青春の夏は、ガラスの瓶に閉じ込めて
久芝
青春の夏は、ガラスの瓶に閉じ込めて
水面(みなも)で反射する太陽の光が瞼の奥に入ると、あの頃の事を思いだしてしまう。その光は、プールでしか感じる事の出来ない一種の幻想なのかもしれない。
消毒の匂いが鼻腔と心を刺激し、過去をすぐ傍まで手繰り寄せる。
木々から蝉の音が響き、街では夏を着飾った人々の賑やかな声が弾み、遠くの空には積乱雲の叫びが轟き、絵に描いたような夏が繰り広げられている。
夏の時代はすぐに終わり、やがて次の秋の時代に向かう。
太陽も植物も動物も夏をれ、秋に備える。人の声は賑やかさのボリュームを落とし、秋特有の侘しさの音量に調節。季節に応じた音量があることは私たちは知っている。
プールの水は次第に青から緑色になる。枯れ草やコケが生え、プールの底ではヘドロが溜まり、汚い夏の水置き場になっていく。
夏以外は誰も見向きもしない。
プールってそういうものだ。
夏だけ注目されるうつろい町の町民プールも、町から見放される事になった。
今年の夏を最後に、取り壊される事が議会で決まっていた。
理由はいくつかあった。
まず老朽化である。建築されて三〇年余りが経ち、簡単にいえば、ガタがきていた。プール自体のコンクリートにはひび割れが数か所あり、タイルは変色し、更衣室の床はカビやコケがこびりついていた。汚くて、不衛生ではお客さんが寄り付かず、水さえ綺麗なら大丈夫と考えていたのでは、客足が増えるはずがなかった。
プールの大きさにも問題がある。五〇メートルプールが一つしかないので、つまらない。
公立学校のプールとほぼ同じような構造にも関わらず、入場料で五百円を取るのはいかがなものか。
そして一番の問題は、単純にお客さんがほとんど来ないからだ。
プールが出来た当初は町の皆が結構来ていたという話を聞く。学校のプールが何かのトラブルで使えない時は、ここで水泳の授業が行われることもあった。町内の公立小・中・高校から徒歩十分の距離に位置しているので重宝されていた。うつろい町の住人にとってはある意味共通の思い出の場所になっているかもしれない。今となっては、各々の学校の設備が良く、わざわざ古いプールに行く理由もなくなった。プールが使えない時は、水泳以外の授業をやればいいだけのこと。これも時代の流れだと言えばそれまでだ。
理由をいくつか挙げたが、最大の理由は隣の市にリニューアルオープンした市民プールが凄いからだろう。とにかく凄い。東京サマーランドのようなウォータースライダー、としまえんのような流れるプール、宮崎シーガイアのような波がワシャワシャ揺れる設備が備えられていた。他にも、普通のプールの数も種類増え、スパも併設されていた。平日休日、いつ行っても混雑していた。水浴びに来ているのか、人ごみを浴びに来ているのか分からないくらいに、賑わっていた。
休憩スペースも豪華だ。プールの周りには、屋台や軽食のお店が何十店舗か出店していた。人が頻繁に通るスペースの賃料は割と高めらしい。売り上げの一部マージンを幾らか市に払い、そのお金はプールの維持管理などに充てられていた。
表向きはリニューアル大成功のニュースが流れていたが、裏では「こんなプール、市の予算で作れるものなのか?」といった声や、「テナントスペースの奪い合い激化!市長に多額の寄付も!」といった噂もあった。
確かに、このあおはる市に魅力はない。その隣のたそがれ市は、この地方で唯一の政令指定都市で、近隣の市町村はたそがれ市の「ベットタウン」でしかなかった。周辺の自治体はこれからもベットタウンから抜け出せないだろうし、一生抜け出せない。
きっとあおはる市は独自性を持とうとして、思い切った舵をきったのだろう。なんでもあおはる市長は、大手ゼネコンの上層部と旧知の仲であり、市に対して色々便宜を図ってくれたおかげで、リニューアルにこぎつけたようだ。どんな便宜なのかは、誰も知る由がないが、薄汚い動きがあったのは想像できそうだ。
そういった経緯があり、うつろい町のプールが存在している価値はなくなり、最後の夏を楽しむだけだった。
プール監視の募集に、一人も来ないのではないかと予想していたけど、意外に多く、二人もきていた。採用人数は二人だったので、即採用が決まった。採用条件として変な奴じゃなければ誰でもよかった。変な奴ってどんな奴かと言えば、事件を起こさない奴。プールで起きる一番の事件は、更衣室を覗く事と盗撮の被害だ。町民プールでかつてその類の事件はなかった。なにせ若い人がここには来ないから心配はなかった。たいてい来るのは、肉体を鍛えている老人とか、うるさい小学生ぐらいだった。
採用した人は、定年を迎え余暇を楽しんでいるであろう六十を超えた老人と、三十歳を前にして無職の青年だった。二人が応募してきた理由に興味はなく、町としては何事もなく無事に終えてもらえたらそれでよかった。あとは、冬からの取り壊しを待つだけだ。
老朽化すると全ては壊され、また構築されていく。壊して作って、壊して作って、頭の中で唱えてみた。小さい頃、口ずさんでいた「むすんでひらいて 手をうって むすんで またひらいて…」を思い出した。「こわしてつくって 金をうって こわして またつくって…」と、歌ってみたがリズムに合わなかった。
これからいくつの夏を、わたしたちは迎える事ができるのだろう。
「あ~良い天気。結構お客、来るかもしんないな。初日から忙しいのは、勘弁してほしいわ。まあ時給千円だから、多少の足しにはなるけどさ」
雲ひとつない晴天の空は、何かを始めるのには「最高」だと言うのは大げさなので、「ほどよい」くらいに留めておこうと、宇田津秀一は思った。
窓から差し込む太陽の熱が、部屋の気温を朝から上げていた。
三年前まではうつろい町内にある実家で暮らしていたが、一応いい大人になったということで、一人暮らしをしていた。実家ら約五〇〇メートルの距離で、一人暮らしをして意味ないと思われる事もあった。
先月まで、あおはる市にある吉野製菓で働いていたが、主要な取引先から手を切られ、会社はあっけなく倒産してしまった。秀一に責任はなかった。あるとすれば「不景気だからしょうがない」と軽く片づけられてしまう世の中の温度差か、小さきものを切り捨てる大企業なのか分からないが、よくある話だった。
秀一の会社は駄菓子を作っていた。小さな町工場だった。社長を含めて五人でやりくりし、その中で秀一の役割は多岐に渡っていた。なんでも屋に近い、いやいや殆ど何でも屋だった。営業も事務も生産も経理も担当し、仕事というモノを学んでいった。それなりに、この仕事が好きで秀一の雰囲気に合っていた。それと、少なからず秀一の歩むべき方向を修正してくれたと思っていた。
「あー暑い、暑い。本当、勘弁。もうポロシャツの背中、汗で濡れてるわ。着替え持ってくればよかったな。そいえば、今日来るもう一人のバイトの人、どんな人なんだろうな。役場の人は、六十過ぎの男性だって言ってたけど、頑固オヤジとかだったら嫌だな。それにしても、暑いわ」
プールまで三十分の道程を、自転車で向かう秀一の額からは汗が滴り落ちていた。
二十歳の時、秀一は大学を中退した。たそがれ市にある、青葉大学の経済学部に実家から通っていた。片道四〇分を普通電車に揺られ、講義に出て、夕方は大学近くの本屋でアルバイトをしていた。可もなく不可もなくな、普通の日々を過ごしていた。
人生が何度もあるなら、一度くらいは普通の毎日でも良いけど、生涯で一度しか訪れないその日や瞬間を思うと、果てしない問題を抱えていると思うようになった。友達はいたし、彼女はいたし、成績も良かった方で、このままいけば普通の会社に入れるだろうと想像した瞬間に、「プチ」と頭の中で何かの切れた音がした。脳の血管が切れたと思ったが、倒れなかった。今思うと、切れたのではなく、解けた音だったのかもしれない。窮屈な気持ちが紐でギチギチに結ばれていると思っていたが、何気なく力を入れてみると簡単に解けた。縛られているという勘違いをしていた。
その音を聞いてから二週間後、秀一は退学届を出した。辞める時は親と揉めが、あのまま残っていても面白くない人生を歩むような気がしていた。辞めてからも本屋のバイトだは続け、友達とも彼女との関係も続いていた。辞めてから自分のことを本気で考え出した。本気の度合いにもよるが、何かをしながらも常にこの先のことを考えるなんて秀一にとっては、珍しかった。啖呵をきって大きなことはいったが、何が出来るのか、何をしたいのか、秀一はあてもなく過ごしているうちに、本屋と家との往復になっていた。これでは前と変わらないと考えながらも、どうしたいかが見えてこないので動くに動けないでいた。
過ぎ去った月日を大切だと思えるのは、きっと後にならないと分からないのだ。大学の友達も卒業して、どこかの企業に就職して、その何年後かには結婚して、子供が生まれ、やがて最期を迎えていく。そんな想像をしている秀一は、結局自分が普通のことを求めていたんじゃいかと、己を疑い始めた。そう思い始めたら、今度は後悔という意味のない念がやってききながらも、今後どうするかなとぼんやりした気持で本を整理していた時に、吉野製菓の社長に出会った。
「あのさ、○○○の△△△っていう本、どこにある?」って聞かれたのが、初めての出会いだった。第一印象は、なんか面白そうな雰囲気を出したおじさんだった。まだお腹は出ておらず、背も秀一と同じくらいで、サラリーマンというより技術職の匂いを感じた。下はスーツで、上は作業着の様なものを着ていた。学校の先生か技術系の人がしそうな格好をしていた。
「その書籍でしたら、向こうのコーナーにありますので、ご案内致します」
「おっ、そうか。わざわざ悪いね」
それから、度々その人はやってきては、秀一に声をかけていった。悪い気はしないので、簡単な挨拶と世間話を重ねている内に、染井一男とう人だということも知った。
そんなやり取りが半年ほど続いた。
最近、桜の花は品種改良が進んで、ソメイヨシノだけ夏にも咲く事が出来るようになっていた。春の桜が満開の季節になり、本屋にも新社会人や新学生の姿が見え、空気も清々しさを増していた。真新しいスーツを着ている人や、背が大きくなることを見越して新調した学生服を着ている子彼たちを見ながら考えた。彼らは、自分のやりたいことをしっかり選んでそこにいるのだろうかと。
秀一にとってのやりたいことは、いまだ見つかってはいなかった。
「よっ、どうした。気のない顔して?」
「あっ、おはようございます。いえ、ちょっと寝不足なもので」
「夜遅くまで、何あやしい事してたんだよ?彼女か?」
「いえ、違いますよ。ただ、ボーっとしてたんですよ」
いつものような会話が続き、その場を離れようとした時、
「ところで、宇田津君はここの社員かい?」
「えっ?いや、社員ではないですよ。ただのアルバイト、フリーターですよ」
「そうか。じゃあ、ちょうどいいな。なあ、内の会社で働く気はないか?いきなり言われても、ピンと来ないだろうけど。何やってるかは、前に話してからわかるよな?」
「あっ、はい。駄菓子を作ってる工場でしたよね?たしか吉野製菓」
「そうそう。一人さ、欠員が出て色々やってくれる若い人を探してたんだけど、中々いないなと思ってたんだけど、君がいるのを思い出してね。これだと思ったら即行動するのが、俺の持論だ。そんなことで、今日いきなり来てみたって訳だ」
秀一は少し戸惑った。芸能事務所ではないけれど、小さな会社からのスカウトだった。
「いや、でも、俺で大丈夫なんですかね?よく、わからないし、やりたい事もイマイチ分からなのに、いいんですかね?」
「なに、やりたいこと分かってる奴なんてそんなにいないぞ。いる方が珍しい」
「そうですかね」
「ああ。私もまさか駄菓子作るとは思ってなかったからね」
「なるほど。そういうものか」
「ああ。君と会話をして気づいたんだけれど、洞察力が鋭いよな?」
「洞察力が鋭い?どこ見て思ったんですか?」
「どこって、何となくそう思った。勘だよ。あと、君は、良い意味でフラットな気持ちの持ち主だと思う。その感覚は、仕事をする上で大事な能力になると思うな」
「フラットか。何かありがとうございます。こうやって声を掛けてもらって」
「礼はいい。一番は、雰囲気というかフィーリングだろうな。これも仕事では大事だと私は思う。これも持論だけどな」
人に何かを頼まれることは滅多にない。まして、会社の社長からうちに来てくれとの誘いがあったのも、縁という力だろうか。
誘いがあった一週間後、秀一は本屋を辞め、新しいスタートをもう一度切ってみる事にした。これも、行き当たりばったりのような気もするが、行き当たりばったりも生き方の一つと思いながら、秀一の二十二歳の春は始まった。
「今年の夏は暑くなりそうだな。とりあえず行ってくる」
「行ってらっしゃい。水分はこまめに取ってくだいさいね。私たちのような年寄りは、すぐ熱射病とか脱水症状になるんですから」
「ああ、わかってるさ」
妻から渡されたおにぎりと水筒を持ち玄関を出ると、太陽の光が目に飛び込んできた。
毎年夏が来るたびに、「今年は暑い」と同じことを繰り返しつぶやいているのは、ボケてきた証拠か、表現が下手なのかと考えながら、光芝五郎の背中はすでに汗で湿っていた。
街中で貰った団扇で仰ぎ、大きめの麦わら帽子を被り、首には長年勤めていた会社のロゴが入った手ぬぐいを掛け、片道十分の所にある町民プールに向かっていた。
本当ならこんな暑い時に、暑い場所で働く必要はないと思っていた。
定年を迎えてからは時間を持て余していた。持て余すと言うより、時間を毎日燃えるごみのように捨てていた。家に居てもすることがなかったので、酒飲みの友達に連絡をしたり、釣り仲間にも連絡をしたりていたが、単発の予定を埋めることは出来ても、平日の連続した時間を過ごすには足りなかった。スーパーのバックヤードやホームセンターの仕事にも興味はあったが、ああいう所はパートのおばちゃんや奥さん連中が多いのが慣わしかった。わざわざその中に気を遣って、逆に気を遣われて飛び込むほど、勇ましくはないし、人間関係の距離感を保つのが、面倒臭かった。会社員時代に気を遣い、遣われる事は、嫌というほどしてきたので、今はゆっくり過ごしたいのが本音だ。
なのでこの短期のバイトを役場のサイトから見つけた時は、すぐに応募した。人が殺到する訳ないしだろうし、今年の夏は隣のあおはる市にリニューアルオープンしたプールに客が流れているだろうと、光芝は考えていた。
「とりあえずこの夏だけだから、気楽にやるか。どうせ、お客なんてそこまで来ないだろう。そういえば、今日もう一人来るって役場の人が言ってたな。二十八歳の男性とか。二十八でバイトとは、たるんでるやつだろうどうせ」と考えながら、首元を滴り落ちる汗を拭きとり、生温かい風を仕方なく光芝は団扇で煽いでいた。
「死」が人の終わりだとしたら、「定年」は社会生活の終わりなのかもしれないと実感したのは、定年退職を迎えた日だった。光芝は、四十年余り勤めた会社に別れを告げた。通い慣れた道を、これからは歩く事もないのかと、少しだけ感傷に浸った。
人生の半分以上は、仕事をしていた。大企業に入り損ねた光芝は、中堅のお菓子メーカーに勤務をした。中堅とはいえ、他の国なら大企業に扱われるだけの規模を誇っており、光芝は取締役まで行くことが出来た。運があったとでも言えば良いのかもしれない。実力は自分でも分かっていた。普通だ。当たり障りない人柄と、大きな失敗もない功績が、害がないと判断され、経営に携わることになった。決してクーデター的な運動を行って、乗っ取ろうという野心も心意気もなく、穏便に済ませるのが、光芝の特徴だ。派閥争いには加担せず、自分なりの独自の人脈も社内外にそれなりに築いていた。そう、全部が「それなり」にまとめてきた人生だ。
思い返せば、いつも隣に「それなり」がいた。高校も第二志望の安全な選択を選び、大学は学校の指定校推薦で入学し、会社もさっき話した通りで、結婚だってまあまあ好きな妻と結婚して、娘が生まれて、嫁に出すまでの務めを果たした。
これはこれで良い人生を歩んできたと思っていた。
ただ一つだけ、後悔している事があるとすれば、三十年以上付き合いのあった企業を切り捨てた。それは、光芝含めた経営陣の厳しい判断だった。どうしても国内で生産するには割高になってしまうので、中国で以前から製造している日本の企業に切り替えた。味は、やはり日本の工場に負けるが、そこまでマズイわけではなかったし、この切り替えたことでコストが三割カットされた。企業運営とはそういうものだと、光芝は叩き込まれた。
取引を止めた企業は、潰れたということを退職してから知った。もう関係のないことだと分かっていたが、その後どうなっているのかはわからなかった。
「あれ、まだ来てないな。とりあえず部屋の中、クーラーで冷やしておこうかな」
秀一のポロシャツの色は汗で変色していた。ポロシャツをパタパタしながら、太陽で明るく照らされた外の景色とは違う、薄暗くて蒸し暑い部屋のエアコンのリモコンで電源を付けた。一年ぶりに使われるエアコンの音は、長い昼寝から目を覚ますように、大きな欠伸をしている音と、埃の匂いを出していた。
「冷えるまで時間かかりそうだから、プールの周りの石に、水でも撒いておくかな。裸足で歩くと、足の裏とか火傷するくらいになるからな。でも、こうやってプールを見ていると、何か昔を思い出すな。プールの周りを走り回ると、たまに足の指の爪がコンクリートに引っ掛かって痛かったな」
秀一はこのプールに子供の頃に来た事があった。よく友達と来た時の事を思い返しながら、ホースを納屋から引っ張り出し、蛇口に繋ぎ、勢いよく水を出した。ホースの出口を半分くらい親指で抑え、勢いをコントロールしながら水を撒くのは気持ちが良かった。
秀一は調子に乗りながら、水を撒く作業をしていると、プールの入り口から誰かが入ってくるのが見えた。顔は見えなかったが、大きな麦わら帽子を被っている人物だという事はわかった。その人物は部屋に荷物を置いたあと、秀一の方に向かってきた。
「どうも、初めまして。私、ミツシバゴロウと申します。これからよろしくお願いします」
帽子を脱ぐのは面倒だったので、首に掛けた手拭だけとり、光芝は軽く頭を下げた。
「あっ、おはようございます。じぶん、ウダツシュウイチと言います」
水の出ていたホースの先をプールに入れ、なぜか初対面の人に握手を求める習慣がここでも出てしまったと秀一は思った。向こうは「ん?」という表情になったが、すぐに笑顔で手を差し出してくれた。
挨拶もそこそこに、プールの監視の仕事に入った。プールの監視とは、プールで泳ぐ人だけを眺めていれば良いということではなかった。まず、消毒槽の掃除、更衣室の掃除、トイレの掃除、時間があれば周りの草むしり、入場料金の精算、入場者数のカウント、日報など数えれば細かい仕事が結構あった。プールの消毒は、役場の職員が二人より二時間くらい早く来て行っていた。水温が二十度以下、雨の時は、休業になることが決められていた。必然と二人も休みかと思えば、そうではなく、室内の掃除とお客が誰も来なくても監視室で夕方の五時まで勤務する決まりになっていた。これは決定事項であり、この辺りが行政の融通が利かない部分であり、今までそうやってきたからそれに従うだけだった。
「少し、休憩でもしませんか?」と、更衣室を掃除していた光芝の背中に、秀一が話した。
「そうだね。一応こっちの掃除もひと段落ついたから、休むとしようかね」
「そろそろ監視室の中も、冷房が効いて涼しくなってると思いますよ」
設定温度「二十六度」の部屋は、涼しくなっていた。
午前の営業が始まって一時間が経つが、お客はまだ来ていなかった。来たのは、虻とか蝉とか、小さな虫くらいで、風のない今日は水面が揺れる事もなく、黙って水しぶきが上がるのを待っているだけだ。
「よいしょと。しかし、あれですね。全然来ないですね、人」
秀一は来る途中に何本か買ってきたスポーツドリンクの一つを飲んだ。少しだけ飲んだつもりが、口を離してみると、三分の一しか残っていなかった。
「いやいや、体力に自信はあるが、暑いとなかなか体が動かないね。ウダツ君みたく、若い人が羨ましいね」
水筒から冷たい麦茶を注いで、一気に口に入れると幸せを感じた光芝は、もう一杯注いで、また一気に飲み干した。
「いえいえ、若いって、もう二十八ですよ。若くもないし、かといって歳だねとも言えない、微妙なところですよ」
「まあ、私から見たら、みんな若いよ。当たり前だけど。しかし、予想はしてたけどお客さん、こんなに来ないもんかね。始まったばかりだから、すぐに来るものでもないのかもしれないけど」
「ん~どうなんでしょうね。小学生とかは学校のプールに行くんじゃないですかね。やってれば。中学生、高校生は部活に遊びに、色々あるだろうから、わざわざ珍しくもない町民プールには、来ないと思いますよ。自分だったら、あおはる市にリニューアルしたプールに友達と行く方を選びますね」
秀一はリモコンで、設定温度を一度下げた。
「ハハハ。私でも向こうを選ぶだろうな。じゃあ、あれか?わしらがここに居るのは、何の意味もないんじゃな。お昼を食べて、終わりの時間が来るまでをテレビでも見ながら過ごしてれば良いんだろうな」
「それでいいんですよ。プールの臨時職員にあんまり応募もないだろうと思って応募してみたんですけど、やっぱり、当たってました」
「実は、わしも、とりあえず送ってみたんだ。即採用の電話が来たということは、君とわししか、いなかったんだろうな」
二人の雑談はしばらく続いた。
一週間お客さんは来なかった。
二人は毎日同じ作業をしていた。誰も使わない場所を掃除していたので、以前より綺麗になっていたのが、なんとも皮肉のように見えた。
「結局、最後まで誰も来ないかもしれませんね。来ると思います?」
「一人くらいは、来るだろう。一人くらいは。賭けてみるか?」
「いいですね。誰も来ないに、百円」
「じゃあ、十人以上来るに五百円だ」
秀一はお客さんを数えるカウンターを「カチカチ」と、二人分のカウントだけして、ゼロにして、また二人をカウントしての繰り返しを親指でしていた。
毎日の気温は三十五度付近まで上がっていた。より一層強く鳴く蝉の声が、誰もいないプールに響き渡り、その光景には侘しさも感じられた。
家で時間を持て余していたから仕事に出ているのに、返って家に居る時より時間を持て余している光芝は、持参してくるスポーツ新聞に目を通すことを楽しみになっていた。家に居る時と、変わらない光景であるが、冷房の利いた部屋でのんびり読むのは贅沢だった。
「光芝さん、テレビ点けていいですか?」
「構わないよ。気を遣わないでも大丈夫だから」
「ありがとうございます」
秀一はテレビのリモコンでチャンネルを変えていたが、面白そうな番組はやってなかった。仕方なくお昼のニュースを見ていると、隣の市民プールが取り上げられている映像が流れた。
「こちらは、今年の夏にあおはる市にリニューアルオープンしたプールです。見てください、この混雑。連日、多くのお客さんで賑わい、リニューアルした前と後では、五割増しでお客さんが来ており、お盆の頃には、さらに増える見通しのようです。次は、天気予報をお伝えします」
ニュースの映像を、二人は静かに眺めていた。
「向こうは、かなり人が殺到しているみたいですね」
秀一は手を首の後ろに回し、パイプ椅子に深く座った。
「景気の良い話だ。こっちはすいぶんとひっそりしたものだ。しかし、あんなに人が多くいたんじゃ、泳げないんじゃないのか?」
水筒から麦茶を出しながら、光芝は秀一に投げかけた。
「いや、人が多くいる所に行って、なんかこう、夏を楽しんでますみたいな気分にでもなりたいんじゃないですかね。泳ぎたかったら、ここで泳げばいいのに。一人占めですよ。水だって綺麗だし。あの人混みでは、水はかなり、いや間違いなく汚いですよ」
「そうだな。小さな子供は、色々しでかすからな」
「大きな大人も、色々しでかしますよ」
「それもそうだ」
二人は笑いながら、しばらくニュースを見ていた。
毎日一緒に居ても駄目な人、気が合わない人はいるが、二人の波長はどうやら丁度良いようだ。仕事や最近のニュースの事なんかを気兼ねなく二人は話していた。
光芝が昼ご飯を買いに部屋を離れ、秀一はコンビニで買ってきたおにぎりを食べていた。
「しかし、あのおじさん結構面白いな。しかも若いなあの人は、六十過ぎなのに。昔、お菓子メーカーで働いてたらしいけど、どこのメーカーかな。うちの会社と取引してたところじゃないよな、まさか。いや、それはないない。こんなプールで働く訳ないよな。仮にそこで働いてたとしても、だから何だって話だよな、いまさら」
おにぎりを一気に口の中に入れ、スポーツドリンクで流しこみ、胸をドンドンと叩いた。
プール近くのコンビニはお昼で混雑していた。
暑さで食欲がないので、おにぎり二個だけ持ってレジに並んでいた。
プールに帰ると、秀一は椅子に座りながらうたた寝をしていたので、光芝は起こさないように椅子に腰掛けた。
「毎日こんなに暑いと、さすがに参る。昼もおにぎりくらいしか食べたくないな。鰻屋でもたまには行きたい所だが、今日の夜も、ひやむぎで十分だな」
光芝は、冷えすぎた部屋のリモコンを取り、設定温度を一度上げた。
袋からおにぎりを取り出し、テレビの音量を少し下げながら秀一の顔を見た。
「この部屋は冷房が利いているから、昼寝には最適だろうな。あとで私も少し寝ようかね。それにしても、彼も色々大変だな。前に勤めていた会社が潰れて、つなぎでこの仕事をしてるって言ってたけど、気の毒だ。どこの会社に勤めていたのか、あとで聞いてみるか。もしかしたら、何か口利きみたなことも出来るかもしれんしな」
光芝は、彼に対して好意的な印象を持っていた。彼の年齢なら、自分の息子でもおかしくないくらいで、私みたいな引退した老人が出来ることはたかが知れているが、若者に何かの知恵くらいは与えられるだろうと、光芝は思うところがあった。
プールの営業が始まって十日余り経った頃、一人の少年がやってきた。秀一の掛けは外れた。小学四年生くらいの男の子で、後ろから秀一と同じ歳くらいの青年がやってきた。料金は監視室で払う事になっていたので、その人がこの部屋に歩いてきた。
「すいません。料金っていくらですか?」
「五百円です。小学生以下は、半額です」
秀一は椅子から立ち上がり、そちらに近づきながら、カウンターを「0004」にした。
「じゃあ、千円でお願いします」
「はい。じゃあ、お釣り二百五十円です。どうも」と言いながら離れようとした時、呼び止められた。
「なあ、秀一じゃない?秀一、だろう?」
「んん?」
振り向いて彼の顔を見ても、秀一は思い出せなかった。
「中学ん時同じクラスだった栗山タケシ。クリ坊って呼ばれてた」
秀一はイマイチ思いだせないでいたが、栗山の髪を坊主にしてみてやっと思い出した。
「おお、クリ坊。ゴメン、坊主のイメージしかなかったから、ピンとこなかったわ」
「ああ。中学ん時は、野球部は全員坊主って決まりだったからな。久々だな。でも、何でここにいるの?」
「ん、ちょっとバイトね。働いてたところが、潰れちゃってさ。つなぎでやってる訳よ」
「マジか。大変だな」
「まあな。そっちは、今何してんの?」
「今は橋本建設にいる」
「おお、かなりの大手じゃん。日本ではスーパーゼネコンでしょう」
「まあ、たいしたことないって。久々に日本に帰ってきたら、なんか地元の風景が見たくなってさ。三年も海外に行ってると、日本が懐かしくなるもんだわ、特に地元とか」
プールの方から飛び込んだ音がした。普段は飛び込み禁止だが、好きに泳いで構わないと秀一は思っていた。
「海外か。凄いな。どの辺り行ってたの?」
「いや、たいしたことないよ。同じアジアだから。マレーシアに行ってた。大規模なダム建設の国家プロジェクトに携わってたんだけど、俺の役割はひとまず終わったから来月から、東京本社勤務。向こうの暑さを体感すると、日本の暑さはそこまでじゃないって思うな。ここはマレーシアよりも東京よりも北だから、凄い涼しく感じる」
「そっか。そういえば、橋本建設って、あおはる市のプールのリニューアルに携わったんじゃなかった?」
「あっ、そうなの?外にいたから、イマイチ中のこと分かんないわ。それよりさ、今度飲もうぜ。久々にあったのも、なんかのあれだからさ」
「おう、そうだな。なんかのあれだしな。あの子は、お前の?」
秀一は水の中ではしゃいでいる子供を指差した。
「まさか。結婚してないし。親戚の子だよ。隣のプールに連れて行ったら、人混みが凄くてすぐに帰ってきた。まあここのプールは何にもないけど、静かだから連れてきた」
「そっか」
「じゃあ、またあとでな」
栗山は、監視室の奥に座っている光芝に会釈して立ち去った。
秀一は預かったお金をしまい、椅子に座った。
「友達だったのかい?」と、腕を組みながら光芝が尋ねた。
「中学の時のクラスメイトです。特に仲が良かった訳ではないですよ。光芝さん、なんで、昔の友人とか顔見知りに合うと、今何してるのとか、結婚はとか、子供はとか聞くんですかね」
プールの真ん中で親子の様にはしゃいでいる二人を見つめながら、秀一は尋ねた。
「優越感だろう」
「優越感ですか?」
「赤の他人より、少しでもお互いを知っている同士なら、なおさらそれはあるかもな。年収、綺麗な奥さん、将来性とか、住んでいる家とか、身に付けているモノとか。比べたいんだよ、身近な人で。私も、そういう時があった。これは誰にでもある、普通の感覚だと思うんだが。君だって、良い会社で働いて、たくさんお金を貰って、綺麗な奥さんと結婚したいと思うだろう?」
「正直、それは思います。さっきも、あの彼、栗山って言うんですけど、少しだけ羨ましいなと思ったんですよね。今の自分がこんな状況だから、なおさら。きっと、もっと仲の良かった奴と再会しても同じことを思うんだろうなと」
秀一はスポーツドリンクを喉の音を鳴らしながら飲んだ。
「ハハハ。その歳で、しんみりするのはまだ早い早い。そのくらいの歳ならまだまだ勢いだけで通用する。しんみりするのは、わたしらみたいな高齢者になってからでも遅くはない。何回失敗しても、何回でも始めればいい。自由だ」
「そうですね。そうですよね。何回もやればいいんすよね」
光芝は知っていた。秀一に投げかけた言葉は、彼の為ではなく自分の為に放った言葉だと。それなりを歩んできたから分かる事がある。それなりでは、やっぱりもったいないと思ったからこそ、秀一に何かを伝えたかったのかもしれない。
テレビから午後の情報番組が流れていた。秀一は少しだけ音量を上げた。
結局、栗山とは連絡先を交換しなかった。
これから先、会う事はないような気がする。
それから五日が経った。
栗山を最後に、また静まり返ったプールは今日もそこにあった。夏の桜もお盆頃には咲き誇ると天気予報で言っていた。お盆に先祖が帰ってくる時に、桜があった方が喜ぶだろうと誰かが思ったのかもしれない。
曇り空の今日は蒸し暑く、午後からは雨が降るそうだ。午前中は、光芝さんが私用で休みだったので、ただ座っているのも退屈だったので、秀一はプール周りの草むしりをした。
午前中の作業を終え、監視室に戻ったが、光芝はまだいなく、いつも座る椅子には、光芝のタオルだけが掛っていた。そのタオルを何気なく、秀一は眺めた。
「平成製菓って、うちと取引あったところだよな?」
自問自答しながら、椅子に掛っていたタオルを広げ、もう一度確認した。
「平成製菓だな、やっぱり。あのおじさん、ここに居たのかな」
秀一は、少しだけ複雑な気持ちになった。話が合うおじいさんは、自分に良くしてくれた社長の会社を見捨てた会社に勤めていたのかと思うと、そのタオルを秀一はゴミ箱に投げてしまった。何もなかったように昼ご飯でも食べようとした時、携帯が鳴った。
「はい、もしもし」
「光芝だけれども。お疲れさま。午前中休んで悪かったね。午後いちに間に合うように行くから」
「いえ、そんなに焦らなくても大丈夫ですよ。いつものように、誰も来てないですから」
ゴミ箱に入ったタオルを横目に、秀一はおにぎりのビニールを剥いていた。
「そうか。とりあえず、今から向うからよろしく頼むよ」
「わかりました」
携帯をテーブルに置き、おにぎりを口にしようとした時に、また秀一の携帯が鳴った。
「また何かありましたか。ゆっくで、大丈夫ですよ」
ワンテンポ遅れて声が聞こえてきた。
「おう、元気か?」
この嗄れ声は、光芝ではなく吉野製菓の社長、染井一男の声だった。
「あっ、久しぶりです。すいません、何んか変なこと言って」
「いや、急に電話掛けて悪かったな。どうだ、調子は?」
「はい、それなりです。社長は?」
「元社長だけどな。お前と同じで、それなりだ。仕事、どうだ?見つかったか?」
「いや、まだ探している所です。今は、うつろい町の町民プールの臨時職員やってます。プールの監視なんですけど、お客が二週間で二人しか来ないんですよ。ほんと、暇ですよ」
「そっかそっか」
染井一男は上の空で秀一の声を聞いていた。
「話変わるんですけど、うちのメインの取引先だった会社って、どこでしたっけ?」
「どうした急に?突然だな。うちは、平成製菓がメインだった。向こうは中国の工場と取引を始めたらしいが、イマイチ美味しくないって評判らしい」
少しだけ鼻で笑った声を、秀一は聞き逃さなかった。
「突然悪かったな。今度、久々に一杯飲やるか」
「はい、ぜひ」
「じゃあ、またな」
染井の電話は、五分程度で終わった。何か用事でもあったのではと考えながら、昼ご飯を続けた。電話の背後から、スーパーで流れているアナウンスが微かに聞こえたが、それは今付けているテレビからの声だろうと思った。
光芝は、少し体調不良だったので近所のヤブ医者に来ていた。軽い夏バテと診断され、冷たいものばかりでなく、たまにはコッテリしたものでも召し上がりなさいと言われた。
帰りに、蕎麦屋で天ざるでも食べてみるかと思いながら、ざる蕎麦を注文していた。
「いまいち、駄目だな。油っこい天ぷらでも食べようかと思ったが、メニューの文字を見ただけで、胸やけがするな。やっぱり、歳だな」
ズルズルと啜りながら、薬味のネギを足した。
妻は、久々に遊びに来ていた娘とイタリアンのランチに行くと言って浮かれていた。昼間からアルコールを飲むのが、ちょっとした贅沢らしい。働いている人を横目に、優越感にでも浸るのだろうかと考えながら、光芝はテレビの方に顔を向けた。
「次のニュースです。今週、相次いで平成製菓の麩菓子から、小さな金属片やゴミなどの異物混入があると、苦情が相次いでいる模様です。調べによると、製品は中国製の麩菓子だそうです。以前は、国内の工場で生産していたそうですが、中国製に切り替えてからこの様な現象が起こっています。平成製菓は、先程記者会見を行い、一連の出来事について謝罪を行いました。原因は、現在調査中とのことです」
光芝はしばらくニュースを眺めていた。かつて自分の居場所だった所で、何かが起きていた。ここ一年くらいで平成製菓の株価は半分ほど下がり、品質にも精彩を欠いているように見受けられた。主な要因として、お菓子の不振にあると考えていた。光芝は、やはり中国なんかに任せたのがいけなかったのかと思った。
それを決めたのは光芝含めた経営陣なのだが。
午後いちに間に合うようプールに着いた光芝は、早速更衣室や草むしりに勤しんだ。午前中秀一に色々やらせていた手前、光芝は休んでいるように言った。秀一は、それを聞き入れ履歴書や職務経歴書を書いていた。次の就職先に送るやつだろう。
天気予報は意外と当るものだ。
三時過ぎから小雨がパラパラと降り始め、すぐに本降りになった。夏特有の三十分程度の雷雨とは違い、本格的な雨だ。今日はもう何もすることはないと、二人は考えていた。
雨の音が激しくなる。雨粒も大きく、一段と雲の厚さが増すと同時に暗さも増してきた。かと言って、電気を付けるまでの暗さではなく、テレビの明かりが異様に眩しく秀一は感じていた。
テレビでは、異物混入の続編のニュースが流れていた。
「次は、平成製菓の商品における異物混入事件の続報です。警察の記者会見で、商品に異物を混入する人物の映像が報道陣に公開されました。公開された映像は、某スーパーの映像です。犯人は、六十歳前後の男性で、痩せ型、身長は一七〇センチほどです。平成製菓の商品は数十種類あるにも関わらず、なぜか麩菓子だけに異物を混入する、特異な考えの持ち主と思われます。映像を世間に公開して、一般市民の方にも広く情報の提供を呼びかけております」
二人は黙って見ていた。
早くとんでもない犯人を捕まえて欲しいと願う光芝と、映像に映る男性に見覚えがあるなと思う秀一の心模様が、天気に表れている気がしていた。
唐突に光芝が、「さっきの、平成製菓。以前、わたしが勤めていた所なんだよ。あおはる市のプールの出店にも、平成製菓がお店を出してる。冷たいデザートをメインに」
秀一は思わず心の中で、「やっぱりそうだったか」と思った。
「嫌だね、自分が働いていた会社が事件に巻き込まれるのは。三〇年以上働いたから、嫌でも愛着は湧くもんだ。早く、犯人が捕まるといいね。ねえ?」
同意を求められた秀一は、曖昧に「そうですよね」と返事をした。
「私は、取締役までになり、経営に携わった。良い経験をしたと自分では思っているけど、一つだけ、心残りがある。取り引きをしていた会社と手を切った事だ。わたしも賛成の方に挙手をせざる負えなかったんだが、やっぱり今でも、正解だったのか分からない。経営なんて、そんなもんだって言われる度に、そうだろうかと思っていた。私は、ただ、それなりの考えしか持っていなかったから、私には解決は出来んかったろう」
スポーツ新聞を広げながら、水筒のお茶を飲んでいる光芝が、なぜか秀一は憎かった。
雨は止む気配がなかった。
終わりの時間を向かえ、戸締りをしながら各々の荷物を片付けていた。光芝の方が先に荷物をまとめ、「じゃあ、おつかれさん」と部屋を出ようとした時、秀一が呼び止めた。
「あの、光芝さん。さっきの手を切った会社って、何ていう会社なんですか?」
麦わら帽子を被ったまま光芝は振り返った。
「吉野製菓っていう所だよ。美味い麩菓子を作ってたんだよ。わたしは、好きだったな、あの懐かしい味。甘いだけじゃなく、香ばしくて、コクのある甘さがね。染井さんにも一度だけ会ったことがあった。腰の低い方で、技術職の人にしては結構おもしろかった記憶がある、話が。今、何してるんだろうな、染井さんは」
秀一も荷物をとり、光芝より入口に近いところまで行った時に光芝の方に振り返った。
「なんか元気そうでしたよ。声を聞いた感じでは」
?マークが光芝に浮かんだ。
「俺、そこで働いてたんですよ。まあ、もうないんですけど。お先に失礼します」
光芝は、部屋から出ていく彼の背中をただ見送った。二八歳でアルバイトなんてと思っていた自分の言葉を撤回したかった。彼も会社も、少なからず私のせいで狂ったはずだった。わたしは、それなりの選択でも、こうやって生きている。こういう出会い方ってあるんだなと思いながら空を見つめた。
雨は強さを増していた。
人が来ないプールは、今日も太陽の光だけを浴び、輝いている。中で泳いでいるのは、小さな虫とか、力尽きた蝉だけだった。
微妙な距離感が二人には生まれていた。会話はほとんどなくなり、二人とも声を失ってしまったのかと思うほど、作業をする時も、お昼ご飯の時も静かだった。テレビを点けて誤魔化しているのがいつまで続くのだろうと光芝は思いながら、ここは年長者が口を開くべきだろうと思った時、秀一が久々に声を発した。
「あおはるのプールは、今年最高の人出らしいですよ。さっき、ニュースでやってました。ここは、最後まで暇なんでしょうね、おそらく」
「そうかあ。少しくらい、ここにもお客を分けて欲しいものだな」と、光芝はつまらない返しをしながらも、時計の針が進んで行く事に感謝した。
「この間は、変なこと言って、すいませんでした。気にしないでください」
「いや、君が謝ることじゃない。うん。うちの会社が手を切ったからだ。それは、うん、だからわたしの方こそ謝るべきなんだ。申し訳ない」
椅子に座ったままではあったが、光芝は秀一の目を見ながら頭を下げた。
「いや、その、頭上げてください。俺、光芝さんを恨むとかではないんですよ。最初、平成製菓って聞いた時は、さすがに嫌な思いをしたのは事実ですけど、まあしょうがないのかなと思うところもあって」
「いや、でもな、君ん所の麩菓子は、わたしは好だったんだよ。懐かしい味が」
「いや、そう言ってもらえると嬉しいです。ほんと」
「ただ、今は申し訳なったとしか言えない、わたしからは」
秀一は、自分が褒められた気分に少しだけなったが、同時に妙な違和感が湧いた。
「例えばなんですけど、取引が打ち切りになったからといって、すぐに会社って、回らなくなるものなんですか?」
突然の質問に「ん?」と、光芝は声を漏らした。
「それは会社によるんじゃないだろうか。一社としか取引してなければ、潰れるだろうし。複数の会社と取引があれば、そのうちの一つが無くなるだけだ。会社はリスクを分散させなければならないから、あまり特定の一社に偏った取引はしないのが基本だろうな。リスク管理というやつだ」
「そうですか」
秀一は、あの会社のことを思い出していた。確かに零細企業だったが、経営バランスは悪くなかった気がする。経理も少し担当していたので帳簿も見た事はあった。あの人は変に現金主義があったので、買掛金も十万くらいしかなかった。現金の残高は、三千万以上はあった気がする。記憶に間違いがなければ。ペン回しをしながら物思いにふけっていると、光芝は手を差し伸べるように質問してきた。
「吉野製菓ほどの品質があれば、他の会社とも取引していたのでは?」
「ええ。十社くらいとしていました。色々なお菓子メーカーの人とも会ってました。実際、そこから契約に至るケースにもありましたしね」
「そうか。いや、企業が企業と付き合う時ってのは、その会社の財務状況も気になるもんだ。あんまり危なそうな会社とは付き合わない。いくら品質が良くても。じっさい、中国製に切り替えるまで、吉野製菓は安定していたはずだが、潰れてしまった。世の中は、やっぱり分からないな」
齢を重ねた人が言うのだから、もっと生きてみないと分からないことが山ほどあるんだと、秀一は感じながらも、頭の片隅ではこれから何をしようかと、大学を辞めた時のことを思い出していた。
「宇田津君は、この町の出身かい?」
「えっ、まあ。そうです」
「高校は?」
「高校は、あおはる市の青葉高校です」
「青葉かあ。私も青葉なんだよ。じゃあ、私の後輩になるんだな」
「偶然ですね。先輩とこうやって話すなんて」
「先輩といっても何十年も上だから、あんまり関係ないだろう。遠い昔の思い出だ」
「その後は、どうしたんですか?」
秀一はペン回しを繰り返ししていた。
「指定校推薦で、たそがれ市にある青葉学院大に進学した」
「そうだったんですね。奇遇にも、自分も推薦でその大学に途中まで行きました」
「途中とは?辞めたのか?」
「はい。何か、行ってどうなるって訳でもなかったし、だからと言って辞めてどうなる訳でもなかったんですけど。多分、自分で色々考えたかったんだと思います。それで、思ったのは、結局自分は普通の幸せが好きなんじゃないかと思ったんです。その時に、今の、染井さんの会社に引っ張られた時の事は、今でも覚えてますし、これからも感謝し続けると思います」
光芝はやはり悪い事をしてしまったという気分に再び陥っていた。
「そうか。すまなかった。君の恩人に悪い事をした」
「いえ、もうそれは、うん、大丈夫ですから」
唐突に「君も、それなりの幸せが好きか?」と光芝は、秀一の目を見ながら訊いた。
「君もっていうのは、どういうことですか?」
「わたしは、それなりの人生を今の今まで歩んできた。それはそれで幸せだった。これが良いじゃなくて、これで良いと思うものを選んできた。自分の意志で。でも、宇田津君、君には、これが良いと思えるモノを選んでほしい気がするな。これは、年長者のアドバイスとして。年寄りのたわごとだと思って」
「これが良いっていうモノですか……。あるんですかね、そういうの」
「あったな、わたしは。でも、選ばなかった。選べなかったのではなく、選ばなかった。そっちの方が楽だからね。後悔を全くしていない訳ではないけどね」
「そうですか」
しばらく秀一は、目を閉じながら物思いにふけていた。
することがなくなり、秀一はいつものようにスポーツ新聞を眺めていた時に、事務所に設置してある電話が鳴った。この夏初めて鳴る電話だった。
「もしもし、こちらうつろい町民プール監視室です」と、光芝が電話に出た。
「お疲れさまです。役場企画課の田中です」
「ご苦労さん。ここの電話が鳴ったのは、あんたが初めてだよ。で、何かあったかい?」
「いえ、お客さんの入りどうだろうと思いまして、電話してみました。すいません、忙しかったですか?」
「いや、今日も暇だよ。お客はいないからね。蝉とかくらいならプールに入ってるけど」
「ハハハ。光芝さん、ユーモアが効いてますよ。まあ、今年で終わるプールなんでしょうがないです。それに隣のレジャープールに人がほとんど流れてますからね」
「まあ、そうだな」
「それじゃあ、頑張ってください。暑いんで、小まめに水分補給してください。宇田津君にもよろしくお伝えください。それでは、失礼します」
「はい。ご苦労さん」
光芝は、受話器を置いて軽く両腕を挙げ、背筋を伸ばした。
「なんか、用事でもあったんですかね、田中さん?」
秀一はスポーツドリンクを飲みながら言った。
「いや、何にもなかったな。向こうも暇なんだろう。軽い詮索だろう」
「そうですか」
暇な二人は、椅子にもたれながら軽い睡魔に犯され、気持よさそうに寝てしまった。
冷房の効いた部屋には、クーラーの音と冷蔵庫の音、点けっぱなしのテレビの音だけが目を覚ましていた。
テレビからは、異物混入のニュースが流れていた。
「平成製菓の異物混入事件の続報です。犯人と思われる映像が公開されてから、続々と警察に情報が寄せられています。事件のあったスーパーの駐車場には、必ず白い軽トラックが止まっていた事がわかりました。なぜ、これほど多くの人の印象に残っているのかを調べていきますと、軽トラックには、サクラのロゴマークが運転席と助手席に付いていたと、目撃者は皆話しています。その軽トラックを中心に警察は捜索を行っています」
プールの営業がもう少しで終わる。
夏は短すぎるのに、心に留めておくには深い季節だから、みんな夏の思い出を忘れられないのだろうか。
秀一は吉野製菓を調べていた。本当に潰れる必要があったのか、猜疑心がずっと脳裏に張り付いていた。光芝にも協力してもらい、吉野製菓との取り引きに使われていた財務状況の資料を特別に見せてもらったが、やはり健全な経営だと素人が見ても判断出来た。
「すいません、なんかこんなことに巻き込んで」
「いや、わたしにも責任がある。君を、路頭に迷わせてしまっているから」
「いえ、何となく平成製菓との問題というより、社長自身の問題にあったように思います。この資料や、色々調べた内容からも」
光芝は腕を組みながら渋い顔を終始していた。
「確かに、この資料では健全な経営だ。じゃあ、どうして潰れてしまったのだろうか。何か思い当たる節はないかい?」
「ないですね。飲みに行ったりはしましたけど、プライベートまでは詳しくは分かりません。お金の話は一切しない人でしたから」
「そうか」
消えたお金は、どこに行ったのか秀一は考えていた。社長の会社だから、お金をどうしようが、別に良いと思っている。ただ、秀一と他の社員も路頭に迷わせるほどのことを、裏で行っていたとなると話は違ってきた。
一本の電話が監視室に鳴り響いた。
「はい。うつろい町民プール監視室です」と、光芝が出た。
「あの、秀一いますか?栗山と申します」
受話器から耳だけを離し、光芝は秀一に「栗山っていう人から電話がきてるんだが、知ってるか?」と聞かれ、「あっ、はいはい。変わります。この間、ここに子供と一緒に来て人ですよ」と秀一は受話器を受け取った。
光芝は思い出して首を「うんうん」と縦に振っていた。
「もしもし。どうしたの、こんなところに電話して来て?」
「あっ、悪り悪り。この間さ、連絡先交換しそびれたから、ここに電話すれば出るかなと思ってさ。忙しかった?」
「お前さ、忙しいと思ってんの?」
「いや、この間行ってるから知ってる」
「だよな。なんかあったか?」
「いや、いつ飲もうかと思ってさ」
「マジかよ。飲みの為に電話してきたのか?」
思わず秀一は笑ってしまった。
「マジマジ。まあ、飲みの話はついでにというところかな」
「ついでとは?」
「お前さ、吉野製菓っていう会社で働いてなかった?」
「えっ?」
栗山には失業した事しか伝えていなかったのに、なぜそこまで知っているのか秀一は父不思議に思った。
「なんで知ってんの?この間、失業している事は話したけど、会社のことは……」
「うちさ、隣のあおはる市のレジャープール施設の建設に携わってたのは知ってると思うけど、あおはる市は地元の企業とか雄志とかに建設の出資を募ってたみたいなんだ。その出資会社や個人データの中に吉野製菓があって、データには、会社名と代表者と従業員の名前を書く所があって、そこに宇田津秀一の名前もあったから、まさかあの宇田津秀一じゃないよなと思って、それで確認で電話してみた」
「なるほどそういうことか」
秀一はお金が無くなったのは、出資したからなのだと思っていた。
「ただ、お前ん所、プール建設の出資の他にも、プール内に出店するスペースを確保したくて、結構、市長とか市議員にも便宜を図ってたらしいよ。あくまで噂だけど」
「なにそれ?俺は、初耳なんだけど。なあ、もう少し詳しく調べてくれないか?」
「分かった。また何か分かったら電話するよ」
「おう、頼む。今度おごるからさ」
「ああ。期待している」
秀一は電話番号を教えて受話器を置いた。もう会う事はないと思うと言った事を撤回したかった。栗山に感謝した。
「なにか分かったか?驚いた様子をしてたけど」
光芝が顔を窺うように聞いた。
「うちの会社が潰れたのが何となく分かりました。何となくなんですけど」
「そうか。で、どういった理由が原因だったんだ?」
「それは、」
秀一の携帯が鳴り、画面を見ると「染井社長」からの着信だった。
「すいません、染井社長からなんで、出てもいいですか?」
「ああ。大丈夫だとも」
四回目のコールで秀一は出た。着信音が何か落着きなさを奏でているように聞こえた。
「もしもし、俺だが、今大丈夫か?」
「はい大丈夫です。どうかしました?」
ちょうどその時、テレビで緊急速報が流れた。
[平成製菓による異物混入事件で、元吉野製菓社長、染井一男を全国に指名手配]
同じ内容のテロップが二回流された。
二人は黙るしかなった。
「しばらくここを離れるから、お前の顔を見ておきたいと思ったんだがな」
秀一は動揺しないように努めて冷静に話を続けた。光芝は、電話の相手に音が漏れないように、音量を消した。緊急速報のテロップは、また流れていた。
「どこかに行くんですか?旅行かなにか?」
「うん、まあそんな所だ。今、プールの監視のバイトしてるって言ってたな?」
「はい、そうです」
「プールの営業は何日で終わるんだ?」
「二十五日が、最後の営業日です」
「そうか。じゃあ、その日の夕方にプールに行くわ」
「わかりました。待ってます。また、今度飲みに行きましょう」
「うん、ああ、そうだな。ちょっと忙しいから切るわ」
急いで切られた電話が、ことの重大さを物語っていると秀一は感じながら、音の出ない受話器を見つめていた。
二人はただ椅子に座っていた。
夕方の空には、早くも月が出ていた。橙色の空は、やがて青く染まっていく。ソメイヨシノは予想通りお盆の頃の満開を迎え、プールの営業が終わる頃に散っていく。ツクツクボウシの声や早めの鈴虫が近くの森や雑草から聞こえた。
戸締りをして、互いに別の方向に帰ろうとした時、光芝が秀一に話しかけた。
「どうするつもりだ?警察には、連絡はしないのか?」
一瞬、間をおいてから秀一は、強い意志持って話した。
「しません。二十五日に会う約束してるんで」
「そうか」
光芝は何も言わず後にした。秀一も家に向かって歩き始めた。月の明かりが二人を照らし、今どこにいるか分からない染井の事も照らしていた。
三人に見えている月だけは、偽りのない本物だった。
暑さのわりに湿度が低く、地中海のカラッとしたような天気でもお客は来なかった。一応、役場の田中さんだけは、お疲れ様でしたという事で顔を見せて役場に戻っていった。戸締りの確認と終わったら鍵を役場に届けてくださいという言葉を残して。
午後からは、片付け作業にはいった。ゴミを捨てたり、最後に周りの草むしりをしたり、プールに有終の美を飾ってもらおうと感謝の意を込めて作業にあたった。
秀一の電話がなった。栗山からだった。
「もしもし、今いいか?」
「ああ。今日でプールの営業も終わりなんだ」
「そうか、実はさ……」
五時を迎え、今年のいや三十年余りの営業を終えた。光芝と秀一はプールの脇に立った。秀一は水面に浮かぶ夕陽を見つめ、光芝は夕陽が沈む西の方を眺めていた。
「無事終わりましたね」と、秀一は水面に顔向けたまま光芝に声をかけた。
「終わったね。お疲れさん」と、光芝は空を見ながら返事をした。
六時前に軽トラックがプールの駐車場に止まる音がした。サンダルのペタペタした音が響き、プールの扉を開ける音がして、そのまま秀一と光芝がいる所に彼は姿を見せた。
「お疲れ様です。社長」
「社長はよせよ。元、社長だ。そちらは?」
苦笑いを見せながらも、様子を窺うように光芝を見つめる染井の姿があった。
「初めまして。私は、秀一君とここのアルバイトをしていた光芝という者です。秀一君からは色々伺っております。前の会社や、あなたの事を」
「そうでしたか。どうも初めまして、染井一男といいます」
染井は光芝に握手を求めた。互いの掌は汗で湿っていた。
「社長、これからどうするんですか?こんなところ見られたら警察に見つかるんじゃないですか?」
染井は頷くだけだった。ラフな格好をしていた。とてもこれから遠くに逃げ抜くような格好ではなかった。
「知ってたか。まあ知ってるだろうとは思ったが、こんな形で会うとは。あの、本屋で始めて会った日が懐かしい」
秀一は遠い日の記憶を思い返し、胸の辺りが少し熱を帯び始めていた。なぜこんなことになったのだろうと現状を嘆かずにはいられなかった。
師匠と弟子の再会の様子を伺いながら、光芝は突然麦わら帽子を脱ぎ、頭をゆっくり下げた。
「すまない。吉野製菓が潰れたのは、平成製菓が手を切ったからだ。私は、以前そこで働いていた。そして、君の会社との契約打ち切りに同意した一人でもある」
さっき握手を交わした染井の掌は自然と拳になり、再会を懐かしんでいた柔らかな表情から顔が引きつった表情に変わり、突然光芝に向かって殴りかかった。咄嗟の出来事に反応出来なかった光芝は、防御すら出来ずに左頬を打ち抜かれた。口の横から血を流しながら倒れこんだ光芝を、染井は蔑む表情で、今からナイフで仕留めようかという表情だ。
「まさか、平成さんで働いてた人がいるとは。まだ自分にも何かあるのかもしれない。なあ、光芝さん?謝って終わりだと思ってるんですか?」
倒れこんだ光芝に跨りながら染井は胸倉を掴み、右手を振りぬこうとした時、秀一に後ろから掴まれた。掴まれた拳を見ながら、秀一の方に目を移した。
「秀一。この光芝さんていう人は、うちの会社を棄てたんだ。それでうちは潰れた。だから殴った。理にかなってるだろう?お前も、他の社員も、みんなここのせいだ」
秀一の力に負けじと、染井は右手を振り抜こうとしていた。秀一の右手は一層、染井の手を力強く握りしめ、蔑む目で染井に言った。
「本当は、あおはる市のレジャープールの出店に便宜を図ろうとして、市長にお金を渡していた。それにも関らず、そこの場所はなぜか吉野製菓ではなく、平成製菓に渡ってしまった。理由は、平成製菓が吉野製菓よりも多くのお金を積んだから。今まで市長に渡した金を返して貰おうと話し合いを持ったが決裂。その後に市長の圧力で、平成製菓が吉野製菓と手を切った。これが本当の理由なんですよね?社長?」
一瞬、染井の拳の力が弱まるのを秀一は肌で感じていた。
「なんで秀一が、そのことを知ってんだ?」
「まあ色々なところから」
さっきの栗山の電話で聞いた内容だった。
「じゃあ、なおさら殴らせてくれないか?おれは、こいつらに邪魔ばかりされた。昨日の味方は今日の敵っていうけど、あれは本当なんだな。自分で身をもって経験すると分かりやすいな」
秀一はそれでも手を離さなかった。
「もういいんじゃないですか?異物混入して評判を落とし、信用も落としたから。満足ではないんですか?」
光芝は口を開いた。
「秀一君、右手を離してくれないだろうか?いいんだ。殴られても」
「なに言ってんですか?」
「いや、染井さんの気持はわかる。簡単に分かると言ってしまうと申し訳ないが。うちがそこまで邪魔をしていたとは、本当に申し訳ない」
「いや違いますよ、光芝さん」
「いやいいから、もう。染井さん、あんたの気持はその拳で晴らしたらいい。私はね、それなりに生きてきた。染井さんみたく、何かに一生懸命に生きてはこなかった。それなりが、一生懸命の邪魔をするのは間違ってる。だからわたしは、一生懸命にあんたの気持を晴らされる為に、覚悟をしている。ただ一つ言わせてほしいのは、染井さん、あんたの所でつくるお菓子は、どれも美味かった。特に麩菓子の味は、忘れないだろう、いつまでも」
染井は、跨るのを止めて、光芝の横になって、急に笑みを浮かべた。
「ああ、もう疲れた。いいや。もう終わり終わり。最後に秀一に顔を見てから、出頭しようと思ってたんだけど、まさかこんな展開になるとはな。すいません、光芝さん。殴ってしまって。ほんとうは、うん、自分が悪いのは分かってるんですけど、どうしても人のせいにしたくなって、つい」
「誰かのせいにしたり、何かのせいにしたりするのは格好悪い事ではないよ、染井さん」
秀一も横になって夕方の空を眺めていた。
「俺も一緒に付いていきますか?」
「いや一人で大丈夫だ。それに金を渡していたっていうデータも一緒に持っていく。あと、光芝さんを殴ったことも話す」
光芝は起き上がり、左頬をさすっていた。
「わたしは大丈夫だ。すこし転んだだけだ。歳なもんで足がよろめいた」
染井は横になりながら鼻を啜っていた。
「また、スタート切れるのかね、俺は」
「もちろん切れますよ。俺は少なくともあの時、もう一度動き出せたんで」
「そうか。いつからでも、か」
三人は切ないけれど笑える事が出来た。
暖かい南風に少し冷たさを感じた。秋の気配も少し感じながら、プールの水面には風で運ばれたソメイヨシノの花弁が浮かんでいた。夕焼けに生える桜は、春とは違う力強さを感じる。
横になった三人に、桜の雨が降り注いでいた。
テレビでは、異物混入事件の犯人が出頭したと連日報道が過熱していた。加えて、あおはる市長に対する多額の賄賂が明るみになり、市長以下市議員は逮捕された。
賑やかだった隣のプールは、事件に煽りを受けむこう五年間は閉鎖される事になった。議会の賛成多数で決まったそうだ。
うつろい町民プールの存続はされることなく、同時期に二つのプールがなくなる。
秀一は就職活動を行っていた。光芝は、またいつもの暇な日々を過ごしながら、アルバイトを探していた。今度はプール以外のアルバイトを。
栗山と秀一と光芝は定期的に飲み合う程の仲間になった。
染井一男は、これから裁判を迎える。宇田津秀一も光芝五郎も情状酌量を求める。
プールが取り壊される頃に第一回目の裁判が行われる。
その頃プールの取り壊しが始まる。もう誰も気にとめないプールが壊されていくが、少なくとも三人にとっては、忘れることはない場所だろうし、それぞれにとってもう一度始める為の期間だったのではないか。
ひと夏の青春は大人になってからでも味わえるものなのかもしれない。
青春の夏は、ガラスの瓶に閉じ込めて 久芝 @hide5812
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