第5話 佳澄の事情
転職して1月はずっと緊張しっぱなしで、自分の席にいても落ち着かない日々だった。
でも、徐々にこの会社でのルールにも慣れて、ここでの自分の仕事の進め方も掴めてくる。
佳澄以外のカスタマーサポート部の人にも少し慣れて、ワタシが女性だからかランチに誘われることもあった。
これから一緒に仕事をしていく人たちなので、仲良くなっておくに越したことはないので、時間が合わない以外は誘いに応じている。
そんな中で佳澄のことも少し事情を知る。
佳澄は現在不妊治療中で、不定期に休みを取っているらしい。
そんな時期にワタシと再会するなんて、泣きっ面に蜂というか、ただでさえストレスを抱えているのに、過去に付き合っていたワタシになんて関わりたくなくて当然なのかもしれない。
無理しないでなんて言う資格はワタシにはないし、気にはなりつつも佳澄を刺激しないという意味で、必要最小限の関わりに留めておくべきだろう。
その日は保守開発を担当する部全体の週次定例会議の日で、会議が終わったのは定時をかなり過ぎた後だった。
カスタマーサービス部からの問い合わせで優先度が分からないものがあって、会議が終わった後で直接聞きに行くつもりだった。
でも、カスタマーサービスの受付終了時間は過ぎていて、更には片付けをする以上の時間も過ぎている。
流石にもう誰もいないだろうと思いながらも、駄目元でカスタマーサービス室に向かった。
カスタマーサービス部は、主婦のパートや学生のアルバイトも多くて、契約の時間になればそれで業務が終了する人が大半だった。
社員はもちろんそうはいかないけど、今はどちらかというと暇な時期だとは聞いているので残業もそれほどしていないだろう。
カスタマーサービス室の入り口まで向かうと、扉に埋め込まれたガラスかプラスチックの透明の隙間から室内が見える。幸い明かりが点っていて、まだ人が残っているらしいと分かる。
社員証も兼ねたICカードをカードキーの認証ボックスにかざして解錠し、中に入る。
「お疲れ様です。須加です」
普段は電話のオペレータもいるその部屋は、ひっそりしていて、中にいたのは一人だけだった。
「佳澄……大西さん」
向こうも入って来た物音に気づいて、PCから視線を上げる。
「お疲れ様です。みんなもう帰っていますけど、何かご用ですか?」
一瞬だけ視線が合って、すぐにそれは離される。
歓迎されてないなぁとは思いつつ、今更踵を返すことも態とらしい。
「問い合わせがあった件で少しだけ確認したいことがあるのですが、いいでしょうか? 大西さんからのものではなくて麻倉さんからのものなんですけど、早めに確認したくて」
佳澄と麻倉さんはメインの担当箇所は違うけれど、休暇の場合も考慮してどちらの業務もそれぞれができるとは聞いていた。
「答えられそうなら答えます」
この時間に勘弁して、と言われても仕方ないかなっと思っていたけど、佳澄はそれを承諾してくれた。
確認したい内容を佳澄に話して、佳澄は一通り話を聞いた後に、すぐ近くにあったホワイトボードに業務の流れを書いて細かく説明してくれる。
でも、まず目に留まったのが佳澄の字だった。
学生の頃、並んでノートを開いて勉強をした時と変わりのない少し丸みのある文字。
「聞いてます?」
「はい。大丈夫です。ただ、変わらない字だなって思ったので……」
「字なんか簡単に変わるものじゃないですから。ご理解頂けたようでしたら、お帰りください。わたしは仕事が残っていますから」
思ったことをそのまま口にするのはワタシの悪い癖だった。零した言葉で佳澄の機嫌を損ねてしまったらしいことは感じ取る。
「丁寧に説明して頂いて有り難うございます。助かりました。でも、手を止めさせたワタシが言うことじゃないですが、不妊治療をされてると聞きました。今は体も大事にしないといけない時期ですから、残業もほどほどにしてくださいね」
「…………あなたに何が分かるんですか」
それは氷の刃ような声だった。
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