第31話 剣の鬼

 背中への一刀。

 澄香は膝から崩れ落ち、そのままうつ伏せに倒れる。

 力が入らず受け身を取れなかったのか、澄香は全身を地面に打ち付けていた。

 背からの出血が首筋を伝い、顎の先へと滴る。

 それは、まるで血の涙を流しているようにも見えた。

 息ができなかった、倒れた衝撃で肺の中の空気を全て吐き出してしまったからだ。

 顔を向けた先に、切先を下に向けた着流し姿の鬼面の男が立っていた。

 男は、ゆっくりと刀を振り上げる。

 澄香は、身体を動かすことができない。

(ああ……。私、死ぬんだ)

 澄香は、死を覚悟した。

 だが、その刃が振り下ろされることはなかった。

 男の身体が、斜めにズレた。

 まるで試斬で畳表を斬り、崩れるような光景が人体で起こっていた。

 目を剥くような光景だ。

 目の前にいたはずの鬼面の男の姿はなく、代わりに別の男の声が聞こえてきたのだ。

 聞き覚えのある声だった。

 澄香がこの世で最も憎悪する、憎らしい声だ。

 そう、その声の主は――。

 黒い打裂羽織を身にまとった長身の少年――。

 《なにがし》の隼人であった。

「澄香!」

 隼人は呼びかけるが、澄香は返事ができなかった。意識はあるようだが、呼吸ができない状態になっている。

 負傷による過呼吸だ。

 隼人は状況を理解すると、左手で澄香の口を塞ぎ親指と人差し指で鼻を摘む。一切の呼吸ができないようにした。

 今の澄香に隼人の手を引き剥がす力は残っていなかった。

「息を吸おうと思うな、吐け。ゆっくりだ」

 指示に従い、澄香は大きく息を吐いた。

 その間も、男が正面から迫って来る。

 隼人は舌打ちする。

 右手の刀を捨てて、脇差を飛刀術で投げると、脇差は男の胸に突き刺さり絶命させた。

 隼人は再び澄香の息を封じる。

 過呼吸を起こした傷病者には、大きく息を吸う深呼吸ではなく、吸った息を10秒程度かけて、ゆっくり吐き出す呼吸法を促させる。

 可能であれば、数秒程度、軽く息を止めてみることも有効な手段となっている。

 隼人は、それを実行していた。

「吐け」

 指示通りに澄香はゆっくりと息を吐き出す。

 息を吐き出すと、自然と肺に空気が吸い込まれる。

 澄香の顔色もよくなり、正常な呼吸に戻ることができた。その口からは小さく息が漏れるのみだ。

 まだ少し苦しそうだが、これで大丈夫だろう。

 隼人は胸を撫で下ろす。

 背後から敵が迫って来る。

 その男を風が攫うように志遠が斬る。

 隼人は澄香の様子を見ると、目から光が失われようとしていた。

 このままでは危険だと悟った隼人は、澄香の胸ぐらを掴む。

「おい。こっちを見ろ、俺を見ろ」

 声をかける。

 すると、澄香の目蓋が僅かに動く。

 そして、澄香は口を開いた。

 か細い声で言葉を発する。

 その声は、まるで死にかけの虫のような声音だった。

「お前の目的は何だ。殺された親の仇を討つことだろ。目の前に居るのは誰だ? しっかり見ろ!」

 隼人の言葉を聞いた澄香の目に光が戻る。

 そして、その瞳からは涙が流れ落ちる。

 だが、すぐに澄香の目は虚ろになり、再び目の光を失う。

 隼人は、その様子を確認すると、再び同じ質問をする。

 澄香は、答えない。

 隼人は構わず続ける。

「澄香は、隼人を殺すんだろ!」

 げきを飛ばす。

 澄香の目が焦点を取り戻し始める。

 澄香の瞳には、はっきりと隼人の姿を映す。その様子を確認した隼人は更に続けた。

「仇を取れ」

 その口調は、先ほどまでとは打って変わって優しいものだった。

 まるで子供を諭すような語りかけ方だ。

 澄香の視線が定まる。

 その目には、先ほどの生気のないものとは違い、しっかりとした意思が宿っていた。

 それは憎しみではあったが、生きるという強い意志だった。

「隼人の首を、討つのは……。私だ」

 隼人を睨みつける澄香。

 その表情を見た隼人は、思わず笑みを浮かべた。

「志遠!」

 隼人が叫ぶより早くか、志遠が駆け寄ってくる。

 澄香の傍らに座り、隼人が立って周囲を警戒する。

 志遠は出血の多さに驚く。

 左肩甲部、肩甲下部にかけて斬られていた。

 すぐに、止血を試みる。刀刃を拭う布と懐紙しか持ち合わせていないが、更に自分のジャケットの袖を引きちぎって傷口に押し当てると下げ緒を使って、澄香の身体とを縛る。

 現在、今出来る限りの処置をした。

 後は、すぐに然るべき所に連れて行かねばならない。

 だが、この状況では無理だろう。

 背中は急所が少ないが、肩甲骨のような大きな骨の損傷は大量の出血を伴う。

 傷口から流れ出た血液の量を考えると、とてもではないが楽観視できるものではなかった。一刻を争う事態であることには変わりない。

 また、失血により体温が低下している。

「どうだ?」

 隼人は敵を警戒しながら訊く。

「傷は浅い」

 志遠は澄香が聞いていることを考慮し、嘘を答える。

 負傷者に絶望を抱かせてはならない、助かるという希望は、そのまま負傷者の生きる力になるからだ。

 志遠は、澄香の頬に触れる。

 冷たい。

 隼人は、志遠の表情から舌打ちすると、周囲を見る。

 志遠もそれにならった。

 敵の数は減っているはずだが、余裕で抜けられる程、呑気のんきに出ていける訳もなかった。志遠は澄香の刀を鞘に収める。

 隼人は、正面に一人の男が歩み出てくるのを見た。

 大柄な男。

 黒の道着に袴姿。

 畏怖を覚える程の威圧感を放っている。

 身長こそ、常人と変わらないが、まるで、巨岩のような存在感。

 峡谷きょうこくの岸壁から、岩が剥がれ落ちる。岩は水に沈み流され、他の岩と打ち合い、割れ、削れ、砕け、川下に至った時は、角を失った小さな石へと姿を変える。

 だが、それがなされない岩があったとしたら、如何なるものだろうか。

 この男は、まさにそれであった。

 いわおの如き風貌の男――。

 その立ち振る舞いは、武人の佇まいである。

 男は、着流しの連中とは異なる鬼面をつけていた。ジャグマと呼ばれる動物の毛で作られた髪飾りをしていた。

 隼人は、この男こそが、リーダー格であると理解する。

 他の連中の実力は、精々が新撰組で言うところの新入隊士レベルだ。

 だが、こいつだけは違う。

 こいつは強いと直感が告げていた。

 隼人は、自然と刀を握る手に力が入る。

「どけ」

 隼人は、静かに言う。

 鬼面の男は答える代わりに刀柄に右手を添えると、刀を抜く。

 長い。

 刃長二尺五寸(約75.8cm)はある。

 隼人は、その刀を見て、僅かに目を見開く。

(何だ、あの刀は?)

 刀の切先が両刃になっていた。現在の刀には見られない造だ。


切先両刃造きっさきもろはづくり

 切先部分のみが両刃となっている造込み。

 室町時代中期頃から天正頃にかけて作られた短刀の造込みの一形態。

 鎬筋を境にして上下に刃が付けられ、刺突の効果を増大させると共に截断にも優れた構造。接近戦などで絶大な効果を発揮した。

 直刀から湾刀への過渡期において作られた。刺突と切断の両方を目的として作られた物だと考えられている。


 鎬の重ねは厚い。

 重ねは、元の方で7mmくらい先の方で5mmくらいが平均だとされる。刀の中でも同田貫は元が8.3mmだとされている。

 同田貫は実戦向きの刀ということもあり、かなり厚く出来ており厚いということは、それだけ丈夫でもある。

 実践向けに作られているものは、折れないということを重視される。その刀は同田貫並かそれ以上の重ねの厚さだ。

 刃文は互の目乱れで、地鉄は板目肌だ。

 柄巻は摘巻つまみまき

 紐を段状にして、つまむように盛り上げて巻いていく、紐による盛り上がりが高い巻き方で、柄巻の滑り止めの効果が最も高い手法だ。

 その刀からは異様なまでの威圧を感じる。

 男の放つ雰囲気が、そう感じさせるのか。

 隼人は、目の前の男が持っている刀を見て、威圧の中にの美しさを感じ見惚れた。

 そして、男の眼光に気圧されそうになるが、それを振り払うように睨み返す。

 男は刀を上段に構えた。


【上段の構え】

 刀を頭上に振り上げた構えで、左上段と右上段に分けられる。基本は両手で構える諸手左上段だ。

 この構えを取っている場合、対戦相手を斬る為に必要な動作は、極論すればその体勢から剣を振り下ろす事だけであり、斬り下ろす攻撃に限れば凡そ全ての構えの中で最速の行動が可能である。

 また、刀剣を用いた攻撃において、最もそのリーチを生かす事の出来る構えの一つでもある。

 更に、基本的に打突は片手で打つため威力が増すなど、非常に攻撃的な構えである。反面、構えている間は面以外の部分を曝け出している状態であり防御には向いていない。

 別称を「天の構え」または「火の構え」とも言い、文字通り相手を焼き尽くすように強い、攻撃的な構えだ。


 隼人は、鬼面の男の迫力に息を呑んだ。

 しかし、負ける訳にはいかない。

 隼人は刀を握り直すと、左脚を前に出し半身になり、右手を刀身に添えた。

 二人は、互いの間合いに入るのを待つ。

 二人の距離は二間(約3.62m)程。

 鬼面の男の身体に緊張がみなぎるのが分かる。

(来る)

 隼人は、鬼面の男の身体が動いた瞬間に、身体を前へと傾けた。

 男が、踏み込んでくる。

 隼人は、横薙ぎの一撃を放つ。

 上半身だけではない下半身のバネを使い、腰を入れ全身の力を集約した渾身の一閃だった。

 男は上段から刀を一気に下へ降ろした。

 二つの斬撃が交差する。

 隼人の斬撃が空を切る。

 男は隼人の横を通り過ぎた後に、振り返り様に隼人を袈裟に振る。

 そのさまは、魂と意思を宿した2つの風が、もつれ合うかのようだった。

 隼人は後ろに飛び退く。

 どちらが先に姿を捉えたか、隼人は鬼面の男の姿を認め、男は鬼面の奥にある双眼で隼人を捉えていた。

 隼人は背筋に冷たいものを感じた。

 男は刀身を通して感じた布と肉を斬った感触を確かめるように、右手を見る。

 釣りの醍醐味は、魚の引きを楽しむことだと言う。

 痺れるような感触が腕に伝わる。

 その感触は、まさにそれであった。

 人の肉を切り裂く感覚は、何度経験しても心地よく感じる。

 それは、剣で命を奪うという行為に対して、快感を覚えてしまうことなのかもしれない。

 男は、剣の世界に入ってから、多くの人間を斬ってきた。

 だが、この刀を振るって人を殺めた時とは異なる、今までとは違った快楽があった。

 あの少年との間合いの読み合い、寸毫の隙を見逃さない洞察力、一瞬の内に判断する状況把握能力。

 そして、何よりも相手の動きを読みきった上で、最善の一手を繰り出す決断力――。

 どれを取っても素晴らしいものだった。

 あの少年との立ち合いは、心躍るものではあった。

 それ程までに刀刃を通して伝わる、あの少年の体温や鼓動が、自分の血を熱くさせたのだ。

 そして、あの少年は男の期待に応えてくれた。

 鬼面の下で、男は口元を緩ませる。

 隼人は、鬼面の男の笑みを見た気がして、寒気を覚えた。

 自分の右胸を見るまでもなく、斜めに大きく斬り込まれていた。激痛と出血で一度むせる。

 意識を失いかけるが、気力で耐える。

 男は隼人を睨み見る。

 隼人は、痛みを堪えながら、刀を構え直した。

 その様子に、男は感嘆の声を上げる。

 まだ戦う意志があるようだ。

 鬼面の下の顔が綻ぶ。

 面白い奴だ。

 男は刀を下段の構えに変え、左脚を一歩前に出す。

「四歩。いや、今一歩踏み込んだから、三歩だ。そのまま動かねえ方が良いぞ」

 隼人は意味不明なことを口にする。

 男は、隼人に向かって駆け出す。

 左脚から踏み込む。

 一歩。

 右脚を前に送り。

 二歩。

 再び、左脚が動き地を踏んだ。

 三歩。

 その瞬間に男の左大腿から血が吹く。

 時限爆弾でも仕掛けられていたかのように、突然に刀刃による痛みが起こったのだ。

 男は前のめりになって倒れ込んだ。

 男は何が起きたのか、理解できなかった。

 志遠に抱えられた澄香も、何が起きたのか理解できずに呆然としていた。

 男は、大腿部を押さえたまま、動けないでいる。

「館長!」

 配下の男達が、鬼面の男に近付き容態を気遣うが、それを意に介さず隼人に怒りをぶつけてきた。

 男は、隼人を睨む。

「これが、闇之太刀か」

 男は言う。

「……よく知ってるじゃねえか。俺の刀を避けられたと良い気になっていたら、とんでもねえものを仕込まれていたな。俺が、その気なら今の瞬間に斬り込むこともできたんだぜ」

 隼人は、得意げに言う。

「なら、なぜしなかった?」

 男の質問に、隼人は何も答えずにただ見つめていた。隼人の右腕から血が滴り落ちて答えている。

 男の刀を受けてできた傷だ。

 肺には達していないが、肋骨を撫で斬っている。胸筋の一部を断たれており、十分な斬撃を放てる状態ではなかった。

 隼人の背後に、澄香を担いだ志遠が居た。工事現場の出口に男達の姿は無い。

「先に行け志遠」

 隼人は、志遠は頷くと澄香を連れて、その場を離れた。

「館長。角間の娘が」

 配下の男が口にしたのを、隼人は聞き逃さなかった。

(こいつら、澄香の父親の角間道長を知っているのか。なぜ?)

 疑問は尽きないが、今はそれどころではなかった。

 隼人は刀を構えると、目の前の男を見る。

 まだ動く気配はない。

 だが、警戒を解くことはしない。油断したところをやられるというパターンもあるからだ。

「さて。どうする? 今の俺を囲んで斬り込むこともできるが、あんたはそれを臨むかい?」

 隼人は、不敵な笑みを浮かべて言った。

 鬼面の男は刀を構えて立っていた。

 この男の力量は相当なものだ。二尺五寸(約75.8cm)の刀に加えて重ねの厚い刀を閃光のような速度で振り下ろした。

 並大抵の者では、反応すらできないだろう。

「《なにがし》か。伝説の剣を使う者を、疲労したところを一騎打ちにしたとしても名誉は手に入らんな」

 男はそう言って、刀を拭って鞘に納める。

「……なら別の機会にしようぜ」

 隼人は言うと、男に背を向けて歩き出した。

 歩きながら投げた脇差を回収する。

 男はそれを見送る。

 そして、自分の太股に目を落とす。

 左大腿部に深い裂傷があった。

 傷口から流れ出る血液で、袴は真っ赤に染まっている。

 男は、傷口に手を添える。

 激痛が走る。

 歯を食い縛りながら耐える。

 だが、男は鬼面の下で笑っていた。

 男は、自らの身体に起きた変化を実感していた。

 それは喜びであった。

 男は鬼面を外した。

 その顔には、喜悦の色が見える。

 その瞳には、狂気とも呼べる輝きを宿していた。

 鬼は人喰らう。

 人の肉を切り裂き、血をすする。

 男の中で何かが目覚めようとしていた――。

 《なにがし》を斬りたいという欲望が男の心を支配していた。

 あの少年の肉体を存分に斬り刻みたい――。

 あの少年の血を思うさま浴びたい――。

 あの少年の肉を貪り尽くしたい――。

 あの少年を味わい尽くしてやりたい――。

 男の脳裏に浮かぶのは、あの少年の姿だった。

 男・志良堂しらどう源郎斎げんろうさいは、この日、剣の鬼となった。

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