第9話 オリーブオイルとごま油は何にかけても美味しい

 ほんの少しの廊下を歩いて、グレイスの部屋のドアを叩く。


「レス、アリス。おはようございます。開けてもらえます?」


 もう朝食を食べに行ってしまったか、と一瞬後悔したが、すぐにドアは開いた。

 ドアを開けたのは、レスリーに顔立ちがよく似た少女だった。

 レスリーより少しばかり背が低く、少しばかり髪が短い。


「アリス、ですか?」

「うん、そうだよ! きみは……もしかしてエヴィ?」


 そうですよ、と目線を合わせて言うと、アリスはエヴィに抱き着いてきた。思ったよりも元気になっている。


「エヴィ、抱っこしてくれたとき、お母さんかと思った!」

「お母さん、ですか」

「うん、あったかくって、優しくって、いい匂い!」


 アリスはエヴィの頭の後ろまで腕を回し、抱きしめてくる。少し苦しいくらいの抱擁が、エヴィには心地よかった。


「治してくれたの、エヴィなんでしょう? 本当にありがとう」


 アリスが頬をエヴィのヴェールにすりすりとこすりつけてくる。


「またアリスが熱だしたら、エヴィ、来てくれる?」


 エヴィはアリスの小さな背に手を回しながら、苦笑いした。


「う〜ん、わかりませんね。わたしは旅人なので」

「本当に旅人なんだ……すごいね、エヴィ! お兄ちゃんと同い年くらいでしょ?」


 ハタチです、とは言いだしづらい空気なので黙っておく。その代わりに「それほどでも」という定型文を返す。

 レスリーを呼ぼうとした瞬間、台所のほうから豆の煮えるいい匂いがした。今日の朝食は豆を使った何からしい。


「アリス、レスを呼んでくれますか? 朝ごはんを食べに行きましょう」

「――その必要はないよ、エヴィ」


 背後から突然声がかかり、驚いてアリスを守りつつ守りの姿勢で振り返る。全力の拳を立ち上がる際の勢いとともに放てる姿勢だ。


「っ! びっくりした……エヴィ、怒らせちゃった?」


 そこに立っていたのは、件の少年、レスリーだった。


「っああ、いえ、すみません。わたしも驚いただけなので大丈夫ですよ」

「ええ……こわ……」


 自分でも怖いとは思う。しかし染みついた警戒心と条件反射的な反撃だけは、どうしても治らないのだ。


「レス、早起きですね」

「ん、ああ、いつもこのくらいの時間に朝ごはん作ってるからつい癖で……」

「早起きはいいことです。オーウェンさんが朝ごはん作ってくれてるようなので、一緒に行きましょうか」


 エヴィは立ち上がり、アリスと手を繋ぎながら居間のほうへ向かう。オーウェンの部屋を通り過ぎたとき、エヴィはレスリーが一歩も動いていないことに気づいた。


「レス?」


 レスリーは、エヴィに声をかけたときと同じように、グレイスの部屋の入り口を向いたまま、突っ立っていた。

 エヴィは彼の横顔に声をかける。


「あのさ、旅人にこんなこと訊くのは失礼だってわかってるんだけどさ」


 レスリーは恐る恐る、といった声色で話しはじめた。


「はあ」

「部屋の前を通り過ぎる前に、ちょっと聞こえちゃったんだ……エヴィ、さっき誰と話してた?」


 レスリーがエヴィに向き合う。その表情は真剣そのもので、少し何かを怖がっているようにも見えた。


「ごめんなさい、独り言が大きいってよく言われるんです」


 エヴィは照れ笑いを浮かべて、誤魔化した。

 本当はあの影もある意味自分自身だそうなので、独り言はある意味嘘ではない。そういう理論で片付けようと思った。


「誰かと話してるみたいだったけど」


 しかし子供は大人より勘が鋭いもので、そういった些細な違和感にも気づいてしまう。

 エヴィが更なる言い訳を考えていると、レスリーがこちらへ歩み寄ってきた。


「……エヴィは旅人だもんね。この国から出たことないおれじゃ、分からないことなんでしょ」


 レスリーはやけに大人っぽいセリフを吐いて、エヴィの手を握った。


 こんな子供に気を使わせるなんて情けない。エヴィはせめてもの抵抗として、「わたしは鬼なんですよ」と口にした。


「鬼……って、エヴィ、もしかしてすごい怖いの?」

「たとえの鬼じゃなくて、本物の鬼ですよ」

「本物の鬼?」


 エヴィはどうやったら生まれた国の話を理解できるだろうか、と悩みながらも語った。


「すごく力が強くて、角が生えてて、人を食べるんです。わたしみたいに真っ白の肌をしているんですよ」


 レスリーはうつむき加減で呟いた。


「……エヴィ、人食べるの?」


 その視線には恐怖が棲んでいた。エヴィは怖がられるのも仕方がないと思いながら、首を横に振った。


「わたしは鬼の力をちょっと借りただけの人間です。だから、人は食べませんよ」

「ふうん、そう。それならいいや」


 案外薄い反応を返すレスリーに、エヴィは尋ねる。


「わたしのことが怖くなりました?」


 旅の道中、何度かこの話をしたことがあったが、たいてい理解される前に興味を失われるか、話したとて怖がられるかだった。

 それでもまれに、理解してくれる人はいた。エヴィはそういう人の助けを得て、ここまで生きてきたのだ。


 レスリーは、いや、と口にして、微笑んだ。


「エヴィはエヴィだよ。優しくて、前向きで、ちょっとバカなお姉ちゃん」

「バカなは余計ですよ」


 軽口を言い合いながら、エヴィはこの国の協力者が増えたことに安堵した。

 人間の国にするためには、現地の人間の協力は不可欠だ。これも、この国の人間を解放するための一歩になる。


 エヴィが居間に繋がるドアを開けると、香ばしい匂いが吹き込んできた。


「わ、オーウェンさん、パンです!?」


 エヴィはレスリー、アリス兄妹を置いて、台所に立つオーウェンのもとまで駆け出す。彼がオーブンの蓋を開けると、熱くていい匂いのする湯気が立ち上ってきた。


「ピタパンだ。ここら辺ではよく食べられるパンだな」


 オーウェンはオーブンの中から、半円形の平らなパンをひとつ取りだし、エヴィに手渡す。


「昨日はご飯だったのでこの国はお米しか食べないと思ってましたよ! この国のパンは平べったいんですねえ」

「食べるときはテーブルの上のフムスにつけて食べると美味いぞ。あと立ちながら食うな」

「はあい」


 エヴィは席につき、テーブルの上を眺めた。木のボウルが置いてあり、その中に乳白色のペーストが入っている。これがフムスらしい。

 スプーンでひとさじ掬ってピタパンに乗せ、齧る。オリーブオイルとごまの香りが鼻を抜けた。


「ん〜! おいしいですね! 昨日のなんかよくわからないお米とお肉のやつもおいしかったですけど、これもいい!」

「マクブースでしょ。エヴィはすぐ忘れちゃうんだから」


 そうそう、と適当な相槌を打ちながら、エヴィは追加のフムスをピタパンに乗せていく。


「スープもある。レンティル・スープ。むせる前に飲んでおけ」


 オーウェンが橙色のポタージュのようなスープをテーブルに置く。エヴィが喜んでそのスープに手をつけようとした瞬間、家屋全体に声が響いた。


『〇〇一三番。そこにいるのは分かっています。出てきなさい』


 統領の声だ。

 賑やかな朝の時間は、終わりを告げた。


「エヴィ? 大丈夫?」


 心配するアリス。

 しかしオーウェンとレスリー、そしてエヴィには心当たりがあった。


「来たか」


 オーウェンは冷静な声で言う。


「……エヴィ、バレてるじゃん」


 レスリーは震えた声で言った。

 きっと玄関を開けたら、電脳様がたくさん待ち構えているに違いない。


「う〜ん、予定よりちょっと早いですけど――」


 エヴィはピタパンをアリスに渡し、玄関のドアへと走り出した。


「オーウェンさん、わたしアナスタシアのところに行ってきます!」

「嫌な予感しかしない!」


 もともとオーウェンは、エヴィとアナスタシアを引き合せる作戦も考えていたのだろう。彼が電脳様に占いで取り入ったように、エヴィも話術でなんとか電脳様に取り入って、アナスタシアに会わせるよう説得する――そんな計画を立てていたのだろう。


 しかしエヴィは、電脳様を壊し、禁忌を破った。オーウェンの思い通りにいかないことばかりだったと思う。

 だから、オーウェンの力は借りられない。


「大丈夫です、自力で何とかします! だってわたしは、これからこの国の人間全員を救うヒーローですから!」


 エヴィは玄関のドアを開け、外へ出た。


 占いの館の前には、五体ほどの電脳様が詰めかけていた。エヴィはその巨体を見上げ、不敵な笑みを浮かべる。


「……本当はこんなこと絶対やりたくないんですけど、恩人の頼みです」


 家の中の三人を巻き込むわけにはいかない。エヴィは扉を閉じると、一歩前に踏み出した。


「機械に心があるのなら――」


 エヴィはとてつもない力で地面を蹴り、電脳様の頭部まで飛び上がる。地面から三メートル。エヴィは『レディ・グレイスの占いの館』の看板を蹴ると、電脳様の頭部に飛びついた。

 看板を蹴った勢いそのまま、頭部を後ろ向きにへし折る。電脳様のコードが何本か切れ、内部の電線がむき出しになる。


 電脳様が銃を向ける。


「さすが憲兵様ですね! 目の前で仲間が首をちぎられた程度では退かないとは、たいした勇気です!」


 頭をちぎった電脳様は、未だに動いている。エヴィは彼らにとってこれが死に該当しないのだと気づくと、さらなる手を打つことに決めた。


 エヴィは電脳様の肩の部分に足をかけると、その頭部をぶん投げた。電脳様の頭部が、地面に落ちて亀裂を作る。


「クソ統領様、電脳野郎様ども、わたしは鬼です!」


 その瞬間、エヴィめがけて電脳様が発砲する。腕に二発、背中に二発食らったが、エヴィは痛がる様子さえ見せない。


「怪力を持ち、人を食らう、バケモノなんです! さあ、おそれ敬いなさい!」


 そう言いながら、エヴィは電脳様の頭部が付いていた部分に拳を振り下ろした。エヴィの拳はめりめりと食いこみ、やがて電脳様の胴は内部からの圧力に耐えきれず爆発四散した。


 その場にはただの鉄屑と化した電脳様の胴体と、地に横たわる脚部だけが残った。

 銃口は、もはや向けられていなかった。表情は分からないが、畏怖されているのを感じた。


「素直な方たちばかりで嬉しいですよ。お願いがあるのですが」


 エヴィは笑いながら、言った。


「グレイスさんの娘さんのところまで、わたしを連れていってくれませんか」


 電脳様はその命令を粛々と聞き、エヴィを西の方へ連れていく。


 旅立つ直前、エヴィは視線を感じて後ろを振り返った。そこにはやはり、玄関のドアの隙間からエヴィを覗き込むオーウェンがいた。


「オーウェンさん。大丈夫です」

「いやあんた、撃たれて……」


 エヴィは本当に優しい人ですね、と口にした。


「ふつう、出会って一日も経ってない人間をそんなに心配します?」


 オーウェンは息も絶え絶えで、少し疲れた顔をしていた。エヴィのことを相当に心配していたのだろう。


「あなたに心配されなくても、生きて帰りますよ」


 エヴィはそう言い残して、占いの館を発った。

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