解できていない様子。


 それもそうだろう。


「それより、吉良、あの人の──」


「これから、行くんだよ!」


 僕はそう言って、雨霧の脇をすり抜けて、駆けだした。


 駆ける。


 とにかく、駆ける。


 階段を下る。


 ここは、三階。


 彼女の足取りであるなら、まだ、間に合うはず。


 一段一段下りていては、間に合うかわからない、だから、踊り場から踊り場へと飛び降りる。


 脚には衝撃が来る。


 そんなの僕にとっては特に問題の無い事だ。


 こんなことをしている奴が、朝比奈と出くわしたら、──彼女はどう思うのだろう。


 普通にしている行動も、朝比奈からしたら、恐怖なのだろう。


 その人と、ぶつかり合うことを考えると。


 実体がない。


 体が透き通る。


 それは、つまり、幽霊のような存在。


 蝙蝠。


 蝙蝠と、朝比奈は言った。


「そろそろかな」


 あの状況で、まさか、寄り道をするとは到底、思えない。僕が追いかけてくるだなんて彼女は、思いもしないだろう。朝比奈が部活動に所属していることも、考えられない。そうだと決めつけて、僕は飛ぶ足を止めなかった。


 そして、下駄箱に通ずる、最後の踊り場で。


 朝比奈未来はそこにいた。


 階段全てをすっ飛ばして、飛び降りていたから、相当な衝撃音がなっていたはずだ。流石にその音に反応しない、朝比奈ではない。こちらに背を向けてはいるが、ちらりと、振り返っている。


 驚きと、怒りの形相で。


「はあ、まさか、ね」


 呆れた様子で、口にする。


「いえ、これは素直に驚いたわ。まさか、あそこまでされておいて、私に臆することなく立ち向かってきたのは、恐らく、あなただけじゃないかしら」


 恐らく。


 彼女はそう言った。


 まさか、信じたくはないが、他にも被害者がいるということか……?


 一体、どういう状況で、他の誰かは、この魔王に制裁されたのだろう。そして、一つの噂話も出ないことから、徹底的に追い詰めているのだろうか。


 やはり、本物の魔王じゃないのか?


「それに、浅いとはいえ、腹部を切られて、そんなどたばたと走ることはおろか、暫く安静にしてないといけないはずなのだけれど」


 経験者のセリフだった。


 あり得ない。怖すぎる。


「ええ、そうですか、わかりましたよ。夜神君。その倍返し根性に敬意を表して、その覚悟を認めましょう」


 朝比奈は、鞄からまたもやペティナイフを取り出して。


 一切の迷いなく、人目も憚らず、僕に向けて。


「殺し合いましょう」


「ま、待て待て! 僕はそんなことしたくない!」


「そうなの?」


 なぜか、物寂しそうな顔と声で言う。


 手に持たれるペティナイフはそのままで。


「じゃあ、何をしに私を追いかけたのよ」


「もしかしたら、さ」


 若干言葉を濁しながら。


「お前を、救えるかもしれない」


「救う?」


 その言葉を聞いて、朝比奈の眉間にしわが寄る。触れられたくない琴線に触れてしまったのだろう。


「あまり、ふざけたことを言うと、次はその程度では済ませないわよ。あなたに何ができるの? 病院の先生にも何もできないことを、あなたならできると? 笑わせないで。私を無視してくれれば、それでいいのよ」


「いや、だから」


 チャキン。


 と、ペティナイフが光を放つ。


「優しさも、敵対行為と看做すわ」


 朝比奈は、僕に、一歩、近付く。


 本気だ。


 一切の迷いなく、僕に突き付けてくると、先のやり取りで、十分に知っている。わからされた。


 だから、僕は何も言わずに、シャツのインナーをぐい、と、持ち上げる。


 両手で、インナーを。


 僕の腹部が、晒される。


「……え、嘘……」


 からん、と、音を立てながらペティナイフが床に落ちる。流石の朝比奈も驚いたのだろう。


「何が、どうなっているの?」


 疑問に思うのも、当然だ。


 なぜなら。


 流血も、止まっている。


 朝比奈の切りつけた僕の腹部には、血の跡も無ければ、傷跡すら残っていないのだから。

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