1章 始まりの手紙
拝啓
風花の舞う季節となりました。
東京の
誠に身勝手ながらご相談申し上げたいのは、
この千代という娘は
その娘が先ごろよりとんと姿を見せず心配しておりましたところ、どうやら両親が病に倒れ、実家の逆城に戻ったとのこと。まことに気の毒にと思いましたが秋が過ぎ、冬を跨いでも茶屋にも便りはなく、わたくしは居てもたってもいられず千代の実家の村に訪れたのでございます……。
「千代さんは……どうして千夜さんに会えないのですか!?」
「千夜なんてやつは知らねぇ。おらん。とっとと去ね!」
まだにけんもほろろだ。
眼の前の男はそのように叫び、私の目の前でピシリと板戸を閉じた。それを追うように薄い氷を纏った風が舞い散り、履き慣れた深ゴムの靴をさらに冷やす。
今年の冬はいつもより随分と寒い。そのためか、どこもかしこもひどい風邪が流行っていると聞く。だから千代のご両親もまた風邪を引いたのだと、そう思っていた。
けれども先ほどの初老の男、おそらく千代から聞いた千代の父、
困惑した。
確かに、確かにここが千代の生まれた
途方に暮れて周囲の家の戸を順番に叩く。地図にあり、千代から聞いたその名前の家を。けれども反応は折戸家と同じで、誰も彼もが千代という娘など知らぬ存ぜぬの一点張りだ。
解せない。
つまるところ、千代は私に嘘をついていたのだろうか。
いや、それにしてはその内容は詳細過ぎた。
どこの家には今七つの子がいて幼子の折には千代が背負って面倒を見ていただの、どこの家は冬になるととてもたくさんの干し柿を作るだの。そして確かに行ってみれば、竹馬が壁に立てかけら、軒先に干し柿が吊るされていた。
そして何より……私が尋ねたとき、誰も彼もが気まずそうに目を逸らしたのだ。
何かある。けれどもそれが何だかまるで検討がつかない。何故隠す。
どうしたものかと思い悩みながら足は自然と雪に埋まる道をかき分け、村の奥にあると聞いた桜林に向かっていた。千代が好きだと言っていた桜林に。
そうすると、黒に近い焦茶がぎゅっと詰まってできたような木々が、ざんばらに生えている場所に突然行き当たった。そこへ至る道は真っ白であったのに、その一帯はそこかしこに黒い土が顔を見せ、わずかに若草が伸び始めていた。
不思議なこともあるものだ。
そこだけ先に訪れ始めた春。
そう思ってみると、それぞれの木の枝には未だ咲くには至らないが、硬く絞られた蕾が点々と付いている。もうすぐ春が来るのだろう。そう思うと、ふわりと不思議な暖かさが胸の内に降り積もる。
けれども周りを見渡すと、この小さな空間の外は未だ冬で雪が積もっている。奇妙な場所だ。暖かいような、締め付けられるような、そのような不安定な心持ちが湧き上がる。
『……
「千代? 千代なのか?」
ふいに、木々の合間を吹き渡る春めいた柔らかな風に混じって声が聞こえた。懐かしい千代の声。けれどもその声の頭と尻尾は妙にぼんやりと掠れ、どこから聞こえているのか判然としない。
その今にも途切れそうな風情に焦り、何度も大声で名を呼んだ。
「千代! 千代どこだ!」
『……誠一郎様、どうかお帰りくださいまし……わたくしは……わたくしは既にとらわれてしまいました……』
「囚われるだと!? 一体何に囚われたと言うのだ!?」
並び立つ桜の木の間をびゅううと突風が吹き抜け、私の声をかき消してゆく。その空気はなぜか赤みを帯びているようで、まだ咲いてはいない甘い桜の香りを僅かに乗せていた。
そこではたと気づく。見渡す。そうだ桜の蕾は硬く閉じ、未だどこも綻んではいない。とすればこの匂いは幻臭だ。赤みを帯びる空気も幻視だ。それであればこの千代の声は?
『……わたくしももはや
「いや、千代だ。あなたは千代で間違いない。どこにいるのだ。どうか」
すれ違う。
確かにどこかから千代の声が聞こえる。千代の気配がする。けれども私の必死は風に絡め取られ、霧散する。
「どこだ! どこにいるのだ!」
千代の声の出どころは判然としない。まるで千代と私は二人ともここにいるのに、その世界の位置が決定的にずれてしまっているように。
不意に、目眩のようにわずかに地が揺れた。
『……ああ、そろそろお目覚めになられます……どうか……どうかお早く……そしてもうここには来てはなりませぬ……』
「千代!」
『けれども……あぁ、もう……』
その声を堺に千代の気配はふつりと立ち消えた。
まるで細く繋がっていた紐がぷちんと千切れるように。
そしてわたくしは何か得体のしれないものが、足元からずずずと立ち上がるような鳴動を感じました。そう、まるでこの雪に覆われていない黒い地面があたかも地獄の端に繋がり、そのままここにおれば、白い雪の中にぽっかりあいたこの黒い大きな
そう思うとわずかに生える萌葱色の若草が呪いの萌芽のようにも見え、わたくしの足に絡みついてくるような鎖にも思え、なさけなくもヒィと小さな悲鳴を上げて思わず逃げ帰ったのでございます。
その後、何度か逆上村を訪れたのですが、もう村人の誰にもわたくしの話を聞いてもらえなくなっておりました。千代のことはこの村では触れてはならぬこと、になってしまったのやもしれません。
そしてわたくしがおそるおそる、そして何度あの桜林を探しても、そこには二度とたどり着くことは叶いませんでした。私は逃げ出したことを私はずっと後悔しております。
もう土御門様にはおわかりになられたでしょう。
わたくしは千代に懸想をしております。わたくしは千代が魂の片割れのように思われて仕方がないのです。千代は何者かに囚われたと申しておりました。わたくしもあの桜林で、確かにその何者かの存在を感じたので御座います。
どうか、何卒、千代をお探しいただけないでしょうか。
些少でございますがお礼を用意しております。
土御門様のほか、わたくしはお頼み申し上げるすべを知りません。
どうか、お聞き届けくださいますよう何卒、何卒お願い申し上げます。
誠に恐縮ですが、折返し御返書を得ることが出来ますれば幸甚でございます。
敬具
明治16年1月8日
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