サイドストーリー 『酒に映る水月』

 夜空は、穏やかな秋風とともに包まれていた。

 街の明かりが少し控えめになり、空には一際明るい月が周囲の景色を幻想的に照らし出し、都市の喧騒を遠くへ追いやっていた。

 月は満ちていた。

 満月だ。

 その丸い光は空の中心に佇んでいるかのようだ。その明るさはまるで大地に対して神秘的な贈り物であり、名月の夜は誰もが立ち止まり見上 げてしまうほど美しかった。

 そして、そんな月明かりの下、小さな庭のある屋敷があった。

 縁側に、紬の着物を着た青年の姿があった。

 凛々しく、見る者に清廉な印象を与える。

 肩まで伸びた黒髪は、後頭部のところで結われていた。

 双眸は、鋭く切れ長であり、意志の強さを感じさせる。鼻梁は高く、唇は薄く引き締まっていた。

 その容姿は、誰もが振り返る美男子だ。

 歌舞伎では男性が女性を演じるのを女形オヤマと呼び、酔わせる美しさを魅せるが、彼はまさにその女形のようであった。

 名前を、霧生きりゅう志遠しおんと言った。

 彼は一人、縁側に座って月を眺めていた。

 今夜は中秋ちゅうしゅうの名月である。


【中秋の名月】

 中秋節は丸い月を団らんの象徴とし、家族が集まって月を眺め食事をしながら幸せを願う伝統行事。

 中秋節の風習は大陸から平安時代に日本へ伝わり、貴族の間で月を眺める優雅なたしなみとして広まりを見せました。当時の貴族たちは池に浮かべた船の上に宴席を設けて酒を酌み交わし、水や杯に映った月をめでていたようです。

 一般庶民に中秋の名月を見る習慣が広まったのは、江戸時代の初期といわれている。ぜいたくな遊びではなく神聖な月に秋の収穫を感謝し、翌年の豊作や健康を祈る行事として取り入れられた。

 現在では、収穫祭の意味を持ってお月見を楽しむ家庭は少ないかもしれない。一般的には近しい人と共に美しい月を眺めて、お互いの幸せや健康を喜び合う日として親しまれている。


 志遠の左隣には一振りの刀があり、右隣には酒宴用の銚子と盃が置かれていた。

 まだ酒に手はつけない。

 庭先で虫の音が静かに鳴り響いていた。

 虫の音に耳を傾けながら、ただぼんやりと夜空を見上げている。

 すると、ふと足音が近づいてくるのを感じた。

 視線を向けると玄関のある方向から歩いてくる少年の姿がある。

 ジーンズにフード付きジャケットというラフな格好をした少年は、片手に黒い包を手にしている。

 高校生くらいであろか。

 長めの前髪を額にかけ、そこにしっかりとした面立ちがあった。

 だが、武骨ではない。

 顔は親から譲り受けたものだが、環境でその面立ちは変わる。

 恵まれた環境ならば、穏やかなものに。

 荒んだ環境ならば、厳しいものに。

 少年の場合は親から譲り受けたもの以上に、環境でできあがった面立ちが感じられた。ガラスのような透明で冷ややかで、浸食を受けつけない不変さを持つ。そんな面立ちだった。

 発育の良い今日日の子供は、中学生くらいでも大人と似た体格から、年齢を見誤ることもあるが、長い年月から見れば人間の2、3年の歳の違いなど取るに足らないことであった。

 だが、少年の長い前髪の奥に存在している眼に宿るものが、切った張ったの世界で生きる者さえも戦慄を憶えるものがあるとしたら、話しは別だ。未成年という青い存在としては片付けられない。

 少年の名前は、諱いみな隼人はやとといった。

「待ちわびたよ隼人」

 志遠の口調は穏やかであった。

 対して、隼人も口を開く。

「学校行事が押したんだ。文句があるなら、そっちに言ってくれ」

 言葉だけ聞くとぶっきらぼうなものであったが、表情は柔らかい。

 まるで親しい友人に話しかけるような雰囲気があった。

 二人の出会いは、それほど昔のことではない。

 むしろ、出会ってからの期間は短い方だ。

 しかし、この二人はお互いをよく知り、信頼していた。それは単なる友情以上のものである。

 だからこそ、こんなやりとりができるのだ。

「進学を決めたそうだね。おめでとう」

 志遠はそう言うと、隼人は苦笑する。

「そいつは早計だな。まだ試験は先だ」

 そう答えると、縁側に座る志遠の隣に腰を下ろした。

 手に持っていた包を傍らに置く。

「僕は君が剣士としてだけで生きていくのかと思っていたよ。どうして高校へ行く気になったんだい?」

 今度は志遠の方が尋ねた。

 隼人は少し考えるように沈黙していたが、やがて口を開いた。

「俺はガキだ。だから知識と教養はもっと身につけるべきだと思った。将来について何も考えていない……いや、考えているふりをしているだけだな」

 そして、続ける。

 隼人は視線を夜空へ向けたまま語る。

 空に浮かぶ月を眺めながら。

「──俺が剣を振るう理由なんて単純だよ。俺にはこれしかないからだ」

 隼人には、それしかなかった。

 いや、それ以外に何もなかったと言っていいだろう。

 そんな隼人に対して志遠は言う。

 優しい口調で語りかけるように。その声は静かな夜に染み入るようだ。

「君の剣術は確かに凄いものだと思うよ。でも、君は君なんだ。他のものだってできるはずさ」

 その言葉に、隼人の表情が、微かに綻ほころぶ。

「だといいがな……」

 そっけない返答ではあったが、声音に感情が滲んでいた。

 志遠は微笑を浮かべて言った。

「――さて、そろそろ始めようか」

 志遠が銚子を手に2つの盃に酒を注いでいると、隼人は縁側に座した。

 二人は盃を手に取り、乾杯をする。

 それから、ゆっくりと口をつけた。

 ひと口含むと、やわらかな甘さと繊細な酸味が絶妙に調和の元にあった。舌の上で軽く広がり、口中に広がるのはまるで花が咲くような感覚。芳醇な香りの花束を楽しむかのようなもの。

 そして、その後に広がるのは、米の風味と酵母の深い味わい。これらの要素が織りなす複雑な味わいは、日本酒の真髄であり、長い時間をかけて熟成された酒の品格を示していた。

 喉を通り過ぎる日本酒の香りと味わいに満足しながら、志遠は言った。

「中秋の名月を見ながらの月見酒。最高の演出だな……」

 それに、隼人は答える。

「未成年を酒につき合せやがって……」

 隼人は不満そうに口を尖らせているが、本気で怒っている訳ではないようだ。その証拠に口元が少し緩んでいる。

「昔は15歳で元服と認められていたからな……構わないだろう?」

 志遠は悪戯っぽく笑った。

 そんな態度に、隼人は少し呆れながらも微笑する。

 そして、空に浮かぶ満月を見上げた。

 雲ひとつない夜空には煌々と輝く月の姿があった。

 虫の音も心地良い。

 気象学では9月は秋だが、現実は9月でも夏の暑さは残っているものだ。

 だが、夜になれば心地よい涼しさがある。

 風も穏やかで過ごしやすい気温であり、まさに絶好の月見日和であった。

 盃を口に運びながら、隼人は言う。

「酒がうまいな……」

 それに対して、志遠はうなずく。

 月明かりに照らされた二人の顔はどこか幻想的に見えた。

 酒のおいしさと味の感じ方は、体調によっても変わることがある。

 身体が疲れたときは、酸味を感じる味覚が弱まり、疲労物質の代謝を促進する酸っぱいものがおいしく感じる。

 長い会議などで精神的に疲れると、苦味の感覚が弱まり、刺激の強いブラックコーヒーがおいしく感じる。

 「おいしい」とは感情の一種といわれ、個人差、体調、環境などによって「おいしさ」が違うということが分かっている。

 逆にお酒がまずい・苦手と感じるのは、ストレスや疲れにより交感神経が優位になっているためであり、アルコール分解作用が低下するためであると言われている。つまり、リラックスできていない状態だということだ。

 月を眺めながら飲む酒は、心を落ち着かせてくれる効果があるのだろう。

 それに剣友が居るという安心感もあるに違いない。

 2人は無言で酒を飲む。

 隼人は盃に映った月をじっと眺めていた。

 その姿はどこか神秘的で、人間離れした美しさがある。

 志遠はそれを眩しそうに見つめながら言った。

「今夜の酒は格別に美味い……」

 その言葉を受けて、隼人は視線を月から外すことなく答えた。

「――そうだな……。悪くない……本当に……」

 それっきり沈黙が流れる。

 だが、決して不快なものではない。

 この静かな時間が心地よいからだ。

 風もなく、虫の音もない静寂の時間――

 そんな時を過ごしているとき、不意に隼人が言った。

「俺は、いつまでこうして志遠と酒を飲んでいられるんだろうな……」

 志遠は答えない。

 いや、答えられなかったと言った方が正しいかもしれない。

 隼人の言葉は重い意味を持っていたからだった。

「剣士として生きていればいつかは死ぬ日が来るだろう……。それは俺も例外じゃない……」

 隼人は静かに言葉を切る。

 その声は静かだが力強い響きがあった。

 隼人は自分の手の平を見つめた。

 そこには剣術で鍛えられた掌が存在している。

 彼は、その拳を固く握り締めた。

 その手の中には何か大切なものを握っているようにも見えた。

 その手には刀を振るうことでできたタコがあった。

 刀を握り続けてきた証だ。

 だが、そのタコは控えめで、綺麗なものだった。

 古流剣術においては、振りさえすれば斬れる刀という代物を扱う故に、掌にマメやタコを痛いほど作ってしまう様だと、それは間違った手の内だ。

 刀の正しい握り方とは、両掌を柔らかく柄に密着させながら小指と薬指を握り締めて、中指は締めず緩めずの加減で握り、人差指と拇指は浮かしている手の内の状態であり、これを掌心と言い表す。

 若い身空で、隼人は刀を振り続け、修練を怠ることなく鍛錬してきたのだと言える。

 だが、誇れるものではない。

 多くの命を奪ってきた者の手だ。血に汚れていない訳がない。その手でどれだけの命を奪ったのか、もはや数え切れない程だ。

 それでも、隼人はその生き方を変えるつもりはないし、後悔していない。それが自分の選んだ道なのだから……。

 ふと顔を上げると、志遠と目が合った。

 志遠は黙って隼人を見つめ続けている。

 その視線はまるで隼人の胸の内を見透かしているかのように思えた。

「数奇な運命を辿ったものだ……」

 そう言って志遠は小さく笑った。

 隼人は表情を変えずに言う。

 まるで他人事のように聞こえる台詞だったが、事実その通りだから仕方がない。

 そして、志遠もそのことを理解しているからこその言葉であった。

 寂しさのようなものが感じられた。

 志遠が何を言いたいのか分かっているのだろう。

 だから、それ以上言わなかったのだ。

 再び沈黙が流れたが、今度はそれほど長くなかった。

 やがて、隼人が銚子を手にすると志遠の盃に酒を注ぐ。

 そして、志遠もそれを黙って受けた。

 二人は同時に盃に口をつける。

 酒を嗜みながら月を愛でる時間は過ぎていくのだった。

 隼人は盃を空けると、それを盆に戻した。

「うまい酒だったよ」

 そう呟くように言ったあと、隼人は縁側から立ち上がった。

「もう帰るのか。少し酔いを覚ましていけばいいだろう」

 名残惜しそうな志遠の言葉に、隼人は微笑しながら首を振る。

「この程度の酒で俺が酔うとでも思っているのか?」

 彼の言葉には自信が溢れていた。

「しかし……。何なら泊まってもいいんだぞ?」

 心配そうな表情をする志遠に対して、隼人は言う。

 その顔には優しい笑みがあった。

「そのセリフは女を相手に言うんだな。そんなに心配なら、俺が酔っていない証拠をみせてやろう」

 隼人は黒い包から刀を抜いた。

 鍔の無い寸尺の短い刀身が姿を現す。

 月明かりを浴びて白く輝く刃紋は直刃と呼ばれる直線的なものであり、波紋は無い。研ぎ澄まされた美しい刀剣である。

 抜き放つとその白さが際立つようだった。月明かりの下で輝く様は幻想的ですらある。

 志遠は思わず見とれてしまう。隼人の行為に志遠は一瞬、驚いた表情を見せるが、すぐに納得した顔になる。

 志遠は酒を湛えている盃を隼人に向けて差し出す。

「動くなよ」

 そう言うと、隼人は刀を持ち上げる。

 切先を天に向けて掲げるように持つと、刃先を下にして一気に振り下ろした。

 刀は音を立てることなく、盃に向けて振り下ろされる。

 刃唸りこそないが、決して遅い訳ではない。

 隼人の振る刀の速度があまりにも速過ぎるが故に音が高く、人間の耳に聞こえる可聴周波数を超えていた為に聞こえなかっただけだ。

 刀の切先は時を止めたように、盃の数mm手前で停止していた。

 志遠は見た。

 盃に映り込む満月が二つに分かれていることを――。

 そして、次の瞬間、音もなく二つの月は元に戻った。

 志遠は思わず息を呑んだ。

 信じられない光景を目にしたからだ。


【水月を斬る】

 水月とは水に映った月のことで、池に映った月を斬ることをいう。

 池の淵に立って浮かんでいる月を斬る。こうすることで刃筋を正確にする。刃筋が正確に入って行かないと、太刀筋は曲がり刀はあらぬ方向に飛んで行き、己がケガをすることにもなる。

 園部そのべ秀雄ひでお、(1870年4月18日(明治3年3月18日) - 1963年(昭和38年)9月29日)という、女性武道家がいた。

 幼名を「たりた」を言った。

 佐藤観柳斎の撃剣興行に魅せられ武芸者になる道を選ぶ。明治19年、たりた16歳であった。

 撃剣興行に参加しながら、鑑柳斎やその妻から直心柳影流薙刀術を学ぶ。稽古熱心なたりたは朝夕千本の素振りを日課とし、めきめきと上達した。

 撃剣興行では「美人剣士」として人気が高かったという。

 たりたは、修行の中で池に映る月を斬ることを教えられた。

 何度やっても月は斬れるどころか水面を叩き、月は水面に揺れるだけであった。

 だが、ついに月を斬ることに成功し、明治21年に直心影流薙刀術印可状を得る。その際に師である鑑柳斎から「秀雄」の名前を名乗ることを許され、以後「たりた」から「日下秀雄」と改名する。

 同じ撃剣会にいた剣術家の吉岡五三郎と結婚するが、天然痘により死別。

 明治29年に直心影流薙刀術宗家を継承。同年、直猶心流剣術・鎖鎌術第2代宗家の園部正利と再婚し「園部秀雄」となる。

 その戦績は見事で、93歳で死去するまでの生涯で薙刀においては生涯無敗であった。

 近代薙刀術史上最高の名人として評価が高い。


 水月を斬ってみせた隼人は刀を鞘に収めた。

 盃に映った月を斬るとなると、刀の切先が一切揺れること無く静止している必要がある。その為には、一瞬で刀を振り上げて振り切る必要があり、相当な腕力を必要とするだろう。

 その動きの中に一切の無駄がなく、流れるように行わなければ不可能だと言える。

 それを可能とするには、常人離れした膂力が必要となるはずだ。

 いや、力だけではなく技術も必要だ。

 一瞬の判断ミスや迷いがあれば失敗する。

 並外れた集中力と胆力が必要とされるのだ。

 それも酒を煽った状態でできる技ではない。

 それができるということは、隼人が酔っていないという証明に他ならない。

「大したものだ」

 志遠は、手にした盃に目を細める。

「そういうことだ。じゃあな志遠」

 そう言って、隼人は縁側から庭に出ると、闇に消えて行った。

 志遠はその背中を黙って見送るのだった。

 盃には今し方、隼人が斬った月が浮かんでいた。

 それは本物の月よりも美しく見えた。

 月の映り込んだ酒を、志遠はそっと口に含む。

 すると志遠の眉が僅かに動いた。

 先程まで美味いと感じていた酒が、今は味気なく感じたからだ。

「月は、あんなにも綺麗なのに……」

 志遠は中秋の名月を愛でながら呟き、一人で飲む酒の寂しさを感じるのだった。

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