朝の時間

久芝

「朝の時間」

森の小屋に住みはじめて十年。

人と会ったのは五年前に一度。

ここを作るのに旧友に手伝ってもらった時。

それ以来、生身の「ヒト」と言葉を交わすことはない。自然の声を聞いていると、ヒトの声が雑音に聞こえるほど、聴覚はあの世界の音を消し去った。

朝起きる時、木々の隙間から差し込む拙い光が、偶然にもカーテンが少しだけ開いている時に起こしにやってくる。こっちは起こされないから、そのまま寝ている。お互いに気まぐれだけど、そこが惹かれあうのかもしれない。

小鳥に起こしてもらう楽しみなんて、最初からなかった。鳥が嫌いだから、彼らに起こされるのは腹立たしい。かと言って、鶏肉が好きな自分がいるのも事実。

買い物は五年前、向こう十年分の食材を買ったので外に出る必要はない。

午前中の柔らかな光を体に受け、座椅子の上で深く目を閉じ、呼吸を整える。背もたれが大きく揺れる椅子の上で、今日も深く生きていく。

ただ息をするために。


ヒトに背を向け生きていることに喜びを感じられる精神状態は、生まれつきの一種の先天性の障害と捉えている。

「こころ」に闇を持っているのではなく備わっている。持っているのであれば、捨てればいい。備わっている感性を外そうとすると、バランスを崩し、肉体も精神も特に意味を成さなくなる。後になって分かったことだが。

取り外すことを諦めるには時間が掛かった。

引きこもりと勘違いする人が後を立たない。

精神疾患やうつ病なのではと噂されていたが、どれにも属さない。最初から闇を備えていたのだから特別な存在であると考えるのが普通だ。

生きていくにはこころが必要と考える。どうしても必要なものを、どうしても持ち合わせていないヒトにとっては、この世界は何もない空間にしか思えない。救いは、何もない事を認識し実感できる感覚がある。それこそ、社会の空間に浸りながら進んでいくには、困難を伴うと判断したから、ここにいる。

赤が多い世界より、緑が多い世界に浸っている。心地良い。植物と同じように二酸化炭素を吸って酸素を提供している気持ちになり、自分が世界中をコントロールしていると勘違いしそうだ。

季節によって森は仲間にもなり敵にもなる。それは森に限らずの話。

時間と共に森に深い入りしていくと、恐ろしい面に出会う事がある。

雨が降る日。

何年も暮らしているが、慣れる事がない。黒く暗い厳しさの中に放り出されている気持ち。時々、森の非情さに闇が反応し、「パンッ」と弾ける。プチトマトを前歯でゆっくり噛んでいくと、「ブチュ」と中の赤い液体が黒い森に向かって飛び散り、色を付けてくれる。思っている以上に、そんな所まで飛んでるのかと思いながら、雨の日が待ち遠しくなることもしばし。

生涯この状態が続くものだと最近は感じている。

逃れることは出来ない。

荒んだ心でも季節が変わるのが待ち遠しくなる日々。呼吸をするだけの生活も飽きてきた。瞑想もしてみるが役には立たず、外に出ても自然しか相手がいない。それを望んでここにやってきたのに、勝手な奴だ。

ヒトのことは拒み続けている。最近、もし自分がヒト以外なら何が良いかを考えている。物体的な形状ではなく、感覚的な感情になりたいと思う。

すぐに思い浮かんだのが、「季節」。

その中でも、生まれ変われるなら「春」になりたい。

「夏」ほどの情熱と、思い出深さを人に残せる気はしない。夏が楽しいというのは、嘘。切なく、淡く、思慮深い感覚を感じるのが、本当の姿かもしれない。

「秋」は、あっても無くても良いような気がするが、夏と冬の繋ぎ目で、調整役。説明しずらい感覚。日本人は秋が一番似合う。

「冬」は、覚悟がないと出来ない。そこまでの覚悟がないから出来ない。強くないと出来ない。人間らしさが出る季節。

「春」は、人をその気にさせる。柔らかい空気感は、植物の息吹を新鮮にさせ、生まれ変わったような気分になる。「春」という存在を、今の体に取り込む事が一種の浄化になるのではと、毎年春の早朝の新緑の中で仰向けになる。光と空気と自然の治癒が上手くいくかと思っているが、変わった様子を自分の中では見受けられない。なら、いっそうの事、本当に春という存在になってしまえば悩むこともない。

闇の暗さは、サクラのピンクでいずれ溶けるかもしれない。

心を開放すべき時に、すべき相手を間違わなければ案外、すっきりするものではないだろうか。その日が来るまでは、試行錯誤が続く。色々続けていくうちに何かを分かり、また続けていく。意味のない淡々とした行いが、意味のない人生が、変わるかもしれない。

その日まで、私は私であればいいなと思う。


少し眠りに就いた。

最近は夢を見ることも少なくなった。幼い時は、起きている時でもよく夢を見ていた。急に眼の前から人が消えたかと思うと、突然カエルが人並みの大きさになって話しかけてきたり、消防車が上空を飛んだりと、色々ごちゃまぜになっていた。それはそれで楽しかったが、生きている感じはしなかった。

眩しかったので目を開けた。

カーテンを適当に閉めていたせいで、明りが差し込んできた。でも、今の自分は感覚が違う。体が軽くなり、重力を感じない。ジャンプしたらそれなりに飛んでいきそうだ。闇が消え去ったのだろうか。

外に出るといつもの光景だと思ったけど、今日は違っていた。

森が無くなっていた。

最初から森なんてそこにはなかったかのように、きれいな土だけがあった。荒野の中に一つの小さな小屋だけが存在していた。これも夢の一部なのか。夢が頭の中からちょっとだけ飛び出して来たのだろうか。

見渡す景色は何もない。

でも、空は変わらず青く存在していた。少し辺りを歩いてみた。振り返ると小屋も無くなっていた。世界で一人になったような気もしたが、不思議と寂しさはなく、ただ前に歩いていきたいと思うようになったのは前進だろう。

ずっと歩き続けることはない。

疲れたらまたあの小屋を作ればいい。


今からでも一歩は踏み出していける。

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朝の時間 久芝 @hide5812

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