第7話 「これを見ろ」

 熊男はコートの内ポケットからスマホを出した。ホームレスもスマホを持っているんだなと感心した。


「これを見ろ」


 画面にはワンピース姿の女性が横たわっていた。生気のない肌に湿ったワンピースがはりついている。顔はぼかされていたが、それが誰かは容易にわかった。警察に見せられた遺体の写真に酷似していた。


「こんな写真、見たくない……」


「これはおれが発見時に撮影したものだ。こちらの写真のほうが比較的新鮮な死体といえる。首に索状痕が見えるだろう。そばに落ちているスカーフ、これが凶器だ」


 大輪の花が描かれた華やかなスカーフ。その両端を持って彼女の首に交差させ、力いっぱい引っ張る。そんな光景が生々しく思い浮かぶ。

 毎日何気なく前を通過していた廃工場で起きた殺人事件。顔見知りの被害者。足元で日常はすでに浸食されていた。

 全身から力が抜けた。理由もなくいたぶられている気分だった。床に膝をついた。


「それから遺族に提供してもらった、橋本夫人の生前の写真がこの2枚。遺族というのは被害者の夫だ。死亡推定時刻は先週木曜日の夜20時から24時。夫は会社に泊まり込んでいる。社員証による電磁的記録の裏付けもある。で、この写真から気づくことはないか」


 気力をふるって画像に顔を近づけた。食い入るように見る。

 1枚目はオープンカフェでカップを片手にポーズを取っている姿。背景には牧場のようなのどかな風景が写りこんでいる。もう1枚は美術館の壁に寄りかかる姿。気の置けない友人と出かけたさいにスマホなどで気軽に撮影した、といった明るい雰囲気だ。

 野田の見知っている姿よりもいくぶん華やいだ空気を感じる。


「おれはこの2枚を見て、被害者が殺されたのは別の場所だと確信した」


「はあ?」


「警察の見解はこうだ。被害者は外出先で殺されたか事件に巻き込まれたかして殺された。財布はなくなっていたから偶発的な物取りの仕業かもしれない。川向こうにホームレスのテントがある。あやしい。あとは怨恨や痴情のもつれ。さいわい携帯は残っていたので、よく連絡をとっていた人物を中心に調べよう。アカブタ運送があるぞ。あやしい」


「いやいやいや、再配達や時間指定をこまめに連絡くれただけで」


「死体遺棄現場付近は閑散としているし日中でも人通りは少ない。あの場所に遺棄すればしばらくは見つからない。土地勘がある者の犯行が疑われる。第一発見者は川向こうをねぐらとするホームレスだ。当然、おれは疑われる。もっともなことだ。だが、おれには警視庁にコネがあった。タニシたちは探偵なんて胡散臭いと思っているだろうが、上から協力しろと言われれば所轄には否は言えない。資料を提供させた。さっきの写真のことだ。一目見て断言出来た。被害者は外出先で殺されたのではない。だが、その根拠はまだ警察には伝えていない」


「え、なんで?!」


「なんでとは。断定の根拠か。警察に伝えない理由か」


「両方だよ。警察が無駄な捜査をすることになるだろ。それに事件の輪郭がはっきりすれば、ぼくの容疑が晴れるかも」


「警察は全力で無駄な捜査をしなければ結果に満足しない。ひとつひとつ完全に潰さないと気が済まないのさ。もっとも彼らは、おれたちを疑っても無駄だとは気づいていないようだが。そう、それで断定の根拠については」肩をすくめて溜息をひとつ吐く。「わからないだろうな、きみでは」


 なんて腹の立つ男だろう。頭に来たので「貸せ」と言ってスマホを奪い取った。スクロールして見比べる。遺体に対する嫌悪感はいまや吹き飛んでいた。

 しかし写真をいくら眺めても何も思いつかない。

 遺体の写真をもう一度観察する。足元はヒールの高い靴が脱げかかっていて、高価そうなハンドバッグが投げ出されている。ブランドには詳しくないが高価そうだ。生前の2枚の写真と同様におしゃれな格好をしていると思える。外出先で殺されたという警察の見解は妥当ではないのか。


「……現場にはヒールの足跡がなかったとか?」


「なるほど。残念だが、足跡はすべて消されていた。箒のようなもので掃いたのだろう。他には」


「顔がぼやけてわからないけど、化粧していなかったとか」


「化粧は施されていた。質問だが、きみが配達に行ったとき、化粧をしていないことがあったか」


「そういえば、いつもしていたな。髪も艶々していたし、いい香りがしていた。ジャージ姿なんて見たことがない。ネイルもいつも凝ったのを……あ!」


 とうとつに記憶がよみがえった。先週の木曜日、被害者の家に届け物をしたときの光景が。


「このワンピース、あの日に着ていた!」


「さっき刑事に聞かれたことを今頃思い出したのか」


「さっきは緊張してたんだよ、しかたないだろ。……たしか、いつものように玄関でお小遣い……じゃなくて伝票にサインしてもらおうとしたら、爪が袖口にひっかかったんだ。人差し指の爪が傷んでいて、外すのに少し時間がかかってたな。ファスナーかなんかにひっかけたらしい。早くネイルしなきゃって恥かしそうだった。自分でやるんですかって訊いたらプロに頼んでいるって。……思い返せば、そのワンピースも何度か見たことあるかも。え、つまり部屋着同然ってこと? いや、かなり高級そうな生地だったけど」


「やはりな、きみは高級品に疎い」


「うっ……」


 熊男が口にしたブランドは、ぼくでさえ知っている名前だった。


「ハイブランドのワンピースじゃないか。なにかおかしいのか?」


「流行りはすぎているがワンピース自体はおかしくはない。爪がひっかかって袖口がほつれてさえいなければ。だが普段着にしているのなら外出着にはもう相応しくないと考えていただろう」


「そ、そうかな」


 かなり強引な解釈ではないだろうか。


「決定的なのはハイヒールとバッグだ。配色がちぐはぐだ。ネイルとスカーフもヘンだ。俺が気になったのはそこだ」

 

 スマホをあわてて覗き込んだ。

 ちぐはぐと言われてもピンとこなかった。


「自宅ではベルトやバングルはしていたか。スカーフは巻いていたか」


「いや、してなかった」

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