第43話 「おれはここだ」

 死を覚悟したそのとき、強烈な光が差し込んだ。視界が白く染まる。工場の割れた窓ガラスの向こうに、車のヘッドライト。


「う」


 橋本が呻いた。


「野田ー!!」


 丹野の声がする。幻聴だろうか。声のしたほうを見やると、工場の窓に丹野が見えた。幻覚かな。丹野が掲げた右手には何か意味があるのだろうか。

 あの仕草は──ダーツ……?!


「無理だ……!」


 距離がありすぎる。ぼやけた視界に丹野の投擲がスローモーションとなって映った。


 突然、首にかかる力がなくなり、ぼくは地面に倒れた。視界の隅に腕から血を流す橋本が見える。腕に刺さっているのはダーツ。

 奇跡だ。というか、ずるい。まるでヒーローじゃないか。


「殺人未遂の現行犯で逮捕する」


 田西刑事が橋本の腕を捻り上げた。ヘッドライトが煌々と工場の中を照らし、十数人の警察がなだれ込んでくる。なぜか野良猫が数匹ついてくる。目の前で、ライトを反射した手錠が小気味いい音を立てた。


「大丈夫か。病院に送ろう」


 井敬刑事に抱き起こされ、腿のテープと結束バンドを外してもらった。


「ひとりで歩けますか。無理なら手を貸しますが」


「……いえ、けっこうです」二、三度深呼吸をすると楽になった。「丹野はどこにいる?」


「おれはここだ。無事でなにより」


 耳元に息を感じた。何かが身体に絡まる。


「うひゃ!?」


 ふわりと身体が浮いた。丹野に抱えられているのだと気づいたときには、思考が停止していたらしい。

 お姫様だっこされてる?

 我に返ると、もうパトカーの中にいた。まるで助け出された囚われの姫君だ。

 ここぞという場面でダーツを命中させるなんて、まるで正義の騎士じゃないか。警察官がぼくらを見てうっとりしてる。おい、勘弁してくれ。助けて貰って文句言うのはおかしいけど、世の中、不公平だ。


「助けに来てくれたのか?」


「そうだ」


「ダーツの腕が上がったな」


「少し練習した。ついでにダーツの先は削って尖らせておいた」


「……ありがとう」もしぼくに刺さっていたら礼は言わなかったろう。もう少し早く助けに来てくれたらハグしていただろう。


 照れているのか、丹野はふいと横を向く。


「彼が犯人だったなんて、驚いたよ。心臓が破裂しそうだ。まだバクバクしている」


「病院までつきそおう」丹野はぼそりと呟いた。「責任上」


「責任って」


「野田を囮にした責任」


「は?」


「宅配便の配達人が愛人だと嘘の情報を夫にふきこんだのはおれだ。田西の疑いも放置していた。こっそりと見張っていた。警察に同行してもらったので少し到着が遅くなってしまったが、おれが推測した通り、夫が真犯人で間違ってなかった。おれはやはり天才だ。そう思わないか」


 そんな推測なんか、聞いた覚えがない。ぼくの全身がわなわなと震えだした。ぼくを危険にさらしたのは、仕組んだのは──


「おまえか!」


「そうだ」


「ぼくに話さなかったのはなぜだ!?」


「話さないほうが上手くいくと思った」


 どや顔のイケメン。こいつは正義の騎士なんかじゃない。悪魔だ。


「警察にウソの情報を流していたのか」


「勘違いしているようだが、おれが警察から依頼を受けた内容は事件解決の手助けではない。刑事の能力検査だ。とくに田西と井敬は冤罪を引き起こすリスクが高い。外部の人間であるおれの目から見てどうか、判断してくれということだった。もちろん彼らはそんなことは知らない」


「ウソだろ?」


「あいつらが、おれか野田を容疑者と断定していたら降格することができた。少々残念ではある。野田の意向で事件解決を急いだので、そこまで進まなかった。ちなみに橋本さゆり殺害の犯人は最初から夫だと目星がついていた。捜査本部で異論を口にしていたのは田西たちだけだ。初めから野田は疑われていない。安心しろ」


「で、でもアリバイが……?」


「電子的記録は改ざん出来る。夫の愛人が社内の人事部にいるからな」


 ぼくは脱力した。本当に気を失う寸前だった。丹野の次の言葉が追い打ちとなった。


「橋本孝はもう少し頭を使うべきだったな。きみをくびり殺すのに定滑車とは。動滑車を使えば二分の一の力で簡単に殺せたのに」





 後始末は、警察から聞いた。

 丹野が言っていたように、夫には同じ会社内に愛人がいた。妻と離婚して、愛人と結婚しようと目論んでいた。妻は妻で、複数の愛人がいた。夫は承知していたようだ。だからすんなりと別れられると踏んでいた。ところが妻は離婚に応じようとしない。妻が言うには、夫がかまってくれないから、気を引くために他の男と遊んだり買い物依存症になったと言うのだ。離婚して幸せになるのが夫だけなんてゆるせない、と。ある夜、口論の末、夫は妻を手にかけてしまった。

 夫のアリバイは入退館を記録するセキュリティシステムだった。

 だが電子的記録は改ざんできる。ブラック企業のサービス残業のように。


「愛していた妻に裏切られて……じゃなかったのか」


 ショックだった。命をかけた説得がどれほど的外れだったか、しばらくは思い出すたびに落ち込んだ。丹野にお姫様だっこされたことと合わせ技で、ぼくは凹みまくった。


「猫のしょんべん臭い場所に死体を遺棄する犯人に愛情があると思えるのか」


 丹野は『たけのこの町』と『きのこの谷』を交互に口に放り込んでいる。食後のデザートだそうだ。



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