第32話 父の刀
澄香は、まどろみの中に居た。
身体中に力が入らない。まるで鉛のように重いのだ。
意識はあるのだが身体の自由が利かない。
身体は熱く火照っており、汗が吹き出ているのが分かる。血に毒でも混ざったのか、身体中が痺れるような感覚がある。
澄香は、瞼を開けようとしたが、目が開かなかった。
いや、開いているのか?
見えない。
目を瞑っているのとは違うようだ。
瞼は開いているのに、何も見えない。
身体が動かないのは、それだけが原因ではなかった。
動かないと思っていると身体が、宙に浮かんでいるように感じる。
自分が今、どこに居るのか分からない。
浮遊感のようなものを感じる。
苦しい。
息ができない。
助けて欲しい。
誰か……。
その時、何か音が聞こえてきた。
水の音だ。
水の流れる音。
雨?
いや、違う。
これは、水の滴る音だ。
澄香は水が欲しかった。その冷たい水で、この熱くなった身体を冷やして欲しい。
澄香は、その音のする方へ、必死に手を伸ばす。
伸ばしていると、自分の額に、ひんやりとした物が触れた。
気持ちが良い。
澄香は、その冷たさをもっと感じたくて、その物を掴んだ。
冷たく濡れたタオルだ。
氷水で冷やされたタオルだった。
その冷たさが心地良い。
澄香は、そのタオルの先にある物に触ろうとした。
(あ……)
澄香は、何かに触れた。
掴んだのは、人の指。
手だ。
それも、男の太い指。
澄香は、必死に見る。
暗い。
暗くてよく見えない。
それでも、澄香はその人影を認識する。
澄香は、こんな風に優しくしてくれる男は、一人しか知らなかった。
「お父さん……」
澄香は、呟いた。
人影は答えなかった。
ただ、黙って手を引っ込めていく。
遠く、遠くへと離れて行く気がして澄香は怖くなった。この暗闇にたった一人残される気がした。
澄香は必死になって人影の袖を掴んだ。
「いや……。お父さん。澄香を、一人にしないで……」
澄香は泣き叫んだ。
すると、手は澄香の
澄香は、その手を自分の頬に当て首を預ける。
安堵したように目を閉じる。
そんな時間が、どれだけ過ぎただろうか。澄香の手の力が緩むと、頭を撫でられる。
その手は、とても大きくて温かいものだった。
その温もりが、嬉しくて澄香は涙を流した。同時に寂しさも覚えた。その涙は、頬を伝うと澄香の意識は闇に溶けていった。
澄香は夢を見た。
それは、幼い頃の夢。
まだ、父が生きていた頃の話。
澄香は、父の膝の上で絵本を読んでもらっている。
父の顔は見えなかったが、きっと笑顔を浮かべていることだろう。
その優しい声で、読んでくれる物語が好きだった。
父は、色々な話をしてくれた。
それは、昔話。
その中でも一番好きなお話は、桃太郎の話である。
桃から生まれた少年が、鬼退治に行くという話だ。
澄香は、そんな話が大好きであった。
特に鬼ヶ島に乗り込むところが好きだ。
なぜなら、鬼を退治すれば、みんなが安心して暮らせるからだ。
この時、思ったのかも知れない。人を守る為に剣を振ってみたいと。剣を手にする父の姿に憧れたのかもしれない。
そう考えると、父と母が殺されたことが悔しくて仕方がなかった。
なぜ、奴は、あんなことをしたのかと。
だから、澄香は剣を手にしたのだ。
剣を握り締めると、不思議と勇気が湧いて来る。まるで身体の奥底で
そして、剣を振ると心が洗われるような気持ちになった。
だが、その思いとは裏腹に、自分は弱かった。
自分より強い人間がいるという現実を痛感させられたのだ。
今は違う。
自分の実力を過信していた訳ではない。
自分が弱いということを嫌と言うほど知らされた。
その事実に、怒りを覚えた。
憎しみさえも感じた。
今は違った。
今なら勝てると思った。
弱さに嘆くのではなく、それを教訓にすることができる。
強くなれば良いだけのことだ。
そして、父と母の無念を晴らす。
それこそが、澄香の使命なのだ。
◆
澄香は、ゆっくりと目を開けた。
そこには、見知らぬ天井があった。
見たことのない天井に、澄香はビックリしてしまう。
なぜここに居るのかと……。
木目の見える板張りの天井だ。
辺りを見回すと、見慣れない部屋であった。
畳敷きに襖障子がある和室だ。
布団で横になっていた、上半身を起こす。
人肌に温まった濡れたタオルが額から落ちる。
少しだけ、頭が重い。
だが、気分は悪くない。むしろ、すっきりしているくらいだ。
ここはどこなのだろうか?
澄香は、周囲を見渡した。
そこは、どこかの屋敷のようであった。
澄香は自分の身を確認すると浴衣を着ていた。
それと共に痛みを覚える。
左腿、背中が痛い。
顔に触れると右頬に絆創膏が貼られていた。
段々と、何かを思い出す。
鬼面の者達。
戦い。
背中への衝撃。
あれから、どうしたのだろう。
そして、ここは?
澄香は考える。
自分が今居る場所は、屋敷の一室のようだ。
室内には何も無く、枕元に水の張った桶とタオル。水差しと薬らしき袋があるのを見た。
どうやら、この部屋に居るのは澄香一人のようだ。
そうしていると廊下に面した障子が開いた。
現れたのは、澄香と同年代の10代の少女だ。
ゆったりとしたレディースカットソーとプリーツスカートを履いている。
装飾も邪心もない心を宿した瞳。
セミロングに切り揃えられた黒髪。
髪を留める赤いリボンは未だに、少女心を表しているようでもある。
身体は華奢だが、それでもどこか芯が入ったような印象があった。
少女は、手にしていた盆を置くと澄香に近寄った。
「良かった……。目が覚めたんだね」
少女は安堵の表情を浮かべながら言った。
敵意は感じない。むしろ、澄香の身を案じているように思えた。
澄香は、少女の顔をまじまじと見つめる。
その顔に見覚えはなかった。
「あなたは、誰?」
澄香の問に、少女は答える。
「
少女・瑠奈は、笑みを浮かべて名乗った。
「汗かいたでしょ。拭いてあげる。着替えも持って来るね」
そう言うと瑠奈は、急ぎ足で部屋を出ていきかけ、思い出したように顔を出す。
「そうだ。お腹空いてない? お
澄香は、少し考える。
食欲はあまりないが、作ってくれたという善意を無下にするのは気が引けた。
それに、澄香は喉が渇いていた。
水を飲めば、何か食べられるかもしれない。
澄香は、小さくうなずいて肯定の意を示した。
「うん。少し頂くわ。ごめんなさい、水を頂けるかしら」
すると、瑠奈は嬉しそうな笑顔を見せた。
澄香は、そんな彼女の様子を見ていて疑問に思うことがあった。
それは、彼女が自分を看病してくれたこと。
瑠奈とは初対面であり、彼女にとって自分は赤の他人である。
そんな人間を、彼女は何故助けてくれたのか。
それが不思議だった。
澄香は、自分の記憶を呼び起こす。
確か、自分は背中に一刀を浴びたハズだ。
しかし、こうして生きているということは、誰かが手当してくれたということになる。
誰がしてくれたのかは分からないが、礼を言わなければならないだろう。
そんなことを考えているうちに、瑠奈が戻って来た。
手には着替えと、新しい水差しと湯呑を持っている。
瑠奈が入れてくれた水で、喉の渇きを潤す。砂に水が染み込むように水が身体に行き渡るのを感じた。
「じゃあ。着替えようか。下着は新しいの買ってあるけど、手伝おうか?」
訊かれて、澄香は少し恥ずかしくなる。
同性とはいえ、裸になるというのは抵抗がある。
浴衣を脱ぐ必要があるのだ。
(どうしよう……)
迷っていると、瑠奈が微笑む。その目は、優しく澄香を見ていた。
まるで、全てを見透かすような目であった。
澄香の心が安らいでいく。ゆっくりと首を横に振った。
「ショーツは自分で着替えるわ」
それを訊くと瑠奈は、部屋を出る。
「じゃあ、終わったら呼んでね」
瑠奈は後ろ手で障子を閉める。
ふっと息をついて、暇を持て余す。少し遅いかなと思っていると、澄香の声があり、瑠奈は部屋を覗き込んだ。
布団の上で、浴衣を着崩し座っている澄香の姿があった。白いうなじに髪が乱れ、しどけない姿である。
色香がある澄香の姿に、瑠奈は同性であるにも関わらず、思わず見惚れてしまう。
(この娘、きれいだなぁ……)
そして、その胸中には
瑠奈は咳払いをして、部屋に入ると澄香の浴衣を脱がせる。上半身には包帯が巻かれてあった。
瑠奈は湯を張った桶でタオルを絞ると、澄香の身体を拭いていく。傷口に触れないように気をつけながら、丁寧に拭き取る。
つい瑠奈は澄香の胸を見る。自分よりも大きいのではないかと、つい視線が向いてしまった。
それに気付いたのか、澄香が声をかける。
「あの。あまり見られると、ちょっと……」
言われて、瑠奈は我に返った。
澄香の身体を拭いているのだから、凝視している場合ではない。
「あ。ごめん」
瑠奈は慌てて、作業に戻る。
恥ずかしさもあったが、何だか急に腹が立ってきた。こんな娘と3日間、昼も夜も片時も離れずに看病していた奴がいるのだ。
(あいつ、本当に何にもしてないでしょうね……)
そんなことを考える。
澄香の身体を拭きながらも、少し安心する。
彼女の傷は塞がったものの、血を失いすぎたせいか少し青白い肌をしていたからだ。
羞恥心があるのは、心の余裕がある証拠とも言えた。
そんなことを考えていたら、澄香の身体を拭き終える。
澄香は瑠奈に手伝ってもらいながら、新しい浴衣に袖を通した。汗ばんだ浴衣から解放されると、気持ちが良い。
「ありがとう」
澄香は、瑠奈に頭を下げる。
その表情は、どこか晴れやかに見えた。
澄香は、廊下に人の気配を感じた。
「失礼。入ってもいいかな?」
澄香は聞き覚えのある声だと思った。
すると瑠奈が答えた。
「はい。どうぞ」
すると、一人の男が部屋に入ってきた。
紬の着物を着た、霧生志遠であった。
彼は、澄香を見ると笑みを浮かべて言った。見る者を心から安心させる、優しい笑みだ。
志遠は、手にしたお盆を近くに置く。
粥の入った茶碗とレンゲがある。
志遠の手から粥が手渡される。米の持つ甘みが、香る。お粥からは温かく良い匂いがした。
お粥を見た瞬間、澄香のお腹が小さく鳴いた。
食欲は無いと思っていたが、改めて見ると食欲が湧いて来る。
澄香は、顔を赤くしながら、お腹を押さえてうつむいた。澄香は剣士として気を張ってはいたが、まだ年頃の高校生なのだ。
男性の前で、腹の虫が鳴るなど恥ずかしかった。
そんな澄香を見て、瑠奈はクスリと笑う。
その笑顔は、澄香に安堵感を与えた。
「味付けは保証しないよ」
差し出されたお粥を手にすると、澄香は礼を述べた。
「ありがとうございます」
一口食べる。
味は薄めであったが、優しい味わいがした。
空っぽの胃袋に染みるようだ。一粒一粒、噛み締めるように食べていると、あっという間に平らげてしまった。
お粥を食べ終えた澄香は、手を合わせて言う。
「ごちそうさまです」
その様子を見て、志遠は微笑む。
志遠は受け取った椀を下げた。
「思ったより良さそうで安心したよ」
志遠は澄香に向かって呟く。
澄香は、少し驚いた様子で訊く。志遠は、その言葉が来ることを予想しているかのように落ち着いていた。
「私は、どうなったんですか? それとここはどこなんですか?」
それは、ずっと気になっていたことだ。
志遠が運び出してくれたのは覚えている。
自分が意識を失った後、一体何があったのか。
志遠は、少し考えると、こう話し始めた。
「僕は内弟子でね。ここは、僕が師範代を務める念流の道場の離れ座敷だよ。
あの日。風花さんは、鬼面の連中に背中を斬られた。深い傷だったよ。すぐに手術をしたけど、出血が多くてね。正直、もう駄目かと思った」
澄香は察する。
「もしかして、霧生さんが手術をして下さったんですか?」
「まあね。縫合は傷跡を目立ちにくくする真皮縫合をしておいた。ビキニだって着られるよ」
澄香は顔を赤らめる。
「……私、そんな軟派なものは着ませんから」
志遠は苦笑いする。
その表情は、どこか照れくさそうだ。
そして、少し真面目な顔になると、彼は続けた。
「本当に、無事で良かった。感染症を起こしていてね。高い熱を出していた。
だけど、君が頑張ってくれたおかげで、命を取り留めることができた。ありがとう」
澄香は、首を横に振る。
自分の力だけで、どうにかできた訳ではない。志遠が手術をしてくれたお陰であった。そのお陰で、命を繋ぐことができたのだ。
それに、志遠がいなければ自分は死んでいただろう。
だから、感謝するのはこちらの方だ。
澄香は深々く頭を下げた。
「ま、もっとも志遠は四本脚が専門だからな。後で毛が生えてくるかもしれねえぞ」
突然の横槍に、澄香はハッと縁側に立つ少年を見た。
学生服の襟ボタンを外した少年。
その少年を見た瞬間、澄香の中で殺意が湧いた。自分の眉間に皺が寄り、悪鬼の如き形相となるのが分かった。
「貴様!」
澄香は浴衣の裾が乱れるのも構わず、条件反射的に右脚を立て、左手は腰に、右手は左腰へと運ぶ。
そして、気がつく帯刀していないことに。
「探し物はこいつか?」
隼人は、手にしている物を見せた。
それは澄香の刀だった。
鞘に収まっているものの、間違いなく澄香のものだ。自分の半身とも言える刀が、
その事実は、澄香の怒りを増幅させた。
澄香は歯軋りし、怒りに震える。
「返せ!」
叫びながら、駆け出す澄香。
だが、すぐに隼人は刀の鞘の先端・
動きの起こりの瞬間を突かれたことで、痛みは少なかったが澄香は布団に転がる。大した威力のあるものではなかったが、澄香の動きを止めるには充分であった。
澄香は、その場で隼人を睨む。
「急に動くんじゃねえ。せっかく縫合した背中の傷口が開くだろうが」
隼人の言葉を聞きながら、澄香は突かれた自分の肩を押さえる。
言われれば確かにそうであるのだが、澄香は感情的にそれができなかった。
澄香が動かないのを見ると、隼人は言った。
「……憎しみの込められた、いい眼だ。死期が近い者の眼じゃねえ。峠は越したな」
その声は、どこか冷淡だ。
彼は澄香の眼前に立ち、見下ろす。
その瞳からは、感情が読み取れない。
澄香は、彼を睨みつけた。
「隼人。ケガ人への乱暴は止めなさい」
志遠は言うと、隼人に向き直って言った。その口調は穏やかであるが、威圧感があった。
隼人は気圧され、黙ってしまう。
「悪かったよ」
そう言うと、隼人は刀を澄香に差し出す。
澄香は奪い取るように刀を掴むと、刀に抱き締める。その顔は、涙で濡れていた。
隼人は、澄香の表情からは、愛しさのようなものを感じた。
「……鈴豊馬場で果し合いの時に思った。その刀、お前には長過ぎると思っていたが、角間さんの刀か」
隼人は問う。
「そうだ。父の刀だ……」
澄香は、その
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます