光 194

「で、だね」






 テーブルにおでこをくっつけて冷やしてた耳に届いた天ちゃんの声は。






「鴉。明後日杏奈さんのところに行くよ」

「………えっ⁉︎」






 僕にもう逃げられない現実を突きつけた。






 明後日。






 明後日ってもう明後日じゃん。






 明後日って期限に思わずがばって顔を上げて、じわじわやられてる。明後日の威力に。



 やられてついに下を向いた。向いちゃったよ。下を。



 テーブルとにらめっこ。






 今日はもう午後の1時を過ぎた。



 その残った今日、明日明後日。の、次の日。






 僕はその日、山をおりる。






 そう考えると、そう考えなくても、すぐ。



 それで分かる。ここじゃない山の下での僕の今。現実。これから。父さん。






「ぴかるん?」






 山をおりる。



 鴉の踏み出した2歩目を見て、行ってらっしゃいとおかえりとお疲れさまを言って、きっとまた変わる顔を見て、勇気をもらって。






 おりるって決めたんだろ⁉︎決めたんでしょ⁉︎僕‼︎






 明後日。だから明明後日。






 僕はぎゅって拳を握って、ぐってお腹に力を入れた。






 うだうだ言うのやめろ‼︎僕‼︎決めたことはやれ‼︎



 いつまでもここに居たらダメ‼︎絶対ダメ‼︎



 これからも鴉と天ちゃんとみんなと居るなら‼︎






「天ちゃん」

「うん?」

「鴉が行った次の日、僕は山をおります。だから………だから、迷わないよう下まで連れてって下さい。お願いします」






 僕は下を向いたところからさらに頭を下げてお願いした。






 迷ったら困るし。遭難はシャレにならないし。



 って言い訳の、理由の、ぎりぎりまで居たい。一緒に。みんなと。って、願い。






「えらいね、ぴかるん」

「………へ?」






 何時に、とか、どこまで、とか。



 そんな話になっていくのかと思ってたら違って、僕はあれ?ってなってちょっとおまぬけな声が出た。






「えらい。すごい。カッコいい」

「て………天ちゃん?」






 何で褒められてるの僕。






「さすが鴉の嫁」

「だから嫁じゃないっ」

「じゃあ婿」

「だーかーら‼︎僕たち結婚はしてないし、できないってばっ」






 褒められからの、からかい。






 言い返した僕に、天ちゃんがうぷぷって変な笑いをした。






 褒めからかいからの、次は笑い。






 いつもの空気に戻ってく感。






「ちょっと天ちゃん‼︎何で笑うの⁉︎」

「だってぇ〜、ぴかるん今さぁ〜?」

「別に笑われるようなこと言ってないよ⁉︎」

「言ったよ?」

「言ってないよ‼︎」

「言ったよね〜?ね?鴉。ボクたち結婚『は』してないって」

「へ⁉︎」






 天ちゃんのツッコミに、思う。



 だってしてないじゃん。結婚は。






「結婚『は』ね、うんうん、確かにまだしてなかったねぇ〜。結婚『は』ね」






 うんうんって頷きながら、天ちゃんがすんごいにやにやにやした。



 にやにやにやにや。



 にやにやにやにや。



 うぷぷぷ。ぐふふふ。






 え。



 ちょっと待って。



 ちょっと待って‼︎



 ちょっと‼︎待って‼︎






 言った。『結婚はしてない』って。



 言ったよ間違いない、確かに僕‼︎






 結婚はしてない。



 ………結婚はしてない。






 結婚『は』してない。






『は』って、じゃあ何ならしてるって言うの⁉︎



 無意識に僕何言ってんのおおおおお⁉︎






 思わず僕は、うそだあああああって頭を抱えてじたばたした。






「まあそれは置いといてさ?逃げることだってできるのに、逃げないぴかるんはすごいって、天ちゃん本当に思ってるよ?」






 ひっ…人がこんなにも取り乱してるのに。



 人をここまで取り乱したのに。



 信じられないぐらいあっさりと、天ちゃんは話題を変えた。






「ここにさ、ここに置いて下さい‼︎ボクもう帰りたくありません‼︎ってさ、それもできるわけじゃん」






 話を聞きながら、落ち着こうって気づかれないよう息を吐いて、深く吸った。






「………それは………ダメだよ。絶対ダメ」

「うん。だからね、そう思う、そう言うぴかるんがすごい。えらい」

「………そんなこと………」

「ここに居続けることって、結局逃げだもんね。イヤなことから逃げてさ。楽しいじゃん?ここの方が。楽しいし、居るだけでいいから楽だし」

「………うん」

「なのにぴかるんは、行くんでしょ?山をおりるんでしょ?楽しいと楽を蹴って」

「………うん。だって、楽しいから」

「楽しいから?」

「鴉や天ちゃん、みんなと居るのが楽しい。だから、こうやってコソコソしてるのが、隠れて、悪いことしてるみたいに一緒に居るのが、イヤ。一緒に居るなら、ちゃんとしたい。一緒に居るために、ちゃんとしたい。父さんが僕の父さんとして居る以上、勝手にはできないから。あんなでも僕の父さんで、保護者、だから」

「………うん。人間の、それがルールだもんね」






 ルール。



 人間の。






 僕は未成年で、父さんが父さん。保護者。



 僕は何をするにも保護者の同意が必要で、それが父さん。






 それ以外に何もないとは言わないけど、それが大部分を占めてる。






 ただ、父さんにその気がないなら。



 鴉や天ちゃんが父さんの代わりをしてくれるって。



 さっきの養子の話は、それなんだよ。






 もし、父さんが父さんをしてくれなくても、心配しなくていいよって。






「戦いに行くんだね」

「………戦いに?」






 どうしたらいいのかは、分かんない。



 父さんがどう出るのか分かんないから。



 もし。もしだよ?



 父さんがもし、ちゃんと毎日帰って来てくれるなら。



 ちゃんと僕の『お父さん』になってくれるなら。



 僕は、やっぱりそれがいいと思うんだ。






 でも、そうじゃなかったら。






 戦い。






 本当は、こわくて逃げたい、弱い自分との。



 明明後日に来ちゃう、現実との。






「………うん。そうだね。うん。そうかも」

「勝ってこい」

「え」

「大丈夫。ぴかるんには鴉が居て、天ちゃんが居る。カラスもひとつ目ちゃんも気狐ちゃんも猫又ちゃんも居る」

「………うん」






 勝ってこい。か。






 弱い自分に。



 こわい現実に。






「うん。だから天ちゃん。鴉がバイトに行った次の日、僕を山の下までお願いします。ひとりで歩いて行くと、迷って遭難するかもだから」






 もう一回改めて、僕は天ちゃんに頭を下げた。



 天ちゃんは、うん、分かったって言ってくれた。






 明後日鴉が杏奈さんのお店に行って、行ってらっしゃいとおかえりなさいとお疲れさまを言って、次の日。



 明明後日。






 僕はどんな風に、ここを、この山を出るんだろう。






「よしっ。じゃあちょっと今日はオレ、いつもより早く出るから用意してくるわ」






 いつもならまだ全然家に居る時間なのに、天ちゃんは立ち上がってそう言った。






 仕事。ホスト。忙しいのかな?



 ホストで忙しいってどんななんだろう。






「忙しいの?」

「ん〜?うん。そうそう、忙しいんだ〜。色々準備しなきゃっ」






 忙しいのにごめんなさい。そしてありがとう。






 首をこきこきしながら洗面所に行く天ちゃんの背中に、声には出さず、そう言った。

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