赤い眼のあなた
月餠
第1話
「レイシー見ろよ!雪降ってきたぜ!明日には積もっかなぁこれ!」
墨を流したような真っ暗な景色に、しんしんと降り始めた白い雪。それを窓から見て、赤い目を輝かせ子供のようにはしゃぐ、僕の友人のヴァルさん。
いつもと変わりない、机に向かい合わせに座って過ごす、穏やかな晩酌の時間。
「ふふ、どうでしょうか。でも、積もるといいですね」
「いや、ゼッテー積もるね!1メートルは積もる!あ、そだ、明日休みだろ?かまくら作ろーぜ!オレやったことなくてさー、一回中に入りてーんだよなぁあれ!」
ワインの入ったグラスから手を離したヴァルさんは、そのまま両手を大きく広げて身振り手振りで嬉しそうにそう話す。僕が贈った、彼の目と同じ赤いリボンの髪飾りが、彼の肩で長い黒髪と共にゆらゆら揺れていた。
ヴァルさんは、うちに居候している旅人だ。
そろそろ梅雨入りかという頃の早朝、僕が日課の薬草取りに出かけに行った時に、ゴロツキに襲われて倒れている彼をたまたま見つけ、小高い丘の上にある僕の店兼家で介抱したのが出会いだった。そして怪我が回復してからは、働けない代わりに家事周り全般を担当するという形で、彼はしばらくこの家に身を置くことになった。
いつまた旅立つのかはわからないけれど、両親が病気と事故で死んで、2年前からひとりになった僕は、親から引き継いだ薬屋を営業するだけの色褪せた日々だったので、ヴァルさんと出会ってから毎日賑やかなのが、正直とてもありがたかった。なので、彼がいなくなる事を考えたらほんの少し、寂しい気持ちになってしまう。
「じゃあ明日、そうしましょうか。僕もかまくらは作ったことないですから、楽しみです」
「おう!でっけーの作ろうぜ!城くらいの!」
「あはは、城レベルだったら頑張らないとですね」
ワインを飲みつつ、僕はそう答える。街に一緒に遊びに行ったりして他の人と話す時のヴァルさんは、僕がいつも見ている雰囲気とは少し違う、どことなく落ち着いて、でも浮世離れした空気を漂わせていたように思う。
けれど、今雪を目の前にしてはしゃぐ姿を見て、やっぱり本当に子供みたいに無邪気な人だなぁと僕は思った。
ふふ、と笑いながら僕は窓辺で雪を眺めるヴァルさんの方にまた目を向けて…そして、思わず息を呑んだ。
窓のガラスが鏡のように、室内や僕を反射して映している。眼鏡をかけた僕の、びっくりした間抜けな顔が映っている。
けれどそこに、楽しそうに笑うヴァルさんの姿だけ、映っていなかった。
この世界には
生気を得るために人を襲い血肉を食らうその化け物たちは日光が苦手で、日中は弱体化するのもあって夜に活動すると聞いている。
他にも色んな特徴があるらしいけれど、その中には「屍鬼は鏡や物に映らない」というものがあった。
つまり、ヴァルさんは、人を襲い食う屍鬼だったということだ。
今更ながらに思い返せば、なんだか不思議だなぁと思うところ全てが納得できた。
初めて出会って介抱している時、食事を用意することになった時も、彼は果物か生肉はないのかと聞いてきた。それらは微量だけど、屍鬼にとって生気を摂取できるものらしいというのは聞いたことがある。
日中だって、頑なに外に出たがらなかった。ヴァルさんはオレ様の肌紫外線に弱いから、と言っていたけれど、本当はそれも、日光を浴びたら焼けて灰になってしまうからだろう。
ヴァルさんは旅人なので、いつも色んな国を巡った時の色んな面白い話を聞かせてくれた。でもたまに、10年や30年、それよりも前であろうことが感じられる話を、さも先日のように話したりすることもあった。
ヴァルさんはどう見ても僕と歳が近い人だったから、僕はあれを、冗談としてわざとしているのだと思っていた。けれど、彼は実際にその目で見て体験したことしか話してなかったのではないか。
そして、赤い目。屍鬼は皆、目が赤いらしい。ヴァルさんのあの赤い目は出会った時から気になっていた。でも身体的特徴だし、アルビノとか、何か訳ありなら聞くのも失礼かと思って、深く聞いていなかった。
それに、僕の目のようなよく見かける青と違って、ヴァルさんの真紅の目は、見ていて吸い込まれそうなくらいとても綺麗だと僕は思っていたから。だから、余計にそこで、疑いもしなかった。
「んじゃレイシー、おやすみー!あした、かまくらつくんの、やくそくだからなー、わすれんなよなー!」
「…はい、雪が積もったら必ず作りましょう。ヴァルさん、おやすみなさい」
時計の短針が10を指す頃に、お酒で顔を赤らめたヴァルさんはウキウキしながら屋根裏の部屋に続く階段を上がっていった。
屍鬼はこのあたりでは滅多に現れないので、僕は今まで見たことがなかった。
そもそも屍鬼は夜行性のはずだし、人間の食事はしないはずだけれど、ヴァルさんはここに居候してる間、ずっと人間と同じように夜は眠り、僕と毎日人間の食事をしていた。それもまた、彼を疑うことのない一原因だったのかもしれない。
けれど、それにしたってあまりにも、僕は間抜けでお人好しだった。
「…僕って本当、迂闊ですね…」
左手の人差し指にうっすら残る傷を眺めながら、僕は思わずそう呟いた。
これはつい先日、ヴァルさんから頼まれて昼食用のサラダを作った時に、包丁で指を切ってしまってできた怪我だ。
その時ヴァルさんは「レイシー大丈夫か?」と言いながら、すぐに救急箱を持ってきてくれた。けれど、あの時彼は、どこを見て、どんな顔をしていただろうか。そこまで僕は、ちゃんと見ていなかった。
その時のことを思い返して、ぞわりと鳥肌がたった。
ずっと、面白くて良い友人といると、思っていたけれど。実際は、今の僕は人を喰らう肉食獣と、家を共にしているようなものだった。
ヴァルさんは今まで、どんな気持ちで僕を見ていたのだろうか。僕が出会ったあの時の怪我は、本当に本人が言ったようにゴロツキに襲われてできたものなのだろうか。今家事全般を担当していたのも、美味しいご飯を作ってくれていたのも、もしかして僕を油断させて、太らせて、いつか食べるためなのではないか。さっきみたいにはしゃいで見せたのも、そういう演技なのではないか。
彼と共にしていた全てが、一気に恐ろしくなった。
「……」
いつも2人で食事している机の側にある食器棚の、一番下の引き出しを開ける。聖水や何かの道具がしまわれたそこから、銀の短剣と少し悩んだ末に、拳銃と銀の銃弾を取り出した。
これらは屍鬼が来た時に倒す用ものだと、生前父さんが言っていたものだ。銀の銃弾で心臓を射抜けばたちまち死ぬと、父さんは言っていた。僕はその時「こういうのを使う機会なんて、きっとないだろうなぁ」なんて思って眺めていた。
「っふぅー…っ…」
早鐘のように脈打つ心臓を宥めるように、大きく深呼吸をする。微かに震えた手で眼鏡のブリッジを指で押し上げて位置を直し、一つ、また一つと慣れない手で拳銃に弾を込める。
高身長な僕より多少背は低いものの、それでも彼は体格が良い。けれど、眠っている所なら、この引き金を彼の胸に引けたなら、腕力のない非力な僕でもきっと倒せる。
「……」
無機質に冷えて、やたらと生々しい重さを感じる拳銃を右手に持ったまま、階段の電気をつける。
ギシギシと軋みがちな階段を、なるべく足音が立たないように上がり、そっと扉を屋根裏部屋の開く。
中を除くと、本棚と小さいテーブルと椅子、ストーブと、そしてベッド。
そこには、ヴァルさんがスヤスヤと寝息を立てて眠っていた。
ヴァルさんは、お酒をたくさん飲んだ日は特にぐっすり眠ってしまう。一度彼が寝落ちした時、起こそうとしてもなかなか起きなくて苦労した。
部屋の電気はつけず、階段への扉を開けたままにして、僕は彼の枕元に立った。廊下から差し込んだオレンジの光が、ヴァルさんの頬や布団や、枕元に大切そうに置かれている赤いリボンの髪飾りを照らしている。
「……」
ヴァルさんの寝顔を見て僕は、「綺麗な顔立ちだなぁ…」なんて場違いなことを思った。
屍鬼の中で吸血鬼という種は、人間の姿をしていて、見目がいいという。彼は、それなのかもしれない。
僕は、顔立ちに反してどこかあどけない顔で眠っているヴァルさんから、布団を少し退かせて、その胸元に銃口を向ける。
ドッドッドッと、心臓が破裂するのではないかというくらい更に脈打った。
先ほど飲んだお酒のせいなのか、目の前の景色が現実でないかのようにどこか遠く、ふわついて見えるのを、グリップを強く握って、振り払う。
(引くだけ…この引き金を引けば、僕は、喰われずに済む…死なないで済む…)
息をつめて、引き金に指をかける。
(早く、撃たなければ、殺さなければ、この人を)
(今までのことだってきっと、演技なのだから)
(この人は悪い屍鬼で、僕を騙しているのだから)
(僕を、いつか食い殺すはずだから)
(目の前にいるこの人は、そういう化け物なのだから)
(だから、先に僕が、殺しても、問題ない)
(これは、正当防衛だ)
(そうしないと、いけない)
(撃て、僕)
(撃て…!!)
そうやって、どれくらい時間が経ったのか。一瞬のようにも、悠久の時にも思える時間が過ぎて。
結局僕は、引き金を引けなかった。
「ッ…!」
僕は手汗でぐっしょり濡れた拳銃を持ったまま、逃げるように屋根裏部屋を後にした。自分の部屋に飛び込み、そのまま情けなく床に座り込んだ。
「っ、う、うぅ…!」
ああ僕は、本当になんて腰抜けで、愚か者なのだろうか。
ヴァルさんが屍鬼だとしても、あの笑顔や、これまで共に過ごして彼がしてくれたことが、嘘なはずがない。
そんなの、考えずとも、見たらすぐにわかるはずなのに。
ヴァルさんは、僕が日頃の感謝で贈った髪飾りを、いつもつけてくれている。僕が何かで失敗しても、気にすんなよと許して、手伝ってくれている。僕が料理を美味しいと言ったら、本当に嬉しそうに目を細めて笑っている。ヴァルさんは、そんな人なのに。
屍鬼よりも前に、彼は僕にとって大事な友人だというのに。
ヴァルさんが過去、どんなことをしてきたのか僕は知らない。人を食い殺してきたかもしれないし、してないかもしれない。わからない。けれど、彼は僕自身に今まで一度たりとて危害を加えていないし、他の人を食べているところも見たことがない。
それなのに僕は、自分の命大事さに、友人の彼を疑って、自分にとって危険だと勝手に決めつけて、寝ている所に銃口を向けて、殺そうとした。
どちらの方が最低なのか。どちらが卑怯なのか。どう考えても、僕のほうがそうだろう。
自身の心の弱さや醜さが情けなく、苦しかった。
ボロボロと涙が溢れ出て、眼鏡のレンズを濡らしていく。
「ヴァルさん、すみません…すみません…っ…」
僕は顔を押さえて声を押し殺し、部屋でひとり懺悔をするように泣いた。
「ふあぁ…あー…ねっむ…つかさっむ…おはよぉ、レイシー。なーにしてんの…って、どしたんその顔。目ぇパンッパンじゃん」
「おはようございます、ヴァルさん。ええと…その…荷物整理をしていました。あと目は…内容はよく覚えてないんですが…昨日、怖い夢をしまって…それでよく眠れなかったので、そのせいかもしれません…あはは…」
まだ日が昇っていない、暗い早朝。
引き出しにあった屍鬼用の武器を段ボールにしまい自室に運びこんでいるところを、起きてきたヴァルさんに見つかり、僕は咄嗟にそんな嘘をついた。
「おいおいマジかよーお前。大の大人が泣くとかどんだけ怖い夢見たんだよ。大丈夫か?」
「はい、大丈夫です…」
軽いノリで言いつつも赤い目を向けて眉をハの字にしてこちらを心配するヴァルさんに、僕は逃げるように目を伏せた。
「んー…雪、積もってっけど…かまくらは今度にすっかあ。休みだし、お前もっかい寝てろよ」
「いえ…大丈夫です。かまくら、ヴァルさん作りたいんでしょう?僕も作りたいですし…」
「いやいや、どー見てもお前具合悪そうだぞ。目もヤベーけど、顔もモヤシみたいに真っ白になってるし。無理せず今日は寝てろって。腹減ったんならオレなんか作るからさ。な?」
そうやって僕を気遣うヴァルさんを見て、「ほら、ヴァルさんは、こういう人なんだ」と心の中で呟いた。
「…はい、すみません…」
「謝んなってー。朝食は…とりあえず具沢山のスープとパンにしとくか。体あったまるしなー。つか怖い夢で寝付けねーんだっけ?お前。じゃあ寝るまでなんか話しててやろうか?楽しいとか面白いで上書きしたら大丈夫だろ。そーゆーネタなら沢山持ってるぜ、オレ様」
「…ふふ、はい。ありがとうございます、ヴァルさん。ぜひ、そうしてくれると嬉しいです」
「おー、任せろ」
得意げに笑うヴァルさんを見て、僕は心の中で謝罪した。
ヴァルさん、ごめんなさい。僕は昨夜、あなたを殺そうとしました。そして、殺せませんでした。
でも、愚かな選択と人から言われても、僕は殺せなくて良かったと思いました。
やっぱりあなたは僕にとって、大切な友人ですから。あなたが屍鬼でも、僕が人間でも、友人としている今のあなたを、僕は信じたい。いえ、信じています、これからも。僕とあなたは、良い友人だと。
でも僕は本当に腰抜けで、卑怯ですね。今、あなたに屍鬼であることを聞いたら、この関係が壊れてしまうと思って、なんとなく、あなたがいなくなる気がして、まだ聞けません。こんなの、問題の先延ばしですよね。
いつかそのうち、もう少し。あなたにそれを聞くことができたら。あるいはあなたが、本当の事を話してくれた、そのときには。何であっても、ちゃんと全て飲み込んで、受けとめようと思います。
そして、僕があなたにしようとした過ちも、その時お話しします。あなたはそれを聞いたら、怒ったり、傷ついてしまうかもしれませんね。本当に、申し訳ない。
日が昇り始めて、空がゆっくり明るくなって。太陽が、澄んだ白い大地をキラキラと照らしている。
そんな綺麗な光景を遮るように、僕は窓辺のカーテンを閉め、ヴァルさんと2人、いつものように向かい合わせで椅子に座り、手を合わせた。
そして、楽しそうに話すヴァルさんの話に相槌をうちながら、その嬉しそうな笑顔を見ながら、僕は彼が作ってくれた温かいトマトのスープを飲んだ。
赤い眼のあなた 月餠 @marimogorilla1998
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