第2話 逢魔が時

 風が見えた。

 正確には、草が押し倒されることによって風が見えたのだ。

 荒々しくうねる様に草は沈み、負けまいと抵抗をしている。遠目から見ればそれは時化を迎えた海のようにも見えた。

 人の手が入らなくなった大地にも関わらず、草は固い大地に根を張り、少ない降雨にも関わらず青々とした葉を伸ばしていた。

 昨年に枯れて残った無数のススキの根本には小さな緑の葉が見える。

 ススキに混じって、セイタカアワダチソウの姿が見えた。

 明治の頃に北米原産の、この植物が入って来たのは文明開化の悪影響かも知れない。

 もっとも全国に広まったのは戦後であり、その原因はアメリカ軍の輸入物資によって広まったという。秋ともなれば、黄色い傘状の花序を咲かせることだろう。現代の日本では、当たり前の風景になっているが、季語には含まれていないところは、やはり日本原産の植物ではないためだろう。

 だが、たくましさを感じる。

 異国の植物でありながら、21世紀を迎えた今の日本においても繁栄を続け違和感のない風景の一つになったのだ。

 そんな風景に一人の男が居た。

 白い道着に藍染の袴を姿。

 肩には腕を通していない羽織が風で揺らぐ。

 腰元には刀と脇差の二本差し。

 年齢にして40代後半の男。

 まるで江戸期や幕末の侍の様な出で立ちは、人々の行き交う街中にいれば伸縮警棒にSAKURA M360Jを装備した警察官に職務質問を受けるのは必然であった。

 時代にそぐわぬ男の姿は、かつての剣士そのもの。

 中年を迎えたサラリーマンのように腹は出ていない。鍛え上げられ絞められた身体は、道着を着ていても理解できた。

 いや、理解させられた。

 物を言わぬ気迫が男にはあったのだ。

 仮に男が雑踏の中に居たとするなら、間違いなく人々は避けるように歩いている。危険を避けるように。今の男には、それ程の気迫に満ちていた。

 拍動を続ける心臓の鼓動が自身にも聞こえる。身体は充分に熱を帯びている。アドレナリンが血液中を巡り、男の瞳孔は開き興奮していた。

 男は左手で腰にある鞘を掴んだ。

 鯉口をいつでも切れる態勢を取る。

 男の口元が薄く開いて、呟いた。

「待ちかねた」

 と。

 あたりの景色が、夕闇から薄闇に変わって来る。

 周囲の情景が、夜と言う名の満ち潮に呑まれていく。

 男は、ふと子供の頃に祖母に言われたことを思い出す。こんな薄暗くなったなった夕方を恐れて言ったのだ。

 魔物に遭遇する。

 と。

 妖怪や幽霊などの妖しいものと出会う時間。

 古くから夕暮れ時というのは、太陽のある昼と太陽のない夜の切り替わる時でもあり、現世と常世の境界ともされていた。

 江戸時代、数々の妖怪の絵を描いていた浮世絵師・鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』には、古くからその時間帯は妖魔が出てくる、怪異と出会う時間としていた。

 男は口にした。

 不吉な名を。


 逢魔が時。


 と。

 気配を感じた。

 沈みかけた太陽の光。

 暗さの中で光が眩しく見えない。

 だが、男には見えたのだ。得体の知れない影となった存在を。

 風に押し倒された草は、擦れ合い擦れ合って一斉にざわめき始めた。迫って来るのが見えた。

 腕が四本ある訳でもない。

 ケツから蛇が生えている訳でもない。

 氷柱の様な凶悪な牙を持っている訳でもない。

 しかし、影は持っていた。神話・伝説・伝承で語られる化物の悍ましさ。それらを魔女の大釜で煮て溶かし合わせたような、物恐ろしい妖気を。

 正面から迫って来るのを、見た。

 少年が、居た。

 打裂羽織に色のかすんだジーンズを穿いた、少年。

 高校生くらいであろか。

 加えて、少年の左腰には、男と同様に刀と脇差があった。

 ――いや、同じではない。

 脇差は最小の大きさで鍔があった。

 しかし、少年の刀には、鍔がなく柄頭には手貫紐が下がっていた。

 鍔とは、刀身と柄との間に挟む金属の板のこと。鍔の役割は、刀のバランスを調整し、柄を握る手が刀身の方へと滑って負傷させないストッパーの役割がある。

 また、鍔には防具としての役割がある。剣道では手首を狙らわれた際、鍔に当たって打たれないことがよくある。鍔がないと、刀身で頭部への攻撃を受け止めたつもりでも、相手の刀が滑って、こちらの指が斬られる可能性もある。

 鍔がないということは、そう言った利点を自ら排除するという意味だ。それは自ら不利にしているように見えるが、あえて外しているならば何かを意図した改造なのだろう。

 無鍔刀。

 こんな刀を持つ者は、一人しかいない。顔を確認するまでもない。


 奴だ――。


 男は確信し、手が震えていた。

 真剣勝負の恐怖――。

 違う。

 生存競争の中で『Fight or Flight』(戦うか、逃げるか)。

 という究極の選択を迫られた時、筋肉の動きも、神経の働きも、体温が少し高い方がよくなる。目の前の敵と戦うにしろ、逃げるにしろ、体を温めることで身体のパフォーマンスを上げ、生命の危機を切り抜けようとする気の昂り、武者震いであった。

 少年は、五間(約9.1m)の間合いを取って立ち止まる。

 男と少年は、互いの存在を認めた。

「逢魔が時に現れるとは流石というべきか――。魔物」

 先に言葉を発したのは男の方であった。

 声は震えてはいない。

 むしろ、落ちつきのある低い声で、風に乗って聞こえてきた。

 対して、少年は無言のまま。

 表情も変えずに、佇んでいる。

 だが、それは男が発する言葉を待っているのではなく、何か別のことに意識を向けているようでもあった。

「こちとら朝から夕方まで勉学に励んでいるんだ。こんな時間になるのは当然だろ」

 少年の言葉に男は目を細める。現実を知って苦笑いをした。

 彼の言うことは正論ではあった。

 授業が終わり次第、真っ直ぐに帰宅しなければいけない学生の身であれば、この時間に、この場所にいるのは不自然である。

 もっとも、男にとっては、どうでも良いことだ。

 男にとって大事なのは、目の前に立つ少年が自身の待ち人かどうか。それだけなのだから。

 男の脳裏に思い出が過った。自分が過ごしてきた人生の数々。

 父親、母親、恩師、友人、そして家族。

 人は死ぬとき、人生の走馬灯を見る。

 男は死を感じていた。

 死を受け入れていた。

 故に、悔いはなかった。

 男は鞘を握る手に力を込めた。

 少年の瞳が動く。

 視線が合った瞬間に、男は言った。

「――俺の負けで良い」

 と。

 だが、少年は首を横に振って男の言葉を否定した。

 違う。

 そうじゃない。

 と。

 二人とも分かっているのだ。今更、勝敗が決したところで意味がないと。

 だから、男は続けた。

 最後の最後に伝えたかったことを。

 男の人生の中で、最も大切なもの。

 かけがえのない、たった一つだけの宝物。

 それを少年に伝えた。

 少年は、黙って聞いていた。

 相槌を打つわけでもなく、ただ静かに耳を傾ける。男は、自分の人生を語っていた。

 男が歩んできた道程を。

 語り終えた男は、ゆっくりと瞼を閉じる。

 そして、もう一度だけ口を開いた。


 ――ありがとう。


 と。

 男は生涯で初めて心の底から礼を述べた。

「お前と立ち会った段階で、俺の中で勝負はついた。

 だが、挑まない訳にはいかん。浮かばれんのだよ」

 男は柄に手を掛け、刀を抜いた。切先が天に向けられ、八相に構える。

 応じるように少年も刀を抜き、右手に下げた。

 男に姿を見せた、少年の刀。刃長二尺(約60.6cm)の刀。

 それは思いの他、短い刀だ。

 刀の定寸は、二尺三寸五分(約71.2cm)。

 つまり、少年の刀は三寸五分(約10.6cm)も短いのだが、その刀は刃肉がたっぷりとした蛤刃はまぐりばであった。

 通常、刀の断面は刃先から峰に向かって大きな膨らみは見られない。これに対して蛤刃というのは、蛤がそうであるように、刃先からの断面がなだらかな曲線を描いており、その分厚みがある。

 このような構造にすると、斬れ味は若干落ちるが、叩き斬る、叩き割るといった使い方には適しており、主に鉈や斧に使われている構造だ。戦国時代において戦場で用いられた刀は、鎧の継ぎ目を狙って斬ったり、槍と同様に突いたり倒したりすることを考えて、強靭な蛤刃の刀が合戦の場では重宝された。

 つまり、少年の刀は刃長こそ短いが、戦国期の刀と作りは同じであった。美術作品として観賞を評価される刀ではない。

 人を斬ること。

 人を突くこと。

 人を倒すこと。

 つまり、戦うことを追及された戦場刀であった。

 男は動かない。

 ただ、少年の瞳を見つめるだけ。

 少年は男の目を見て、確信を得た。

 男の身体から闘気が消え失せていることに。

 いや、正確には違う。

 男の身体には未だ気迫が残っているのだ。

 だが、それが形を変えていた。

 男の気迫は殺気に変わっていた。

 少年の命を奪うための殺意に。

 男は負けを認めた。それ故に、一切の迷いが消えた。男と少年が行おうとしていることは命を賭けた勝負だ。試合ならば負けを認めることで、相手を認め自らの成長欲求を育むことに繋がる。

 悔しい。

 悔しい。

 そう。悔しいが故に、勝ちたいと思った。

 少年に。

 男は少年に向かって疾走した。

 少年は動かなかった。男が近づいてくるのを待つように、その場に立ったままだ。

 少年と男の距離が縮まる。

 間合いに入った瞬間、男は刀を振り下ろした。


 斬撃――。


 袈裟斬りの軌道で放たれた一閃。

 だが、刃は空を切る。

 何故なら、少年は男が振り下ろすより早く、身体を右に捌いて刀を躱したからだ。

 少年は男の右に位置した。

 少年の手にある刀が、刃筋を立てて男に襲う。

 だが、男は冷静だった。

 男が狙った場所は少年ではなく、その足元。

 地面。

 男の刀が地を斬った瞬間、刀を返すと土と砂が爆ぜ、少年を襲う。

 正当な剣術において、この様な術はありえない。

 地に切り込んだ瞬間、切先が折れる可能性を孕んだ賭けに近い行為だが、男は承知の上で行い目的を果たす。

 土と砂の飛沫は少年の左側頭部を叩く。大したダメージにはなり得なかったが砂粒は少年の瞼を叩き、動揺を生むことになる。

 知り得ない術に少年の動きは、先ほどまでと比べて明らかに遅くなっていた。

 男の目から見ても分かる。

 そこに男は付け込んでの斬撃を放つ。

 一太刀、

 二太刀、

 三太刀、

 四太刀、

 五太刀。

 少年の隙を付いての連撃によって、少年の動きは俊敏さが失われ次第に緩慢になる。

 もう一太刀で、少年を斬れる。

 男の目には勝機があり、少年の目には絶望が――なかった。

 少年には勝機があった。

 少年は男の一太刀、一太刀を避けきれなくなって動きを緩慢にしたのではなく、男の刀を振るう動作を鈍らせるために速度を落としたのだ。

 一太刀目は逃げて避けていたが、三太刀目には見切り始めていた。

 見切りとは相手の動きから刀の長さや速さ、斬り込む太刀筋を読んで、少しの動きで躱す事で、無駄な動きがない状態を指す。

 少年は、太刀風三寸で身を躱していた。

 刀の斬撃は霞む程に早い。

 見てから考え行動をしていたのでは決して躱すことなどできない斬撃を見切ることは驚嘆を通り越して、最早奇跡と言って良いだろう。

 そして、男は少年の行動を読み違えた。

 ――少年が男を騙したことに気づかずに。

 六太刀目の攻撃が、少年の右肩を捉えた時、男は勝利を確信し、少年は前へと踏み込む。

 少年が、男を殺すつもりでいる証拠であった。

 少年の狙いは、一刀必殺。

 男も、それは分かっていた。

 少年が振るっている刀の長さを考えれば、懐に入り込まれてしまえば防ぐ手立てはない。

 だが、男は笑みを浮かべる。

 この程度のことは、予想していた。

 男は、少年が自分よりも遥かに強いと理解した上で戦いを挑んだのだ。最初から少年の攻撃を貰うこと前提で戦っていた。

 男が少年に勝てる可能性など万に一つもない。

 だからこそ、男は自分の持てる全ての力を賭して少年と戦うことに決めたのだから。

 少年は右足を前に踏み込み、左足を引いた。

 男の視界から一瞬にして、少年の姿が消えた。

 少年は男の背後に回り込んでいた。

 少年は、男の脇腹を狙っていた。

 ――死角からの一撃。

 少年の剣速ならば、男は避けることはできない。身体を捻りながら刀を薙ぎ払う。

 少年の勝利が決まる。

 だが、男は笑みを浮かべていた。

 それは少年の攻撃を予期していたからではない。

 男は知っていた。

 自分の敗北を。

 だから笑ったのだ。

 少年の横薙ぎが、男の左脇腹を確実に捕らえて斬った。

 男は身体に刃が抜けた衝撃を味わい、後ろに仰け反らせ、自ら後ろ向きに倒れこんだ。

 男は地面に向けていた視線を上げた。

 昏い。

 そんな空に光る星を見た。

 そして、男の視界に死神という名の少年が立つ。

 男は、迫る刃に対して身構える。

 少年は容赦しなかった。

 渾身の力を込めて、男の胸に刀を突き刺す。

 肉を貫く感触が手に伝わった。

 男は苦悶の表情を浮かべたが、すぐに口元を歪めた。男は少年の腕を掴み取り引き寄せると、空いた手で少年の顔を掴んだ。

 少年は男の手を振り払おうとするが、男の力の方が強く離れない。

 少年は抵抗するが、やがて男の手が離れた。

 男は少年を睨むと呟くように言った。

 ――見事だ……。

 そう言い残し男は息絶えた。

 少年は、男の身体に突き立てた刀を引き抜くと、刃を布で拭って鞘に収めた。

「……」

 少年は、無言のまま男を見下ろす。

 その顔に感情はない。

 まるで人形のように、少年は静かにたたずんでいた。

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